氷月凛の場合 2

第16話


 さて、氷月さんがいかようにして別れる決断を下したのか。それを記すためには彼女の努力そして苦悩を詳らかにせねばならないだろう。ただ勝負を公平にするためにはあらず。むしろ己が目的を確実に達成せんがための背水の陣的手段なのである。


 まず、氷月さんの努力について一つずつ紐解いていこう。


     ☆☆☆


 氷月さんと来栖による女の闘いが始まってからというもの、僕の日常は根底から壊されてしまった。


 登校、休み時間、昼食、下校、学校生活のどれをとっても僕のそばには女の子がおり、一人の時間など無い。


「八重山ーおはよー!」


「八重山! ご飯食べよ!」


「次の授業なんだっけ、八重山ー」


 と、氷月さんは今まで以上にベッタリになった。子供っぽい方がナチュラルなのは間違っていなかったらしい。授業が終わるたびに僕の席に飛んでくる彼女は可愛かった。それは雪が溶けて若葉が芽を出すように、氷月凛という少女の新たな発芽であった。


 来栖との対決は彼女にとって渡りに船であっただろう。僕を惚れさせると宣言した直後にこの勝負。しかも、自分の気持ちを抑える必要も無いのである。もはや彼女は無敵だった。気分のままに僕を振り回して楽しむ様は子猫のようであった。


 氷月さんはいまやクラス中のアイドルであった。


「八重山のやつ、いいよなー。なんであんなにモテるんだ?」


「あんたたち、もし氷月さんにちょっかいかけたら許さないからね」


「……分かってるよ、こえー」


 女子は氷月さんの味方らしい。裏では自警団のように目を光らせて氷月さんに近寄る男を蹴散らし、表では男を落とすテクニックを享受していた。女子の集団に囲まれてちやほやされる氷月さんはあたかも幼いお姫様であった。


 そういう日々は新鮮だった。いつもは来栖がいるところに氷月さんがいて、来栖がとうに卒業したあどけなさを氷月さんは振りまいた。ひらがな発音で「やえやまっ やえやまっ」と僕の名前を呼び、人なつっこい笑顔で僕に笑いかける。


 こうしてみると氷月さんが少し小さくなったように見えて僕は驚いた。もちろん身長が低くなったわけではない。今まで纏っていた高圧的で他人を寄せ付けない雰囲気を脱ぎ去った等身大の氷月さんが小さいのである。抱きしめれば胸の中に頭があるような、男ならつい頭を撫でたくなるような、これまで近寄りがたいと思っていただけに、ありのままの氷月さんは一回り小さく感じられた。


 体は大人になりかけている。ブラウスを押し広げるような胸も、関節を感じさせない柔らかな肢体も、氷月さんが無垢になるにつれて性的に輝くようだった。これで氷月さんの表情に色香が漂えば僕の求める年上女性そのものになるのだが。


「氷月さん、そろそろ授業が始まるよ」


「んーー?」


「授業、始まる」


「んーー………」


「戻って。授業頑張ったらまた話してあげるから」


「………うーー、分かった」


 授業間の小休憩。氷月さんはいつも名残惜しそうな顔で席へと戻っていく。「絶対。絶対だよ」と念を押しながら帰る。僕は分かってるよと苦笑いで見送るのだ。


「まるで子供をあやしてるみたいだなぁ……」


「八重山、もう氷月さんで決まりじゃないか?」


「うん?」


 隣の席の男子が話しかけてきた。畠山という細身の新聞部員だ。


「どうだろうね。次の新聞のネタ探しか? ご苦労な事だ」


「そんなんじゃないよ。それに君たちの事は学校全体の話題だから僕が知ってることはみんな知っている。記事にしたって誰も読まないよ」


「はぁ………」


 正直な話、このまま氷月さんを選ぶのは違和感があった。というより氷月さんの態度そのものに違和感を抱いていた。通話で話しているときと対面で話しているときの違いが脳裏をちらついて離れない。


「でもさ、ぶっちゃけ教えてくれない?」


「なにを」僕は数学の教科書を取り出しながら答えた。


「なにをって、決まってるだろう? 今の君の気持ちさ」


「………………」


「ちなみにオッズは氷月さん8、来栖さん2だね。やっぱり氷月さんが勝つと思ってる人が多いみたいだよ。でも選ぶのは君だ。八重山の好みからは外れてる2人だけどそこんところはどうなの」


 手にペンと開いたメモ帳を持ってインタビューが始まっていた。やはり記事にするつもりらしい。常にセンセーショナルを起こす事を忘れない新聞記者の鑑だった。


 キンコンと授業開始のチャイムが鳴るが畠山は眼鏡の奥の目を光らせて僕を逃がすまいと舌なめずりをしている。


「ほら教えてくれよ。みんなが君に注目してるんだぜ」


 まるで食いものにされているような嫌悪感に苦いものが広がるようだった。


 僕は席を立った。


「……仕方がないな。一つだけ確実な事を教えてあげるよ」


「そうこなくちゃな! で、どっちなんだい。君は氷月さんと来栖さんのどちらに興味があるんだい!」


 畠山は目を輝かせて僕にすがった。


 僕は教卓の方にちらっと目をやると、哀れみを込めて言った。


小河おがわのヤツがすごい形相でこっちを睨んでいるぜ」


「…………へ?」


 小河は相撲取りのような豊満な腹を持つ禿頭とくとうの男性教師であった。真面目な生徒に優しく悪ふざけをする生徒に厳しいと評判の教師で、特に決まりに従わない生徒を見つけるとすぐさま生徒指導室に呼び出して、定型通りのかび臭い説教を喰らわせるのである。


 日直の号令が何度もかかっているにも関わらず無視し続けた畠山が怒られるのは当然と思われたが、彼にとってなお悪い事に小河は新聞部の顧問であった。


「畠山……お前は何度言ったら分かるんだ。取材をするときは相手に敬意を持って接しろとあれほど言っているじゃないか!」


「す、すいませ~~~ん!」


「後で生徒指導室に来い! 取材の基本から生徒としてどうあるべきかまで、みっちり叩きこんでやるからな!」


 びしゃあんと雷が落ちたようだった。


 その後、宣言通りに連れていかれた畠山は小河のお決まりの説教を受け、教室に帰ってきてパタリと倒れ込み、みなを戦慄させることになるのだが、それはさておくとする。

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