第33話


 僕が気を失っていたのはものの5分程度だったらしい。脱衣所の床に仰向けに寝かされていて湿気とカビの臭いが漂ってくる。しかし氷月さんが膝枕をしてくれていた。それだけは幸いであった。


「気がついた?」


「ああ、うん……。僕は気を失っていたのか」


「頭打ってたもんね。仕方ないよ」


「ごめん、迷惑をかけたね」


「あ、まだ起き上がらないで! 意識が戻ったばかりでしょ」


 起きあがろうとした僕を押しとどめて氷月さんは「そのままでいいよ。ゆっくりしてて」とまた膝の上に僕を寝かせる。


「……私ね、ずっと八重山のことが好きだって言ってたけど、今日泊まろうと思ったのは確かめたかったからなんだ」


「確かめたかった。何を?」


「……気持ち」


「気持ち?」


 僕は言葉の続きを待ったけれど、氷月さんは俯いて答えなかった。「へくちっ」とくしゃみをした。


「お風呂の途中だったから………」


「あ、ご、ごめん!」


 僕は慌てて立ち上がった。見れば、氷月さんは服を着ていたけれど髪や体は乾かしきれなかったようで服もところどころ濡れている。わざわざ僕を介抱するためにお風呂を中断したのだろう。長い髪が水で固まって針のようであった。


「さすがに鼻血を出して気を失った人を放ってお風呂に入ることなんてできないよ」


「うぅ……氷月さんの忘れ物を届けるだけだったのに逆に迷惑をかけてしまって本当に面目ない。体を冷やしてしまったよね。ゆっくり温まって」


「うん、シャンプーありがとう」


 僕はそそくさと立ち去った。


     ☆☆☆


 さて、僕の番がきたのは30分後のことだった。脱衣所で服を脱ぎ湯船に浸かる。頭を打ったのに風呂に浸かって大丈夫かと氷月さんは心配してくれたが、僕は大丈夫だと押し切った。さっきまで氷月さんが使っていた温もりがまだ残っているようで、僕は少しドキドキした。


「はぁ、なんでシャンプーを律儀に届けてしまったかな。普通、僕が届けにいったりしないだろうに……」


 君は理屈と建前で行動しているという明石さんの言葉が蘇る。本音ではなく正しい正しくないに従って行動する。という意味の言葉であろうけれど、ならば、普通に考えたらわかることがどうしてわからなかったのだろうか。


 気が動転していた? シャンプーを置いておけばいい場面で、僕は氷月さんのお風呂のことばかり意識していたのは、なるほど、理屈的ではないのかもしれない。


「あまり理屈っぽいと言われるキャラじゃないんだけどなぁ。でも、うん、あまり自分の本音に従って行動するほうでもないんだよなぁ。わからない。自分がわからない。僕は何がしたかったのだろう……? というかそもそも氷月さんを追い返さなかった時点で僕は何をしているんだ。お風呂がどうのというよりも一番初めにしておくことだろうが」


 そうだ。理屈や本音がどうのという前に来栖を好きになると決めたのだから義理を通すべきなのが男として求められる条件であろう。


 湯船のお湯をすくって顔にかけると、少しだけ気持ちがスッキリした。


 もはやここまでくれば氷月さんを帰すのは手遅れ。ならば、今日を耐えきる。そう決めた。


「八重山ー、大丈夫だった?」


「うわ、氷月さん!? そんなところで何してるんだ」


「うわ、とはなによ。八重山が倒れないか心配して待ってたんだよ? お風呂って血圧が急に上がるから異変があったときにすぐ気づけないとまずいでしょ」


「それはそうかもだけど……ずっとそこにいたのか?」


「そうだよ」


 体育座りの体勢で氷月さんが脱衣所の入り口に背を預けていた。風呂場の入り口からも背を向けるためか脱衣所のドアは全開だ。


 僕は慌てて風呂場の陰に隠れた。「この通り元気だから、早くどっか行ってくれ!」


「もう上がるの?」


「上がる。服を着たいから早く出て行ってくれないか」


「はーーい」


 ふっと立ち上がってリビングの方へ歩いて行った。


     ☆☆☆


 それからは何事もなく時が過ぎていった。氷月さんとおしゃべりをしたりゲームをしたり、さっきまでのアクシデントがなんだったのかと言いたくなるくらい平穏に時が過ぎていった。


