3:Second scene -Side woman-

「ごめんよー」

 こんな時間まで残らせちゃって、と謝る係長の声には、さすがに少しの疲れが混じっていた。

 時刻は夜の九時半。この時間帯になるとフロアにはほとんど人が残っていない。

「いえいえ、この時期はもう仕方ないですよ」

「とはいっても、かなり高宮たかみやさんに負担いってるでしょ。これ、どっちか飲まない?」

 そう言って彼は、缶コーヒーと小さい緑茶のペットボトルを差し出してきた。

 受け取らないのも悪いと思い、わたしはありがたく緑茶を頂く。

「ありがとうございます。まあ人が足りていないのは仕方ないですし、わたしも稼ぐために残業したいので別に大丈夫ですよ」

 笑顔でそう言いながら、退勤手続きを行うためにパソコンに目をやった。

『おつかれさまです、高宮柚子たかみやゆずこさん』というメッセージを流し見して、シャットダウンした。


中澤なかざわさんも、こんな時間までお疲れさまです」

 係長は、中澤ハジメという名で、三十台前半にして管理職を任されているかなり優秀な男の人だった。

 もうすぐ社会人五年目に差し掛かるわたしと五つか六つ程度しか変わらないはずなのにすごくしっかりしている。

 さっきのように、遅くまで残っている部下に対して労いの飲み物をプレゼントする行為もなかなかできたものじゃない。


「どう、もう遅いけどご飯とか」

 爽やかな笑顔で誘われたけど、わたしは首を振って断った。

 時間帯が遅いって言うのもあるけど、やっぱり男性からの一対一の誘いは受けたくない。

 中澤さん以外にも時々わたしをご飯や飲みに誘ってくる人はいるけど、基本的にはすべて断っていた。

「そっか、じゃあ駅まで送るよ。夜も遅いし」

「いえ、そんな暗い道もないですし大丈夫ですよ」

「いやいや、どんな道だろうと女性の一人歩きは危ないよ。それに、自分のグループのメンバーの仕事の愚痴が聞きたいから、前から話したいと思ってたんだ」

 そこまで言われると断る方が申し訳なかった。

 帰り道一緒に帰る程度なら浮気にもならないだろう。

「わかりました。じゃあ駅までご一緒させてください」

 お茶の恩もあるしね。



「あんまり愚痴が出てこなくて残念だなあ」

 と、砕けた口調で中澤さんが言うので、わたしは少し驚いた。

「仕事に不満があった方がよかったですか?」

「そういうわけじゃないけど......でも、もしあるのなら上司として聞いておきたいなって」

 彼は不思議な空気感を纏った人だった。

 話しているとなんだか色々なことを打ち明けてしまいそうな、例えばこの人に隠し事をしていたとしても、すぐに白状してしまいそうな、そんな話の聞き方をする人だった。

「じゃあ仕事の話はもういいか。もし何かあったらいつでも話してもらえるとすごくありがたい、です」

 とまあ、わたしに仕事へ対する不満がなさ過ぎて、トークテーマ“愚痴”では駅までの道のりの半分しか持たなかった。

 中澤さんは少しだけ考えこんで、「高宮さんは普段、休日とかはなにして過ごしてるの?」と聞いてきた。

「最近はあんまり出かけることもないんで、家でゆっくり映画とか観てますかね」

「いいね、映画。僕もよく観るよ」

「あ、そうなんですか?」

 聞くところによると、彼は映画館へよく足を運ぶらしい。同じ映画好きでも私とは若干人種が違いそうだった。

「家で映画観るとさ、スマホの通知とか気にならない?」

「たしかに、ついつい見ちゃいますね」

「それって映画を十全に楽しめている気がしなくてさ。だから僕は、大きいスクリーンやいい音を求めてというより、を買うために二千円払ってる」

「ふふ」

 拘束される権利、という言い回しが妙に面白くて、わたしは少し笑った。

 すると中澤さんは少しだけ驚いたような顔でこっちを見た。

「え、何か?」

「いや、高宮さんが笑うところ初めて見たなって」

「......」

 言われてみれば確かに、会社ではあんまり笑っていないかもしれない。

 というかそもそも、男性が多めの職場ということもあり、そもそも誰かと話すこと自体が少なかった。


「やっぱり女性は笑顔が一番だからね......と、こういう発言はよくないね。定型文として使っちゃったけど、笑顔が一番なのは男性も同じかも。人類は笑顔が一番だね」

「人類って、なんだか壮大ですね、ふふ」

