第3話 22歳の恋

 転勤してきてから、焼き肉を食べて、海を見に行った。海と言っても、都会の海とは、かなり違っているのがよく分かる。それは、当然といえば当然のことなのだが、後ろを振り向いた時、夜景との代名詞ともなるネオンがほとんどないのである。

 佐伯が通学していた大学があるところは、

「海が近く、山も裏から迫ってきている」

 というようなところだっただけに、

「百万ドルの夜景」

 と称されるところで、

「日本三大夜景」

 の一つに数えられている。

 ただし、諸説あるようで、その所説によって、ここが省かれることがあるようだが、それはあくまでも、

「見る位置によるからではないか?」

 と佐伯は思っている。

 どちらにしても、日本有数であることに違いはない。それに比べれば、さすがに見劣りするのは当たり前のことだった。

 ただ、この街の夜景で気になるところは、

「奥に見える製鉄所」

 だったのだ。

 夜でも、きれいに光って見えている。しかも、蛍光色もあれば、白色照明もあり、赤い警報色もあったりする。

 半分くらいが、点滅していて、そのスピードがすぐには点滅していることが分からないくらいに、ゆっくりと点滅しているので、他の光との時間差で、さほどゆっくりと感じさせないところが、一種の、

「光の魔術」

 を、映し出しているのである。

 それを思うと、夜景というのは、

「都会だけがキレイだ」

 という意識は間違っているのではないかと思うのだった。

 いくら、寂しく見えても、寂しいだけに、暗さに慣れてくると、その暗さの中から浮かび上がってくるものが、次第に輝いて感じられるようになるということが、分かってくると、

「いつまで見ていても飽きないな」

 ということを思わせる。

 ただ、潮の匂いは、都会でも田舎でも変わりはないものだ。それでも、

「ここが田舎だ」

 という意識を持ってしまうと、匂いが強烈に感じられるのは、錯覚というよりも、もはや妄想ではないかと思われるくらいだった。

 防波堤に立っていると、波が打ち寄せる音が聞こえてきて、急に足がすくんでくるのを感じさせる。

「ここから、落ちたら、誰か助けてくれるだろうか?」

 と、思うとゾッとする。

 季節はまだ、暑さが残っているとはいえ、風が吹いてくると寒さがこみあげてくる。それを思うと、足がすくんで動けなくなるのも無理もないことであった。

 車を防波堤の先まで行って、ギリギリのところに止めたが、その先の方には数台の車が止まっていた。

「釣り客なんだろうか?」

 と思ったが、近寄ってみる気はなかった。

 なるべくつかず離れずくらいの距離にいて、海を見ていると、囁きの声が聞こえてくるようだった。

「だけど、本当は誰も何もしゃべっていないんだろうな?」

 とは思ったが、錯覚であればあるほど、この距離が一番いい距離なのだということを感じるのだった。

 あくまでも、自分は一人で来たのだし、人の邪魔をしたくないという思いと同じくらいに、

「自分も邪魔されたくない」

 と感じるのだった。

 海を見ていると、本当に落ちてしまいそうになった。そもそも、佐伯は高所恐怖症なので、高いところは苦手だった。そう思いながら、防波堤から、海を覗き込むと、静かな波が遠くから差してくるわずかな製鉄所の光に照らされる感じで、ゆっくりと靡いているのが見えるのだ。

 反射しているといっても乱反射であり、しかも、わずかな光なので、水面までお距離が分からない。

 分からないだけに恐ろしさがある。その恐ろしさは、却ってゆっくりと靡いていることで気持ち悪いのだ。

「落ちてしまうというよりも、吸い寄せられる感覚だ」

 と感じた。

 最初は見ていて、落っこちそうな感じに逃げ出そうと思ったのだが、完全に首が痛くて動かない。下を向いたままで動かない感覚を覚えると、今度は、頭を上げることが怖くなってきた。

 首を動かすことも身体を動かすこともできるのだが、どうしても動けないのは、

「頭を上げてしまうと、意識が朦朧としてしまい、そのまま海に落ちてしまうのではないか?」

 と考えたからであった。

 まさか、本当に落ち込むわけはないと思うのだが、そう思っている以上、動かしてしまうと、勝手に身体が動いてしまって、潜在意識が勝手に海に向かって落ちている自分を想像し、

