第一章 竜生始動篇

第1話『世界を満たす溶媒』


「――ーい、おーい。

 ――おーい、真治くーん?」


 頭を小突かれる感覚に顔を上げた。

 視界がボヤけていて何も見えない。

 あれ、メガネはどこにいったんだ......


「あらら、寝ぼけてるね」


 手探りでメガネを探していると、前頭部に何かが嵌められる。

 俺はそれを目元まで下ろし、視線を前に戻す。

 寝起きでまだ覚束ない視界に茶髪の女性が映る。


「おはようございます、朝比奈先輩」

「"おはよう"と言うには遅い時間だね」


 そう言われ、部屋を見回す。


 書類やら器具やらが雑多に置かれたテーブル。

 誰もいないがらんとした丸椅子たち。

 窓からは月明かりが差し、試験管のフチを照らしている。


「......2時間ぐらい寝てましたか?」

「惜しい。1時間45分だね」


 立ち上がって伸びをすると、どれだけ深く眠っていたのかがよく分かる。

 夢を見ていた気もするが記憶にない。

 あくびを噛み殺すと涙がにじみ出てきた。


「おっ、珍しい真治くんの涙だ!」

「普段はないですからね」

「......もしかして、今のジョーク?」

「笑ってくださいよ」

「そんな真顔でジョーク言われても笑えないよ!?」


 ふざけて『なかなかなかなかなかなかにぃ〜』とでも言えば良かった。

 ボケを拾ってもらえないのはかなり辛いものだ。

 ......笑えるようになれば、面白いジョークも簡単に思い浮かぶのだろうか。


 俺は笑えない。

 冗談のような話だが事実だ。

 "面白い"という感情と表情がリンクしていない。


 顔面麻痺によるものではないのが余計につらい。

 理由を尋ねられた時は精神疾患だと答えている。

 指で口角を持ち上げると、なんとも惨めな気分になる。


 今まで幾度となく不気味と言われてきた。

 だが、朝比奈先輩は......


「――それでね、その小説の外伝? みたいなやつでシラードっていうキャラが出てきてさ。

 私てっきり"マクスウェルの悪魔"が由来のキャラだと思ってたの。

 だからずっと、シラードエンジンとか情報熱力学とかの話が出てくると思ってたんだけど、結局何も触れずにシラードもマクスウェルも死んじゃって......」


 俺と同じく狂人である彼女は、俺の無表情を面白いと一蹴した。

 この人は俺のことをとしか認識していない。


「その小説、俺も読みました。

 すごく面白かったけど笑える内容ではなかったですね」

「ちょっと悲しい物語だよね。

 ワクワクするいい話だけど」


 そんな雑談をしながら屋外へ出ると、冷たいものが頬に触れた。

 空を見上げると、少ないながらも雪が降っていた。


「わお! 初雪だね!」

「温暖化とはいえ、雪は降りますね」


 手に掛けていたコートを羽織り、マフラーを身につける。

 小さく息を吐くと、白い水蒸気がメガネを曇らせる。

 白メガネを笑う先輩を無視し、雪化粧された道を歩く。


「今の真治くん自身を鏡で見たら、きっと笑えるんじゃない?」

「心では笑えても、顔は動かないんですよ」

「ふむふむ。もっと原始的な側面から改善しないとダメみたいだね」

「原始的な側面?」


 マフラーを少しどけ、メガネを晴れさせる。

 朝比奈先輩がにへらと笑いながら俺を見上げていた。


「例えば、何かに夢中になってみるとか。

 ――例えば、誰かを愛してみる、とか」


 感情のこわばりを解き、精神面からメスを入れるということか。


「......」

「ちょっ、その表情はなに?

 そんな真面目に顔を見られると恥ずかしいんだけど......」


 紅潮する朝比奈先輩の顔を見つめる。

 彼女は可愛い。俺でも可愛いと思う。

 だが、それは"好き"には程遠く、"愛する"ことはできない。


 能動的でない、客観的な意識しか湧いてこない。


「......確認がとれました。

 俺の先輩への好意は皆無のようです」

「あははー、だいぶ失礼な物言いだね」


 先輩が苦笑し、俺がため息をつく。



  ===



「じゃあねー、真治くん。

 また明日、同じ時間に」

「さようなら、お気をつけて」


 改札を抜けた先で先輩と別れる。

 乗る電車のホームが違うのだ。

 階段を降りると、俺の黒髪が風になびく。


 時刻表を一瞥して定位置へ直行。

 ポケットに手を突っ込んで俯くと、メガネが白く曇る。

 そのまま目を瞑って思慮に浸る。


【普通に笑いあえたならば】


 行動を起こさない限り、人は変われない。

 外部要因による解決は到底見込めない。

 ここ十数年の静置はなんの進展も兆しも生まなかった。


【凝り固まった感情をほぐす】


 なにをすればいい?

 人を愛するなんて器用なこと、俺にできるのか?


【笑顔になれる魔法があればいいな】


 魔法なんていう存在しないものに縋りたくなる。

 世界を満たす溶媒可能性は、今日も俺を惑わす。


 今の俺が大きく変われるような、夢見心地でいられるような想像力が欲しい。

 そう思った瞬間だった。


ドンッ


 跳ね退けられるかのように背中を押された。

 体が宙に放られる。


「え?」


 間の抜けた声が口端から溢れる。

 体が90°横回転し、風にマフラーがほどける。

 手足を半開きにした無様な状態で線路に腰をぶつける。


「い゛ッ!?」


 全身に雷が伝うような激痛。

 痛みのあまり目の端から溢れ出た涙。

 頬を撫でるように吹いた風。


 それらは直後、些事へと変わった。

 井の中の蛙が大海に溺れた時のように。


 視界を埋め尽くしたのは笑った鉄の塊。

 その目から放たれる光を遮るように、腕で身を守ろうとする。

 死の一字が脳裏を過ぎった。


 電車は、一切減速しなかった。



  ★★★



 銀の海に沈んでいく。

 それは俺を蝕むが、逃れようがない。

 その場の全てが銀色の液体で満たされていた。


 三重の意味を孕む、"世界を満たす溶媒"。

 他の何よりも普遍的なそれは、全てを溶かす。


 脳内のシアターに金色の瞳が映る。

 爬虫類のような細い瞳孔と金の虹彩。

 こいつが俺のことを線路に突き飛ばしたのだろうか。



 光速より速い空間の膨張は何を意味するのか。

 観測者の存在は、それを瞬間移動と定義することを許す。

 それはおとぎ話のような、SFのような絵空事なのか。


 そして、俺は辿り着いた。


 そこから始まった物語なのだろうか?

 いいや、それは二つの意味で間違っている。


 その世界に傍観者と演者という区分など無い。

 物語は世界を知った時、始まる。


「安心して!

 ボクは絶対・・に負けないから!!」


 銀色の髪が揺れ、琥珀色の光が輝いた。


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