第30話


 明石美香は休みを満喫していた。彼女は綺麗なお姉さんを地で行くような人で、まず朝起きたら栄養豊富な自家製野菜スムージーをたしなみ、シャワーと化粧をすませてオシャレなカフェテリアにて栄養学の勉強をする。昼になるとブラインドショッピングにて最新のアイテムをチェックし、のみならず同業他社を回り経営戦略を練る事にも余念がない。


「今の流行りは……また外国の変なお菓子かぁ。う~んこれに対抗するには……」


 白いノースリーブセーターにブラウンのパンツという見事な着こなし。仕事中はかけていない赤い眼鏡がお姉さんらしさを醸し出す。組んだ腕が形の良い胸部を強調するようである。これぞお姉さん。年上の良さをすべて兼ね備えたような人だ。


 家を出た僕はあてどなくさまよい、気づけばバス停4つ分の距離を歩いていた。


 N町にはビルなどが立ち並ぶ繁華街がある。明石さんのカフェもN町にあった。


「おや、そこなるうなだれ少年は兼人くんじゃないかい?」


 誰かに呼ばれた気がした僕は辺りを見回す。すると、明石さんが手を挙げて僕を呼んでいた。


「えっ……あ、明石さん……でしたっけ」


「覚えててくれてありがとう~。どうしたの? ずいぶんしょんぼりしているようだけど」


「そう……見えますか?」


「見えるね。なんだか自信喪失って感じ。お姉さんで良ければ話聞くよ?」


「……………………」


 この時の僕はどんな顔をしていたのだろう? 自分では分からなかったけれどよほど情けを起こす顔をしていたらしい。相談しても良いのか迷った僕は明石さんの顔をちらっと見た。明石さんは僕の手を取ると「いや、若い男の子と話す機会なんてめったにない。ぜひお姉さんに聞かせてくれるかしら」と真に迫った表情である。


「で、でも、これは一人で解決すべき事だと思うから……」


「いやいや、迷える若人を導くのも先達せんだつの務め。さあ、お姉さんに存分に甘えなさいな」


「甘える!? いやいや申し訳ないですよ! ほとんど話したことない人に迷惑をかけるわけにはいきません!」


「しっかりしてるねぇ。でも、こういう時は素直に甘えた方が可愛いぞー?」


「うっ……」


 僕は思わず俯いた。明石さんは決まりだなというふうに頷くと「君はいろいろとはっきりさせようとしすぎている。だけどね、本当に大切な人っていうのはそうはっきりと好きな所が見つからないもんだよ」と言った。


 明石さんは僕を連れて近くのカフェに入った。店内は薄暗くあまり広くないらしい。カウンター席とテーブル席の座席を全て足しても20に満たないような小さな店だった。レンガ調の壁が大正時代的雰囲気を醸し出しているいわゆる穴場であろう。


「ここ落ち着くし好きなのよね。ちょっと暗いから勉強に使えないのが玉にきずだけど……」


「ここ、年齢制限とかありませんよね。僕まだ高校生なんですけど……」


「カフェに年齢制限なんてないよ~。こういう雰囲気のお店に来るのは初めて?」


「え、ええ………」


「あはは、緊張しなくても大丈夫。店の人も常連さんも優しい人ばかりだからリラックス、リラックス」


 明石さんは奥まった場所にあるテーブル席に座った。店内の客は僕達を除けば新聞を広げるおじさんとコーヒーをたしなむ若い男性。それからカウンター席で店員に話しかけている女性が一人くらいのものだった。明石さんはお酒を扱う店ではないと言うがメニューにバーボンやウイスキーが混ざっていてもおかしくはないような大人の店である。僕はその雰囲気に呑まれたのであろう。身を固くしたまま、明石さんに促されるままに席に座り、向かい側に明石さんが座ると、さらに身を固くした。


「アイスコーヒーでいい?」


 明石さんは手を挙げてウェイトレスを呼ぶとこちらを振り返る。コーヒーなんて飲んだことが無いけれど、なんだか断る事ができなくて、僕はコクリと頷いた。


「……それで」と僕は切りだした。


「僕自身でも悩んでいるのが恥ずかしい話なんですけど、実は、恋……の悩みなんです。来栖と氷月さんという2人の女の子がいて、僕は、2人の事をどう思っているのか、どちらを選ぶべきなのか分からなくて……自分の気持ちがはっきりすればすぐに解決する話なんですけどね」