「その通りにしないと、意識が自分を許せない」

 と思うのではないかと感じるのだった。

 さすがに、今日、死にたいとも思っていないのに、ここで飛び込むわけにはいかない。それよりも、

「この場所から飛び込みたいと思ったとしても、思い切って飛び込む勇気を、その時に持つことができるだろうか?」

 ということであった。

 決して、持つことなどできるはずはないと思っている。

 それに、

「死ぬ結城など、そう何度も持てるものではない」

 と感じたからだ。

「あれ? 俺はかつて、死ぬ勇気なんか持ったことあったんだっけ?」

 と感じた。

「死ぬ勇気」

 と、

「死にたい」

 と思うことではまったく違う。

 死にたいと思ったことはあったと思うのだが、だからと言って、その時に勇気が持てたのかと言えば、疑問である。そもそも、

「死ぬ勇気が持てたのなら、その時に死んでいてもおかしくないし、ましてや、そんな感情を持っていたなどということを忘れているというのもおかしな気がするではないか」

 と思うのだった。

 だとすると持ったとすれば、死にたいと思った時ではなく、死というものとかかわりのない時に感じたということか?

 死というものをそんなに簡単に、意識できるものなのかと思うと、潜在意識というものは恐ろしくなってきた。

 ただ、もし感じたかも知れないと思うのであれば、それは、夢で見たことだったのかも知れないといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、次第にそれまで穏やかだった風が次第に強くなり、風の強さで、自分の意識が我に返ってくるのを感じた。

「いつまでもいるところではない」

 と、最初はあれだけ癒しを感じていたのに、最期には、死の覚悟まで考えさせられるとは思わなかった。

 もちろん、死の覚悟などを思い出さなければ、こんな思いを感じることもなかったのだろうが、やはり、この場から早く離れることが一番だと思わざるをえなかったのだった。

 急いで車に戻り、その場から立ち去った。

 大通りまで出ると、結構車が走っているので。

「俺はどれくらいいたんだ?」

 と思い時計を見ると、1時間もいなかったではないか。

 本人の感覚としては。まるで今が真夜中の感覚だ。それだけ、あの場所が暗かったということであろう。

 部屋に帰ると、最初に感じた部屋の雰囲気よりも、少し狭く感じられた。理由はいくつか考えられる。

 一つは荷物が入ったことだ。まったくと言っていいほど何もなかった部屋に、まだほどいていない荷はたくさんあるが、とりあえず、机や箪笥、水屋のようなものは入った。テレビ、ラジカセのような、音が出るものも入っている。当時は、テレビもやっとリモコンが出てきたくらいの頃だ。今のように、地デジところか、普通に衛星放送などというのも、普及されていなかった。

 ラジカセはというと、ダブルカセットが流行った時期で、ダビングが可能だったので、学生時代には、友達から借りてきたカセットを自分ように、好きな曲だけをシャッフルさせる形で録音したものだった。

 もっとも、表で聞くときは、ヘッドホンステレオのようなものはあった。

(通称で言われているものは商品名なので、一般的には言葉としてはつかえないと思われる)

 もう一つの部屋が狭く感じられる理由は、

「表が暗くなった」

 ということであろう。

 光が差し込んでくる時間帯は、その光が影を作っていた。今も蛍光灯の明かりがあり、影は作っているが、どうしても、人工的な影であるということは否めない。そう思うと、夜の蛍光灯の影は、くっきりとしすぎて、その範囲を決めてしまうのだ。

 そのことが、部屋を狭くさせる要因なのではないかと思うのだった

 さらにもう一ついえば、満腹状態になったことで、一気に睡魔が襲い掛かっていることが考えられる。何しろ、何時間も掛けて、前の勤務地のある街から、車をはるばる走らせてきたのではないか。それを思うと、眠気が襲ってくるのも当然というものだ。