 こんな風に男性とじっくり話す機会は久しぶりだったけど、それは思った以上に楽しいものだった。

 中澤さんの言い回し、言葉の使い方が気に入ったというのもある。

 駅に着いて、電車で一人になったタイミングで、わたしは少しだけ罪悪感を覚えた。

 そんなこと気にしなくていいと思いつつ、トモくん以外の男性と楽しくおしゃべりしていたことが、ほんの少しだけ申し訳なくなった。

 ――でも、それと同じくらいに。

 明日も残業することが、悪くないように思えた。


 そこから、わたしが自分に課していたルールを破るのに、あまり長い時間はかからなかった。

 そのルールとは、男性と二人きりで食事に行くこと。

もちろん相手は中澤さんだ。誘ってきたのは向こうからだった。

「高宮さん、帰り?」

 その日は一時間程度の残業でやっている仕事にけりが付いたので、七時前に帰り支度をしていた。

「そうですよ。お先です」

 退勤手続きをしてそう言うと、中澤さんは否定するかのように手を振って、「僕も今仕事片付けたところ」と言った。

「この後食事でもどう?」

 本当はいつものように断るつもりだった。

 でも、もともと今日は遅くなる予定で、晩ご飯は家で食べないつもりだったので、一瞬の気の迷いから「いいですよ」と言ってしまったのだ。

 一度吐いた言葉は、もう取り消すことはできない。

 ううん、それは少し嘘だ。いくらでも取り消すことができたと思う。


 でもわたしは、中澤さんと食事に行きたい、と思っている自分を無視できないでいた。

 トモくんは、一緒にいて楽しい。

 中澤さんは、一緒にいて居心地がいい。

 その二つは、


 私とトモくんは、お互いを楽しませようとしていた。

 恋人というのは、お互いに楽しませて、退屈させない努力をする関係性のことだと思っていたから。

 それは今でも百パーセント間違っているとは思っていないし、人間関係を築くうえでとても大切なことだと思う。

 でも、中澤さんの前ではそんなことを考えなくてよかった。

 ただ自然に振舞えばいい。

 何も考えずに、わたしの言いたいことを言って、彼の言い回しに笑っていればいい。

 それがすごく、居心地がよかった、


「じゃあ、行こう」

 不貞なことをするつもりは全くないけど、罪悪感はあった。

 食事の誘いを受ける時も、トモくんの顔は、ずっと心に浮かんでいた。

 いっそ、忘れていた方がよかったのかもしれない。

 中澤さんと話している時は、トモくんのことなんて思い浮かばない。そっちのほうが、救いようがあったのかもしれない。


「......ふふ、やっぱり中澤さんの言葉の言い回しって、ちょっとかわってますよね」

 それでも、もう止められなかった。

 そう遠くないうちに、わたしは休日も中澤さんと出かけるようになった。

 そしてある夜、少し酔ったわたしは、彼に心と体の両方を預けることを、決めた。

 薄暗い灯り。

 薄ピンク色のシーツ。

 大きなテレビと、やけに低いテーブルの上の灰皿。

 枕元の灯りを調節する大きなスイッチボードと、ゴムが二つ。

 数年前の横浜駅付近のホテルとほとんど変わらない部屋の内装。

 少しだけ、感傷的な気分になる。そこに罪悪感と、それよりも大きな高揚感を混ぜ合わせると、いまのわたしの気持ちになる。

 部屋に入るなり、わたしと彼は見つめ合った。


 ごめんね、ごめんね、トモくん。

 わたしの唇から漏れたそんな言葉を聞いた中澤さんはわたしの唇に指を当てる。

「こういう時、別の男の名前を出さない」

 そしてそのまま唇が近づいてくる。

「んっ......」

 わたしは静かに目を閉じた。

 数度、軽い口づけが交わされる。

 離れた唇が少しだけ名残惜しい。

 目が合ったことが気まずくて、わたしは一瞬目を伏せる。

 キス。

 よくないことだって叫んでいる自分がいる。

 でもそれをかき消すような魅力が、この人にはあった。


 ぱっちり二重に小さな唇。線が細く、少しだけ頼りない体型。

 すごくかっこいいわけじゃないけど、人を惹きつける不思議な何かを持っていて、誘蛾灯に群がる蛾のようにわたしはこの人に惹かれていった。


 ――――そして。

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