第6話 事件

いつもと同じ時間に図書室に向かったけれど、今日はシェリル様はいらっしゃらなかった。


(相談したいことが、あったのにな……)


気が重い。ジルは、きっと。今日も、私の部屋に来るだろう。


(新しい話なんて、何一つ、しなかったのに。昨日も、私が寝るまで、楽しそうにしてたし。……朝は、なんでか、抱きしめられてたし……)


起きてすぐに、端正な男の寝顔が目の前にあった。驚いたけれど、眠っていたからか、怒りはあまり湧いてこなかった。


(……まあ、そもそも。ジルはいつも、やりたいようにやってるし。もう、慣れちゃったのかも)


大帝国の王なのだから、傲慢で尊大である方が、それらしい。むしろ、あんなに分かりやすいのに、どうして誰にも気づかれていないのだろう。


(でも、そうね。私も最初は、気づかなかったし)


人って案外、そんなものなのかもしれない。


(田舎だったものね、私の故郷くには)


誰もが優しく、穏やかで、慎ましやかに。それだけで満ち足りていた国が、好きだった。思い出に浸りながら、書棚の間を歩く。いつも以上に、人がいない図書室。それは明らかに異常な光景だったけれど、私は事が起きるまで気づけなかった。物陰から飛び出してきた誰か。その人は、光を反射する刃を携えていた。顔は、見えなかった。大きなローブを羽織っていたし、声を出さなかったから、男か女かも分からない。


(逃げないと……!)


そう思った時には、手遅ておくれだった。私は、お腹を刺されて、床に倒れこんだ。その人は、返り血に濡れたナイフを置いて、立ち去った。


(……そっか。私、死ぬんだ)


目の前が霞む。明確に、終わりを意識する。せめて、何か、残したいと思ったけれど。結局何も出来なくて、私の意識は落ちていった。


――――


「…………あれ?」


目を覚ますと、自分の部屋にいた。お腹を撫でてみる。傷はない。体を動かしてみる。痛くない。起き上がって、お腹を見る。何も、起きていない。


「夢だったのかな」


誰に向けたわけでもない言葉。けれど、それに答える人がいた。


「夢ではありませんよ、ソフィアさん」


ジルが、ベッドの側に置かれた椅子に座って、私を見ていた。初めて会ったときのような、穏やかな表情。王としての姿だと、すぐに分かった。知らない顔の、杖を持った老人が、横にいた。


「陛下。処置は全て、つつが無く」


「分かりました。彼女には、私から説明しますから、あなたは下がりなさい」


ジルの言葉に頷いて、老人が部屋から出ていく。その姿が完全に見えなくなってから、ジルは表情を変えた。いつも通りの、我儘で横暴な、支配者の顔。


「……説明って、何? ねえ、ジル……」


ジルは私の問いかけを無視して、椅子から立って、ベッドの上にいた私を抱き上げた。


「シェリルだ。実家から手紙が届いたと聞いて受け取ったが、その内容が怪しすぎて、伝令を飛ばした後に図書室に向かったらしい。そこで、血を流して倒れているお前を見つけて、咄嗟に手当をしたそうだ。後で、礼を言っておけ」


「そうだったのね。それならシェリル様は、私の命の恩人だわ。すぐにお礼を……ジル?」


彼の腕の中にいるのは、いつものことだ。何も変わらない、日常の出来事。そのはずなのに、何故か怖い。


「……あの?」


「ソフィ。愛している。だから、もう、外に出るな」


甘さを感じさせない、愛の言葉。昨日と何も変わらない、自分の気持ちなど関係ないと言わんばかりの宣言。その宣言に目を丸くしている間に、彼は言葉を続けていく。


「今回はシェリルが気づいたが、次もそうなるとは限らない。何、本ならシェリルが届けてくれる。何も心配することはない。お前はここで、毎夜、俺が訪れるのを待っていればいい」


そうじゃない。そういうことが気になっているのではなくて、私は、ただ。


「心配するな。俺の部下を見張りにつければ、今回のようなことは起きない。愛するお前が傷つくことなど、俺は許せない。受け入れてくれ、ソフィア」


「……部屋を出るなという言葉は、国王陛下からの命ですか? でしたら、従います。だから、思ってもいない愛の言葉なんて、言わないでください」


ただ、それだけが、気に入らなくて。心の底から、怒っている。ジルが目を丸くして、首を傾げた。


「何故だ。俺は、お前が傷つくことが許せなかった。お前が、後宮から、俺の側からいなくなる。考えただけで、腹が立つ。それは、俺がお前を、愛しているからだ。そうだろう?」


そう聞かれても、愛がどういうものかなんて、私は知らない。でも、一つだけ、私にも分かる愛がある。


「それは分からない。でも、私が知っている愛は、もっと甘くて、見ている方が恥ずかしくなる、そういうものだったの。熱くて、甘くて……ジルには、そういう感情は、ないでしょう?」


ジルが私を見る。甘さはない。暗くて重い、熱だけがある。焦げつくような痛み、焼けつくような強さだけが。


「俺は」


声音が硬い。


「俺は、お前が居なくなると思った。そうなっては困る。考えただけで、苦しくなる。思っただけで、息が詰まる。それは、愛ではないのか」


「だ、だって」


気圧される。そんな、人も自分も傷つけるような気持ちが愛だなんて、思えない。愛は、もっと幸せなもので、もっと大切なものだと思っていたから。


「そんなの、知らない。そんな、悲しくなるだけの気持ちは、気持ち、は……」


愛ではないと言いきることは、出来なかった。ジルの眼差しは真剣で、その気持ちに嘘偽りは無いのだと、分かったから。


「……それって、ジルにとってはどうなの。苦しくて辛いだけなら、その気持ちは……」


「いや、それだけではない。お前が、いつまでも俺の隣に居るのなら。俺は、それだけでいい」


これは、彼の本当の気持ちだ。それが分かって、私は悩んだ。お父さんは、貴族の娘と愛し合って結婚した。王家の者として生まれて諦めていた、普通の幸せ。それを、幸運にも、手に入れられた。幸運は、2度も3度も訪れない。愛する人と結婚できるなんて、そんな幸せを望んではいけないと思ったから。私は、ここに来た。それでも。


「幸せになれないことなんて、分かってるけど。それならせめて、好きなことをしたい。誰にも迷惑かけないから。ジルは怒るかもしれないけど、死んでもいい。見張られて、閉じ込められるだけなんて、死ぬより嫌」


言ってしまった。でも、取り消さない。それは、私の本音だから。ジルは、私を見つめて、黙り込んでいる。私も、それ以上は、何も言わなかった。

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