第7話


 来たる決戦の土曜日。ついにゆめさんとのデートの日が来た。


 僕は朝早くから起きて朝食もそこそこに歯磨きと髪の手入れに時間を割いた。


 すべてはゆめさんの悩みを解決するため。そして、僕の身バレを防ぐためである。女性は清潔感と安心を求めると聞く。歳をとるごとに人の価値観は変わっていくものであり、社会の荒波に揉まれた彼女らが綺麗な物や心安らぐ物を求めるのは当然であるように思う。


 そしてその2つは高校生には体得しがたいものである。だからこそ僕は清潔な恰好を徹底する事によりゆめさんを騙しとおすのである。


 今日を最後に僕はアプリを消す。たった一人のためにここまで腐心せねばならない出会い系なぞはこりごりだ。僕はただ大人の世界を知りたかっただけであり、それは充分に達成されたと言って良い。


 ゆめさんとのやり取りはたしかに楽しい。だがそれは、僕の理想の女性という鋳型いがたにゆめさんの情報を流し込んで作り上げた夢に他ならない。僕の夢であるからこそゆめさんは完璧なのであって、現実に引っ張りだしたら壊れる気がしていた。


「……9時か。そろそろ行こう」


 僕はカバンを手に取ると家を出た。


     ☆☆☆


 バスに乗って行くのである。普段乗り慣れた市営のバスはところどころ錆びており、車体もさることながら運転手もまた年季が入っている。あたかもバスとともに年月を重ねたがごとくしわの入った運転手の頬もまた、過ぎたる年月を感じさせる叙情がある。


 しかし、今日の僕は心持ちが違うのだから錆びた外装すらも輝いて見えた。


 さすがは3大欲求に数えられるだけある。人は腹が減ると怒りやすくなるし、寝不足だと体調を崩す。性欲もまた日々を明るく過ごすのに必要なのであろう。


 いまの僕には世界が輝いて見えていた。


 バスがターミナルに入る。県外へも繋がる大きな駅。そこがゆめさんとの待ち合わせ場所だった。


 昨日のデートの練習のおかげか僕は自信が満ちているのを感じていた。来栖を一人の女性として扱おうという僕の試みは成功であった。デートはカフェを出た後ショッピングに繰り出した程度であるが、来栖は終始笑顔であり話もはずんでいた。(少なくとも、記憶の上ではそういう事にしておいてあげようではないか)緊張しすぎという厳しい評価を彼女は下したけれど、僕の自己採点では100点満点である。


 ゆめさんはきっと言うであろう。「ケンジさんってなんて頼りになる人なんでしょう。あなたみたいな人が彼氏だったらと何度も夢に見ていました」と。


 そして僕は言うのである。


「それなら、現実にしてしまいましょう。今日からは僕があなたの恋人です」


 完璧ではないか。


 …………いやいやいや! ダメじゃないか! 僕は今日を最後にゆめさんと別れると決めたじゃないか。ええい性欲よ、邪魔をするな!


 バスを降りる。薄暗いターミナルを抜けて地上へ出ると痛いほどの晴れであった。8月を目前にして夏真っ盛りのような強い日差し。僕は思わずうげっと鳴いて顔を手で覆った。約束の時間まではまだ20分ほどある。


 この猛暑の中待ち続けるとせっかく固めたワックスが汗と混じって最悪な化学反応を起こすのではないかと思われる。どこか休める場所を探そう……と細めた目で辺りを見回していた時だった。


「八重山……?」と涼しげな声が聞こえた。あたかも風鈴の音がごとく澄んだその声音は、この声は……


 僕は恐る恐る振り返った。そこには凍り付いた刀身がごとき乙女、氷月凜がいた。


「こんな所で何してるのかしら? なんだかオシャレをしているようだけど、いっちょ前にデートにでも行こうというの?」


「げ………」


「げ、とは何よ。お会いできて光栄です氷月様、でしょ?」


 一番見つかりたくないヤツに見つかってしまった。この間の一件以来、彼女といるといたたまれないような居心地の悪さを感じるようになってしまった。


 もしゆめさんと待ち合わせしている事がバレたら面倒くさい。僕は駅の構内に引き返しつつ彼女を撒こうとぐるぐる歩き始めた。


「……君こそ、えらく綺麗な恰好をしているようだけど?」


「えへへ、でしょー? じゃ、なくて! この私の可愛さをようやく認めたようね!」


「いや、それは随分前から認めているけど」


「きゃうっ なんなのコイツ……その気が無いのに褒めまくって何が目的よ……」


「あー? まったく意味が分からんが」


 氷月さんもまたオシャレな恰好をしていた。水色のワンピースを着たシンプルで夏らしい恰好であるが、雪のように白い手足をさらに美しく見せるのに申し分ない働きをしていた。いつもはブラウスで締まっている胸元もゆったりと解放されており、彼女の着こなしが完璧であるためか、気を抜いたら視線が吸い込まれそうな谷間であった。


 僕のようなオシャレ初心者は服に着られるのがほとんどであるが、彼女は見事に服を着ていた。変に大人ぶることなく着飾らないからこそオシャレ。大人のオシャレであった。この年上好きの僕が篭絡ろうらくされかけるほど氷月さんは可愛かった。


 このまま彼女といたらゆめさんに誤解されてしまう。しかし、この格好を見るに彼女もまた誰かとデートなのだろう。とすれば変に動かない方が得策なのではないだろうか?


