シスター・ヤエの経緯 Ⅰ

 シスター・ヤエは今も家で寝ているか、あるいは図書室で勉学に励んでいることだろう。

 そんなシスター・マイアの予想は当たらずといえども遠からず、実際は図書室で分厚い本を机に積んだまま仮眠を取っていたのだった。

 彼女も等しくメヘルブの民。鐘の音には逆らえず、朝は祈りに備えて早起きをする。それは昨夜がどれだけ慌ただしかったとしても変わらない。それこそ、年齢の近い同業ながらその狂信ぶりに若干の恐れを抱くシスター・オルカのように聖職者として感心される姿勢だ。

 ヤエはまだ十七歳で大人扱いしてもらえず、世話すべき子供が二人だけになるより前から夜勤を免除されている。

 更に言えば、仮にヤエが教会務めを怠ったとしても、オルカ、クウラ、調理はしないがマイアの三人のみで教会の一日は何とかなるのが実態だった。

 自分と図書室の管理人以外誰もいない静かな空間で、気休めの体力回復を試みていた少女が覚醒する。まず初めの思考は教会の方針に対する不満だった。今回の神父・カイルにしても、前司教にしても、元からメヘルブにいた人物ならまだしも、わざわざ他所から聖職者を派遣する必要などなかっただろうに。どうせ誰も耐えられないのだから……と。

 頭が冴えてくるのを感じると、次には例の新しい司教の顔が思い浮かんだ。

 立場上は司教だが神父のように扱ってほしいと、聖堂に集まった者たちへ親愛を求めた……若くて立ち姿にも華があるいかにも都会育ちな相貌の青年。

 これまでの司教役と比べて貫禄はなく、まるで神より隣人に重きを置く気でいるのは黄色信号だが、教会の主役を担う覚悟はあったようで堂々としていた。

 しかし、まずは司教と神父の違いについて説明した方が良かった。皆がメヘルブの神に従う信徒とはいえ、聖道の専門知識を持ち合わせている者などもう多くないのだから。

 シスターの肩書きを持つヤエでさえ、聖堂に置かれた物や、聖職者とはかくあるべしといった指導を受けた覚えはない。

 実質メヘルブを牛耳る存在でもあるシスター・マイアも昔からあの調子。命を脅かすことに繋がる要素以外は碌に説明されなかったので、勤勉家の少女は図書室に通いつめ、独学で聖堂や人の営みに求められる知識を脳に蓄えた。

 メヘルブの異常な神に屈する大人たち……特に、シスターとは見てくれだけで、実際は児童指導員に他ならない実の姉もどうせ知らない人と神の本来の関係性。

 人の心は弱く、フィクションに縋ることでどうにか脆い体を立て直して明日に備えられるもの。困難を乗り越えるため。幸せになるため。誰かを幸せにするために……。

 自らの充足のために神なる空想をイメージし、利用する。そのような攻めた価値観が二十七年以前の教本には記されていた。中には当然、神を否定してはいけない、永遠に崇め奉らねばならないと説くものもあった。自分たちと共通する常識でさえ、自分たちのように掟に縛られていない者が記した物と分かるだけでカルチャーショックだった。

 何故ならこんなにも価値観が人それぞれの心に委ねられているからだ。異端や否定派だけでなく、昨日まで敬虔な信徒だった者が「神は死んだ」と暴言を吐いたとしても天罰など下らない時代があったのだ。

 シスター・ヤエもある意味で神の傀儡。

 心では神を不信に思いながら、こうして信仰や神にまつわる本を読み漁ることにハマってしまったのだから。

 根本の問題を解決しない限り不満は蓄積されていくばかり。

 染まってしまった者たちはもう知らない。そして、まだ染まっていない者たちとお互いの意思を確かめ合うことすら儘ならない。

 このままでは生涯をかけて主に尽くした信徒の見本になってしまう。自分たちの後を継ぐ種がない以上、自分がメヘルブ最後の聖職者になる未来だってある。

 シスター・ヤエは自ら望んで聖職者になったわけではない。ましてやメヘルブ最後の人類として皆を見送る役目を負うなど最悪過ぎる。

 そんな生き地獄なら、老けて染まるよりも先に……!


