花摘 香

『』

 タン、タタン、タン――。

 黒板がチョークを弾く音が、心地いい。源氏物語の一節を板書する音だ。古典を担当する加藤先生の低く、鼓膜を振動させる声が、生徒たちの眠気を加速させる。窓際の最後尾。相沢律華は、その席から教室全体を見渡す。寝ている生徒もいれば、机の下でコソコソとスマホをいじっている生徒もいる。しかし、周囲の生徒と話したりして騒音を立てる生徒は一人としていない。四限の体育が水泳だったからだろうか、いつにも増して教室全体がどんよりと、微睡んでいるように思える。

 カーテンの隙間から差し込む、これでもかと言わんばかりの陽光が一筋の光となり一人の女性を照らしあげる。太陽だって照らす人間は選ぶんだな、なんて卑屈なことを考えているうちは、私は日陰の中なのだろう。艶のある髪に長い睫毛、キャラメルのような茶色い瞳、背筋の良い後ろ姿。それら全部が、陽射しを受けてキラキラと輝いて見える。

 (ああ、様になるなあ。)

 小柳遥香、彼女のことはよく知っている。よく知っているのは、何も私だけではない。この高校に通う生徒なら、誰もが一度は耳にしたことがある名前、だと思う。そのタイミングはさまざまであるが、有名どころで言ったら新入生代表挨拶だとか、期末テストの張り紙だとかだろうか。……いや、違うか。

 小柳遥香、彼女はよく知られている。知ってるのは、何もこの高校の生徒だけではない。ピアノに関わっている人なら、或いは音楽に精通する人なら知っていて当たり前だろう。

 国内屈指のピアノコンクール、そのジュニア部門において小柳遥香はその名を轟かせた。奏でた、という表現の方が幾らか雅だろうか。容姿端麗、品行方正、成績優秀。それだけでも素晴らしいのに、それらが霞むほどに眩しい、ひとつ。その眩しさが、何だか、私を照らす太陽をかげらしているような気にすらさせる。

 ふと、律華は視線を自身の手のひらに向ける。

 窓際の最後尾。これほどの好条件にありながら、私の指先に陽光は刺さない。数メートル離れているだけの遥香の背中が、とても遠くに感じる。私は、遥香の作り出している影のほんの一部。

 タン、タタン、タンーー。

 ああ、単調で心地がいい。眠くなってしまうほどに、淀みのない音だ。ああ、つまらない。心地がいいのに、つまらない。

 (そっか。)

 この音は、私だ。私の奏でる、とてもつまらない音。ただ、誰かの真似をして、なぞっただけの無個性そのもの。

 それに気がつくと、途端に不快になる。先程までは、背景の一部と化していたこの微睡が、「お前の音楽も、この授業のように聞くに耐えない、つまらないものだ」と、そう言っているような気がしてならない。それに恐怖すら感じる。

 コンクールだとか、発表会だとか、そういうのならそこまでの恐怖はない。聞かせる理由と、聞いてくれる人が確立されているから。だけど、この人たちに私の音楽を聴かせるのは、とても怖い。

 彼女は、遥香はどう思っているのだろう。私と同じように、不安になることがあるのだろうか。同じであって欲しい気持ちと、違っていて欲しい気持ちが、半分ずつ。自然と遥香に視線が向く。彼女は、ピアノの前に立っている時と同じくらいまっすぐな姿勢で、黒板を見つめている。私はそれが嬉しかった。

 敵わないな、とそう思った。


「律華、どうしたの。今日はやけに荒っぽい」

 放課後の音楽室で、岩崎ともりがそう言った。三つ編みおさげに、そばかすがチャーミングな律華の親友。本人は気にしているらしいので、あまり言わないようにしているのだが、目つきが少し悪いところも律華は気に入っている。ともりとの出会いは、中学に入学して間も無く、名簿が前後というだけのものだった。そういう知り合い方をすると、数週間もすれば各々が、各々の木の会う連中と過ごすようになる。そうやって離れていくのが定石とも言える。そんな定石を壊して、高校二年の夏に至るまで付き合いが続いているのは偶然ではないのだろう、と律華は考えている。

