最終話
氷月さんは仏頂面であった。怒っているのか呆れているのか分からないけれど、眉をひそめているのを見るに良い感情を抱いていない事は間違いないだろう。
来てくれたという事だけでも僕にとっては幸いだった。
「氷月さん、来てくれたんだね」
「別に。私だって祭りくらい行くわ」
「楽しんでいる……みたいだね」
手にはリンゴ飴を持っていた。
「……………………」
僕はなんとも答えられなかった。氷月さんが来栖の名前を持ち出したのは僕の反応をうかがうためなのだろう。半信半疑とはいえ声をかけてくれたのは、まだ僕を試そうとしているからだろうか。
だったら、今度は僕が証明しなければいけない。氷月さんを選んだという事を認めてもらえるように。
「ごめん」僕は頭を下げた。
「何が?」
「僕は今までひどい事をしてきた。氷月さんの気持ちを推し量るような真似をして比べていた。そうするのが正しいと思っていたから。だけど、そもそもそんな決め方をすること自体が間違っていたことにやっと気づいた。ずっと間違っていたんだ、僕は」
「………………………」
「氷月さんの気持ちをあって当たり前のように扱っていたんだって、君から連絡が返ってこなくなって初めて気づいた。本当にごめん。いまさら謝っても遅すぎるかもしれないけど、散々ひどい事をしてきたことをどうか許して欲しい」
「ふぅん………それで?」
氷月さんは先を促した。それで終わりではないだろうと言わんばかりの冷たさに心が折れそうになる。けど、僕はそれだけのことをしてきたのだ。
続きの、まだ自分でも掴み切れていない気持ちを、僕は口にした。
「僕はようやく気付いたんだ。ずっと氷月さんが好きだったことに。これが僕の本音だってことに。氷月さんと共に過ごしていくなかで変わっていくことが楽しかったことに。……僕の理屈と建前の鎧を壊してくれた氷月さんを、僕は………」
しかし、自分でも自信がない気持ちは口に出すとなおさら弱くかすんでしまう。許してもらえなかったら、受け入れてもらえなかったら、そんな『もしも』が喉の奥をふさいでしりすぼみに小さくなっていった。
「八重山は、なに?」
「………僕は」
「ねえ、いま話してるそれも八重山の理屈じゃないの? 私が許したらどうなの。私が八重山を好きだったらどうなの。謝罪はただ道を敷いてるだけなんでしょ? 好きって言ったけど、それもいまのあなたには理由に過ぎない。八重山の本音はどこにあるのよ!」
「…………………」
「ああもう! じれったいわね!」
氷月さんの叱責はもっともだった。僕の謝罪は関係をイーブンにするためのものだった。氷月さんにいままでの僕を許してもらってようやく同じ場所に立てる。気持ちを伝えるのはそれからだと思っての謝罪だ。僕は許してあげるの一言が欲しかった。それで勇気を出して告白できたのに、氷月さんはそうしなかった。
「これなら!」と言って僕の胸ぐらを掴むと顔を引き寄せ「これならどうなの!」
「え……」主導権を奪われて言葉を詰まらせた。
「これから八重山はどうするの? どうしたいの? 私とどうなりたいの? 謝りたいなら気が済むまで謝ればいい。でもね、私が欲しいのは言葉なんかじゃないの。頭で考えて出した答えを証明するにはどうするの? 理路整然とした釈明をしてお互い納得してそれで終わり? だったら期待外れね。あなたの気持ちも変化も考え方も全部分かってんのよ!」
「………………………」
「だから言葉なんていらない。行動で示して」氷月さんは僕の顔をグッと引き寄せた。
氷月さんの顔が眼前にある。怒っているように激しかった言葉が顔が近づくにつれて静かになり、少なくなり、一言の意味が凝縮されていくようだった。
行動で示す。たしかに、そうだ。僕は自分から行動を起こしたことが無い。氷月さんと共に過ごす時間はすべて氷月さんから起こした行動によって生じた時間だ。しかし来栖と過ごした時間は僕から起こした行動で生じたものもある。となれば、求められる行動はとうぜん来栖としたことがないものが要求されているのだろう。
氷月さんは静かに口をつぐんだ。
自分で考えろという事らしい。
僕は氷月さんとどうなりたいのか。氷月さんとどうしたいのか。氷月さんをどう思っているのか。それらを考えているうちに、ふと、僕が出会い系アプリに登録した時のドキドキが思い出された。
あのときは、そうだ。大人の世界を知りたいと思っていたのだった。僕はいつの間にか理屈っぽいキャラになっていたけど、性的興味は人一倍あって、それを満たさんがために出会い系を利用した。そうして出会った『ゆめさん』と話しているとそういう興味は満たされた。
だけど、実際に会ったのは氷月さんだった。それからは性的興味を抱く暇もなく氷月さんに翻弄されて、いつしか考える事も無くなった。でも本当は違ったのかもしれない。僕は氷月さんを性的に見ないようにしていただけなのかもしれない。『ゆめさん』には抱いた性的興味を同一人物である氷月さんに抱かないのは、僕が抱きたくないと思っていたからなのかもしれない。だったら、僕が起こすべき行動は……