 待ち合わせの時間が来れば勝手にどこかへ行くだろう。そう考えて僕は入り口近くのカフェに入った。しかし、氷月さんも付いてきた。


「なんだよ。僕は人を待っているんだ。付いてくるんじゃない」


「私だって人を待ってるのよ。年上の優しくてかっこいい人」


「なんだその小学生女子の理想みたいな漠然としたキャラクターは」


 僕が選んだ席の向かい側に座ると氷月さんは当然のように2人分のコーヒーを注文した。


「……で、誰を待っているのよ」氷月さんは興味津々な様子で身を乗り出した。


「別に誰だって良いだろう。氷月さん以外の誰かだ」


「ふぅん、じゃ、私も八重山以外の誰かを待っているわ」


「同じ言葉を返すんじゃない」


 …………しかし、いくら待っても氷月さんが動く様子は無かった。もうすぐ約束の10時である。僕はれてスマホの時計を見た。氷月さんがここにいる事も問題だがゆめさんが現れない事も問題であった。実は待ち合わせ時間を間違えていないかとアプリを開いたりもした。しかし、約束は確かに今日の10時。スマホのカレンダーと何度も見比べたから間違ってはいない。


「遅いな……」と僕が呟くと、それを聞いてまた氷月さんが身を乗り出してきた。


「待ってる人が来ないの?」


「うん」


「ふぅん……ね、待ってるのってどんな人? どこで待ち合わせ?」


「どんな人って……僕より年上の女性さ。読書と映画が好きで、大人なようで子供っぽい一面がある良い人だよ」


「説明の仕方はちょっと気持ち悪いけど、でも、そんな人が待ち合わせに来ないなんてかわいそうね。場所は?」


 僕は駅の入り口を指さして言った。「そこ」


「……へぇ、そうなの」


 と、氷月さんはちょっと俯いて「同じ時間に同じ場所で待ち合わせなんて、変なの」と口の中で言ったようだった。


「いま、なんて?」


「いいから! ね、相手にメッセージを送ってみたら?」


「なんでそんな事を?」


「もしかしたら手が離せない用事で遅れてるだけかもしれないじゃない。私は着きました。あなたは今どこにいますか? って、聞いてみてよ。できれば今飲んでるコーヒーの名前も添えて」


「なんでそんな事を……」


 僕はゆめさんを疑うような事をしたくなかったが、時刻は10時を過ぎた。約束の時間を少しオーバーしている。初めてのデートで、しかもゆめさんの方から誘って来たことだというのに、遅刻して何のメッセージも無いというのは大人の対応では無いだろう。僕は致し方なく氷月さんの言うとおりにした。


「いま着きました。ペリドットというカフェにいます。ゆめさんは今どこにいますか? エスプレッソを飲みながら待っています……。送信。なあ、君が積極的にアドバイスをするなんて変じゃないか? 何か裏があるようにしか思えないんだが……」


 ところが氷月さんは僕の話を聞いていなかった。スマホを見つめて「やっぱりか」と呟いたようである。その表情は驚愕と羞恥心の入り混じったような表情だった。


「……残念だけど、八重山の待っている人は永遠に現れないわよ」


「おい待て、なんでそう決めつける。まだ返信も来ていないのに」そう言った僕の手の中でスマホがブブーと振動した。ゆめさんからの返信である。


「今、返信が来たでしょ。内容を読み上げてみて」


 ジッと僕を見つめて真剣な様子で氷月さんが言う。


 たしかに今ゆめさんからのメッセージが来たが、なぜ彼女にそれが分かったのか?


 僕はいぶかしがりながらもメッセージを読み上げた。


「私はもう着いています。ペリドットというカフェで、あなたと同じ席に座ってエスプレッソを飲んでいます……ケンジさん、改め、やえやまけんと……はぁ!? なぜ僕の名前をゆめさんが知っている!? しかもエスプレッソを飲んでいるって!?」


 僕は心臓を掴まれたような心地だった。いままでゆめさんだと思って接してきた相手は、年上の女性だと信じていた相手は……


 氷月凜はため息交じりに口を開いた。


「初めまして。と、言うべきなのかしらね。私が『ゆめ』です。『ケンジさん』」


「う、嘘だ!」


 氷月凛はたしかにそう言った。ゆめと名乗り僕をケンジと呼んだ。ケンジというのは僕がアプリで使っている名前であった。しかし、それは本当なのか? 僕にはどうにも認めがたかった。いな、認めたくなかった。


「嘘だ! 君が、君が『ゆめさん』なのか!?」


 しかし僕が叫ぶと、氷月さんは証拠としてスマホの画面を見せた。同じアプリ、同じメッセージ画面、そして、ゆめという名前。


 認めないわけにはいかなかった。


 氷月凜こそが『ゆめさん』であった。

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