「んー、気持ちの変化って言うのかな。なんか、譜面をなぞっているだけの自分の演奏に嫌気が刺しちゃってさ」

「ふーん、私には音楽のことはわからないけど、ヤケクソってやつですか?」

「どちらかと言えば、焼け石に水かな」

「ロウリュだね」

 焼け石に水と聞いてすぐにロウリュに持っていく、この適当さこそが、ともりの魅力の一つである。

「ロウリュって言うには、ちょっと不健康な悩みなんだよ」

 律華は、できるだけ重たく受け取られないように、少しだけ陽気にして見せる。

「まあまあ、話してみなよ、聞いてあげるからさ。ほら、汗と一緒で流してみたらそれこそ健康になるかもしれないしさ」

「うーん……」

 律華は慣れない悩み相談に、少しだけ気恥ずかしい気持ちになり、自然にピアノに手を伸ばす。先ほどまでの荒々しい演奏とは打って変わって、少しだけ気の抜けたような『雨だれのプレリュード』を弾く。この曲は律華の幼少期からのお気に入りで、何も考えずに、無意識で鍵盤を叩ける数少ない曲のうちの一つである。弾き始めてから数分、ようやく律華の口が開いた。

「私のクラスに小柳遥香って、いるでしょ?なんて言うかさ、まあ簡単に言えば、嫉妬してるの」

 ともりは何も言わずに、目を閉じている。真面目に聞いているのか、演奏に耳を傾けているのか、もしかしたら寝ているだけかもしれない。

「律華は、ショパンコンテストを期待されているような人に喧嘩が売れるすごいやつだよ」

 ……起きてるじゃん。

「ほら、私って二歳の時からピアノに触れてるじゃない?ともりと出会ったのは中学の時だけど、そんなような話はしたことあったでしょ」

「そういえば言ってたかもね」

「うん。でね、これは言ってなかった話なんだけど。遥香にピアノのノウハウを教えたのは私なんだ」

 そう、私なのだ。小学二年の当時、楽器屋の娘だったこともあり、幼少期からピアノに触れていた私は、私を取り巻く世界の主人公だったのだ。憐れにもそう思い込み、自信満々に同じ町内に住んでいた遥香をピアノの世界に引き摺り込み、瞬く間に追い抜かされていった女こそが、私なのだ。全く、よくある話だ。別に悲劇的でもない、単に私が惨めな話。

 中学に上がる頃には、遥香は何処かへ引っ越していて、それ以降、言葉を交わすことはなかった。毎年、年賀状だけは律儀に送り合う。ただ、それだけの関係。高校に入って、同じ高校に遥香がいるのはすぐに分かった。新入生代表挨拶として、およそ三年ぶりに見たその姿を、私はもう直視できなかった。なんて言うんだろう。運動会のかけっこで、ごぼう抜きを食らった選手と同じ気持ちだ。周囲の歓声だとか、圧倒的な速さだとか、自分の惨めさだとか。そういったものに蝕まれて、「ああ、もう駄目だ」ってなってしまう、あれ。

「へえ、それは初耳かも」

 ともりは、閉じていた双眸をぱちくりと瞬いてみせる。律華は演奏を止め、椅子に体重を乗せながら大きなため息をした。吐いたため息の中に自分の魂が紛れ込んでいる気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

「だからさ、まあ。嫉妬なんだよ。努力だけでは超えられない領域で、済ました顔をして渡り合っている遥香を見るとね、ギュッと胸を締め付けられるような感覚になるんだ」

 私はまだ言語化できていない感情を、ゆっくりと言葉にしていく。ともりは無言で、私のモヤモヤに耳を澄ませる。私たちは気心の知れた仲ではあるが、相談自体はあまりしない。それでも偶に、こうして互いの抱えている毒を吐くこともある。