「……わかった」
僕は生唾を呑み込んで氷月さんの頬を両手で包むと口を近づけて、
「…………んっ」
キスを、した。
「……………………」
「……………………」
柔らかくて、軽く触れた程度では跳ね返されるような張りのある唇。心臓がバクバクと早鐘を打って、自分でもこんなに動揺する事があるのかと驚くくらいに口が震える。
上手くできただろうか。氷月さんの求めた行動はこれで正しいのか。そんなことを考えていたら初めてのキスをしたという実感なんか全然わかなくて、むしろ、考える事の多さに時間が早く過ぎていくようだった。
氷月さんの顔を見る余裕なんか無かった。
「―――プハッ」氷月さんは口を離すと僕の胸ぐらからパッと手を離す。
考えに囚われているうちに夢のような時間が終わった事を口惜しく思った。
氷月さんの顔はほんのりと赤くなっていた。恥じらうように頬を赤くしていたけれど顔はいたずらっ子のような笑み。僕は不覚にもドキッとした。
「正解」
「そう……これで、よかったんだ」
「うん」
「………………………」
僕はまた言葉を詰まらせた。しかしそれはさっきまでの胸がふさがるようなつまりではなく胸がいっぱいになって満たされるような充足感に満ちた
正解。
これで、よかったらしい。
どれだけ考えても分からない事が、言葉だけでは伝わらない気持ちが、たった一度のキスで伝わるのだと、そして、その一度のキスでこれほど感情が揺れ動くものなのだとは知らなかった。
相手に伝えて、受け取って、返す。恋とはその繰り返しで培われるものだと考えたのだけど、どうやら僕の解像度が低かったらしい。
「もっと、しっかりしないとな」
「うん?」
「氷月さんと知り合ってから、僕の知らない事ばかり起こる。僕の知らない事はまだまだたくさんあるのだろう。でも、気持ちの伝え方がたくさんあって、僕は時と場合に応じてそれらを選択できるようにならなければいけないんだ。言葉だけじゃなくて行動でも示さなければ伝わらない気持ちだってあるだろう」
しかし、行動ばかりだと性的興味しかないと思われるから、やはり頻度も考えなければならない。それは複雑怪奇なパズルのように繊細な先読みを要するように思われた。
「そうかもね」と氷月さんは同意を示した。が、すぐに両手を僕の頭に回すと精一杯伸びをして、今度は僕の頬にキスをした。
想定外の行動にギョッとして逃げようとした。しかし氷月さんは逃げられないように首の後ろでギュッと腕を結んで「八重山は可愛いねぇ」と笑った。
「―――――――――ッ!? 氷月さん!?」
「えへへ………なんで女の子が性的興味を持たないと思っているのかな?」
「……は、え? だって好きなのは僕の方で、氷月さんに好きを伝えて、そうやって成り立つのが男女の関係だと……」
「違うんだなぁ。それはまったく違うんだ」
氷月さんは腕の拘束を緩めると指で背筋を撫でた。下から上に、
「あ……え、ひ、氷月さ……」
「八重山は私を大切にしようと思っているのかもしれない。だったら、ごめんね? 私は八重山が欲しいんだ。私のものにしたいんだよ。分かるかな? 好きとか生易しい感情じゃなくて歯形をつけたいの。あなたがいないとダメだから、放さない。絶対誰にも渡さない」
布越しに伝わる小さな指の感触。緊張で心臓が飛び出そうだ。
「氷月さん……やめ、やめてくれ……」
「ねえ、八重山?」
氷月さんはグッと頭を引き寄せると耳元に口を近づけて囁いた。その吐息はどこまでも甘くて居丈高で主従関係を分からせるようで、ここにいたって氷の女王が再臨したように思われる。「これでも我慢してたんだよ? ずーっと我慢してた。こんな事したら嫌われちゃうかもって不安だったけど、もう、いいよね?」
「なに、なにが?」
「私ってすっごく独占欲が強くてさ、ほら、友達がほとんどいないでしょ? だからその反動なのかなぁ。一度仲良くなった人に離れてほしくないのよね」
「あぅ……氷月さん、囁くのをやめて……」
「先にキスをしたのは八重山の方。行動を起こすと言ったのも八重山。本当の気持ちを伝えるって言ったのも八重山。じゃあ、私もしていいよね。もう我慢しなくていいよね?」
氷月さんは服を鷲掴みにして小柄な体躯を押し付ける。
「私のものになれ」
右手で背中を鷲掴みにしたまま左手で後頭部を掴んできた。豹変した氷月さんには驚いたけど、彼女の本来の美しさを考えればむしろこっちのほうがしっくりくる。氷のように澄んだ美しさを持つ氷月さんだ。今までの天真爛漫な方が不自然だったのだ。けれど……
「いいよ」と答えると「大好き」と返ってきた。
強く体を押し付けるあまりに潰れた胸を通して氷月さんの鼓動が伝わってくる。高揚しているのだろうと思うととたんに氷の女王様が子供のように思えてきて、まあ、これでもいいかと僕は思うのだった。
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