第35話


 翌日。僕はスマホの着信で目を覚ました。寝覚めが悪い。ガラにもなく緊張していたからか、シングルベッドに2人で寝ていた違和感からか、あるいはその両方か。僕はあっけなく目を覚ました。


「あぅ………もしもし」


「おはよーー。って、けんジィどうしたの? 声が寝起きだけど」


「ああ……来栖か。実際寝起きだからね」


 眠気を追い出すように大きくあくびをして、時計を見た。まだ午前6時である。電話をかけてきたのは来栖木実だろうがいったいこんな早朝から何の用だろうか?


「今日からようやく夏休み本番だろう……というのになぜ君は健康的な時間に目を覚ましているんだ」


「けんジィが不健康なんだよぅ。それに私は今日から大会だからね。いまから学校へいくの」


「大会……?」


「そう。夏のインターハイ」


「いんたーはい……? なんだかよくわからないけどすごいところにいくんだな」


「うっわぁ、全部ひらがな発音って……本当に眠たいんだね」


「寝起きなんだから勘弁してくれ」


 僕は答えて、氷月さんを起こさないように部屋を出た。お人形のように安らかな顔をして寝ている姿は作り物のように美しいけれど、これが一度起きれば子供のようにはしゃぎ散らすのだ。また来栖の機嫌が悪くなったらまずいと思った僕は家の外で話すことにした。


「大会ってことはこれから試合なのか?」


「ううん。今日は開会式だけ。夕方に開会式があって、予選が明日から始まるんだよ」


「ふぅん。なんかかっこいいな」


「なにそれー」


 そんな話をしながら静かに階段を降りる。電話口からはゴソゴソと衣擦れのような音や何かの仕度をしているような音が聞こえてくる。これから学校へ行くと言っていたがまさか今から行くのだろうか。朝に学校へ行ったって夕方まで何をするのだろう? みんなでゲームをするわけでもあるまいし。


「バレー部って部員同士仲がいいのか?」


「急に、なに? そりゃ仲はいいけど……」


 来栖は電話越しでもわかるため息をついた。「もしかして、開会式まで遊んでるとでも思った?」


「違うのか?」


「違いますー」


 靴を履いて外に出る。早朝の朝日は繊細で綿のように柔らかい。


「午前中はいつも通り練習して午後から会場に移動するんだよ。会場に行ったらホテルに泊まるから実質練習できるのは今日が最後。こうやって電話できるのもね」


「そっか、頑張れよ。来栖なら大丈夫だ」


 僕は大きく伸びをしながら答えた。来栖がバレーにどれだけ真剣に打ち込んでいるか。僕は彼女の試合を見に行ったことはないけれどもどれだけ情熱を注いでいるかは知っているし、どれだけ本気で取り組んでいるかも知っている。バレーの話になると人が変わったようになる来栖なら、どんな強豪にも勝てるだろうと、自然とそう思った。


「……えへへ、それが聞きたかった」


「まさかそのために電話したのか? こんな早朝に?」


「そうだよ。兼人の応援がどんなお守りよりも効果があるの。先輩の引退試合になるかもしれないんだし、しっかり活躍できなきゃ申し訳ないよ」


「お前はいいやつだなぁ……。勝てるよ。来栖なら」


 来栖は覚悟を決めたような静かな声で「うん。勝つよ」と言った。


 もう家を出なければいけないと来栖が言うので、バス停まで見送りに行こうかと提案した。けれども来栖は恥ずかしそうに笑って、「いいよ。いまはこの気持ちのまま臨みたい」と断った。そのうえで、


「もし勝ったら手を繋いで欲しいな。ご褒美」と言った。


「ご褒美って、そんなんでいいのか?」


 もっとキスとかハグとか言ってもいいのに、と思ったけれど、来栖はいまのモチベーションを崩したくないのだという。


「約束なんてなんでもいいよ。ご褒美があるってだけで頑張れるから」


「……そっか。分かった」


 バレーに私的な感情を持ち込みたくないのだろう。勝ったら手を繋ぐという約束が履行されるかさえも定かではないのだ。約束が欲しいという、本当にそれだけのための提案のように僕には思えた。


「じゃあ、行ってきます」


「行ってらっしゃい。楽しんでこいよ」


 僕たちは電話を切った。


 来栖はこれから家を出て学校へ向かうのだろう。苦楽を共にした仲間たちと最後の練習をして大会に臨むのだろう。彼女はとても輝いていた。僕なんかには勿体無いくらい眩しい努力人だ。


 理屈と建前で来栖を好きになったのは、なるほど、来栖に必要とされているから応えようとしているのかもしれない。僕自身は来栖に引け目を感じているから、本音で好きになれないのかもしれない。


「やえやまー。誰と電話してたの?」


「ああ、氷月さん。おはよう」


「おはよー」


 寝ぼけまなこをこすりながら氷月さんが起きてきた。


 ならば、僕は、氷月さんとは等身大の付き合いをしているということになるのか? 氷月さんなら、なんら気負うことなく付き合うことができている?


 それは分からないけれど、氷月さんの寝ぼけ顔に安心したことは確かだ。


「来栖がこれから大会に行くらしい。エールを送ってたんだよ」


「そうなんだ。じゃあ私もエールが欲しい。今日を生きる私にもエールを!」


「はいはい、今日も頑張ろうね。氷月さん」


「うん!」


 家の中に帰っていく氷月さんの後ろ姿を見て、ふと、手を繋ぎたいと思った。それが、僕の本音なのだろうか?

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