 吐くだけ吐いて、吸わないのがお約束。


「そういえば律華、あんた今度の文化祭でピアノ演奏するんでし――」

「あーあー、聞きたくなーい」

 耳を塞ぎながらともりの言葉を遮る。

「うわぁ、嫌そ」

 実際、律華はそれが原因で色々と悩む羽目になっていた。しかしそんなことは気にも止めず、依然として耳から手を離さない律華の前に立ち、ともりはもう一度言う。

「で、演奏するんでしょ?」

「……なんでともりがそれを知ってるんだよぉ」

「なんでって、しおりに普通に載ってたじゃん」

「うう……」

 ともりの言う『しおり』は文化祭のタイムテーブルのことだろう。

「そもそも何で律華が演奏する流れになってるのさ、そんなにうな垂れるくらいなんだから律華から言い出した話じゃないんでしょ?」

「山本先生にお願いされて、それで断れなくってさ……」

 山本先生とは、律華の通う県立葉桜高校で働く女性の養護教諭だ。白髪混じりのボブで、少しだけふっくらとした体型をしている。性格はとても穏やかで、話す時に少しだけ語尾が間延びするのが可愛らしい。律華は、一年の時に掃除場所が同じになって以来、山本先生を慕っている。

「山本先生って、律華が言ってた、お花に詳しい人?」

 お花に詳しい人、という認識は間違っていない。彼女に聞けば、大抵の花は即答で教えてくれる。裏庭にある花壇には、山本先生の育てた花が四季折々に咲いている。今は確か、青紫色の桔梗が咲いていたはずだ。

「先生はお花の博士なんだよ」

 律華は得意げに言ってみせる。

「へえ、そりゃすごい。それで、その山本先生が文化祭に出てくれって?」

「うん、そうなんだ。出演者が少ないんだって」

 ともりはまだ納得のいっていないと言った様子だ。

「山本先生はね、私の音楽をペチュニアって表現するんだ」

「ペチュニア?」

「お花の名前だよ、ピンクや赤、それに白色のもあるかな。とっても綺麗なの」

 ペチュニアは春頃に花を咲かせたかと思えば、夏の暑さに耐え忍び、秋に至るまで咲き続けるとても頑丈な花だ。花色は様々であり、八重咲きをすることもある。

「そうなんだ、見てみたいかも」

「三月頃にはホームセンターに並んでるよ」

「それで、ペチュニアの花言葉はなんなの?」

 ともりはそれが花だと分かれば、律華の言いたいことを察したらしい。

「『心の安らぎ』なんだって」

「へえ」

「そう思ってくれる人のお願いなんだと思ったら、なんだか断れなくてね。それに、うな垂れるばかりじゃないんだよ。演奏家として、人前でピアノを弾くことはとっても大切なことなの」

 矛盾しているのは分かっている。自分よりも上手な人がいる環境で自分が選ばれるのは気が引けるし、音楽に関心の無い人から向けられる視線も怖い。だけど私は表現者なんだ。そうありたいと心から思っている。私の住むべき場所は、聴いてくれる人の前でありたい。

「やっぱ律華はすごいやつだ」

 そう言って、ともりがクシャりと笑う。普段は見せないともりの笑顔に、何だかムズムズした感覚になる。

「私は律華の暖かい音色が大好きだよ。だからさ、山本先生と私、少なくとも二人は律華のファンが聴いてることを忘れないように」

 私も、ともりの幸せそうな笑顔が大好きだ。こうやって、ちょっと気恥ずかしいような言葉もまっすぐに伝えてくれるところも。私の演奏をいつも静かに聴いてくれるところも。全部、全部、大好きだ。

