第42話
戸口からこっそり覗くと、リビングには母さんと談笑する来栖の姿があった。「……来栖?」
「あ、けんジィ起きたんだー。おはよ!」
「……なんでここにいるんだ?」
「なんでって、ライン送ってきたくせに返信が無いし電話にも出ないしで心配してたんだぞー?」
「ライン……?」
僕は首をひねった。おかしい。僕はラインを送らなかったはずだ。「何の話だ?」
「大会どうだったって聞いてきたじゃん」
ほら、と来栖は画面を見せた。そこには、『結果はどうだった? 勝っ』という途中で途切れたメッセージが表示されている。後には不審そうな来栖の『大丈夫?』『どうしたの?』というメッセージが続いていた。
送信することは止めたはずなのだが、そういえば消した記憶も無かった。何かのはずみで送信してしまったのだろう。血の気が引いた。
「ね、少し散歩しよっか」と来栖は椅子から立ち上がって母さんをちらっと見た。「良いですか、おばさん」
「もちろん。ご飯はうちで食べていく?」
「ぜひ!」
☆☆☆
「で、あのメッセージは送るつもりがなかったんだ?」
「あー、うん」
「やっぱりね」
来栖はからからと笑った。「そんなとこだろうと思ったよ。消そうとしたけど間違えて送っちゃってふて寝?」
「僕がそんな可愛いヤツに見えるか」
「寝ぐせがそのままなところはかなり?」
「別に、もし負けてたら傷つけるだろうと思っただけだ」
来栖は一度家に帰ってから訪れたと見えて私服だった。パンツスタイルを好む来栖は今日もスキニーパンツを履いていた。165超えの高めの身長の持ち主である。スラッとした脚線美を遺憾なく発揮したスキニーパンツは賞賛されてしかるべきだろう。上は水色のくたびれた半袖Tシャツを着ていたが、あきらかに着古したであろうTシャツでもオシャレに見えるのだからスキニーの
陽も落ちて星がぽつぽつとかぼそい灯をともしはじめた夜の刻。僕たちはつかず離れずの距離を保ちながら歩いていた。どこというあてがあるわけでもない。ただ会話のために足を動かしているに過ぎなかった。
「普通に聞いてくれてよかったのにな。兼人なら勝ってても負けてても嬉しいもんだよ」
「そういうわけあるか? 来栖にとっては大切な大会だったんだろう。大切だからこそ結果は重くのしかかるわけだし、僕みたいなのが簡単に聞けるわけがない」
「それも違うよ。兼人だから嬉しいの。ああ、私の事を気にしてくれてたんだって、好きな人の心の中にまだ私がいるんだって思えるから」
「……………………」
「それに、結局聞いてるしね」
来栖はイタズラっぽく笑った。
「結果気になる?」
「そりゃあ、まあ」
僕は居心地の悪さを感じながら答えた。そりゃあ考え疲れて寝てしまうくらい悩んだのだ。しかし、その自分を否定するような来栖の明るさが嫌な気分にさせた。
勝ったのか負けたのかではなく来栖が傷ついたかどうかが重要だった。
来栖は飛び石を渡るような足取りで僕の進路に躍り出ると右手でピースサインを作って勢いよく突き出した。「勝ったよ。インターハイ優勝!」
「それって、つまり?」
「日本一! やったーーー!」
きゃいきゃいと飛び跳ねて来栖は喜んだ。その明るさが今度は僕の気持ちを晴れやかにした。
☆☆☆
足は公園へと向かっていた。公園には大きな池があって明るい時間にはランニングする人がある。1周するのに30分ほどかかる。僕達はそこを歩いて回っていた。もとより歩ききるつもりなど無かった。古錆びた街灯がぽつんぽつんと灯る。そこに蛾や羽虫がたかっているのが夏の風情を感じさせた。
来栖は夢に浮かされたように話し続けていた。
「もうねー互いに一歩も譲らないドキドキの展開だったよ! 23対23。お互いにこの1点を落としたら厳しくなるのは分かってたから気を抜くこともできない。みんな知らず知らずのうちに手が震えていたね。相手のサーブだった。ラインぎりぎりの球を国近さんが拾い上げて私が繋いだ。チームでも一番背が高い矢代先輩が華麗なスマッシュを決めてこれで優位に立てる! ……と思ったんだけどね、相手のブロックに弾かれて珠は私たちのコートに落ちたの」
来栖は大仰に肩を落として落胆の意を示した。「これで24対23。相手のサーブが続くから勝ちは絶望的に思えたよ」
「まじか……でも、そこを打開したから優勝したんだろう?」僕は生唾を呑み込んで訊ねた。「なあ、どうやって勝ったんだ」
「……知りたい?」
「知りたい」
それはさながら活動写真家が客の目を奪うように堂に入ったものだった。来栖が客観的な情報も交えながら語ってくれたこともあるだろうが、来栖の語る言葉に惹き付けられて前のめりになっている自分がいた。
「あと1点で負けが決まるっていう状況。私たちが勝つにはこの場面でどうしても点を取る必要がある。それはコート中に充満した殺気だったよ。勝ちたい。勝ちたいって思いだけが私たちの体を動かしていた。サーブを拾ったのは清水さん。上がったトスの先には矢代先輩がいて、最高打点のスマッシュを決めようと今か今かと待ち構えていた。でも、さっきの事があるからね。相手チームも素早く反応して3枚のブロックが矢代先輩に立ちはだかる。このままでは二の舞を演じることになることはみんな分かっていた。けれども矢代先輩が腕を振りぬいた! けど、その腕は球を捉えなかった。矢代先輩に合わせて飛んだ相手チームのブロッカーたちは困惑した。なぜなら矢代先輩のスマッシュはフェイクだったから!」
「…………………」
「矢代先輩の後ろに控えていたのは国近さん。チームでも一番得点を取ってる彼女が本命だったの。この連携を示し合わせたわけでもなく自然にできたのは勝ちたいって思いが全員を繫げたからだと思う。このフェイクショットにタイミングをずらされた相手のブロックは総崩れ。国近さんのスマッシュが見事に決まって得点は24対24になった。あと1点取れば優勝。全国一位。その場面でサーブが回ってきたのが……私だったんだ」
来栖はそこで言葉を切った。目を閉じて夜空を仰いで、まるでここにない会場の歓声を聞いている様だった。「とても怖かったよ。もしミスをしたらどうしよう。私のせいで負けてしまう。チームを繫げた思いが諸刃の剣になって今度は私を突き刺したんだ」
僕は固く押し黙って続きを待った。
「そこで思い出したのが兼人の言葉だった」来栖は天を仰いだまま目だけで僕を見た。とても静かで澄んだ目をしていた。
「エースナンバーって、重いんだよ。3年生が背負ってくれたらなんて気楽なんだろう。逃げたくなることも多かったけどさ、でも、兼人の言葉で思い出した。これはみんなが私に託してくれたんだって。ここで決めるからエースなんだ。チームを勝ちに導くのがエースの仕事なんだってね。だから私は自信を持ってサーブを打った。そしたらさ」
「そしたら………?」
「決まっちゃった。サービスエース」
「……………………」
「……………………」
来栖は「あれ?」という顔をした。
僕が何も言わないから不安になったのだろう。「あの、サービスエースだよ? サービスエース」と拠り所を求めるようにサーブの動きを繰り返して見せた。
しかし申し訳ない事だが、僕はサービスエースがなんなのかを知らないのである。そもそも25点を取れば勝てる事も知らない僕がサービスエースなんて知るわけがないのだ。
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