賢いモリー

増田朋美

賢いモリー

杉ちゃんたちの製鉄所に、新しい利用者がやってきた。名前は中島恵さんといい、少し厄介な精神疾患のある女性であった。彼女は、鏡を見ていると、自分以外の誰かが映っているのではないかと不安になってしまう症状があって、それではまるで現実を無視してパラレルワールドに行ってしまっているような、そんな女性だった。

その日も、中島さんは一生懸命勉強をしようとしているのであるが、時々集中しようとすると、いわゆるフラッシュバックと言うのだろうか。幻視が見えてしまう症状があった。それではいつまで経っても、勉強は進んでいかない。一応中島さんは、通信教育を受けているということであったが、これでは何も進歩しない様な、そんなふうに見えてしまうのであった。

いくら誰かが声掛けしても、全く進歩がない中島さんを、杉ちゃんとジョチさんは相談しあって、その日水穂さんを診察にやってきた柳沢裕美先生に見せることにした。誰が何を言っても、彼女は幻視ばかりを信じてしまい、パラレルワールドに行ってしまうということだ。その様な女性をできるだけ現実世界に戻してやるにはどうしたらいいかと杉ちゃんが言うと、

「そうですねえ。それでは犬や猫などを飼ってみたらどうでしょう。他の生物は、人間を現実世界に戻してくれますからね。例えば、ペットショップで買って来なくてもいいんですよ。保健所で捨てられた猫を拾ってきてもいいのです。」

と、柳沢先生が言った。

「なるほどねえ。不幸な犬のほうが、愛情を持って飼えるかもしれないな。そういうことなら、そういう犬を探したほうがいいね。」

「とりあえず、ペットショップに電話してみましょうか。もしかして、売れ残って、病む犬が居るかもしれないしね。」

杉ちゃんと女地さんはそう話し合い、中島恵さんに犬や猫を飼育させることにした。

そこで二人は、まず初めに、中島さんに犬を飼って見ないかと提案することから始めることにした。と言っても、彼女は、パラレルワールドと現実世界を揺れ動いている。まず初めに犬を飼う話をどうやって持っていくかであった。彼女はいつも疲れた様な顔で、一人で勉強することが多いので、そのときに話を持ちかけて見ることにした。

「今日も、なにか見えますか?」

ジョチさんは、彼女中島恵さんに言った。

「ええ昔あった学校の先生の事を、思い出してしまうんです。」

彼女は辛そうに言った。

「そういうことなら、提案があるんですが、犬を飼ってみませんか?」

「そうそう。そうせそこでぼんやりしているのならよ。わんこちゃんを散歩させて、外へ出てみたらどうなの?もふもふしてかわいいし癒やされるぜ。僕らが飼っている、フェレット二匹と遊ばせてやってもいい。」

ジョチさんを杉ちゃんがそう話すと、彼女は少し考えた顔をして、

「そうですね。私が世話をできるかわかりませんが、犬を飼ってみます。」

と言った。

「よし、そんなら、保健所に行って、犬を探してみるか。ペットショップの売れ残りとか、そういう犬でもいいからな。」

と、杉ちゃんが言ったので、三人ははじめに保健所へ行ってみることにした。杉ちゃんたちが、保健所に行ってみると、居るわ居るわたくさんの犬たちが檻の中で待っていた。とりあえず最初に目があった、白と黒の大きな斑犬を引き取りたいと、恵さんが言ったため、その犬を引き取ることにした。その黒白の斑犬は、見事な毛並みをしていて、とても美しい犬であった。ジョチさんが、スマートフォンで種類を調べてみた所、ラージミュンスターレンダーというハイカラな名前をした犬種であった。性別は雄犬。杉ちゃんに名前をつけろと言われて、とりあえず、恵さんはモリーと名前をつけた。

とりあえず、モリーを連れて、保健所に必要な手続きをして、三人は製鉄所に帰ってきた。杉ちゃんたちはとりあえずモリーにドッグフードを食べさせて、次は首輪や他のものを購入しなければならないなということになった。そこで三人はモリーを連れて、革工芸品を売っているアンティークショップへ行くことにした。

アンティークショップは、荒田島というところにあった。荒田島は、少し遠いところにある。小薗さんの車で二十分ほどかかったが、車の中でもモリーは、静かで穏やかな犬であった。

その店はペットも入店可能だったので、モリーを車からおろし、杉ちゃんとジョチさん、恵さんは、店の中へ入った。店内には確かに犬のリードや首輪などの犬の生活用品がたくさん売られている。専門店だけあって、大型犬用のハーネスや、洋服も売られていた。

「とりあえず、散歩に行かなければいけませんから。犬用のハーネスと、リードを買いましょう。大きな犬ですから、一番大きなサイズが良いと思います。」

ジョチさんに言われた通り、恵さんはリードとハーネスを買った。シェパードも入れそうな、大型犬用のもの。店の店主さんが、今どき大きな犬を飼うのは珍しいね、と言っていた。

「よし、リードを付けて、バラ公園に散歩に行こう。」

恵さんがモリーにハーネスとリードを付けると、モリーは安安とリードに入ってくれて、恵さんに従って歩いてくれたのであった。小薗さんに運転してもらってバラ公園に行った。