 だけど、言葉はいらないと思った。伝えたいことは、音楽で伝えよう。なんたって、私は表現者なんだから。


 七月の半ばともなれば、ジリジリとした斜陽が校舎の隅々まで茜色に染め上げるものだ。今学期の授業を全て終え、残す行事は明日の文化祭だけである。律華はここ数日間、頭の中ではずっとピアノのことを考えていた。考えたからといって、何かが変わるわけでは無いんだけど。だからって意識せずにその時を待とう、と思えるほどに私は強い人間ではない。

 前日の放課後、私は体育館のステージに置かれたピアノの前にいた。確認すべきことは全部終わっていて、特に用事があるわけではなかったが、今はこうしてピアノの前にいたい気持ちだった。私の他にも、軽音部やダンス部、演劇部なんかもいた。クラスの出し物で、劇をやるところなんかは大人数で体育館に集まり、最終確認をしていた。

 文化祭前日の、ざわざわとしたこの賑わいを、律華は好ましいと感じていた。体育館だけではない。校舎からは小道具用に使われるペンキの匂いがしたり、風船を膨らましている生徒がいたり、買い出しに出る生徒がいたり。グラウンドにだってこの賑わいは伝播している。学校全体が活気付いて、生き物のようにどよめいている。

 律華はトムソン椅子に腰をかけ、目を瞑り耳を澄ませていた。

「こんにちは。相沢さん、調子はどうですかぁ」

 しばらくそうしていると、後方から誰かが、話しかけてきた。声を聞いただけで瞬時に誰かわかる。

「んー、ぼちぼちってところです。山本先生、こんにちは」

 律華は、そう言って声のする方に体を捻る。

「ふふ、ありがとうねぇ。私のお願い、聞いてもらっちゃってぇ」

「いえ、聴いてくれる人がいるなら、私はいつだって弾きますよ!」

 精一杯の見栄を張る。あまり、弱いところは見せたくない。

「頼もしいわねぇ。そう言えば、演目はもう決まっているのかしら?」

「きらきら星変奏曲と雨垂れのプレリュードを弾こうかなって」

 律華が文化祭で演奏することが決まったのは、ほんの二週間前の出来事だった。短期間で準備できるほどの器量は律華にはないので、以前から弾き続けている、自分のお気に入りの二曲を披露することにしたのだ。

「あら、それは楽しみだわぁ。相沢さんの弾くピアノ、私大好きなのよぉ」

「へへ、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げながら、にへらと笑う。

「あ、そうだわ、忘れてた。私はあなたを呼びにきたのよぉ」

 そう言いながら、両手を合わせてニコリと笑う。それとは裏腹に、律華は嫌な予感がしていた。放課後に呼び出される時は、大抵ろくでもない。

「何か用事ですか?」

「いいえ、私は特に用は無いわぁ。戸部先生が、クラスの方で人手が足りないって言ってたのぉ」

 戸部先生とは、律華のクラスの担任を務める男性教師だ。それ以上に語るべきことは特に無い。

「あー、なるほど。わかりました、すぐ行きます」

 律華は椅子からノロノロと立ち上がり、ステージの隅にある四段くらいの階段を降りた。

 体育館にはパッと数えられないほどの人が蠢いていた。くるりと身を翻し、まだピアノの傍に立っている山本先生の方を向く。

「それじゃ、先生。また明日!」

 山本先生は、暖かく微笑んで「ええ、また明」と手を振った。それを見納めとして、律華は体育館を後にした。


 律華のクラスである二年三組は、文化祭の出し物としてお化け屋敷をやる。二ヶ月ほど前から、ゆっくりではあるが準備をしてきた、と思っていたのだが。教室はまだ、お化けが出そうな見た目をしてはいなかった。

 別に、誰の責任だとかって話じゃない。私だって少し手伝うくらいだったんだし。それに、テストだってあったんだ。

 この高校は、言わずと知れた自称進学校だ。定期テストにはそれなりの勉強が強いられる。以前、戸部先生が言っていたが、「自称進学校っていうより、自称進学生が多いんだよ、この高校は」との事だ。これには大いに賛成だ。しかしそんなことは、今はどうでもいい。

