第17話


 僕はいつも昼休みを図書室で過ごしている。図書室は静かだし、古い本の匂いが心を落ち着かせてくれる。だから僕はさっさとお弁当を食べるとすぐに落ち着かない教室を抜けて図書室へと逃げるのである。


 ところが今日は連れ合いがいた。


「八重山、いつも教室にいないと思ったらここにいたんだね」


「まあね。ここに声が大きい人は来ないから」


「なるほど、八重山らしいや」


 氷月さんは僕の後に続いて図書室へと足を踏み入れる。「ここなら静かだし、大人の色気を見せるにはもってこいだ。絶対に落としてやるんだから」と、何か小声で呟いたようだが、僕には聞こえなかった。ただ、何か目的を持って訪れた事は分かった。


 氷月さんは長い髪を払って近くにあった小説を手に取る。それは去年流行った恋愛小説だった。しかし、読むために手に取ったわけでは無いらしい。椅子に座るや否や足を組んで髪を払い、わざとらしくブラウスのボタンを1つ開けた。


 そしてたまに僕の顔を見て目が合うと顔を赤らめて「お、男の子なんだから……」と意味の分からない事を言う。


 なんだか、放課後にイキる陰キャのようだと思った。


「態度が悪いぜ、氷月さん」


「……………………」


 しかし氷月さんは答えなかった。口を開く代わりに足を組みかえて態度を治す気が無い事をアピールした。


「氷月さん? どうしたの、君はそんなイキり方をする子じゃなかったはずだぜ」


「…………イキッてなんか、ないわよ」


「じゃあ何をして……」


 と言いかけて僕ははたと気がついた。そういえば、頬がやたら紅いようである。高揚しているというよりは何かを塗っているように見える。唇も今朝よりもプルプルと可愛らしく張っており、まつげも長いようだ。


「……もしかして化粧してる?」


「……………………」


 氷月さんは答えなかった。その代わりに席を立つと小説を元の棚に戻して別の本を探し出した。挙動不審だ。背表紙を指でなぞってはまた別の背表紙をなぞる。


「もしかしなくても化粧してるよね。校則違反だぜ。先生に見つかる前に落としてくるんだ」


「……………………」


「氷月さん」


「八重山、読みたい本はある? お……お姉さんが取ってあげるよ」


「はあ?」


 うんしょ、うんしょと脚立を持ってくると氷月さんは高い所の本を探し出した。まだ何も言っていないのだが、高い所を探すのだと言わんばかりの様子には彼女の意を汲まないわけにはいかず、「じゃあ、川端康成を……」とお願いすることにした。五十音順に並べられているから、か行は最上段に置いてあった。


「渋いのを読むね~」


「まあ、好きなんだよ。古都とか」


「うんうん、いいねいいね。私も好きだよ! ………あ、お、お姉さんも好きですよ」


「……………?」


 氷月さんは腰を押し出すようなつま先立ちになって本を探した。スカートの裾がひらひらとこのままでは下着が見えてしまう。彼女は性的な目で見られる事が嫌いだと言っていたはずだし、あのような体勢では今にも脚立から落ちてしまうだろう。


「やめろ氷月さん。このままではスカートの中が見えてしまう。のみならず、足を滑らせて転倒しかねない。危ない事はいますぐやめて降りてくるんだ」


「……か、顔を赤くして、言われても、説得力なんかないよ。好き、なんでしょ、こういうの。お、男の子なんだから……もう」


「氷月さん!」


 氷月さんがおかしい。何か目的があってかような奇行を繰り返しているのだろうが、僕には何がやりたいのかさっぱり分からない。それよりも彼女に似合わない行動をとり続ける姿が空回っているように見えて不憫ふびんだった。


 なんとか彼女を元に戻す事は出来ないかと考えていたとき、ふいに香水の爽やかな香りが漂った。大人の女性がつけていたらよく合いそうなフローラルな香りであった。


「まさか氷月さん、大人の色気を出そうとして化粧したり香水をつけたりしているんじゃないだろうね」


「ふえぇ!? そそそそ、そんなことはないよ!?」


「やっぱりそうなんだな………」


「ちが、違います! 八重山の好きに形から合わせようなんて思ってません!」


 ようやく合点がいった。やたら女性の体をアピールするような仕草も、化粧も、お姉さんという1人称も、男の子なんだからというセリフをやたらと使いまわすのも、すべて氷月さんなりに年上らしさを出そうとした結果なのだ。


 おおかた来栖との対決に際して元木さんたちからアドバイスを得たのだろう。しかしいつかの来栖が神崎の操り人形であったごとく。氷月さんは普段通りでいいのだ。


「まったく……そんなに背伸びしなくても充分綺麗だよ、君は」


「えぇっ!?」


「化粧なんてしなくても可愛いし、仕草や呼び方でアピールもしなくていい。ありのままの氷月さんが一番可愛いんだ。だから………」普段通りの君に戻ってくれ。そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。


 結論から言うと、僕の言葉は余計だった。


 照れて顔を真っ赤にした氷月さんは図書室から逃げ出そうとした。アニメなどでよく両手で顔を隠したヒロインが走り去っているけれど、氷月さんもその例にもれずに顔を隠して走り去ろうとした。しかし、氷月さんが乗っていた脚立は年季が入ってくすんでおり、ところによってはネジが緩んでいるのである。


 グラッと脚立が揺れたかと思うと、次の瞬間には氷月さんが足を滑らせていた。


「え、わあぁ~~~~!」


「危ない!」


 僕はすぐさま氷月さんの背中に手を伸ばした。いつ落ちてもおかしくないと身構えていたのが功を奏したのか、脚立から足が離れる前に助ける事ができた。奇しくもお姫様抱っこの体勢であった。


「ふぅ、間に合って良かった。だからやめろと言ったんだ」


「あ、はぅ……うう、顔が近いっ ドキドキする」


「これ以上無理をしないと約束できるか? できないならずっとこのままだが」


「こ、このまま!?」


 氷月さんは頬に火がついたように顔を赤くして目を見開いた。化粧のせいか、美人のお姉さんが素で驚いたようなギャップを感じさせて僕は心を掴まれた。


 少しだけイジワルをしてやろうと思った。


「そう、このまま」


「む、無理無理無理無理! 心臓とれちゃうよぉ!」


「別に僕は構わないんだぜ。化粧がとても似合っているからもっと近くで見ていたくなる」


「し、死んじゃう……ていうか褒めすぎ……だめ、死んだ……」


 氷月さんはきゅうと縮こまった。「困っちゃうから、イジワル言わないで……」


 まるで年下男子にからかわれるお姉さんそのものだった。そして僕はたしかに、氷月さんに夢中な年下男子であった。


「じゃあ、ありのままが一番可愛いって認めて、もう無理はしないね?」


「うぅ~~~イジワル~~~」


「もう変な誘惑もしないこと。氷月さん、そういうの苦手だって言ってたでしょ?」


「に、苦手だけど……八重山なら、嫌な気はしなかったっていうか……」


「じゃあこのままで良いってことだ」


「お、下ろせ~~~~~~~~!」


 ところでさっき言った事をもう一度言うが、ここは図書室である。静かで古い本の匂いが心を落ち着かせてくれる場所。ここへ訪れる人はみな同じ思いで図書室へ来るのである。


「ごほんっ」


「……あ」


「図書室ではお静かに」


 とうぜん、騒いだり大声で会話したりしてはいけない。


 今度騒いだら出入り禁止にしますよ? と、司書さんはたいそう怒っていた。

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