第5話 森①
サクリ。
入ってはいけない森の中へ、一歩足を踏み入れる。気づいて止めにくる大人は一人もいなかった。
一歩、もう一歩。
五歩目を数える頃にはもう、怖がる気持ちは霧散していた。
この入り口から入ったわけではないけれど、母さんと珍しいベリーを摘みに森の中を歩いたことは何度かある。初めてじゃない。森の中は、記憶と同じ木漏れ日が優しく降り注ぎ、木々の緑に混じって赤や黄色や紫の実が顔を覗かせ、それをついばむ小鳥のさえずりや小動物の足音に満ちていた。
————ワンワンッ
森の奥の方から、ほんの微かにだけど、やっぱりピートの声が聞こえる。僕は声を頼りに木々をかき分け、獣道を進んでいった。
「ピート? いるの?」
手を口の横に当てて森の奥へ呼びかけてみると、少し遅れて「ワゥン!」と返事があった。ピートが子供にじゃれつく時の独特の声だ。間違えるはずがない。
急いでそちらに走っていく。
森の奥へ、奥へ、奥へ。
彼の鳴き声はまだ遠い。
あれ、この森はこんなに広かったっけ。
ふと浮かんだ疑問が足を竦ませる。
ピートを見つけても、帰り道が分からなかったら?
頭をよぎる嫌な考えに足が止まりそうになった時、一気に目の前が開けた。
「うわっ……、何だ、これ」
思わず声に出して驚いてしまった。
目の前にあったのは広い泉だった。……多分、そうだと思う。
自信がないのは、その泉が真っ黒だったからだ。
まるで黒のインク壺のようだった。誰かが泉に大量のインクを投げ込んだのだろうか。いや、違う。それではこの泉がインクよりも黒く見えることの説明がつかない。
手前にはピートの尻尾が揺れていた。どうやらこちらにお尻を向けて泉の中の何かを取ろうとしているようだ。あんな黒い水の中に鼻先を突っ込んで大丈夫なはずがない。僕は慌てて彼を押さえに走った。
「ピート! ダメだよ、そんなとこに近づいちゃ!」
彼に縋り付き、首輪を掴んで引き離そうとしたところで違和感に気が付く。その黒い泉の水面から、何者かがこちらを見返していたのだ。
「…………え?」
それはよく見ると、ピートと似たような姿をしていた。耳が三角で、目が鋭くて、鼻先が長くて、牙がある。犬のように見えた。毛の色は、黒い泉の中にいるのに真っ白だ。種類の異なる犬だろうか。ピートを引き剥がした僕に牙を剥き、怒っているようだった。会話の邪魔をしやがって、と、その犬の声が聞こえてきた気がした。
その犬がこちらに向かって吠えかかる。吠え声は聞こえない。水の中で喋った時みたいに泡が出てくることもない。ただ無音で吠える犬が、泉の中で立ち上がり、そしてこちらに飛びかかってきた。
「わっ……うわあああ!」
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