「先生、山本先生に呼ばれて来ましたよー。何やればいいんですか?」

 戸部先生は、教室の隅で骸骨っぽい何かを設置していた。他にも数人、クラスメートが残っていた。人手不足って言うのは本当だろう。この人数じゃ、とても間に合いそうにない。

「おー?……おお、相沢か!良かった、来てくれて。いや、悪いな。お前も忙しいだろうに」

 そう言われると弱い。ただ椅子に座ってぼーっとしてたなんて、口が裂けても、だ。

「気にしないでよ、先生。それで、何か私にも出来そうなことある?」

「教室の方は残ってる男子たちで何とかするから、相沢にはお使いを頼まれて欲しい」

 そう言われて周囲を見渡すと、粗方の小道具や暗幕なんかは結構揃っていて、配置すればそれなりに形になりそうではある。

「何買って来ればいいの?」

「ああ、ガムテープと単三電池を適当に」

「はーい。じゃあ行ってきます」

 そう言って教室から出ようとして、戸部先生に呼び止められた。

「待て待て、ほらお金!忘れてる」

 言われてみれば、お金が無いや。律華はトテトテと、先生のところまで戻り、先生の財布からでてきたきっとポケットマネーであろう二千円を受け取った。

「あー、あと相沢。小柳と一緒に行ってこい、あいつも手が空いてるっぽいから」

 ドキリとする。まさかこのタイミングで遥香の名前が出るとは……。いつもなら、「私一人でも問題ない」と淀みなく言えるのだが、こと今日に関してはそうはいかない。数秒の沈黙が生まれてしまった時には、既に決着していたのだろう。きっと醜い嫉妬の行先が、これだ。

 一泊遅れて一人で行くと伝えようとした時、後方から懐かしい声が聞こえた。

「何か言いましたか?戸部先生」

 自分の名前が会話に出たのなら、それがどんな会話であれ気がついてしまうのだから、人間は繊細な生き物というのも頷ける。

「おー、小柳。すまんが相沢と一緒に買い出しへ行ってきてくれ」

「わかりました。じゃ、行こ。りっちゃん」

 思えば遥香にこうして「りっちゃん」と呼ばれるのは、小学生以来だ。まあ、確かに昔はそう呼んでいたのに、いまさら他人行儀な物言いをするのも憚られるか。それにしたって、ここまで平然と話しかけられると、肩透かしを食らった気分だ。と言うより、気にしているのは私だけで、遥香の方はただの昔馴染みとの会話くらいにしか捉えていないのかも知れない。ただ、同じ高校に通うだけの、雲の上の存在。そう再認識せざるを得ない。

「あー、うん。じゃ、行こっか」

 会話の歩調を合わせたわけではない。単に、こちらも平静を装わなければと思っただけだ。

 そうでもしないと、沽券に関わる。

 

「いやー、それにしても久しぶりだね。こうして二人で会話するのも」

 律華たちの通う芝桜高校の隣は、ほとんどが田んぼ道だ。正確には、ほとんどが田んぼと言うべきなのだろうが、高校生にとって田んぼはオマケだ。そんなマス目状の道が広がる中に、ポツリと一つだけ、ショッピングモールがある。都会の人にはバカにされてしまうかも知れないが、田舎で暮らす律華たち芝桜高校の生徒たちにとってはオアシスの一角だった。

 二人は砂漠を歩いていたが、とうとう無言に耐えかねた律華が口を開いた。

「そうね。小学生ぶりかしら」

 そっけなく聞こえるかも知れないが、これは遥香のいつも通りだ。昔は、今よりも幾らか明るかったかも知れないが、それは単に成長という言葉で片付けてしまってもいいだろう。

