第9話

「あー、楽しかった!!」

 暗くなった教室で、大きな声でツキが言った。僕らは、音楽室でピアノを弾いて、体育館で卓球をして、美術室で互いの似顔絵を描いた(僕も人のことを言えないがツキの絵はとても酷かった)。こんなに楽しい日は今後一生訪れないかもしれないと思うほど、僕はこの一日を楽しんだ。

「本当に楽しかった」

 僕が言うと、ツキは嬉しそうに笑った。廊下は暗いけど、ツキの笑顔はやけにハッキリと見えた。

「もう七時半だよ。早すぎる」

 そうだ。もう、同じ曲ばかり練習している吹奏楽部の音も、よく聞き取れない野球部の声出しも、全てが止んでいる。そろそろ帰らなくてはいけない。

「…優、」

「誰かいるのか?」

 ツキが何かを言いかけたタイミングで、誰か知らない人の声が廊下に響いた。まずい、誰かは分からないが、先生だろう。僕は慌ててツキの手をとって、教室の隅でしゃがみこんだ。

 しばらくそこから動かずにいると、足音は遠くへと消えていった。良かった、僕はともかくツキが見られたらかなり厄介なことになる。

「あー、びっくりし、た…」

 僕がツキの方を見ると、既に僕を見ていたツキの額に、僕の額がコツンと当たった。目の前にツキの顔があった。ツキの息遣いが分かる。ツキの焦げ茶色の目に、目を見開いている僕の顔がうつっている。僕はこんな間抜けな顔をしているのか。早く目を逸らしたい。だけど、逸らせない。

 ツキの顔が、ゆっくりと、激しく確実に僕の脳に刻まれる。ツキの目、鼻…唇。きっとこれは死んでも消えない記憶になる。月の光に照らされて、焦げ茶色の瞳がゆらゆらと揺れている。残暑の蒸し暑い空気が身体にまとわりついて、僕の動きを封じた。

 僕の右手がピクリと動いた。駄目だ、ツキに触れてはいけない。そう思っているのに、脳は止まれと訴えかけているのに、僕の右手はツキへと近づいていく。馬鹿、止まれ、一度触れたらもうきっと……

「……ツキ」

 僕は、掠れた声でツキを読んだ。

「あー…えっ、と…プール、行かない?暑いから…」

 ツキは、きょとんとした顔をしてから、少し笑って頷いた。僕の身体は、手は…顔は、呆れるほど熱かった。


「びっくりした、まじでプール入るのかと思った」

 ツキは笑って、プールに手を入れている僕に言った。

「さすがに入らないよ」

 ぱしゃぱしゃ、とプールにたまった水の表面を触る。僕は両手を器の形にして、水をできるだけそこに溜めて…ツキにかけた。

「うわっ!」

 ツキはプールサイドに立っていたが、僕のかけた水に驚いて、バランスを崩した。

「え、ツキ!」

 僕は慌てて立ち上がってツキの手首を掴んで、ぐいっ!と力強くツキの身体を引っ張った。ツキはプールに落ちることなく、プールサイドに座り込んだ。しかし僕は、ツキの身体を強く引いた反動で、プールの水面へと吸い寄せられていった。

 バシャン!!大きな音と水しぶきをあげて、僕はプールに落下した。

「あはははは……っ!!!」

 それを見て、大声で腹を抱えて笑うツキ。

「入ってるじゃん!!」

 僕は眼鏡をプールサイドに置いて、濡れた髪をかきあげた。変に熱かった体が冷めた。

「ちょ、ツキ…手貸して」

 僕はプールサイドで笑い転げているツキに手を差し出した。するとツキは笑いながらそれを掴んで…少しだけ僕を引っ張って、プールに落ちた。

「ちょっと!!!」

「ぷはっ……あはははっ、何すんの、優!」

 ツキが大笑いしながら僕に言った。ツキも僕と同じように髪をかきあげた。

「はははは……っ、いや、僕が引っ張る前に落ちたから、ツキ!」

「いや、優に引っ張られましたー!」

「っていうか、せっかくさっき助けたのに結局落ちるのかよー!」

 僕も大笑いしながらツキに言った。僕らは気が済むまで笑った。制服をびしょ濡れにして、25メートルの競泳をして、顔に水をかけあって遊んだ。


「はー…、制服乾かないと、道歩けないね」

 僕とツキは、プールサイドで並んで仰向けに寝転がっていた。

「ほんと、優が俺を落とすから」

「ツキは自分から落ちたんだし、僕はツキに落とされたし」

 くすくす、と二人で笑って、じっと空を見た。星が輝いている。名前も分からない星たちが、僕たちに見せつけるみたいに。ツキはこの空をどんな気持ちで見ているのだろう。

「…ツキ」

「んー?」

「ありがと」

「え?」

 驚いたように、ツキが体を起こした。僕も体を起こして、笑顔でツキに言った。

「ツキといると楽しい。こんなに楽しいと思ったのも、こんなに興味を持ったのも初めてだった」

「ほんと?」

 ツキは少し嬉しそうに笑った。

「……俺さ、優の小説読んだんだ、今朝」

 そういえば、僕が寝てる時に読んでって言ったっけ。本当に読んだんだ、早速、今朝。

「優は好きとかよく分からないって思ってるかもだけど、優にはいろんな好きなものがあるんだと思う」

 ツキは、とても優しい顔をしていた。まるで、本物の神様のようだった。

「小説も、文も、人も、会話も、運動も、音楽も、優は楽しめる。好きになれる」

 ツキが立ち上がった。

「そんな文章だったよ。いろんな好きが溢れてた。好きを言うのは苦手でも、書くのはめっちゃ上手い」

 ぽたっ、ぽたっ、と優が着ている僕の制服から水が滴り落ちた。

「…全部、ツキとするから楽しいんだよ」

「違うよ」

 ツキは僕の言葉を、間髪入れずに否定した。よく思い出すと、僕がツキに真剣に否定されたのはこれが初めてだった。

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