第40話


 さて、氷月さんと別れて家に帰り、こんな時間までどこに行っていたのとつっつく母をかわして、夜の9時であった。僕は自室に戻るとスマホを取り出して神崎に電話をかけた。


『はいはい、何の用?』


 ボーッとしていたのか気の抜けた声が電話口から聞こえる。僕はムッとして口火を切った。


『分かっているくせに。君のせいで今日は散々な目に遭ったぞ。ブティックでは試着室に閉じ込められるし駅前ではナンパに絡まれるし踏んだり蹴ったりだ。全部君が仕組んだことだろう』


『ちょっと待て、何の話だ? ……と、言いたいところだが、正解だ。全部俺が仕組んだ』


『何のために』


『八重山のためではない事は確かだ。でも、氷月さんとの仲は深まっただろう?』


『それは……』


『恋にハプニングはつきものだ。ドキドキハラハラのサプライズ。体が触れあって意識したあとにピンチがくればいくら君でも冷静ではいられまい。僕の彼女だと言ったそうだな。良い傾向だ。これで氷月さんはさらに変わるだろう』


『氷月さんが? 今でも充分手を焼いているのにさらに変わられたら困るんだが』


『恋をした人間が一様に抱く想いがある。それがなんだか分かるか?』


 僕は少し考えてみたが分からなかった。『本当の自分を受け入れて欲しい?』


『ちょっと違うな。自分だけの秘密を見せて嫌われたくない。それが男も女も抱く共通の想いだ』


『………………』


『コンプレックスやトラウマが顕著な例だけどな、秘密の趣味だとか交友関係なんかもあてはまるだろう。要は後ろめたい思いを暴いてほしくないのさ。自分でも嫌いな自分を知られたくない。嫌われてしまう。嫌いにならないで。そんな思いが人を追い込んで、同時に、打ち明けてしまいたいという思いに苛まれるのだ』


『つまり神崎は氷月さんが何か隠していると言いたいわけか?』


『あの子が何かを隠しているように見えるか? これから隠すんだよ。あるいは隠し始めているかもしれないが。それは俺には分からんことだ。だけど、確実に変わるはずだ。君はその変化を見逃すんじゃないぞ』


 見逃すなと言われても氷月さんがいったい何を隠すというのだろう? 私のすべてを見て! といわんばかりの氷月さんがそんな苦しみを抱くとは考えづらいが、女性の心理には一日の長がある神崎がそう言うのだ。『そうか、まあ、注意して見ておくよ』


『……………………』


『どうした、なぜ黙る?』


 神崎は軽く息を吐いた。なんだか呆れているようにも聞こえる。


『いや、君も変わったなぁと思っただけだ』


『変わった……僕が?』


『以前の君ならバカバカしいと一笑に付して終わったはずだぜ。それを注意してみるだなんて、いったい何が君を変えたのだろうなぁ』


『もう切るぞ』


『うん、俺は特に用が無いからね』


 もともと僕がかけたのだから神崎の方に用が無いのは明白なのだけど『ならいい。もう邪魔するんじゃないぞ』と念を押してから切った。


 何が僕を変えたのか。なんて、氷月さん以外にいないじゃないか。普通に考えてみてもここ最近で起こった変化なんて氷月さんと親しくなった事以外にない。だから僕を変えたのは氷月さんだろう。


「……なら、氷月さんの何が僕を変えたのだ?」


 それだけはいくら考えても分からなかった。


 とても大切な事なのだろうけれど分からないのだから仕方がない。


「彼女の変化に気づいてやれ……か。あの氷月さんが苦しんでいるとは思えないけれど、そうか。そういえば一人が辛いというようなことを言っていたっけか。だけど、僕を含めクラスメイト全員が気づかなかった。氷月さんから聞いて初めて知ったんだもんな。これは本当に注意してみる必要があるかもしれないな」


 コンプレックスやトラウマを隠したがるのだったか。氷月さんのコンプレックスとは何なのだろうか? 人と仲良くなれない事? ……なら、それはもう解決しているではないか。自分をさらけだす事が苦手? だとしたら付き合った翌日のデートであんなにへらへらしているわけがない。


 分からない。


 氷月さんは何を隠すというのだろう。


 今日の事を思い返しているうちにふと、そういえば次のデートの日取りを決めていなかった事に気づいた。氷月さんの服を着ていくデートの日取りである。


 ラインを立ち上げてトーク画面を開く。すると、意外な事に来栖からメッセージが来ていた。


『大会は順調だよ! このまま決勝までいけちゃうかも!?』とまあ、なんとも緊張感の無い文面である。しかし、来栖は緊張しているときほど気丈に振る舞うところがある。


『本当か? すごいな来栖は。僕はバレーの事はよく分からないけど、エースのプレッシャーに負けずに頑張っている来栖が誇らしいよ』


 と送っておいた。彼女は緊張すると不安になりやすいところがあるので、言葉の上だけでも肯定するとよい。それで来栖は自信を取り戻すのだ。


 彼女はいま目標達成のために頑張っているのだ。僕にできる事があればしてやりたい。


 来栖からの返信はすぐに来た。『嬉しい。なんか涙でてきた』


『不安だったんだな』


『うん……。でも、兼人のおかげで元気出た!』


『そりゃあよかった』


 そんな話をかわしているうちに僕はまた新たな発見をした。そもそも僕が初めに変だと指摘されたのは『ゆめさん』と話し始めた頃ではないか?


 最初で最後のデートに臨むために来栖とデートの予行練習をしたときである。しかしあれは、来栖とのデートであることを意識したために普段通りでいられなかったのである。とするならば、僕が変わるきっかけを作ったのは来栖なのか?


 来栖とデートをしたことが始まりだったと考えるのは不自然な事ではあるまい。


 普通の友達だったはずなのに変に意識してしまうのが恋なのだとしたら、僕は理屈だけではなく本音でも恋をしているという事になるのだろう。


 そして、そこまで考えて初めて分かった事がある。


 僕が来栖に感じていた気持ちを確定させるのが怖かったのだ。


 誰かに話して気持ちを確定させたくなかったのだ。相談というていで話すのは良いとしても、これが僕の気持ちだと断言する事を怖いと感じていた。だから、氷月さんに対して言いづらさを覚えたのである。


「……確かめる必要がある。勝負の結果を決めるのは僕の気持ちなのだから、来栖への気持ちを僕自身が知らないでは、答えも出せない」


 ため息をついて天井を見上げた。小さな虫が蛍光灯にあたってカツンと音を立てた。

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