「そだね、クラスが一緒だからって話す機会もなかったもんね」

「うん。ずっと、話したいとは思ってたんだ」

 えっ、と声が漏れた。耳を疑いすらした。予想だにしていなかった発言に、心臓が跳ねる。

「は、話すって何をさ」

 今まで、落ち着いて会話することを心がけてきたが、一瞬だけ吃ってしまった。

「りっちゃん、明日、文化祭で演奏するでしょ?」

 また跳ねる。だけど今回は、ずしりと重たくも感じる。もちろん、知らないとは思っていなかったけれど、それでも言及まではされないだろうと高を括っていた。はやる心臓を、何とか落ち着けてから喋り出す。

「仲のいい先生に頼まれちゃってね。へへ、遥香に聴いてもらうのは、ちょっと恥ずかしいんだけどね」

「どうして?私、久しぶりに聴けるりっちゃんのピアノ、とても楽しみにしてるんだよ?」

 その発言は、看過できなかった。耳の辺りが熱くなるのを感じる。そうして、堰を切ったように、口が開いた。

「やめてよ、遥香にだけはそんなこと言われたくない」

 過去の思い出というのは、たいてい事実よりも美化されていくものだ。遥香の想像している相沢律華は、どこにもいない。きっと、いたこともないのだろう。もし演奏を聴いて、「昔の方が良かった」なんて言われた日には私はもう二度と成長できなくなってしまうだろう。

「遥香はピアノが上手なんだよ、でも私は違う。遥香が楽しみにできるような演奏は、披露できない」

 自分で言ってて辟易する。これはひどく退屈な物言いだ。退屈なんてものじゃない、醜いと言われても仕方がないだろう。

「自分の才能に限界を感じても、それを口に出してはいけない。自分の努力に失礼だ」

 遥香が、静かにそう呟いた。律華には、この言葉に聞き覚えがあった。

「……それって」

 遥香は、ふふっと微笑む。

「とってもかっこいい言葉でしょ?私はこの言葉に何度も救われてきたの。本当に何度も、ね」

 言われるまで忘れていた。つくづく、過去というものは美化されるものなのだ。私の思い出の中には、突如として現れた神童「小柳遥香」がいた。だけど、そうだ。そうだった。彼女は一度、ピアノを辞めたことがある。それはまだ、私が遥香の指南役を買って出ていた頃だと思う。


 その頃の律華は、ピアノの虫だった。のめり込むようにピアノを弾き続ける毎日。器用な人間ではなかったため、それ以外のことは結構でたらめだったかもしれない。通っていた小学校では、先生たちに問題児だと思われていただろう。でも、そんなことは本当にどうでも良かった。律華はピアノが大好きで、ピアノを好きな人が大好きだった。そんな時に、遥香と仲良くなった。

 遥香は、私の演奏が大好きだった。慢心ではなく、そう思うほどには私にべったりだった。褒められて嬉しくない小学二年生など、この世界のどこを探したって存在しないだろう。私も例外ではなく、喜び、つけ上がった。そして、なんの気無しに「遥香もピアノをやれば?私が教えてあげる!」とぼやいた。

 最初の一年、遥香はそこそこ上達こそしたが、上手に演奏できるかと言えば、そうでもなかった。ある時、遥香はピアノのレッスンに顔を出さなくなった。私はピアノの虫だった。ピアノが大好きで、ピアノを好きな人が大好きなのだ。その分、ピアノを辞めてしまう人には、幼いながらも複雑な感情を抱いていた、気がする。だからだろうか。学校で、遥香に声をかけたのは。

「なんで、ピアノのレッスンにこないの?」

 そう問うと、遥香は悲しそうな目をしていた気がする。

「わたし、りっちゃんみたいに上手く弾けないから」

 私は激怒した。気がつけば、遥香に馬乗りになっていた。ピアノの虫に、高々一年歩っきりで勝てると思うな。そんな感じで叫んでいたと思う。


 その時なのかな。私は、遥香の言っていた言葉を知っていた。だけど、誰かに言った覚えはなかった。

「はは、私はどうやら、人間になってしまったようだ」

 いろんなことに手を出した。遥香に引け目を感じた時から。読書を習慣づけるようにした。女の子らしく、お菓子作りなんかも。嫌いな勉強だって、頑張った。そうやって、少しづつ、私の中での小さな輝きを増やしていった。そうやって、私は輝きを失った。

