第31話


 家に帰るころには6時を回っていた。日はまだまだ高いけれど夕暮れの香りが漂う時間帯。明石さんと別れたのは5時くらいだったろうか。いくら押しかけられたとは言え、せっかく遊びに来てくれた人を何時間も家に放置してしまったことは詫びるべきであろう。氷月さんがずっと家にいたのかは知らないが、ラインで『ごめん』と送ると、『おこ!』とだけ返ってきた。


「甘いものが好きだといいけれど………そもそも氷月さんが物でつられるわけが無いか」僕はスーパーで買ったチョコレートの入った袋を見つめてため息をついた。


 親しき仲にも礼儀ありという言葉がある通り、どんなに良好な関係も礼儀が無ければ続かない。好意を抱かれているなら何をしても許されるなんてことはないのである。覚悟を決めて玄関を開けると、しかし、台所の方からトントンという音がした。


「あ、おかえりー台所借りてるよー」


「……え、氷月さん?」


 氷月さんが料理を作っていた。


 クツを脱いでリビングに入るとオムライスの良い匂いがした。香ばしい油の香りと卵の焼ける音が食欲をそそる。台所の方に目をやると長い髪を後ろで束ねて萌黄もえぎ色のエプロンをつけた氷月さんの姿があった。溶き卵をフライパンに流し込み、慣れた手つきで卵を炒める。半熟になったところで残りの卵を流し込み、ふわとろオムライスを2つ作っていた。僕がリビングの入り口で立ち尽くしていると、それに気づいた氷月さんが「冷蔵庫にカレーがあったからオムハヤシならぬオムカレーにしてみたよ!」と僕を振り返った。


「練習して少しは美味しくできるようになったんだけど、どうかな」


「これを氷月さんが作ったの? なんで……?」


「もー、そんなところで驚いてないでこっちきて!」


 氷月さんはエプロンをほどきながら僕のもとへ来て手を掴んだ。怒ってはいないようだ。つかつかとテーブルへ連れて行くとさっさと椅子に座らせて、せっせと料理を並べていく。オムライスと簡単なサラダが2つずつ向い合せで置かれ、まさしく新婚のテーブルのようであった。


「やっぱり胃袋を掴むのが一番大事だと思うんだよね。八重山の好きな料理とか知らないけどさ。でも、いつだったかのデートでオムライス食べてたし? 好きなのかなーって思ったんだけど」


「……………………」


「あれ、俯いてどうしたの、八重山?」


 氷月さんはいつも通りだった。家に置いていったことを怒っている様子も無ければ僕の事を疑っている様子も無い。いつも通り。別れたことは忘れたかのような明るさと無邪気さであった。


 僕は別れ際に明石さんに言われたことを思い出していた。


「もし自分の気持ちを確かめようって気になったなら、氷月さんの名前を呼んであげて。それでお互いに心が温かくなったら、それが答えだから」


 明石さんはそう言って去って行った。名前を呼べ。どういう事だろうか。下の名前だと念を押されたけれど、たしかに下の名前を呼ばれると嬉しい。苗字で呼ばれるよりも特別な感じを抱くものだが、それは心が温かくなると言ってもいいだろう。でもそれは呼ばれた側の話であって、呼んだ側は何も変わらないのではないか?


 お互いに心が温かくなるなんてあるのだろうか。半信半疑のまま、呼んでみることにした。


「……凛」


「ん、んんん!? え、あ、私の事!? なに!?」


「……いや、別に。ただ呼んでみただけ」


 やっぱり、心は温かくならなかった。けれど、氷月さんの様子はとたんにおかしくなった。「あ、よ、呼んだだけなの……、そう……痛っ!」と顔を真っ赤にして足をテーブルの柱にぶつけたりしていた。氷月さんにとってはそれほど特別だったということだろう。


 それに、「凛」と口にしたときに何かむず痒いものは覚えた。


 僕はそのむず痒さの正体を知りたくてもう一度呼んでみる事にした。……氷月さんの様子はさらにおかしくなったけど、もはや僕のあずかり知らぬ領分である。


「……凛」


「うーーー……それも呼んだだけなんでしょ」


「そうだけど」


「こいつは私を殺す気か!」


 氷月さんはテーブルにつきながら早口に呟く。別に殺すつもりはなかったのだけど…………


 恥ずかしそうに目を怒らせた氷月さんは「仕返しだ」と言って僕を睨む。が、そのまま固まって僕達は見つめ合う形になった。いったい何をするつもりなのか僕が黙って見ていると、氷月さんは生唾を飲み込んで「け……け……」と何かを喋りはじめた。


「け………け………けん……………けん………」


「…………?」


「けん………けん………けん…………と………」


「氷月さーーん?」


「―――――ッ! ああもう、早く食べるわよ!」


 けんけん言うたびに頭が沈降していき最後の方はもごもごと口の中で呟くくらいに小さくなっていて僕の耳には届かなかった。自重で倒壊するビルにしか見えなかったけどなんとか持ち直したようである。「いただきます!」とおもむろにスプーンを掴み取ると顔を真っ赤にしてオムライスをつつきはじめた。


「い、いただきます………」


 結局なにがしたいのか分からなかったけどこの様子ではあまり名前を呼ばないほうが良さそうだ。明石さんの言葉は気になるけれど実験感覚で呼ぶのはもうやめよう。むず痒さの正体を知りたかったけれど、このまま続けたらまずい気がする。


「あの、怒ってる……?」


「怒ってない」


「あの、氷月さ………」


「名前で呼んでよ!」


「ええ……?」


「名前で呼ばないと返事しないから!」


「えええぇ……………?」


 僕はどうすればよいのだろうか……


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