夜の棺 Ⅰ
外にいた仇敵は、瞬き一つする間にいつものマイアに戻っていた。
窓ガラスをガンガン叩いてくるので忍び足で近付き、その音が段々と強くなっていくことに恐れをなして窓を開くことにした。
「マイア……」
「よう、神父。お邪魔だったかな?」
……嘘だろ?
ここまで来てもなお白を切られるのか、私は。
今日一日でメヘルブに根付く闇の大半を思い知ったはず。
知るべき真実、知らなくては共に狂えない暗黙の了解を、ここに至るまで散々見せつけられてきた。拘束されたままの死体と、床に伏して激しく咳き込んでいる羊もその証だ。
しかし、このマイアのことがまだよく分からない。
この者たちと神さまが強烈過ぎて後回しとなったが、全てはシスター・マイアの誕生から始まったと被害者の少女は証言していた。
初めて会った時から変わらない不遜な態度からも、マイアがまだ何かを秘めているのは間違いない。
もうヤエさんくらいしか信用できる人間がいなくなってしまった。あくまで数回の会話から得た印象だが、あの少女はまだメヘルブの風習に染まり切っていないように思える。自身の過去を打ち明けた際のやるせない眼差しが今も脳裏に残っている。
「なに黙ってんだ? 私に見惚れたか? 今はそうじゃないよな?」
「今は、とはどういう……」
「見惚れる暇もないってことだよ。今のお前はヤエに夢中だもんな」
「……はぁ?」
そう、これもだ。
昨日の出会いから頻繁にお見舞いされてきた、マイアの鋭過ぎる洞察力。
マイアは何度でも私の本心を読んでくる。いや、見透かされているのか?
とにかく、私の内にある考えが彼女には何故か全て筒抜けになっているのだ。彼女を媒体に干渉してきた神にも、おそらく……。
「マイア、貴女はまさか……」
「ハハ、気付いたか。いや、気にしてはいたが、他が忙しくて後回しにしたんだっけか?
そうだ。私には他者の心が読めるよ。対象が傍にいる時に限るけどね」
「そうですか……。いえ、もう驚きもしないが……」
いわゆる読心術の類なのだろうか。とてつもない超能力だ。疑い、驚愕すべき非現実的現象だろう。
しかし、今となってはそれくらいのもの、別に在っても不思議はないように思えて冷める。
私自身、何にそこまで期待していたのか定かではないが、そのような特殊性があるなら確かめておかなければならないことがあった。
「その……読心術ですか? それはいつから持っていたものなのですか?」
「気になるか? 教えるのは別に構わんが、それより先にやるべきことがあるだろ。めちゃくちゃ冷静だな、お前」
「分かってますよ。あと、私はもう全く冷静なんかじゃない。だから彼女にあんな真似を……」
そう言い返して、私の暴走の被害を受けた女性を見る。
先程まで咳き込んでいたのに随分と落ち着いたものだと思いきや、彼女は体力尽きて気を失っていた。
「やれ、シスターに危害を加える司教なんて滅多にいないぞ。しかも首絞めってのが何かいやらしい」
「ああ……」
私は好意を抱いていたはずの女性に手をあげた。
聖職者の立場など関係なしに最低な行為だ。平静に戻った今なら分かる。人々が許さず、神も許すまじ鬼畜の所業を自らが犯したのだ。
過ちを犯した後で我に返り、自らも環境の被害者なのだと嘆く容疑者の言い分が理解できてしまう。
本望で誰かを迫害したがる者などそうはいない。私が知る限りでは奴くらいだ。
これから彼女との付き合いが難しくなってしまうことなど悩むだけ無駄だろう。私はこのままメヘルブを追放……は叶わないのか。では監禁されるか、あるいは処刑されるのか……。
とにかく私にはもう未来がない。皆の営みに参加する資格がない。
そうと分かると、それこそ神に縋るように懺悔を行い、許しを乞う発想にはならず、ただ、終わったのだなと、役者不足のストーリー打ち切りを甘んじて受け入れられる私は、マイアの言う通り酷く冷静なのかもしれない。
「私は死刑ですか?」
「さぁな。それより先に運んだ方がいい」
「あ、はい……」
何という自己中心。メヘルブの民衆より我が身が可愛いとバレた。
いや、マイアはずっと前から私の思想を知っていたのだろう。貴女が名付けたカイルという聖職者の性根は、腐った悪党そのものだということを。
「オルカさんはどこへ運びましょうか?」
うつ伏せで眠る彼女の体を翻した。
顔色はいつにも増して蒼白の雪化粧。長く伸びた横髪が乱れ、口に咥えてしまっているほどで、これ以上は本当に歯止めが効かなくなりそうなので慌てて目を逸らした。
マイアは私の情動の変化を黙って観察してから大本の誤りを指摘してきた。
「オルカは後にして、まずはこっちだ。そっちは別に放っておいてもいいくらいだが、こっちは放っておくと虫が集り、腐臭もより蔓延する」
マイアがそう言って指差した方を追うと、その先には依然としてかの末路が遺ったままだった。
それもそのはず。彼女を捨て置いてオルカさんを虐げたのは他でもなくこの私なのだから。
それは、もう終わったもの。果てた生命。全身を神の瞳に蝕まれた後、その半分を破壊して自ら絶命した、元は普通の女の子だった赤黒い塊。
「これを運ぶのですか?」
「そうだ。天罰を受けた死者の遺体は祭壇の中へ入れる。そういう決まりだ」
聖堂の内陣、その中央に置かれた神の棺。
古くは神の如き偉人へ供物を捧げるために用いるものだが、ここでは彼が関係しない。よりにもよって、こんなボロボロの遺体をそこへ仕舞うなど悪質極まりない行為だ。
「祭壇の意味は分かるな?」
「神のエサ皿でしょ」
「かなりひねくれてるが正解だ。んで、ここで言う神って?」
口内から水分が失われていく。
まさか、自ら罰して死に追いやった人間を自ら食らうとでも?