「うわ、もう12時回ってる。もう寝ようか」


「えー? どうして? まだ寝たくないよ」


「そんなこと言って……もうほとんど目が開いてないけど?」


 僕がほらほらと急かすと、氷月さんは布団に潜り込もうとした。結局客間から布団を持ってくることは出来たのだが、しかし、かび臭い布団に女の子を寝かせることははばかられる。「氷月さんはベッド」


「……んー、でも、そっちは八重山が使うでしょ?」


「僕が布団で寝る。一応客なんだから気にせずベッドを使え」


「うん、この布団、ぺったんこだもんね………」


 付き合いだした初めの頃は11時にはもう電話をきりあげていたから、夜更かしをする人では無いのだろう。「この時間まで起きたこと無いの?」と訊ねると、「ない」と答えて大きなあくびをした。


「……あ、ねえ、八重山」


「なに?」と答えて僕は蛍光灯の紐に手を伸ばす。「一緒に寝るのはダメだよ」


「分かってるよぅ。そういうお願いをするのが子供っぽいのは私でも分かる。じゃなくて、電気なんだけど……」掛け布団にすっぽりとくるまって顔だけ出して氷月さんが僕を見る。


「電気がどうしたの」


「私、暗い所が苦手でさ……暗所恐怖症っていうの? 常夜灯がついてないと怖くて寝られないんだよね。だから、悪いけれど、小さいヤツだけつけておいて欲しいの」


「それくらいならお安い御用さ。でも、常夜灯か……久しく使っていないからなぁ。まだ点くかどうか」


 僕は確かめる意味も込めてパチパチと紐を引いた。いつも部屋を真っ暗にして眠るから意識していないし電球が切れていても覚えていないくらいなのだけど、こうして入り用になると急に不安になる。


 頼むから点いてくれよと念じながら紐を引くと、しかし、パチッという音とともに部屋が真っ暗になった。とたんに氷月さんは「ぎゃあ!」と踏んづけられたような悲鳴をあげた。


「だ、大丈夫!?」


「大丈夫じゃない、大丈夫じゃない! 無理、怖い、やだ……怖い……怖い……」


「いまつけるから!」


 慌てて電気を点けると氷月さんはまんじゅうのように布団にくるまって震えていた。「はぁ……はぁ……助かった……」


「ごめん、常夜灯が切れてるみたいだ」


「うぅ~~、このままじゃ寝られないよ……」


「そうだよね。まだ震えてる」僕はまんじゅうの頂点(氷月さんの背中)に手を添えた。「怖かったね。ごめん」


「…………………うん」


 氷月さんの暗所恐怖症はそこそこ重い症状らしい。一人で暗い所にいると動悸どうきが激しくなり平衡感覚がなくなるのだという。


「しかし、常夜灯の予備があっただろうか? 探すか、それとも氷月さんには別の部屋で寝てもらうか……」


「それか、八重山が私と一緒に寝るか。ていうか、寝て」


 氷月さんは腕だけ出して僕の服を掴んだ。


 僕は常夜灯が点く部屋を探そうと思って立ち上がるがガクッと膝を折った。「これから一人で寝ろっていうほうが無理。本当に無理」


「………………………」


「お願い、一人にしないで」


「分かったよ」


 これは、まあ、仕方がない事だろう。氷月さんの目は捨てられた子犬のように心細いものであり、服を掴む手は震えていた。


 暗所恐怖症というのは本当のようだ。


「この状況で放っておくという方が酷いよな。でも、この部屋でいいのか? たぶん客間あたりは点くと思うけど」


「いいよ。一人じゃなければ暗くても大丈夫だから。いつもはぬいぐるみに頼るんだけど……ないよね、そんなの」


「ぬいぐるみなんて無いよ」


「……じゃあ、八重山しか頼れる人がいない」


 僕は軽く息を吐くと「電気を消すと暗くなるけど、すぐにベッドに入るから」


「うん。我慢できる」


「………じゃあ、消すよ」


 男として義理を通すと決めた矢先にこのハプニングである。今日を耐えるための試練にしては少々ハード過ぎると思うのだが、しかし、耐えなければならない。


 氷月さんは祈るように胸の前で両手を合わせて、僕の首の下辺りに顔をうずめる。触れあってはいないけれど氷月さんの震えが伝わってくる。


「大丈夫。安心して」と囁いて、僕はむしろ氷月さんの背中に手を回した。


「ごめんね」


 氷月さんは答えて、僕の服を掴む。それがむしろ僕の決意を固くした。

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