氷月凛の場合

第8話


 まずい事になった。非常にまずい事になった。どれくらいまずいかというと、今すぐ巨大隕石が地球に衝突して世界が終わるって時に万歳三唱しながらいやっほうと叫んでしまうくらいまずい。とにかくまずいのだ。


「なんて失態を犯してしまったのだ! 時が戻るのなら戻れ! 戻らぬのならいますぐ僕を殺せ! 誰も殺さないのなら僕が殺す! なぜ、あんな約束を呑んでしまったのだあ!」


 ああ、願わくば世界よ今すぐ終われ。あのような約束をしてしまって、これから僕はどうやって生きていけばいいのだろう?


 枕元でブーブー振動を続けるスマホが僕に現実を突きつける。


「やめろ! これ以上僕に関わるな!」と布団をひっかぶって夢に助けを求めようとも、バイブレーションの振動でスマホがズルズルと滑り込んでくる。


 まるで、これがお前のとがだと追っかけてくるようであった。


 スマホのロック画面にはライン通知が表示されておりその件数はなんと50。すべて氷月さんからのメッセージであった。


 その内容は……


『八重山、今後の事が相談したいから今から会えない?』


『未成年使用禁止のアプリを使ってた事が漏洩ろうえいしたらまずいよ。相談したいな』


『今忙しい? 暇なときに連絡返して』


『ねえ八重山、メッセージ欲しいな』


『生きてる?』


『もしかして体調崩した? ねえ、やえやまーーー!』


『通話でもいいから話そうよーーーー』


『無視するなーーー! やーーえーーやーーまーー!』


 他、多数。


 氷月さんがこんなに子供っぽいとは思わなかった。僕の連絡を待たずして次から次へとメッセージを寄越すなどどれだけ舞い上がっているのだ。メンヘラ……とは違うと思う。SNSで知り合った人との5日目の会話だと思ってもらえればなんとなく想像がつくだろうけれど、3日目まではお互いに意識して話そうとするが4日目あたりに男が飽きて、5日目に女性の方からメッセージが来る。そういう類だと思う。これが普通の女性なら脈が無いと切る判断材料にもなるが、氷月さんはそんな経験が無いから歯止めが効かないのであろう。幼い子供が駄々をこねるように大量のメッセージを送って僕の返信を促そうとしているのだ。


「ううーー、完全に失敗した。どうして僕はあのとき頷いてしまったのだ」


 それは、互いの正体が発覚した直後の事だった。


     ☆☆☆


「ねえ、八重山?」と、氷月さんが僕を見つめた。


「あなたが『ケンジさん』で間違いないのよね」


「……………………」


「……やっぱり、ショック?」


「ショックというよりは驚き……かな」


 僕が答えると、氷月さんも俯いて「私も」と答えた。


 カフェの中はお通夜のような重い沈黙に包まれていた。僕達は互いに悪い事がバレた子供のように押し黙って顔も上げられなかった。


 お互いが事実を呑み込むのに精いっぱいで、相手の事を気遣える余裕など無かった。


「……本当に楽しかったなぁ」氷月さんがぽつりと呟いた。


「僕も、まあ、楽しかった」


「でも、このアプリはもう使えないよね」


「そうだね。僕も、もう使えないよ」


「……………」


「……………」


 ゆめさんとのやり取りは、まさしく夢のように楽しかった。学校から帰ると決まってメッセージが来ており僕はすぐさま返信した。学校を頑張ったご褒美のようにさえ思った。


 ゆめさんとのやり取りにのめり込んでいた事は認めねばなるまい。彼女の紡ぐ言葉の一つ一つが僕の心を躍らせたし、僕の話を楽しそうに聞くゆめさんを可愛いと思った。


 しかし、そんな楽しい時間ももう終わりである。元から消すと決めていたとはいえ、こんな終わり方をするなど想像すらしていなかった。


 まさかクラス1の孤高の美少女とマッチングしていたなんて。夢にも思わなかった。


「ありがとう……と、言うべきなのかな」


 僕は口を開いた。


「え?」


「数日の事とはいえ僕は楽しい時を過ごせた。その時間をくれた氷月さんには感謝しなければならないだろう」


「そんなこと………ううん、私も楽しかった」


「ありがとう、氷月さん」


 僕は、自分に言い聞かせるようにぽつりと言った。そうだ。感謝こそすれ騙されたと怒るのはおかしな話である。嘘だったとはいえ楽しい時間を過ごしたのは本当なのだから。


 しかし、清算をせねばならない。僕達がついた嘘の、しでかした事の後始末を付けて晴れて解放されるのである。


 僕は「でも、明日からはまた他人として過ごそう。これまでの事は夢として忘れよう」と言おうとした。しかし、氷月さんが口を開く方が早かった。


「これで……終わりなの?」


「………………………」


「これまで仲良くしてたのにお互い嘘をついていたから、無かった事にしていつも通りにしようなんて、私、無理よ。だって、楽しかったんだもの」


 氷月さんの声は震えていた。今にも泣きだしそうなほどにか細い声だった。


「無理だよ、忘れられないよ、あんな頼りがいがあって優しくて、つまらない話でも笑って聞いてくれる人、忘れたくない……」


「忘れるしかないよ。だって僕たちのやった事はいけない事なんだから」


「はあ!? いけない事だったら何なの!? 私があなたの事でどれほど悩んだかも知らないくせに! ルールを犯したから他人に戻るなんてダメに決まってるでしょ!」


「ぼ、僕の事……?」


「そうよ! あなたとケンジさんの間でどれだけ揺れ動いたと思ってるのよ! だいたい今日の事だってねえ! あなたと仲直りをするために勇気を出してデートに誘ったのよ!? それも分からずに終わりだなんて……ひどい奴だわ!」


「………………」


 僕は予想外の言葉に唖然あぜんとした。思い返してみれば、たしかにゆめさんは人を怒らせたと言っていた。男の人の事を知りたいからデートをしたいとも言った。僕はゆめさんの力になりたいと思った。だけどまさか、まさか、その怒らせた人というのは僕の事だったのか?


 僕がぽかんとしていると、氷月さんはハッとした様子で首を振った。そして、なおさら思い詰めた様子で僕に詰め寄った。


「こ、ここまで聞いたんだから責任取って付き合いなさい!」


「え、ええ………?」


「イヤとは言わせないわよ!」


「……………………」


 断ればお前を殺して私も死ぬ。彼女の目にはそう書いてあった。


 僕はその気迫に負けて、つい頷いてしまったのだ。


「わ、分かった。付き合おう」


「よし!」


 そこからの氷月さんはもうやけっぱちであった。勢いのままにラインを交換し、アプリを消し、自分の分のコーヒー代を叩きつけて、脱兎のごとく逃げ出した。


     ☆☆☆


 昨日の事を後悔してももう遅い。僕は成り行きとはいえ彼女と付き合ってしまったのだ。僕はそれを受け入れるしか無いのだろうし、氷月さんもどこか戸惑っている様子ではある。


 これから始まる学校生活が不安であった。


 僕と氷月さんが付き合ったと知られればクラスメイトはどんな反応をするであろうか。来栖はどう思うであろうか。


「……もしもし、氷月さん?」


 僕は意を決して氷月さんに電話をかけた。明日以降の事を相談するためである。


「八重山! 遅い!」


 プルル、とワンコールの後に聞こえた怒声は、ああ、尻尾をはちきれんばかりに振る子犬のようであった。

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