「祭壇に入れたものはどうなるのですか?」
「跡形もなくこの世から消え去る。その瞬間を確認することはできないけどね。明日の朝にも開いてみればいい。きっと中身は空っぽになってるはずだ」
「は……」
そんな手品はありえない、と言おうとして止めた。
マイアは嘘を吐かない。彼女がそうだと言えばそうなのだろう。ここは人間界の常識が容易く覆される神の領域なのだから。
「あの、運ぶ手段は? これを抱きかかえるのは流石に……」
あらためて赤黒い塊を凝視してみるが、まだ慣れない。
侵食先が活動終了しているにも関わらず、未だ蠢いたままの赤い瞳たち。近付くと一斉にこちらを睨み付けてくるものだから身の毛がよだつ。
「倉庫に出て、もう一方の部屋に血濡れの毛布が置いてあるはずだ。昨日クウラがその子を運ぶために使ったやつがな。それに包めばいい」
未確認だった一方のフロアか。私の部屋で浴室にあたるその場所に事件の手掛かりが隠されていたらしい。子供たちに決して気付かせないために。
「分かりました。それなら一度、私の部屋に戻って鍵を取ってこないと」
「その必要はない。ここと向こうの鍵は共通なんだ。ほらよ。
あと、何か誤解してるようだが、この鍵は私たちも持ってるぞ」
「は? 何故?」
「緊急対応のために決まってるだろ。だからクウラはお前に鍵を借りずここを使えたんじゃねぇか」
言われてみればそうだ。疑問にも思わず、ただ失念していた点のため、判明したところで驚きもなかった。
昨夜、天罰を受けた女の子を単独で処理してみせたクウラさんの手際の良さは、マイアに投げ渡されたものと同じ鍵を有していた故だったのだ。
いくら女の子の寝室の窓から外へ迂回できるとはいえ、この独房の扉も、窓のロックも、鍵を用いて教会の内側から行動できなければ儘ならないこと。
天罰が起きても私の元に独房の鍵を借りに来なかったのは、単にその必要がなかったからなのだ。
「私たちというのはシスターの四人ですね?」
「そうだ。ちなみに私は昨夜、お前が寝てる間にこの子を見に来たぞ」
「私が寝ているかどうかなど分からないでしょうに」
「分かるさ。寝室の窓からお前の寝顔を見ていたからな。女の子が苦しんでるのに随分と快眠のご様子だった」
……悪魔め。
それも神の側面なのか、それともマイア自体の悪い性分なのか、そこを問い質すためにもさっさと片付けを終わらせるに限る。
「全く、私の部屋もですけど、ここの窓にもカーテンをかけた方がいいですね」
「心配はいらんだろ。ガキ共が覗くことはないし、そも、覗きをやらかす奴なんて昔から私くらいなもんだ」
どの世界にも共通するはずの正論でさえ、このように容易く言い負かされてしまう。
正論は良好な関係を築くための言語コミュニケーションとしてはまるで役に立たない。常識を振りかざすばかりで個人の意思が尊重されないからだ。私もできれば使いたくない。
その反面、論争には強い。誰であれ生きている以上は完璧になれない。自分のことを正しい人間だと思い込んでいても、必ずどこかに綻びがあり、万全だと驕った部分を刺激されると徐々に調子を乱していくものだからだ。
しかし、そんな絶対がマイア相手にはまるで通用しない。軽くあしらい、流されてしまう。
彼女を出し抜くのはまだ先になりそうだ。諦めて独房を出る私の心境は、少なくとも先程のように乱れることなどあり得ないくらいの安定感で、それは紛れもなくマイアから与えられた安らぎだった。
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