第18話


 さて、図書室を追い出された僕達はとぼとぼと廊下を歩いていた。やってしまった。図書室は僕の最後のオアシス。これから毎日教室で過ごすなんて耐えられない。いろんな人のお弁当の匂いが入り混じった闇鍋以上の地獄の空間で昼休みを過ごすなど考えたくもない。


「えへへ、怒られちゃったね」


「……ごめん、やりすぎた」


「ううん、すっごくドキドキしちゃった」


 廊下をあてもなく歩く。氷月さんはお姫様抱っこの余韻に浸っているのかフワフワとした足取りで僕の先を歩いている。怒っていないのだろうか。あんなに意地の悪い事を言ったというのに。


 しかし、司書さん(20代くらいの女性)に怒られた僕にとっては浮足立った氷月さんは救いであった。


「でも八重山があんなに力強いなんて思わなかったなぁ」


「いちおう筋トレはしてるからね」


 僕は答えて、腹筋を触った。はたから見たら割れてはいないけど触ったら硬い感触が返ってくる程度には筋肉がついていた。


「すっごくガッシリしてたよ。なんだか安心感がすごくて、ずっとドキドキしてた。細マッチョってやつかなぁ。いいな~。撫でてもいい? いいよねっ」


 僕が答える前に氷月さんは撫でまわした。「カッチカチだぁ~~」と犬を撫でるように遠慮ない手つきであった。しかし、異性の体に触れるとあって緊張したのか力は入っておらず、表面に触れる程度であったが。それがより性的に感じられて煩悩と戦うはめになった。


「……お姉さん設定はもういいのかい」


「知らない。八重山がありのままで良いって言うんだから良いよ。腹筋すごいね~」


「……そりゃ、どうも」


 ええいしずまれ。鎮まれ内なる雄よ。もしいま大きくなったら氷月さんに嫌われるであろう。力を解放するのはまだ早い! 今は鎮まれ!


 というか氷月さんも鎮まれ。ここは天下の往来である。2年教室へと続く廊下のど真ん中である。すれ違う生徒や窓際で世間話をする生徒みんなが僕達を見ている。まるで氷月さんにはずかしめられているようではないか。僕にそんな趣味はない。断じてない!


「氷月さん、氷月さん、もうやめよう」


「え、なんで?」


「みなが君に注目しているぞ」


「へ? あ………」


 僕が耳打ちするとピタッと動きが止まった。


 学校一の美少女が男子の腹部を撫でまわしているとあって、多感な時期の獣たちが引き付けられるのも仕方のない事だろう。氷月さんは壊れた扇風機のように背後を振り返った。


「ふ、2人きりのつもりでいましたごめんなさーーーーーーい!」


 ばびゅん、という擬音が聞こえてきそうなスピードで、スカートがひるがえるのも構わずに氷月さんは逃げ出した。


 おそらくお姫様抱っこをしたことが尾を引いていたのだろうと思う。初めてデートをしたときのような気の抜けた顔をしていたところを見るに、学校にいる事を忘れて通話している気分になっていたのだ。


 2人だけの世界に浸っているところに水を差されて急に恥ずかしくなったのであろう。氷月さんは風のような速さで姿を隠すと、一通のラインを送ってきた。


 ピロンッという軽い電子音とともにロック画面に表示されたのは、よほど焦って打ったのであろう。『ごめん、ほんっっっっとーーーーにごめん!!れ』と最後の最後で誤字をした謝罪文であった。


「面白い人だなぁ……」


 僕は『気にしてないよ』とだけ返信するとスマホをしまった。


 すると目の前に来栖がいた。僕は少しだけ驚いた。


「なんだ、君も何か仕掛ける気か?」


「別に。ただ、面白い人だなぁって思っただけだよ」


 来栖はふいときびすを返すと教室に向かって歩き出す。なんだ、氷月さんと対決をしている最中だというのに何もしてこないのか?


「じゃ、もうすぐ授業始まるからさぁ。氷月さんを連れ戻した方がいいんじゃない?」


「え、お、おい。待てよ」


 しかし来栖は足を止めない。いつもなら何かちょっかいをかけてくるところなのに今日に限って何もしてこないのは不自然であろう。


 僕がいくら呼んでも来栖は振り返りもしなかった。冷めきった声音で「氷月さんなら視聴覚室の方に行ったよーー」と手をヒラヒラと振った。


「……………………」


 氷月さんの様子はもちろん変だが来栖の様子も変だった。いつも隣にいた人物がいまは隣にいない。それこそ日常が壊れたと感じる大きな要因であったろう。


 来栖が離れていくように感じられて、僕はとたんに心細くなった。


 僕は教室に戻って、それとなく来栖の方を見た。彼女は彼女の友人と会話をしていた。見慣れた来栖の笑顔。口元にえくぼを作って笑うのは来栖のクセだった。話しかけたい衝動に駆られるが、しかし、授業5分前のチャイムが鳴る。


「………氷月さんは戻ってこない、か。仕方がない。迎えに行こう」


 来栖は視聴覚室の方に行ったと言っていた。あの様子では何事も無かった事にして教室に帰ってくるのは氷月さんにとって至難の業であろう。


 授業をサボる覚悟で迎えに行くと、はたして氷月さんはすぐについてきた。


 僕の背中に頭を乗せてどんよりと歩いていた。


「ごめんね、迷惑だったよね。あんなの、彼女失格だよね……」


「そんな事は無いと思うけど」


「ううん、私だけ舞い上がって八重山に迷惑かけて、ダメダメだよ。お、お腹にも触っちゃったし……。ごめん、私、本当に変だ……」


「………そんな事ないったら。けど、そうだね。今度は2人きりの時にしてくれると助かるかな」


「ふ、2人きり!? や、八重山でもそんなこと言うんだ……意外と大胆……」


 氷月さんは顔を赤くしてごにょごにょと何かを呟き始めた。


 さっきまでは照れる氷月さんを可愛いと思ったけれど、いまは、素直に受け取る事ができなかった。


 冷めた来栖の表情がとげのように痛みを起こした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る