かれの物語

青空の下で男が泣いていた。目を真っ赤に腫らし、鼻水を垂らし、ヌルヌルに濡れた顔を拭うこともなくしゃくりあげて泣いていた。

泣いてしまうほどの訳があった。


男は異世界転生を果たしたばかりだった。

名前は異世いぜふとし。

社員数数十名の小さな会社で契約社員としてシステム担当を務めていた。

PCの知識に乏しい古参社員からすればふとしは仕事内容がよく分からない割に技術手当(月1万円)を割り当てられている小生意気な存在だった。大柄な割に口下手なふとしは不気味なデブとして蔑まれていた。セキュリティ対策への投資の必要性を何度上申しても理解を得られることはなく、毎日のように古臭いPCとサーバーの機嫌をとり、社内の共有PCのOSアップデートがかかるたびに対応に追われるひとりぼっちのSEだった。

ぼちぼち契約更新の時期が近づいてきていた。雇用の打ち切りをそれとなくほのめかされるようになり、将来への不安が日に日に増していたそんなある日、ふとしはトラックに撥ねられて死んだ。一瞬だった。自身の巨体が跳ね飛ばされた瞬間の衝撃は感じていたが、そこから先は痛みさえ何も分からなかった。


それで終わりのはずだった。

しかし、ふとしの目は再び開かれた。

目の前には古びた大鏡がある。

でっぷりと太った紛れもない自身の姿が映されている。

周囲は見渡す限り何もない、暗闇だ。自分が何をすべきか分からずとりあえず恐る恐る鏡に近寄ってみる。不思議なことに近付けば近付くほど鏡に映った自分の姿は薄くなり、鏡面に指先が触れる頃にはなにも見えなくなってしまった。


「不敬者」


澄み渡った冷たい湧水のような声が大きく響いた。

驚いたふとしは飛び上がりそのまま尻餅をついた。

豊満な臀部の贅肉が全ての衝撃を受け止めノーダメージ。


「世界からこぼれた哀れな子よ、わたくしの美しさに見惚れるまでは許しましょう。しかしその手は私に触れるのではなく祈りを捧げるためにあるのですよ」

「あ……すいません」


来た来た、異世界転生を司る女神。

ふとしは内心嬉しくなってきた。これは前の世界で流行っていた異世界無双ハーレム系作品の序章そのものではないか。

鏡には相変わらずなにも映っていないので女神の姿に見惚れるわけがないのだが、ここは口を慎む。


「異世ふとし。あなたは自分自身が生まれた世界で死を迎えました。本来その魂は世界の根源へと還りゆく定めですが、私はあなたに再びの生と祝福を与えます。その福音を語り継ぎ、新たなる世界をお導きなさい」

「よっしゃーー!!チェンジ・マイ・ライフ!!」

「囀るのはおやめなさい。あなたが命を落とした元の世界では多くの人に影響を及ぼしたのですよ」

「え、ほんとですか?誰が俺のために悲しんでくれたんだろう」

「わたくしに大きく聞こえるほど嘆いていたのは、あなたの上司の田所さんです。あなたが出勤中に事故に遭ったために労災の手続きをしなければならず、派遣会社との調整が難航して残業が増えた……と、深い悲しみに包まれていました」

「あ……そっすか」


疎遠だったので仕方ないが肉親の悲しみよりも上司の愚痴が勝ってしまったのが物悲しい。いや、もしかしたら死んだことすら知らずにいるのかもしれない。


「さて、これ以上あなたと話をしていても時間の無駄です。一刻も早く新しい世界でこの女神が起こした奇跡について語り信仰を広げるのです。まずは新世界で使う言葉と文字への理解を授けます。その次にあなたが私に祈りを捧げることで、その信仰にふさわしき能力を授けましょう。」

「お祈りですか……俺そういう宗教?とかちょっと分かんないんだよな……転職先探しでは死ぬほど祈られてたけど」


とりあえず90年代アニメで見たそれっぽいシーンを思い出しながら手を組み、まつ毛がバシバシの美少女になりきって目を閉じる。


「もっと仰いで。尊んで。私が達するぐらいに敬虔な祈りを捧げて」

「えっ?最後なんて言いました?」

「早く膝もついて。グズグズしないで」


なんかこの女神、物言いキツいな……思ってたのと違う……そんな不満をブツブツと呟きながらふとしは片膝をつき、不慣れな仕草で再度祈るポーズをしてみる。

ピロロ。唐突に間抜けな電子音が暗闇の中に響いた。鏡は一面真っ青な色に染まり、びっしりと象形文字が配列されている。

それはこれまで使ってきた言語とは全く異なるものではあったが、なるほど女神の言う通り異世界での言語能力はすでに備わっているようで、そこに書かれたコードの内容が直感的に理解できる。そしてふとしはこの現象には嫌というほど見覚えがあった。


「女神様?あの……いま使ってるシステム、エラー起こってないですか?」

「……起こっていませんよ」

「いや、絶対なんか起こってますよね?もしかして女神様の姿が全然見えないのもエラーだったりします?とりあえずヤバそうなんでいったん止めてもらっていいですか」

「ふとし殿、それは出来ません。もしも停止した瞬間に巻き戻りが発生すればふとし殿の魂は引き裂かれ爆散して影形も残らぬことに」

「なんでそんな事になってんの!?バックアップは!?」

「魂の複製など許されません。ふとし殿、申し訳ありませんがこのまま異世界への転送を進めさせて頂きますよ」

「えっ……いや……チート能力の付与は……女神の祝福スキルは……!?」


返事を貰うことはできず、突如全身が落下する感覚に襲われる。ふとしは恐怖で叫びだしそうになったが、落ち続ける状態にあっては喉は絞りきったように縮み上がり悲鳴を上げることすらままならなかった。


