/10 シオン 追想
〔世界は常に更新される
ただし予期せぬ内に、求めていなくても〕
その日は一日中雨が降っていた。
谷の底では雨が降ることはいつものことで、降らない日のほうが珍しい。ただ、一日中雨が止まないと言うことも珍しかった。今は冷たいと感じるのこの雨は実のところ体を蝕み、名の通り芯の方から爛れさせて言っているに違いない。
ぐしゅ、と少年は鼻を啜った。季節は冬に差し掛かっているというのに雨の中を濡れて歩き回ったせいだ。少年が住処にしていた、瓦礫がちょうど隠すのにも屋根にもうってつけだったほら穴は、数時間前に降り注いだガラクタ共によって見事に潰された。間一髪、少年は外出していたので、ろくろくと家と呼べるようなものが潰れただけだったが、いかんせん、止まない雨と累積した物共が厄介だった。
地上から降り注ぐものは、ひとしく塵だが谷の底の人間にとっては貴重な資源でもあった。目ざとく適当にいくつか役立ちそうなものをリュックに詰めて貴重な食糧だけは回収して、(いつもは少年もするように)漁りにくるであろう他の谷の底の人間が来る前に離れた。
眠りにつける程度には整えた自分の縄張りがとうと潰えてしまったので、少年は薄汚れたシーツにくるまり地面と壁の間辺りに身を隠した。ちょうど壁面の隙間から太太とした植物の化石があって、屋根になったからだ。
服ごと濡れた少年の体は冷え切っていた。
これから冬がやってくる。永遠に空を灰煙色の雲が覆う退廃世界の冬は、当たり前のように人を殺す。谷の底は凍てつく寒さが牙を剥いた。随分と絞ったが、雲に似た少年の鉛色の髪はぷくりと雫をつくっては滴った。
しくじった。目先の欲に囚われず、食糧だけ持って場所を離れればよかったのだ。全身をびっしょりと濡らした少年は寒さを紛らわすように更に身を縮こめた。
谷の底はゴミ捨て場だ。ふたつの国にとって都合のいい廃棄場。捨てられたものたちの最終地点。無法地帯として荒れている、と言うよりも廃れているような場所だった。
空からは定期的に毒が降って、陸からは不定期に塵が捨てられて降った。朝昼は薄暗く、夕夜は闇に支配される。不気味といえば不気味で、汚らしいといえば汚らしい。なまじ、形が崩れることなく累積していると言うのが悪い。いっそ国の“外”のように何もかもなく、ときおり植物の化石や点々とスクラップパーツだけが残っているような方が殺風景で良い。
谷の底にはあらゆるものがあった。
可笑しな音を上げる人形、煙を時折吐き出す蒸気機関、錆びた剣、点滅を繰り返す機械、腕がもげたぬいぐるみ。ぼんやりと発光する液体を垂れ流す瓶、生臭い匂いが立ち込める宝箱、足のない肉、じゃくじゃくと音を鳴らすランプ…そこに紛れて、人間の影がいくつか。時折蠢いては落ちた残飯や腐り掛けの畜生らしきものを口に食んで、また動かなくなった。
谷の底にはあらゆるものがあったが、あるだけだった。
廃れた谷の底の頭上では、いつものように賑やかで元気な戦火の音が落ちてくる。体を縮こませ寒さを耐える少年の視界の端に、布を被った痩けた“それ”がもぞりと動いた。多分、“それ”はもう時期動かなくなるだろう。幼児のように呻き、芋虫のように蠢いては、雨に濡れるのも厭わず陰った腕を必死に伸ばしていた。
呻く元気がある奴は羨ましいな、と素直に思った。
谷の底には珍しい。大概は何かしらに憎悪の呪詛を吐いて、吐くだけだった。
何もしないのではない。
何もできないのではない。
何をすればいいのかわからないのではない。
ただもう何もかもどうでもいい、何をしても無駄だと知っている。憎悪だけを忘れないのは、ただの義務に近い。
少年もそういうものだった。喪った悲しみも、耐え難い憎悪も、ただ、炎をくべらせるだけだった。
谷の底では、少年のようなすたぼろとした姿の人間は珍しくない。
少年は五体満足で、目が啄まれているわけでも耳を突かれた訳でもなかった。その上頑丈で、頭の線が切れるよりも前に飢えや痛みに喘ぐ方がいつも早いので谷の底を徘徊しているだけだった。
これを元気と呼ぶかは、果たして。
いつの間にか三角座りでシーツを体に巻きつけたまま眠ってしまったらしい少年は、体こそ固まって痛かったが喉の痛みも気怠さもなかったので幸いだった。飽きることなく降っていた雨も止んでいる。
今のうちしかない、とすぐさま立ち上がった。早くしなければならない。というのも、空気がまだ湿って気圧が重かった。きっとすぐにでもまた雨が降る。
少年は潰れてしまったほら穴の代わりになる住処をすぐに見つけなければならなかった。ずっと壁に張り付いた状態で座って暮らすのはごめんなのだ。
谷の底は水捌けは、そう良くない。特に冬に差し掛かったこの時期はいっとう、悪い。窪んだ場所に溜まる毒の水を蹴って歩く。
