氷月凜の場合 3

第26話


 さて、それから数日は静かなものだった。これからよろしくね、と何をよろしくされるのかまったく分からないがこうも静かだと不穏なものを覚える。いつか何かが起こるのだろう。夜の公園での氷月さんの様子を考えるにその時が来たら大変な事になるのであろう。台風の前の森を想起させるほど穏やかで奥ゆかしい笑顔を振りまいている氷月さんだったが、そのときは案外早く来た。


 そのときは夏休みとともに来た。


 氷月さんの本領発揮と言うべきか、とうとう全てのかせをとっぱらってしまった氷月さんは誰の手にも負えなかった。


「夏休みーーーーーー! なのに夏期補習………」


 それは来栖の声ではなかった。こともあろうに氷月凜であった。クラスメイトの仰天する顔もむべなるかな。テンションの乱高下は来栖の十八番おはこであったが氷月さんのそれはことさら無邪気であった。驚く男子を押しのけて教室の後ろまで来ると、教室の端に位置する僕の席を追い詰めるように叩いた。


「でも席自由なんだって! ふふん、隣はもらった!」


「小学生か」


「………………」


 来栖もびっくりしたような顔をしているが、負けるもんかとばかりに僕をつついた。僕の席は教室の角に位置する場所にある。隣の席を確保するには僕をどかすしかないのである。


「そうくるなら、私も負けないから」


 夏期補習というのが夏休み最初の1週間に行われる午前中のみの授業期間である。生徒たちは部活や遊びに行きたい気持ちを抑えて謎の問題集を解かされることになるのだが、その授業形態はほとんど自習であるので、とうぜん集中する生徒はいない。


 特に氷月さんは呆れるほど頭が良いので問題集などとうの昔に解き終わって、どうちょっかいをかけるかに集中しているようだった。


「あっ」と来栖が声を上げた。僕の足元にコツンと軽いものがぶつかるような感触。見れば来栖の消しゴムが机の上から落ちて僕の机の下に転がってきたのだった。僕がなんの気なしに拾って渡すが、受け取る時に来栖の指が僕の手のひらに触れた。それで来栖は顔を真っ赤にしてしまって「ご、ごめん!」と胸の前で消しゴムを握りしめて恥ずかしそうに俯いた。


 それがヒントを与えてしまったらしい。僕の隣でものすごい音がした。と思ったら今度は氷月さんのわざとらしい「わー問題集落としちゃったー!」という声。


「八重山の方に行っちゃった………これは拾ってもらうしかないなーーー」


「……いや、そこならじぶんで……」


「拾ってもらうしか・な・い・なーーーーーー」


 ちら、ちら、と、視線がとぶ。拾えということなのだろう。来栖とのやりとりを見て羨ましくなってしまったのだ。これは僕の気を引くとかではなく、ただ自分がやりたかったのだと思われる。


 僕は仕方なく氷月さんの落とした問題集を拾い上げる。と、手の甲に氷月さんがわざとらしく指を置いて「ひゃああ! ごめん! あたっちゃったーーー!」などと楽しそうな悲鳴をあげる。


 氷月さんはもう勝負のことなんて気にしていないかのようだった。いや、勝負の相手を僕に変えたのであろう。落としてみろよなんて挑発的なことを言ったから本気にしたのだ。何がなんでもお前を落としてやると言わんばかりの表情を見ると、あの夜のことを後悔せずにはいられない。


 なんだって僕はあんなことを言ってしまったのだろうか。


 きっと氷月さんのまっすぐな様子にあてられたせいだろう。僕のごとき捻くれ朴念仁がまっすぐになれるわけがないのに、氷月さんのことを羨ましいと思ってしまったのだ。


 来栖のことが好きだけど氷月さんに恋をしたら自分から告白する? それこそ軽佻浮薄の極みではないか。出会い系アプリに登録したときだってそうだ。氷月さんと話すきっかけになったあのアプリだって、登録してみたいという気持ちに突き動かされたようなもの。同じ過ちを繰り返さないと決めたのにまた僕は気分で行動してしまった。


「はぁ……どうしたもんかなぁ」


 夏期補習が終わればそれぞれ解散となる。部活があるものは部活へ行きそれ以外の者はすみやかに帰る仕度をする。教室にはお弁当をとりだす生徒とカバンを背負う生徒で雑然としていた。


「どーしたのー。ずいぶんお悩みのようだけど?」


「僕はことごとく人生の岐路を転落している気がするよ……」


 来栖はもしゃもしゃとサンドイッチを食べながら「ふーん」と気のない返事をした。これからバレー部の部活があるということで学校に残るのだそうだ。


「なぁ来栖……できることなら僕を引っ叩いてくれないか。できるだけ痛くないように」


「なんでそんなことしなきゃいけないのー?」


「ま、それはそのとおりだけど。いつか僕は君を怒らせることになるだろうから…」


「なに。修羅場の前借りってこと?」


 いったい僕はどうしてしまったのだろうか。女性の体に興味があっただけなのだ。以前の僕はそれだけで授業も手につかないほどだった。氷月さんと話すようになってからはまったく忘れていたのだけど、いまになって、ふと、その興味が再び起こった。


「けんジィってさ」


「ん?」


「なんでもない。ご馳走様でした」


 来栖はスカートを翻して立ち去っていった。僕はなぜかその後ろ姿を見送った。

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