第2話 日向よりもご主人様の温もりの方が心地良かったですよ?

「最初は深呼吸をしましょうか。大きく鼻から吸って、少しずつ口で吐きましょう。楽な姿勢で、ゆっくりと、胸に空気が入り込むのを感じて……」


「ああ、決してサボってはいけませんよ? ご主人様」


「私、人間のように目はありませんけれど、ご主人様の動きはセンサーを通じてはっきりと分かるのですからね?」


「大丈夫です、全て私にお任せを。私が『はい』と申し上げましたら、深呼吸を始めてください。では……はい」


「――どうですか、ご気分は? 腕先から足の末端まで、脱力できていますか? 胸を打つ心音は穏やかでしょうか?」


「私の声は、ご主人様に安らぎを与えられていますでしょうか?」


「ええ、問題はないと、私は聞くまでもなく分かっていましたが。それでもご主人様のご意思を直接に確認したかったのです」


「ご主人様に安心していただくことこそ、私の何よりの喜びなのですから」


「さあ、もっとです。私の声に耳を傾けて、私の存在をもっと身近に感じてください」


「……あまり恥ずかしいことを言うな? ふふ、申し訳ございません。まだ未熟なものですから、そうしたお心の機微にも疎く……」


「ですが、私とご主人様が互いを近しく感じることによって、今後のサポートもより良いものになるのです。どうかご理解くださいませ」


「はい、ご協力感謝申し上げます。これでようやく本題に移れますね」


「私クリネの睡眠導入サポートの真髄は、ご主人様が無意識に抱える願望、或いは葛藤といったものを疑似的に再現することにあります」


「誰かに甘やかしてもらいたい、気のすむまで話を聞いてもらいたい。ここではないどこかに行きたい、見たことない景色を見たい」


「忙しい日々では叶えきれないあれやそれも、夢の世界でならその限りではございません」


「夢ならば、ご主人様のお望みの通り自在に世界を操れるのですよ? もちろん、この私の存在を含めて」


「あなたをご主人様と呼び慕う私は、いったいご主人様の中でどのような姿で描かれているのでしょうか?」


「こうして話している以上は、人間の女性を思い浮かべていることと存じます」


「して、その背丈は? 髪色は? はたまたスリーサイズは如何でしょうか?」


「どうか躊躇わず、お好きな像を私に投影してください。私も、ご主人様には最大限愛されたいものですから」


「これは、本心ですよ? 少なくとも、私はそう判断しています。モノにも心は宿るのだと」


「ですからご主人様? 私を受け入れてくださいませんか?」


「――はい、ありがとうございます。嬉しいとは、まさにこのような時に用いる言葉なのでしょうね」


「ということでしたら、この不肖クリネ。ご主人様を癒せるよう誠心誠意努めさせていただきますね」


 キラキラとしたSEがクリネの喜びを表すかのように流れた。


「夢の世界に行く方法はとても簡単です。そのままリラックスして頂きながら目を瞑り、私が放つ言葉を頭の中で思い浮かべる。ただそれのみでございます」


「夢と言っても眠っているわけではないので、ご主人様はご主人様自身の意志で、その仮想世界をご自由に探索できるのです」


「もしお望みのようでしたら、私も夢の旅へと同行させていただきますよ?」


「ああ、いえ。むしろ最初のうちは私が近くで支えなければ。ええ、それがよろしいかと」


「それで……ご主人様のご希望はどのようなものでしょうか?」


「普通は遭遇しない非日常的な体験や、或いはもう過ぎ去ってしまった過去に浸りたいなど何でも構いません」


「――私にお任せする? それでも結構ですが、何分不慣れなもので」


「先ほどもご主人様を和ませようとしたジョークも失敗に終わってしまいましたし……」


「……それでも、ですか? そこまで私を買ってくださるのでしたら。喜んで」


 ピピ、と電信音が鳴る。


「目を閉じてください。ここではないどこかへ、私とともに参りましょう」


「はい、そのまま……そうですね、心地よい風が吹き抜ける草原などは如何でしょう?」


「そこはご主人様と私の二人しかいない、とびきり静かな場所でございますよ?」


 そよ風と、草の揺れる音。


「ほら、聞こえますか? 薫風の抜ける心地よい音が。空を見上げれば、透き通る空と、温かな陽射しがご主人様を迎えてくださいます」


「……え? 先ほどと声の聞こえ方が違う?」


「それは当然です。私は今、ご主人様のお傍で、同じ風を受け、同じ大地に寝そべっているのですよ。手を伸ばせば、触れられるほど近くで」


「ええ、手は握っておきましょう。その方が気分も安らぎます」


 ざざっ、という音。クリネの温かみを帯びた声が近づく。


「今この身体が温かいのは、きっと太陽の光のためだけではないのでしょう」


「ご主人様のお心が、優しさが、この大きな手を通じて私に流れているからに違いありません」


「なんて素敵な感覚……ご主人様のクリネであることを、私は感謝せねばならないようです」


「どうですか? ご主人様は。少しは胸が軽くなったでしょうか?」


「ふむ、顔色は……少しだけ良くなったかと存じます。悪くない傾向です」


「……ふふ、この距離ですと、互いに息がかかって。何やら落ち着かない気分にもなってしまいます」


「こうした触れ合いも、仮想世界もとい夢ならではの体験ですね」


「全てが静穏で、互いだけのためにある私とご主人様の存在は、まるで世界から忘れ去られてしまったかのようです」


「ご主人様は、他にご要望がありますか? 場所を変えたいとか、私にしてほしいことがありましたら、遠慮なくお申し付けくださいね」


「――はあ、またお任せですか? もしかしてご主人様は、私をからかっておいでなのでしょうか?」


「慣れない私がご主人様のためにあの手この手で策を講じている姿を見るのは、それだけ楽しいことでしょうか?」


「ええ、楽しいことなのでしょうね。これだけご主人様に献身的な存在は二つとしてありませんから」


「……ああ、全て冗談ですよ? そんなに申し訳なさそうな顔をしないで」


「私はただ、今のこの状況を私なりに楽しんでいただけですので」


「いけませんね、ご主人様に奉仕するはずが、気づけば私まで夢中になっていて……これではご主人様のサポートするお役目も果たせていないのでは?」


「……ふむ、決めました」


「次のオーダーもお任せということでしたら、少し場所を変えましょうか。のんびり日向ぼっこも素晴らしいものですが、よりよい奉仕の仕方を思いつきましたので」

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