「布団だけには入って寝ないと風邪をひく」

 とよく、親から言われてきた。

 親に対しては、結構逆らう方だったが、こういう忠告だけは忠実に守る方で、まわりからは、

「お前は変なところで律義なんだから」

 と言われていたものだった。

 明らかに眠りに落ちていくのは感じていたが、気がつけば、朝だった。

 いつ、寝間着に着替えたのか、ちゃんと着替えてはいたし、いつかけたのか自分でも覚えていないが、確かに目が覚めたのは、目覚ましのおかげだった。

「朝の、7時5分」

 想像していた通りの時間である。

 こんなに早く起きる必要はないのだが、別に目覚めが悪いわけでもないのに、こんなに早く目が覚めたのは、

「この時間に起きた時が、一番仕事中に眠くなることはない」

 という、佐伯独自の勝手な思い込みだったのだ。

 会社の始業時間は、9時である。新人なので、遅くとも、8時20分までにはいかなければいけないと思っていた。

 本当はもっと早く行けばいいのだろうが、

「開いていなかったらどうしよう?」

 という思いがあったのだが、正直それはないのは分かっていた。

 前の支店であれば、一番早く出社してくる人は、7時半には来ていた。

 もちろん、一番ノリは営業の人で、8時過ぎくらいまでには、営業は皆集まっていた。管理の人は、8時を過ぎた頃には来ていたであろうか? 佐伯はまだ研修中ということもあって、しかも、車での通勤ではなかったので、バスを使っての出勤だったということで、8時20分くらいの出社となった。

 始発だと、一番ノリの人も出社していないということであり、何しろ、バスに乗っても、途中で乗り換えなければいけないという手間まであったので、それも仕方のないことだった。

 今度の支店がどのような感じなのか分からないので、とりあえず、8時10くらいまでには来るようにした。それでも、研修中の支店の時よりも、かなり楽であることには違いない。

 支店は、海の近くにあった。夜に見た、あの製鉄所と平行して走っている浜沿いの国道の向こうには、その製鉄所の敷地があった。

 ちょうど支店から、製鉄所の煙突が見えていて、その煙突から煙こそ上がっていなかったが、その存在感は、ハンパではなかった。

 会社に行くと、昨日の支店長と、営業の先輩が数名来ていて、挨拶をすると、皆表情は明るく、

「おはよう」

 とあいさつをしてくれたが、かまってくれたのは支店長だけで、他の営業の先輩は、すぐに顔を下に向けて、仕事に戻っていた。

「こんなにも、シビアなんだ」

 と感じた。

 研修の時にも、そういう雰囲気はあったが、あの頃と違って見えるのは、単に支店が違うからであろうか?

 それだけではないような気がする。

 正直、誰も顔を上げることはしなかった。

「それだけ、朝の仕事は皆、早く出社しなければ間に合わないということか?」

 と感じた。

 確かに、営業は営業手当がつくが、それだけではない何か自分なりの努力が必要なのだろう。何しろ、営業は競争ではないか。同じ支店の中であっても、その評価はあくまでも、成績でしかない。

