第7話 夏の夜半に涼しさを知る(2)

 トンネルの中に入ると、入口を前にして感じていた異物感と不気味さは少し消えた、というかトンネルに取り込まれているのでどんな怪奇現象なり犯罪行為によって僕の身の安全が脅かされそうとも「時すでに遅し」な気がする。まな板の上の鯉、とでも言えば良いのか。


「では、準備は良いですか?丸眼鏡さん」

「えぇ、どうぞ」


 幻想少女は僕の後ろにつき、そして僕の顔の傍に両手を伸ばしてきた。

 白く細い少女の手が視界に入ったので目を閉じた。


「あぁ、すみません。眼鏡外しますか?レンズに手が触れると良くないでしょう」

「あぁ、それは確かに」


 眼鏡をはずし、手探りでズボンのポケットの中に入れる。なるほど、中途半端なところだけ常識はあるようだ、この幻想少女は。


「では」と言う声が聞こえると、僕の顔は幻想少女の両手で覆われた。額と頬に彼 

 女の指が当たっている感触がする。それにしても母親と妹以外の女に顔を触られる初めての機会が、こんな意味不明の心霊イベントとは。


 「1」


 最初の一歩を足を踏み出した。恐れるべきものなど何もなく、下手な噂など信じてやる義理はないのだが、少し足が震えて、それをなんとか堪えて一歩を踏み出した。いや、怖いわけではないし、ありきたりな怪談を信じるほど僕は純粋ではない。


「2」


 二歩、歩く。一歩踏み出して、怪談が事実であるか否かに関わらず一歩歩いても何が起きるわけではないのだが、何もなかったことに安堵したのか安らかな気持ちで足を進めた。


「3」


3歩、歩くもはや何も感じない。願わくば全て終わっても何も起きないことを期待するまでである。


 1から16まで順に、言われた数だけ目隠しされた状態で前に進む。

 合計136歩、全て歩き終えて後ろを振り返るとそこには誰もいない。薄暗いの終端で自分だけが一人たたずんでいる。


 そんな変なこと、あってたまるか。非科学的だし、もし起きたらそれは悪ふざけの類だろう。


 しかしよく考えると、この突然消える、というのは否定できないのではないか。

 いま、僕を目隠ししている幻想少女は昨夜、突然僕の部屋に現れた。


 突然現れるということは消えることもできると推測できて――もしかして彼女自身がその霊とかいうやつで、こいつは探偵者の愉快犯みたいな霊なのか――

 

 そもそも何か起こるといってもせいぜい後ろの幻想少女が消えるだけで、僕に危害はまったく及ばないのではないか。となると彼女は僕をおちょくりたいのか。


 数を数えながら考えごとをしたせいで脳内の思考が複雑に絡みあい、混沌とした様相をしている。


 そうだ、とりあえず最後まで歩こう。16の声のあとに16歩だけ歩き、そのあと何が起こるか、観測すれば全てが分かる。考えるのはそのあとにしよう。


 「16」


 16歩、前へ進む。車が脇を駆け抜けていく音がしたが、気にせず、ただ前へ進むことだけを意識して歩いた。


 そして、最後の一歩。


 「これで最後ですね。さぁ、目を開けてください」


 幻想少女はそう僕にささやいた。

 ゆっくりと目を開く。おもむろに眼鏡をポケットから取り出し、かける。


 そして恐る恐る後ろを振り向く。

 

 その時、風が吹いた。夏風にしてはイヤに冷たいその風に髪がそよぐ。


 風で眼の前にかっかた髪を振り払い、振り返って見た先には、誰もいなかった。人影などない。ただ、道がほのかに電灯に照らされているばかりである。


 「嘘だろ」


 いや、それは本心からの言葉ではなかった。微塵も思っていなかった言葉が口から出た。たぶん、こうなるのだろうと思っていた。


 そうだ、僕は今、圧倒的な非日常の中にいる。

 不思議な少女との邂逅、超常的な現象。今まで感じたことのない未知を全身で味わったことへの興奮、とその未知を暴かんとする好奇心のざわめきに瞳が騒ぐ。

 

 これは、僕が待ちに待っていたことだ。


 一夜だけなら、眠気に襲われた僕の夢にすぎなかったのだろうが、違う。

 この体は確かに、あの常識を超えた幻想少女を観測した。


 普通でない人生を僕は過ごしている。世界に、一人だけの僕という人間の人生。


 「やっと、動き出したのか」


 自分にだけ許された特別な道が開けたことに喜びを感じた。あの足の震えは、幻想少女がただの人間、不審者であることへの恐怖だったのだ。ただの不審者で、本当はただの変人にすぎないのが怖かった。それでは、自分はただの一人の人間に過ぎないから。

 

 しかし、やはり彼女は特別だった。幻想少女が特別奇怪な存在であることが疑いようのない事実であることが分かった今、それをもとに小説を書けば面白いーーこの世に一つの希少性を持った小説が書けるのではないか。


 それは、彼女を知る僕にしか書けない小説。僕が書かなければ、世に出さなければ、世界は絶対に知りえない秘密。


 物心ついた時からずっと抱えていた。なぜ僕が僕として生まれ、僕として生きなければならないのか。そんな熱気まとわりつく熱帯夜のように不快で晴れることのない疑問で蒸されていたた僕の心に、まさしく心地よい未来への興奮ともいえる涼風が吹き込んだ気がした。

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二十四時と幻想少女 一畳半 @iti-jyo-han

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