冬は寒さで体を貫かれるが、降るのが埃雪というのはまだ良かった。埃雪は細かい雪なので積もってもたかが知れているし、溶けてもその水分量は雨に比べれば大したことがなかった。代わりに毒の成分が雨に比べれば濃いらしいが、谷の底の人間からすれば今更だ。
雨の何が嫌かというと降って、降って、溜まったことで陸からふるものたちの大半が駄目になるところだ。しかもどさどさ落ちてくる肉塊の腐敗がますます酷くなるし、鼻をツンと刺激させる匂いが篭もる。
ここ最近、橋の上は賑やかさを増している。お陰で降ってくる物が多いのは助かるが、同時にそれが落ちてくるのも増えるのが難点だ。
そこで少年は違和感を覚えた。
谷の底の景色というのはすぐに変わる。陸から降ってくるものたちが累積して行っては潰れていくので、仕方なかった。
なので少年が見つけたガラクタが積み上がった“それ”もそういうものかと、最初こそ錯覚した。目を凝らす。遠目の時点で違和感を覚えれたのは、ひとえに少年の観察眼が優れている証拠だろう。
足音をけして、近寄るとやはり違和感は正しかった。確実に人の手が加えられ、ぱっと見たところ適当に積み上がっているようなそれらは石垣のように複雑に組み合わさって独立している。
少年が住処としてつかっていたほら穴なんぞとは格が違う。これはきちんとした小屋だ。しかも、歪な形は谷の底で不審に目立たないように遠目ならばトタンや金属板の捨て置き場に見えるようにされている。
ガラタと軋む音が聞こえ少年は慌てて物陰に隠れた。歪なガラクタの小屋の扉らしき縦穴から人が現れた。はっきりとピントが合うとそれが男であることに気がつく。
男は所々煤れているが随分と小綺麗な格好をしていた。恐らく元々は純白という言葉が似合う色をしていたのだろう白衣を羽織り、フレームがよれて片方のレンズが砕けた眼鏡を大層大事に身につけている。
雨が、また、降った。
すっかりと止んでいたはずの爛れた雨が降り始めた。
濡れることなどとうに気にせず雨に紛れた少年は影に似ていた。
フレーム越しに見えた男の瞳はたいそう澄んだあおいろだった。必死さの欠片もないやわい表情で工具らしきものを手に持っている。積み上がったガラクタを弄っている男の姿は谷の底では笑われるほど隙ばかり。
谷の底にはあらゆるものがあった。へしゃげて短い鉄パイプだってあった。
雨が降っている。
毒を孕んだ爛雨がざぁざぁと降っては、ガラクタたちにはねて音を響かせる。
少年の足音はちゃんと雨音に掻き消されていた。
もっとずっと幼い頃から、少年は谷の底の住人だ。体の中にはちゃんと毒が染み込んでいる。
谷の底にはたったひとつだけ、ルールがある。やられた方が悪い。それだけ。たった、それだけ。だって、きっともっと真っ当なはずの頭上ですら、倫理も道徳も、付け加えて人道なんて無視したものの真っ最中。
毒の雨は、廃れた谷の底は、少年を正しく影にした。
(せんそうでおちやぶれた学者とかか?まあたらしそうな飾りものだしたかくうれるな。)
その目は谷の底では正しい形で男を見ていた。
目の前の玩具が大層楽しいのか知りやしないけれど、都合が良かった。少年の姿は影だった、その影は蛇に似ていた。その牙が男の背中にかかる瞬間、男が弄っていたそれがボンッとけたたましい音と共に煙をあげた。あとほんの数センチのところだったのに!
思ってもいなかったそれに少年の体が跳ね上がり、雨で滑った鉄パイプが何かの残骸の上に落ちて、はねた。雨音では隠せない錆びついた音が響き渡る。
その瞬間に少年の姿は影でなくなった。
しくった。しくじった。失敗した。
当然のように男は振り返った。
男の手には当然に、工具は握りしめられたまま。少年はずりずりと爪先の位置を斜めにずらした。浅く息を吐いて、少年は沈黙を貫いた。
落ちて錆びついた音を響かせた鉄パイプを持っていた、空中で彷徨わせる少年の腕を優しげとも無関心ともとれる顔で見遣った男はそれでもなお工具を握りしめたままだった。振りかぶる気配はまるでない。
それどころか抑揚の薄い声で少年に話しかけてきた。
「ん、君、雨に濡れてるよ。こっちに入ったらどうだい?あぁ大丈夫、何かを奪おうなんてしないからさ!」
皮肉めいた言葉ではあったが驚くほど敵意も何もない言葉でもあった。
神様は世界を廃れさせたが、無くさなかった。壊さなかった。
実のところ世界を壊すのは神様でも、天使でも、悪魔でもない。
なんてことない。、敵意なぞまるで見せない優しい顔で手を差し伸べるような奴が、壊すのだ。
あおいろの男との出会いが少年の全てを滅茶苦茶にした。
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