 どんなに毎日早く出てきて、努力をしていても、それが実らなければ、

「無駄が多いのではないか?」

 というマイナス面しか評価されない。

 それだけ、営業は目に見えない仕事をしていることであり、数字だけでしか評価されないという、ある意味理不尽な仕事なのだ。

 元々、大学で、最初は教員を目指していたので、それも、生徒に教えている合間に、自分の研究をコツコツ重ねることで、自分の地位を高めようと思っていた。

 それが、いつの間にか、会社勤めをするようになったことが、一種の人生の間違いだったのかも知れない。

 そんなことを考えていると、研修をしていた支店との違いが、次第に身に染みて分かってくるのではないかと思うようになってきた。

 そんなまわりの冷たさに、自分の身の置き所を一瞬にして失ったその時の心境は、まるで、

「俎板の鯉」

 の状態だった。

 支店長がそれを見かねて、

「あと少ししたら、会議を始めるので、そこの会議室で待っていてくれればいいよ」

 と言われたので、待合室で待つことになった。

 その時、ちょうど会議室の掃除に入ってきた女子社員がいたのだが、彼女を見た時、

「完全に頭の中が真っ白になった」

 と言ってもいいほどの衝撃を受けた。

 彼女は、笑顔だったわけではなかった。ただ佐伯がいることに、ビックリはしたようだったが、それはほんの一瞬で、きょとんとしていたと言った方が正解だったかも知れない。

「ごめんなさい。お掃除してもよろしいですか?」

 と、一瞬だけとはいえ、あれだけ驚いたくせに、それ以降は初対面であるということも意識せず、淡々と掃除を始めた。

 だが、後で聞いた時、

「あの時、私も電流が走った気がしたのよ。だから、あの後、必死で平静を取り繕っていたでしょう?」

 というではないか。

「なるほど、先輩だから、あんなに落ち着いていたと思って、この会社は、化け物ばかりがいるところなんじゃないか?」

 と思ったが、実はそんなことはないようだった。

 後で聞くと、彼女は確かに先輩でもあり、年齢も自分よりも上だという。

「見た目は、未成年にしか見えないのに」

 というのは後から考えたからそう思っただけで、本当は、

「こんなにかわいいのに、何て凛々しい堂々とした態度なんだ」

 ということであった。

 それなのに、あれだけ落ち着いていたのに、その最初の驚き方は、滑稽に見えるほどだった。

「まるでニワトリが驚いたような感じだったよ」

 というと、

「いやねぇ、そんな風に見えていたの?」

 と言って、お互いに笑ったほどである。

 彼女は、名前を高山和代といった。ショートカットがよく似合う女の子で、

「そっか、凛々しく感じたのは、このショートカットが、ボーイッシュに見えたからなのか?」

 と感じたからだった。

 しかも、

「ショートカットが似合う女の子は、ロングにしても似合う」

 という考えを独自に持っているのが、佐伯だった。

 もちろん、個人の勝手な思い込みだったが、ほぼ今までその考えに違いがなかったのも事実である。

 今まで、ほぼ一目ぼれのなかった佐伯が初めての一目ぼれだったのだ。

 今までの佐伯が人を好きになる過程というのは、まず、その顔を見て性格を判断するのだ。

「笑顔がかわいい」

 であったり、

「凛々しさがハンパない」

 などと言った印象を受けることで、

「この人は優しいだ」

 とか、

「頼りがいがある」

 などというところである。

 どちらにしても、それは、まるで女性が男性に望むようなことだが、佐伯の中では、

「男であろうが、女であろうが、異性を好きになるというのは、本来同じところからくるのではないか?」

 と思っていた。

 それは、人間の起源が同じものであり、そもそも、

「進化する前の人間というのは、同じ身体の中に、男性も女性もいたのではないだろうか?」

 という考えを持っていた。

 一般的な動物は、雌雄異体なのだが、中には、雌雄同体であったり、種によっては、雄と雌が状況によって、コロコロ変わる動物がいるという。

 動物というのは、実に面白いものだ。

 そんな中に、コウモリという動物がいる、

「卑怯なコウモリ」

 という話を皆さんはご存じであろうか?

 これは、イソップ寓話の中に出てくるものだが、

「獣と鳥が戦争をしていて、獣に遭えば、自分には毛が生えているという理由で、自分を獣だといい、鳥に遭えば、羽根があるという理由で、自分は取りだといって、うまく立ち回っていたのが、コウモリなのだが、そのうちに、獣と鳥が戦争やめると、うまく立ち回っていたコウモリの存在が問題になり、どちらからも相手にされなくなり、結局洞窟の奥深くに入り込んでしまって、活動するのは、誰もが寝静まった夜の、しかも、実に限られた範囲でしかないということになった」

 という逸話である。

 コウモリのような動物もいるのだから、雄と雌が状況によって変わる動物がいても、不思議はないような気がする。

 むしろ、特殊な雌雄異体や、雌雄同体というのは、人間から見て、異端に見えるだけで、他の動物からみれば、当然の種族なのかも知れない。それだけ自然界というのは広いということなのだろう。

 佐伯は、自分が好きになった女性を思い返してみると、徐々に好きになっていったこともあって、思い出そうとしても、どの段階で好きになったのかということが意識できない気がしていた。

「ひょっとすると、本当に好きになったのではないのかも知れない」

 と思うほど印象が薄いものであるが、それも、この時の一目ぼれがあまりにも、強烈な印象だっただけに、それまでの印象がまるで、影が薄れていくかのように感じられたのである。

