第29話


 氷月さんに着替えるよう言い含めて僕は部屋を出た。なんだか胸の辺りがパツパツに張っているように見えて目に毒だったし、氷月さん自身もキツイと言っていた。男性用と女性用では生地や作りが違うのだろうか。ほどなくして部屋に入るとゆるゆるのTシャツに着替えていた。大きな黒い字で『自堕落』と書かれた白地のTシャツであった。


「それも僕のなんだけどなぁ」


「パジャマしか持ってきてなかったんだ。悪いとは思っているよ」


 しかしこの人は何をしにきたのだろうか。泊まりを黙っていたのは断られる事を警戒していたのだろうけれど、なら、なぜ泊まることを思いついたのか? それを訊ねるとあっけらかんとした様子で「とどめを刺しにきた」と言った。


「警察」


「違います~。恋愛的な意味です~~」


「ますます意味が分からない……」


 勉強机の椅子を手繰り寄せて座る。氷月さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて僕を見上げた。


「あのさ、八重山って来栖さんのことが好きなんだよね」


「ん……なんでそんな事を聞くの」


「いーから答えて。大事な事なんだから」


 僕はちょっと答えに迷った。来栖の事を好きだと宣言することをためらったのだけど、氷月さんに宣言するという事に気が引けたのだ。なぜだろう。氷月さんとさっぱり決別するなら好きだと言ったらいいのに。なぜハッキリと言えないのだろう。


 良心の呵責とでもいうのだろうか。真剣に好意を伝えてくる氷月さんに申し訳ないと思っている? それとも氷月さんがどんな手を打ってくるのか楽しみにしているから邪魔したくない? ……いずれにせよ、僕は男として筋を通さねばならないだろう。「僕は来栖の事が好きだ」そう言った。


 氷月さんはそれでいいと言うように何度か頷いた。


「でも私のことが好きになったら告白するんだよね」


「……そう伝えたね」


「それってさ、なんでそんな事言ったのか説明できる?」


「説明……」


「そう。私の考えだと、できないと思う。あ、複雑な意味はないよ。少なくとも私と来栖さんがらみの事ではなくて八重山自身の問題だと思っているから、出来ないって言っているの」


「僕自身の問題……? なんだよ、優柔不断だって言いたいわけか?」


 氷月さんはふるふると首を振った。「違う違う。あなたがあなた自身の事を理解していないって言っているの」


「……………………」


「八重山はいつも理論的に動いてる。理由があって原因を考えて、筋道が通った思考をする。その答えはいつもハッキリしているけれど、分からない事は分からないまま。だってあなたの中に情報が無いんだもの。ソースが無ければ答えは導けないわ」


「……………………」


 氷月さんの言うとおり説明できなかった。あのときは妙にサッパリした気持ちで、その気持ちのままに口を開いていた。僕自身驚いているのだ。思考と矛盾する。なぜ僕は来栖が好きだと貫かなかったのか。何度考えても答えが出ない。


「ね、私の事はどう思っているの? きっとこれも明確な答えが出せないはずよ」


「出してたら、勝負はついているだろうが」


「たしかにね。でも、答えが出せない事が答えなんじゃないかなって思っているけれど、当たってるでしょ」


 氷月さんが何を言いたいのかが分からない。けれど、たしかに僕の不明瞭な部分はすべて氷月さんに収束しているような気がする。氷月さんの事が分からない。好きとも嫌いとも言い難い。しかし無視できない存在。


「八重山が私の事をどう思っているのか。いまから確かめようよ」


 氷月さんはそう言うと、すり寄ってきた。


「はぁ!?」


「八重山もはっきりしないままは気持ち悪いでしょう? これはお互いのため」


 僕は胸がゾワゾワするような居心地の悪さにさいなまれて耐えられなかった。「そのために押しかけて来たんだな!」と言い残して、どうしたことか逃げ出してしまった。


 このまま家にはいられないと思った。


 氷月さんの事をどう思っているかは分からない。けれど、それを明らかにすることが怖いと思った。部屋を飛び出して靴を履いて玄関を出る。どこへ行くというあてもないが、とにかく心を落ち着ける必要があった。


「あら、逃げちゃった。……まっ、良いけどね。あんな焦った顔見たの初めてかも。嬉しいなぁ。八重山もずいぶん可愛くなったなぁ」


 氷月さんは追ってこないようだった。ただ、何かほくそ笑んでいるような雰囲気だけはひしひしと伝わってきた。

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