第12話


 現代社会の授業の後は昼休みになる。僕は教室から逃げるように飛び出して中庭で昼食をとることにした。


「危なかった……、もう少しで僕たちの関係がバレるところだった」


 氷月さんの自制心があんなに脆いとは思わなかった。常に凛として物静かで受け答えはハキハキとしている。そんな人だからさぞ人間ができているのだろうと思われたが、ところがどっこい、氷月さんの透き通ったような美しさは裏表の無さからくるものだったのだ。いつでも自分のしたいことをして嫌なことはしない。我慢なんてもってのほか。そんな無垢な少女のような氷月さんだからこその美しさなのだろうと思う。


「ともかく、手綱を締め直さないとな……」


「誰の?」


「誰のってそりゃあ氷月さ……ん?」


 弁当箱に影が落ちた。アイスの棒のようにのっぺりとした影である。ストレートの綺麗な長髪の持ち主であろうと思われた。


「私の何を締め直すって?」


 現れたのは氷月凛であった。僕を追いかけてきたのだ。


 僕は頭と膝がくっつくくらいに上体をたたんでため息をついた。「嘘だろあんた……」


「言っとくけど、これでもめちゃくちゃ我慢してるからね? 今だって八重山の背中に手を添えたり膝枕してあげたい欲求を堪えてるんだから」


「………………そっか、偉いね、氷月さんは」


「ふふん、でしょ?」


 氷月さんはベンチの隣にドカッと座りこむとうなだれる僕にかまわずお弁当をつつきはじめた。


 この人は何をしているのだ。言い争いをした後に僕を追いかけてくるのはどう考えても不自然。教室に戻った時にクラスメイトたちから何を話していたのかとつつかれるのは避けて通れないではないか。


 気分で約束を破ることがここに立証されてしまったのだ。


「私達の関係がバレたらそんなにまずいのかな」


 ふいに氷月さんが口を開いた。


「……そりゃまずいだろう。かならずきっかけを追求される」


「そういうもんかな」


「そういうもんだ」


 氷月さんはから揚げを口に運んだ。「うん、美味しい」


「……君は楽観的すぎる」


「そうかもね」


「そうかもねって…………」


 僕はまたため息をついた。しかし、こともなげに「そうかもね」と答えた氷月さんの顔は大人びて見えて、思わず目を奪われた。


 友達ってそんなに大切なのか、と氷月さんは言った。


「私は独りでもぜんぜん平気なんだけどさ、八重山の言う容姿以上の美しさって、きっと独りじゃ手に入らないものなんだよね。今日のペア学習で元木さんと話そうと思ったんだけど何を話していいのかさっぱり分からないし、彼女、もたもたしてたから私だけで終わらせちゃった。そしたら、怖がられちゃった。それって美しくないよね」


「………………………」


 僕はなんと答えてよいか迷った。氷月さんはまた「友達ってそんなに大切なのかな」と呟いた。


 友達が大切かと問われるのは初めてのことだった。僕の隣にはいつも来栖がいたし、僕も独りが好きな方だったからそれでいいと思って過ごしてきた人間だ。


「1人で良い。1人でも気の許せる友達を作った方が良い。と、僕は思う」


「どうして」


「思った事や感じた事を全部抱え込んでしまうと、やがて、自分が世界から蒸発したように感じるから……かな」


「…………………」


「氷月さんが僕と話していて楽しいのは、僕が何でも話せる初めての友達だからだと思う。自分の考えを聞いてくれて反応が返ってくるからだと思う。別に全員と仲良くなれなんて言わないけど、1人より2人、2人より3人、3人より多くいた方が楽しいんじゃないかな。それに、返す反応だって人によりけりだ。それらを受け止めて咀嚼そしゃくしてこそ人間性も育つのではないかな」


「…………………」


 僕は自分に言える事を言ったつもりだった。僕とて来栖がいたから口を開いていただけ。彼女がいない日は世界に存在していないも同義であった。それはとても寂しいものだ。


 いろんな人と触れ合い、いろんな考え方を知る。それが成長するうえでとても大切なのだと僕は考える。その経験の差が僕を惹き付けるのだと思う。氷月さんに足りないものがあるとすれば人間性。喜怒哀楽の感情であろう。今の彼女は目にするものすべてに興味を示す幼子であるから。


「……だったら、八重山以外に必要とは思えないな」


 氷月さんはそう言い残すとさっさと校舎に戻って行った。僕はすぐに追いかけなかった。なんだか、僕の言葉を口の中で転がしているように見えたから。


 人の考えを受け止めるのにも慣れがいる。彼女には時間が必要だと思った。


「もう少し、時間を潰すかなぁ」


 僕はベンチから立ち上がって伸びをした。脇に避けたお弁当箱から卵焼きが無くなっていた。


     ☆☆☆


 休み時間も終わりに差し掛かるころを狙って教室に戻った。


 氷月さんの席を中心に人だかりができていた。僕はその中に来栖を見つけこっそりと話しかける。


「何が起こってんの……?」


「氷月さん、教室に戻ってくるなり発表の原稿を破り捨てちゃったの」


「は?」


「元木さんと2人で作り直すんだってさ。原稿破り捨てて元木さんに頭下げてた」


 でも……と、来栖は人だかりの中心に目をやる。


「氷月さん、とっても良い顔してたよ。ほら、真剣な目をして取り組んでる」


「……ここからじゃよく見えないけどな」


「じゃあ、可愛い氷月さんを見逃したってことだね」


 僕にはよく分からないけれど、さっきの会話の中で氷月さんなりに感じる所があったのだろう。


 もったいない事をしたとからかう来栖を無視して席に戻る。


 きっと今日の夜は元木さんの事をたくさん聞かされるのだろうと思いながら、僕は午後の準備を始めた。


「あら、興味なしな感じ?」


「別に。さっきも言っただろ。彼女は自分でどうにかできる人だって」


「ふぅん、なんだかえらく信頼してるみたいだけど?」


 来栖は後ろ手に手を組みながらニヤニヤとにじりよってくる。おそらく氷月さんの態度が変わった原因に僕がいると考えているのだろう。


 僕は話をそらす事にした。


「信頼……は分からないけれど、このままじゃ抜かれるぞ?」


「えっ」


「現社の発表、3日後だからな」


「……けんジィ、1人でできる?」


「無理」


「後生だからぁ~~」


 彼女は何よりもバレーが大切なバレー大好きっ子であった。

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