 引き金に指を触れたのは二日前。

 その日の昼に新たな司教がどこからともなく現れ、あべこべの信徒たちを相手に愛想良く振舞っていたのを図書室の窓から眺めていた。

 図書室は噴水広場を囲う住宅のうちの一つであり、つまりは教会からヘルプがあればすぐに駆けつけることが可能な距離のため、少女の活動拠点としても都合が良かった。……上手く操られていると感じることもあるが。

 若い男性聖職者というのがヤエにとって初めての出会いだから関心を持った。

 挨拶に伺うため、本を仕舞って教会に向かうと、その彼は疲れて休んでいると赤いシスターが言った。

 むしろ好機だと判断し、ヤエは一度家に戻り、密かに研鑽を重ねた自信作の紅茶を持って彼の自室を伺った。

 

 ――この時、銀髪のシスターは告解室にいたのだという。

 

 リビングに彼はいなかった。聞いた通り寝室で休んでいるのなら挨拶はまた今度でいいだろうと、ティーセットを置いて部屋を出た。誰からかも悟らせない些細な気遣いが隣人を幸せにする。コミュニケーション能力を育むことのできる本にそう書いてあったからだ。

 ただ、紅茶の感想をすぐに貰うことができず、夕刻の挨拶の際は不機嫌になっていた乙女だが……後で絶賛してもらうことでこの小さな不満は解消された。

 展開が大きく動くのはここからだ。

 前司教と同様、外から来た司教・カイルなら天罰を免れるはず。しかし、平和な環境だという印象を受けながらもその身に染みついた常識が悉く通用しないこの街の狂気に翻弄され、果ては天罰を目の当たりにして心をかき乱されることだろう。

 前司教は当然、この街の出身で司教役を任された者にしても、その苦難に耐えられる者はいなかった。誰もが自分の信じる神とは真逆の悪魔に怯え……あるいは怒り、その身を赤い瞳に侵されるか、自決するかして次の司教へバトンを繋いできた。

 血に塗れた罰ゲームの強制に他ならない。

 新たな若い司教もいずれは彼らと同じ末路を辿ることになる。同じ境遇の前司教は三十日持ったが、今度は三日持つかどうか……。

 どうせ生き残れないと分かっていながらもヤエは、その貫禄のなさ(歩み寄りやすさ)には興味を惹かれた。

 打開策とまではいかずとも、寄り添うことならできるかもしれない。私の孤独と貴方の孤独は通じ合うかもしれない……と。

 共にこの街を解放しようと同盟を築くのではなく、単に少女は彼のことを知りたいと思ったのだ。

 外の世界から来た彼はこれから多くの異常に心を蝕まれるのだから巻き込むわけにはいかない。戦う時はまた孤独になるが、それもいつも通り。

 紅茶が切れると思われる明日の午前中にも再び彼の元へ伺おうと決めた。


 その日の夜。外界を隔てるコンクリートの壁を視点に、ヤエの父と姉が暮らす家は東にある。当のヤエは西の小屋で一人暮らしをしており、夕食もそこで摂ることが大半だった。

 空腹を抑える程度の食事を済ませた後、教会を横目に山奥へ一人で向かう。灯りになる物すら持たない手ぶらながら、これがヤエの一日を締めるルーティンとなっているため夜目も十分。

 むしろ光が目立って暗闇へ潜っていく姿を目撃される方が拙い。今からやることが誰かにバレたらこれまで繕ってきた優等生の振る舞いが偽りだったのかと疑われてしまうから。

「あー……もう!!みんな、みんな、みんな!馬鹿ばっかりーー!!」

 ……このように、荘厳なだけで何も発信してこない山々をサンドバックにして日々の不満を叫ぶ。日中は猟師が付近を練り歩いているため、動物たちを刺激するのも覚悟で夜を選んだ。

 結局、根本の問題を解決しない限りこの不毛なルーティンもやめられないわけだが、それでも悩める乙女のストレス解消には有効的だった。

 つまり、ここにはヤエの他に誰もいないということ。ましてやその愚痴を聞き届けて返答をくれる存在などいるはずも……。

「かなり荒れているな。この『世界』の住民は皆そんな感じなのか?」

「私を他の人たちと一緒にしないでください!私はまだこの『街』の掟には……その……って、えっ?」

 信じられないことに言の葉が返ってきた。

 まるで他人事のような言い回しをしていることからメヘルブの人間ではないと即座に分かる。

 遂に山々がストレスのはけ口にされていることに堪えかねて直接干渉してきたのかと勘違いした乙女だった。

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