第32話


 さて、食事を終えた僕達はそれぞれお風呂に入ることにした。男女でお泊り。しかも両親がおらず2人っきりとなればお風呂は男子にとって一番の試練であると思われた。………が、僕は大変な事に気づいてしまった。「一つ屋根の下で氷月さんがいま裸になっているドキドキ」などとのんきな事を言っている場合では無い。このままではお風呂以上に神経を擦り減らし、かつ自分の気持ちも分からないままに氷月さんを受け入れざるをえない状況に追い込まれてしまう。


「僕の部屋にはベッドが一つしかない……これはまずいぞ。予備の布団を引っ張りださねば僕は氷月さんと同衾どうきんせざるをえない。しかもシングルベッドだから触るつもりが無くても氷月さんの体に触れてしまって……」その先は恐ろしくて考えたくもない。


 とにかく布団を用意せねばならない。僕はすぐさま行動を起こした。


 僕の部屋は2階にあって、両親の寝室と姉の自室に挟まれた場所にある。階段に近いのが姉の部屋。もっとも遠いのが両親の寝室だが、残念ながら両方とも置かれているのはパイプベッドである。氷月さんが風呂から上がるまでに解体して部屋に持ち運ぶのは少々骨が折れるし、なにより元に戻すのが面倒くさい。


 そこで僕が目をつけたのが客間の布団である。小学生時代の友達や親戚が利用していた客間であればたくさんの布団が用意してあるはずだ。僕は客間へとおもむき押し入れの戸を開けた。


 中には思った通り色とりどりの布団がしまわれており、掛布団も敷布団もきちんとそろっている。


「僕には本音が無いと明石さんは言ったけれど、それは間違いだ。僕は来栖のためにも氷月さんと寝るわけにはいかない!」


 僕はさっそく布団を取り出しにかかった。長い間使っていなかったせいか少々かびくさい。が、我慢すれば寝られないことは無いだろう。僕が布団で寝ると言えば氷月さんだって文句はないはずだ。力を込めて引っ張ると、ズルッと落ちてきて危うく潰されかけたがギリギリのところで耐える。


 と、そこへ「八重山ーーーーー!」と僕を呼ぶ声が聞こえた。


「なんだ? 風呂場から呼ぶなんて何事だ? どうせろくでもない用なんだろうけど、まさか服を忘れたなんて言わないよな……うわ!」


 気を抜いた瞬間、布団がとっかかりを失って落ちてきた。痛かった。


「シャンプー忘れたーーーーー! カバンの中にあるからとってきてーーーー!」


「シャンプーだって……? いてて……まあ、髪質とかいろいろあるだろうし、無理にうちのを使わせるのもよくないか」


 僕には美容のことは分からないけれど姉がひどく気にしていた事を覚えている。このシャンプーはダメだとかこのリンスは効果が無いとか言って毎月新しいものに買い替えていた。氷月さんもそういう事を気にして自分の家から持ってきたのだろう。


 女子の美意識には恐れ入る。僕は「分かった」と返事をして氷月さんのシャンプーを取りに行くことにした。布団は後回しにしよう。これから髪を洗うのならまだまだ上がるまで時間がかかるはず。女子の風呂は長いと聞くし、布団を部屋に運び込む時間なら充分にあるだろう。


 シャンプーはすぐに見つかった。カバンのすぐそばにちょこんと置いてあったから探すまでも無かった。おおかた風呂へ行くときに落としてしまったものと思われる。 オレンジ色の透き通った容器に筆記体の英語が書いてあるそれを拾い上げて、僕は風呂場へと向かう。


「氷月さーん、あったよーー!」


「こっちに持ってきてもらっていいーー? あ、お風呂場まで来なくていいよ! 手を出すから渡して欲しい!」


「はいはい、分かったよ」


 氷月さんもおっちょこちょいだなぁ。そう思いながらドアノブに手をかけた時、耳に飛び込んできたシャワーの音にギクッとした。そうだった。氷月さんはいま裸なんだ。


 風呂場にいる氷月さんにシャンプーを渡しに行くためには脱衣所を通る必要がある。脱衣所とは読んで字のごとく服を脱ぐ所。そこには氷月さんが脱いだ服が一式あるはずであり、そこには下着もあるはず。しかも、風呂場へ続くドアは曇りガラスなのである。