 その時の和代は確かに笑顔が素敵だった。えくぼがハッキリと分かるほどで、

「包み込むような笑顔というのは、ああいう笑顔のことをいうのだろう」

 と感じたほどで、次に感じた凛々しさは、笑顔が最初にあったからに違いない。

 最初にあった笑顔が強烈だったからなのか、その後に感じた印象がイメージが違いすぎて、却って最初に感じた笑顔がどのようなものだったのか、思い出せないくらいだった。その印象が、自分の中で、

「初めて女性を好きになるのは、本能から来るものだ」

 ということを、教えてくれたような気がした。

 実際に好きになってみると、それまでの自分の人生が急にリセットされたような気がするから不思議だった。

「別に相手も自分が好きで、付き合い始めたわけでもないのに」

 と感じるのにである。

 実際に、今まで付き合ったことがある女性にだって、本当に自分のことを好きだったのかどうか、分かるわけではなかった。むしろ、別れてから、付き合っていた時期の記憶がすぐに薄れていったくらいで、それを感じたのが学生の頃で、その頃から、

「人の顔が覚えられない性格なんだ」

 と思うようになった。

 それまでは、確かに覚えられないという意識はあったが、それ以上に、思い出そうとする機会がなかったことで、思いはあっても、それが意識として定着していたかどうか、ハッキリとはしないのだ。

 人の顔を覚えられないというのが、すぐに忘れてしまうというのか、それとも、特に印象に残らないから、覚えていないだけなのかということを考えていたが、好きになり、忘れたくないと思う人の顔でさえ忘れてしまうのだった。それは、

「本当に好きになった相手ではない」

 ということなのか?

 もし、そうだとすれば、

「今まで好きになったという感情が、すべてウソだったということになる」

 ということなのかと、疑ってみたくなるのも当然のことで、実際に、この時和代に感じた思いが本当に好きになったということだとすれば、

「もし、別れることになったとしても、その顔を忘れることはないだろう」

 と思っていたが、果たしてどうだったのか>

 年老いてから思い出そうとしても、実際に思い出すことができる。特に初めて見た時のあのセンセーショナルな印象は、忘れようとして忘れられるものではない。

 今から思えば、忘れることのないものというのは、30年も40年経っても忘れるものではない。むしろ、余計に印象が強いものだ。

「年を取れば、よく若い頃のことを思い出す」

 というが、それは、あくまで、決して忘れてはいけないと思うことだけでしかない。

 だから、皆が皆、

「年を取れば、若い頃のことを思い出す」

 というわけでもない。

 ただ、楽しかったという時期を思い出すのだ。

 それが、熟年であってもいいはずだ。しかし、人間というのは、若い時の思い出が一番強かったり、感受性が強かったりすることで、余計にそう思うのかも知れない。

 だが、中年になって思うことは、

「若い頃よりも涙もろくなった」

 と思う。

 それはあくまでも、若い頃の経験があって、年相応の感覚から若い頃のことと、感受性を受けることをシンクロさせるからであって、涙もろくなったのは、何も、熟年になったからだというわけではない。

 それでも、それだけ、柔軟な感受性になってきたからだといってもいいのだろうが、比較対象になるのは、若かった頃のことであろう。

 今から思えば、そのことを、かつて感じたことがあったと思っていたが、それが、初めて和代を見たその時だったのだ。

「そういえば、あの時も、年齢を重ねてから、また同じような思いに至るのではないか? ということを感じたような気がしたな」

 というのを思い出したのだ。

 実際に年を取ってから、その頃のことを思い出そうとすると、確かに、シンクロしたかのような印象で蘇ってくる。

 ただ、同時に、あの時、

「彼女とのことは、一筋縄ではいかないような気がする」

 という、ネガティブな感覚になっていたのも事実だった。

 実際にその通りで、最初に感じた笑顔をずっと忘れずにいたから、必死になってしがみついていたともいえるかも知れない。

 確かに、

「俺には、和代しかいない」

 とずっと思っていたのは間違いのないことで、それは、今でも同じことなのかも知れない。

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