「ふんふん、来栖さんと氷月さんね。2人はどんな子なの?」


「来栖は、幼馴染です。小学生のときからずっと一緒なんですけど、いつも明るくて元気なやつくらいにしか思っていませんでした。でも、最近になって笑顔とか何気ない振る舞いが気になるようになって、自然と目で追う事が増えたんです」


「その来栖さんって子が、この前いっしょに来てくれた子?」


 僕が頷くと明石さんは「じゃあ、氷月さんの方は?」と言った。


「氷月さんは……正直よく分かりません。子供っぽいのか大人びているのか、可愛いのか綺麗なのかもよく分からないんです。ただ、人を自然と惹き付けるというか、無視できない何かがあるとは思います。事実、クラスでも一番人気ですし」


「へぇ~、一番人気の子に好かれてるんだ。やるねぇ~」


「茶化さないでください!」


「ごめんごめん。で、その2人の事が気になっているの?」


 僕は少し迷ってから首を振った。


「あら、じゃあ、氷月さんの事が好きなんだ?」


 僕はまた首を振った。「僕は来栖の事が好きです。いつも隣にいてくれるという安心感があるから。でも、それを氷月さんに伝える事ができなくて、いや、できないんじゃなくて、伝えたくないと思ってしまうんです」


「……ふぅん? 来栖さんの事が好きなんだ? 私は逆だと思っていたよ」


「……僕は氷月さんの事が好きだってことですか?」


 それは意外な言葉だった。明石さんは僕と来栖が2人でいる所を目撃している。なら来栖の事が好きなんだと思うのが普通ではないのだろうか。来栖が冷たくなった理由を知り和解した日の事である。僕が驚いているとウェイトレスがコーヒーを運んできた。明石さんは「美味しいね」と一口飲むと、また口を開く。


「この前うちにきたときの様子を見るとどうしてもそう思ってしまうな。だってあのときの兼人君たちはなんだかギクシャクしているように見えたよ」


「それは……実際にギクシャクしていましたから。でも、あのとき来栖と向き合えと言ってくださったおかげで僕達は仲直りできたんです。むしろ、そのおかげで来栖の見逃していた美点に気づくことができた。だから僕は―――」


「来栖さんが好き?」と明石さんは僕の言葉を遮った。「だから来栖さんの好意に答えようと思った? だから来栖さんを好きになろうと思った? なら、それは違うよ。それは恋じゃない」


「……………………」


 僕は口をつぐんだ。


「兼人君のその気持ちは恋じゃないよ。君は誰にも恋をしていない」


 明石さんはコーヒーカップを受け皿に戻すと、「君は恋をしていない」ともう一度呟いた。


「な、なんでそんなことが言えるんですか。明石さんは僕と来栖の事を知らないのに」


 僕の声は我知らず震えていた。心のうちを看破されたような錯覚に陥る。でも、僕は来栖に恋をしているはずだ。それを自覚しているのだ。


「分かるよ」しかし氷月さんは静かに言った。


「何を根拠に!」


「根拠か……そうだね。私には泣いているように見えたから、かな」


「泣いている……? 僕がですか? あの日、来栖とパフェを食べた日に?」


「うん。君は泣いていたよ」


「……………………」


「君はね、本音が無いんだ。理屈と建前を使い分けているとでもいうべきかな。理性に従って行動するといえば聞こえはいいけど、要は心の声を無視しているんだよ。だから来栖さんと氷月さんの間で揺らいでしまうんだ。2人とも君が好きなんだろう? 2人は一生懸命に好意を伝えてくる。私を選んで、私を選んでって。でも、君はその好意に理屈をもって応える。この子はこれくらい僕の事が好きなのか。でもあの子はあんなに僕の事が……って感じかな? だから泣いているように見えたんだね」


「僕は……来栖の事が好きなんです」


「それは、ずっと慕ってくれていた幼馴染の気持ちに応えるために?」


「………………………」僕はうなだれた。


「ごめん。いじわるな事言っちゃったね」


 明石さんはそう言ってコーヒーを飲んだ。


 コーヒーはすっかり温度が上がってぬるくなっていた。

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