≪ああ、またしても失敗とは。このままでは私への信仰が枯れてしまう……≫


闇の中で切なげなため息を漏らす女神の声が聞こえ、それが最後となった。


あたたかい風が頬を撫でた。

再び目を開く。

真っ直ぐに伸びる青草がどこまでも広がる野原のど真ん中にふとしは転がっていた。落下していく感覚は今も四肢に残っているが、地面に激突した様子はない。あれが世界を跨ぐ感覚ということなのか。

本当に異世界に来てしまった。チート能力も最強スキルもなにも貰えずに。


「ふぐっ、ヒック、なんで俺だけぇ……」


青空の下でふとしは泣いた。

いつかなにかいい事が起きるのではないかと信じてきた。なにも異世界転生だけにこだわるつもりはなかった、ほんのささやかな望みがあればよかったのに。

ふとしは泣き続けた。これまでの人生と同様、慰めてくれる人など誰もいなかった。


突如、獣の咆哮が響く。

風が草を揺らす平原をビリビリと震わせるような恐ろしい声が上がる。

ぐしょぐしょの顔をぬぐってあたりを見渡すと、小型飛行機ほどの大きさの赤茶色の鳥が羽を広げ、半狂乱の様相で地面を這いまわっている。その周辺は土埃と吹き飛ぶ草と舞い上がる羽根で小さな嵐が起こっているようだった。

鳥の首筋になにかがしがみ付いていた。鳥の羽色とは際立って目立つ緑色をしているなにか。それは暴れまわる怪鳥の首筋をつたい、尖った石を括りつけた手斧らしきものを振り上げ、頭蓋に向けて容赦なく叩きつけた。そのまま何度も何度も打ち下ろす。狩猟の昂りを抑えられないのか、理解のできない叫び声をあげている。

うん。あれはどうみてもゴブリンだ。全体的に緑がかった小さな躰を縄で編んだ衣服が包んでいる。

ふとしがこれまで触れてきた作品の中でゴブリンは常に邪悪な存在だった。暴れ奪い犯す。中には物語の都合のためにその邪悪性を強調されているようなものもあり、見た目のせいでそういった役回りを押し付けられる存在、という点にふとしはうっすらとしたシンパシーを抱いていた。ハリーポッターのゴブリンは真面目で仕事熱心なゴブリンだったし、水木しげるが描いたゴブリンはちっちゃなかわいい毛むくじゃらで、素敵なお城を作ってみせた。だから、そう、向こうで怪鳥をぶっ殺しているゴブリンだって、もしかしたら悪い奴じゃないかもしれない……。

怪鳥の断末魔が長々と響いた瞬間、ふとしはそれまで自分の希望的観測がスッと薙いでいくのを感じた。あ、やっぱ無理、ゴブリン怖い。

しかしあたりを見渡しても遮蔽物になるようなものは見当たらない。走って逃げれば目立つかもしれない。とりあえず平原のど真ん中でふとしはできる限り体を縮こまらせ、青臭い草の波になんとかして身を隠そうとするが、当然その巨躯が隠れるわけもない。

息絶えた怪鳥の内臓を引き摺り出して食肉にするための下処理を行なっていた若きゴブリンは視界の端でぷるぷると震えるふとしを見つけた。

突然見慣れない生物が現れたことにゴブリンは瞬時に警戒体制に入るが、ふとしにまるで殺意がないことを感じ取るとそのまま放置して鳥の解体作業を進めた。

血抜きを手際よく進めるゴブリンの名はカシゴブという。


異世界転生者の出現は散発的に起き、ほぼ全員が着の身着のままの丸腰で現れていた。大抵の者は広大な平原のどこかか、もしくは巨大な岩肌が覆う山脈に忽然と出現し、丸腰のため当然野外を生き抜く術を持っておらず、ほとんどが肉食の獣に食われるか、飢えるか、病気になるかにして骨を晒す有様だった。

中にはふとしのようにたまたま現地ゴブリンと遭遇する運のいい者もいたが、お互いに見慣れない生物と出会ってすぐコミュニケーションを取るのは至難の業であった。

カシゴブは自分がもしも異世界転生者に遭遇する事があればまず話をしたいと考えていた。敵意の有無は個体差が激しいが少なくとも丸腰の転生者に危険を及ばされる事は考え難く、ゴブリン村生まれゴブリン村育ちの自分にとっては面白い話が聞けるかもしれないという期待があった。

ぷるぷる震えたままのふとしに近付いてみる。襲われるような間合いには入らず、あくまで距離を取ったままで様子を伺う。飛びかかってくるような危険性はないと見え、カシゴブが先ほど鳥の頭蓋から掻き出した脳片をふとしに放り投げてやる。


「オマエ、腹減ッテナイカ」


見るも恐ろしげな小鬼から理解できる言葉が発せらた事にふとしは驚き顔を上げた。そういえば言葉も理解できるようにしてくれると女神から聞いていた。傍の脳からは獣臭と血の匂いとなぜか煮物のような匂いが発せられており、吐き気を覚えたがなんとか堪える。


「エモノ、アタマノ中1番ウマイゾ。元気デル」

「すみません……鳥インフルエンザとか怖いんで……でもありがとうございます……」


これがカシゴブとふとしの出会いであった。


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