「りっちゃんの音楽はね、ひまわりみたいに温かいんだよ」

 そう言いながら、遥香は律華の手を取る。急な出来事に、少したじろぐ。

「みて、私たちの手。やっぱり、女の子らしい手、じゃないね」

 遥香はへへっと笑う。律華は視線を手に落とす。指先は丸く、爪は短い。指は程よく太くって、手の甲には筋肉がついているのがわかる。

「私たちの手は、ただの人間のそれじゃないんだよ。血の滲むような努力の賜物」

 二人の手は、本当に似ていた。

「いつまで、挫折した気になってるの?」

 胸がズキっと痛んだ。先ほどまでの、優しい声色から一変して、叱咤するような声。

「挫折って、何が」

 薄々分かっているのに、そう聞き返さずにはいられなかった。遥香は、少し驚いて、それから大きなため息を吐いた。魂は出ていない。

「りっちゃんは、高校二年の夏に至るまで、ピアノに背を向けてたわけじゃない。それでも、私はりっちゃんよりも何倍も練習してるよ」

 目に涙が溜まっていくのがわかる。けれど、絶対に流しちゃいけない気がする。

「世界って広いんだよ。私よりも、綺麗な音を奏でれる人がいる。だけどね、それは今だけ。私もいつか、絶対にそこに並ぶんだ。だって私は、私たちは……」

 その先は、何も言わなかった。言わなくても、伝わる。そう思っているのが伝わってくる。

「明日の演奏、絶対に見にきてね」

 それが、律華の答えだった。全部、音楽に乗せる。


 幾らか表情の解れた二人は、すでに陽の落ちた田んぼ道を、オアシスを目指して歩いていった。


 ステージの幕の向こう側から、ざわざわと人の声が聞こえる。幕の隅っこをペロッとめくり、体育館の様子を見る。均整の取れたパイプ椅子は、半分ほどが人間を乗せている。二百人ほどだろうか。それを見るや否や、下顎が震えるのがわかる。想像以上に、聴衆がいる。

「相沢さーん。準備してくださーい」

 係の生徒が、呼びかけをする。

「は、はーい!」

 律華は舞台袖で小さく十字架を切る。宗教的な意味合いはない。ただのおまじないだ。

 やがて幕が開く。司会の生徒が、私の紹介をする。私は両足に力を込めて、ステージ中央のピアノを目指す。私がピアノに近づくのに反比例して、体育館は静寂に包まれる。

 内臓が全部、ひっくり返ってしまいそうなほど苦しい。演奏中、譜面が飛びそうだ。

 何度か人前で演奏する機会はあったが、この感覚にはいつまでも慣れる気がしない。私は、ゆっくりとピアノの前に立つと、深々とお辞儀をする。この日のために、新調した水色のドレス。かわいいけれど、恥ずかしい。そんなことに気を取られながら、身体を起こす。そうして体育館全体を見渡す。

 何人か、見知った顔もあった。その中には、ともりや山本先生、そして遥香のものもあった。彼女たちのじっと見つめる優しい眼差しが、緊張を少しだけほぐしてくれる。

 トムソン椅子に腰を下ろす。目の前には、慣れ親しんだモノトーンが広がる。

 私の音楽を、好いてくれる人がいる。聞きたいと、そう言ってくれる人がいる。諦めるなと、叱咤してくれる人がいる。

「ありがとう、なんて陳腐な言葉じゃ、足りないよね」

 誰に言うでもなく、自分に問いかける。この思いは、音に乗せるんだ、と。

 私の大好きな曲に、私の思いを全部。

 K.265……きらきら星変奏曲。

 いい選曲だと思う。

 今宵は、太陽ではなく、星々に魅入らせる。

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花摘 香 @Hanatani-Kaori

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