第8話
「食べれなくて残念だね、A定食。美味しいのに」
「いや、このパンも美味いよ」
満足気に焼きそばパンを頬張るツキに、僕は少しほっとした。さっきまでの少し暗い表情は晴れていた。
食堂のA定食は完売したと言われたので、僕らは購買でパンを買った。食堂にいるとツキが目立つから、誰もいない場所を探して、僕らは音楽室に入った。
「うん、僕も焼きそばパン好き」
依然、ツキの正体は分からない。年齢や好きなものどころか、本名も知らないままだ。知りたくないわけじゃない。でも、ツキが自分から言わないのなら、僕は答えが得られなくてもいいと思っている。
「喉乾いてない?僕買ってくるよ」
「まじ!じゃあ水お願いー!」
ツキは嬉しそうに言った。音楽室の近くには自動販売機がある。僕はツキの言葉に頷いて、音楽室を出た。
僕が自動販売機の前で立ち止まると、音楽室から何やら音がした。ポロン…ポロン…と一音ずつ鳴らされているこれは、ピアノの音だ。ツキが弾いているんだろう。僕は口元が緩んだのを感じた。ツキは、いつまで僕の家にいるんだろう。気になるけど、聞いたらその日が来るのを拒んでしまいそうだ。
僕は水を二本持って音楽室に戻った。案の定、ピアノ椅子に座っていたのはツキだった。
「ツキ、ピアノ弾けるの?」
「いや、気になって初めて触った」
ツキは人差し指で、ドの音を鳴らした。
「優は弾けそう」
「下手だけど、ちょっとだけなら」
「え!ほんとに!聞きたい」
ツキが僕をピアノ椅子に座らせた。小学生の頃、何にも興味を持たない僕の将来を心配した母さんが、様々な習い事をさせた。そのうちの一つがピアノだった。でも、何年も前のことだし、それも真剣には練習していなかったし、上手くは弾けないだろう。
僕はピアノの上に両手を置いた。
「何弾こうかな」
「なんでもいいよ。好きな曲」
好きな曲というのは、よく分からない。弾きやすい曲というのはあったけど、それが好きな曲だったかは分からないし、強烈に惹かれるような曲とも出会わなかった。
僕はなんとなく選んだ曲を弾き始めた。ツキは僕の隣に座って、何も言わず、静かに僕のピアノを聞いていた。
選んだ曲は、リストという作曲家の『愛の夢 第三番』だった。さすがに思った以上に指が動かなくて弾きづらかったが、ちらっとツキの方を見ると微笑んで僕を見ていたので、僕はピアノを習っていた時よりも何倍も楽しくピアノを弾いた。
「めっちゃ上手い」
僕がピアノから手を離した途端、ツキは言った。ミスタッチをたくさんしたけど、ツキがそう言うなら僕は何でもいい。
「ツキも弾く?簡単な曲」
「え…でも、弾いたことない。どれがドとかもわかんない」
「すぐできる曲もあるよ」
「…ほんと?」
ツキは分かりやすく目を輝かせた。
僕とツキは、ずっと同じピアノ椅子に座っていた。僕は左手を、ツキは右手を担当して、ベートーヴェンの『エリーゼのために』、バッハの『メヌエット』、それぞれの冒頭を弾けるようになった。弾けるようになったとは言っても、もちろん完璧に弾けているわけではない。でも、ツキは真剣にピアノを弾いていた。
僕とツキは二人とも時間を忘れていて、音楽室に斜陽が差し込んだ時に目を合わせて驚いた。何度も同じところでつっかえて悔しそうな顔をしたときも、僕がミスタッチをしたら少し嬉しそうな顔で僕を見るのも、僕とツキの音が上手く噛み合った時に目を合わせて喜ぶのも、全ての時間が僕の脳に焼き付いていた。
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