「まずいぞ……このままでは脱衣所を通らざるをえない。もし氷月さんの下着を見てしまったら……」


 もし氷月さんの下着を見てしまったらどうなるか。僕は想像してみた。


「八重山……私の気持ちを利用して下着を見るなんて最低ね」


「氷月さん……ち、違うんだ! 僕とて見たくて見たわけじゃない!」


「言い訳なんて聞きたくないわ! 絶交よ!」


 フンと鼻を鳴らしてそっぽを向く氷月さん。僕が下着を見たという噂は学校中に広まり僕の居場所は無くなる。おそらく来栖にも愛想を尽かされるであろう。


 ……それだけは避けなければならない。


「……よし、ならば、見なければいいんだ」


 僕は深呼吸をすると目を閉じた。生まれてから毎日入った脱衣所である。住み慣れた我が家ならば目をつむったって歩けるだろう。脳内に脱衣所の様子を思い浮かべながら壁伝いに進む。うちの脱衣所は入り口から入って右に進むと風呂場へと続くドアがある。短い道のりだからすぐに行けるだろう。そう思って慎重に足を進める。


「八重山ーー、急に無言になったけどどうしたのー? 大丈夫ー?」


 シャワーの音に混じって心配そうな声が聞こえるが問題ない。僕は脳内マップと実際の場所を照らし合わせながら一歩一歩進んでいく。その足が、なにか柔らかい布を踏んづけた。


 足が滑ったと思った次の瞬間には、後頭部に鈍い衝撃を覚えて僕は思わず悲鳴をあげてのたうち回った。


「大丈夫だ! 氷月さんはそこで待っててくれ……ぎゃーーーー!」


「え、どうしたの!? 何かあった!?」


「いや、何かを踏んで転んだだけだからだいじょうぶ……………」


「ご、ごめんね、私が取りに行けばよかったよね」


「いや、それだと氷月さんが恥ずかしい思いをして―――――」


 不意の痛みには弱いのが人間であろう。僕はしばらく後頭部を押さえてうずくまっていた。シャンプーだけは無事だったのが手触りで分かる。それに風呂場はもう目の前だから僕は目をつむったまま氷月さんに受け取ってもらえばよいし、僕は痛みが引いたらそのまま退散すればよいのである。


 僕のミッションはここに達成されたと言って良かった。もう氷月さんの裸体を見る恐れはないし、下着を見る事もない。これで安心。焦って立ち上がるなど愚の骨頂である。


 が、しかし。が、しかしだ。なんだか氷月さんの声がおかしいような気がする。正確には声の聞こえる場所がおかしいと言う方が近いだろうか。なんだか、目の前から聞こえてこないか?


「でも、私が取りに行けば八重山が痛い思いをすることは無かったんだよ。本当にごめんね。大丈夫? 意識はある?」


 そんな声が聞こえたかと思ったら、濡れた温かい手が僕の腕と肩に触れた。


 ギョッとして目を開ければ――これは不幸中の幸いだったけれど――氷月さんの心配そうな顔が見えた。見てはいけない場所を見たわけではないのがせめてもの救いだけれど、しかし、形のいい鎖骨と首元があらわになっているのを見ると、いま、氷月さんが裸であると意識せずにはいられない。しかもボディソープの甘い香りまでしてくるのだから、もうダメだ。


「は、はだ………」


「はだ……? 八重山、なに言って………きゃーーーー! 八重山が倒れた!」


 返すがえす言うけれど裸体をすべて見たわけでは無い。が、女性に免疫の無い男はボディソープの香りと鎖骨だけでもう脳内で補完できてしまうのである。


「え、ちょっ、八重山!? 本当に大丈夫!? 脳震盪のうしんとう!? え、きゅ、救急車呼ばなきゃ!?」


「…………あ、だいじょう……ぶ……」


 氷月さんの一糸まとわぬ姿を想像してしまった僕は鼻に何か温かいものを感じた。ドロリとした温かいものであった。鼻血だ……と気づいた時にはもう僕は気を失ってしまったのだった。


 というか、脱衣所のドアの前にシャンプーを置いておけばそもそも脱衣所に入らなくてすんだしこのようなアクシデントも起こらなかったのではないか? 薄れていく意識の中で僕はそんなことを思った。

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