「あら、可愛いワンちゃん。毛が黒くてきれいなワンちゃんね。とても素敵なワンコちゃんだわ。」

と、小さな犬を連れたおばさんが、杉ちゃんたちの方へ近づいてきた。

「ありがとうございます。名前はモリーです。」

恵さんが言うと、

「そうなのね。賢そうなワンちゃん。とてもおしゃれな感じだわ。ねえ。よろしければ、犬友になりません?あたしも、こんな小さな犬だけど、一応犬を飼っているんだからさあ。それなら仲間がいたほうが良いわよ。」

と、おばさんは言った。

「そうですか。ありがとうございます。あの、よろしければお名前を伺ってもよろしいですか?」

と、恵さんが彼女に聞いた所、

「ええ、葛西です。葛西ノブエと申します。」

と、彼女は答えた。

「ありがとうございます。葛西ノブエさんですね。私は中島恵です。よろしくお願いします。」

恵さんは頭を下げた。

「じゃあ、私の犬仲間にもぜひ会ってくださいよ。犬にもいろんな犬がいて、可愛い子が多いわよ。」

ノブエさんはにこやかに言った。

「そうですか。犬のサークルみたいなものがあるんですね。それなら私も、参加してみようかな。」

恵さんがそう言うと、

「それなら来週の今日、この公園に来てよ。私だけではなくて、他の犬も来るわよ。ぜひ、遊びに来て。」

ノブエさんは嬉しそうに言った。

「時間は一時に来ればそれでいいわ。」

「ありがとうございます。じゃあ、ここへ来ますので、よろしくお願いします。」

恵さんとノブエさんは、にこやかに笑ってその場をあとにした。ノブエさんの連れてきた小さな犬と、ラージミュンスターレンダーのモリーは、お互いに顔を舐めあって挨拶した。この二匹は、もしかしてオスとメスだったのかもしれない。大きさは倍近く、モリーのほうが大きいが、それでも仲良く楽しく遊んでいる。とりあえず二人は、ありがとうございましたと言い合って、その場をあとにした。

「良かったですね。犬の話ができる人が、現れてくれるんですから。」

製鉄所へ戻ると、ジョチさんはなるほどという顔でいった。

「ええ。私もびっくりしたんですけどね。なんだかとても親切そうな人で、私もそのグループに入ってもいいかと思いました。」

と恵さんは嬉しそうに言った。

「そうですか。今はいろんなテーマのグループがありますからね。参加してみるのも悪くないと思いますよ。ただ、その中で内紛が起きたりすると、ちょっと、大変ではあるんですけどね。まあ、それさえなければ大丈夫だと思いますよ。がんばってください。」

ジョチさんは、ちょっとため息を付いた。

「まあ偶には金に汚いとか、なにかの宗教に入れようとするやつも居るからな。気をつけてやれよ。」

杉ちゃんに言われて、たしかにと恵さんは言ったが、それをあまり耳に入れていなかったようである。

それから一週間経って、恵さんはモリーを連れてバラ公園に言った。すると、東屋の近くで、葛西ノブエさんに会った。その時は、犬を連れていなかった。まず初めに、犬を近くにあった杭に繋いでおけとノブエさんは言ったので、恵さんはその通りにした。そのときは、ノブエさんの言うことを、何も疑わないで、そのとおりにしたのであった。

「それでは犬の大好きなグループに入ってよ。入ってもらうにあたって、少しだけ条件があるの。これを見てもらえないかしら?」

ノブエさんはにこやかに言って、一枚のリーフレットを恵さんに渡した。そこには、宗教法人親月苑と書いてある。親月苑といえば、強引な入信手続きで、有名な宗教法人であることは、恵さんも知っていた。

「このリーフレットはなんですか?」

と恵さんが言うと、

「はい、犬友になって貰う前にここへ入ってもらいたいの。そのほうがより、信頼関係が結べると思って。」

と、ノブエさんは当然のように言った。

「でも私は、宗教と言うものは。」

と恵さんは言ったのであるが、ノブエさんはこういう事を言い始めた。

「でも今は、大きな災害とか、変な事件なんて、日常茶飯事でしょ。どうしても受け入れられなくて、我慢しなければならないことだってあるじゃない。そういうときに誰かに頼りたいってことだってあるじゃないの。だけど、現実は本当に冷たくて、一人ぼっちでそれでも生きていかなくちゃいけないこともあるのね。これからだって、ご家族が倒れるとか、そういうこともあるわ。そのときに心の支えがほしいでしょう。それを叶えてくれるのが、日蓮大聖人なのよ。あたしは、その人のお陰ですごい大きな収穫を得ることができたわ。あなたに巡り会えたから。」

ノブエさんの言う通りなら、そのとおりなのかと恵さんは思わず思ってしまった。

「だから、あなたも、親月苑の仲間になって。そして入会金として、10万円支払って。これくらいの出会いをくれたんだから、あなたもこれくらいのお金を払うことも厭わないでしょ。だから、10万円あ払ってよ。ねえ、頼むわ。」

恵さんは困ってしまった。それでは一体どうすればいいのか。まず初めに、自分に10万も払うほどの余裕は無いということを告げなければならなかったがそれも言えなさそうな雰囲気になってしまった。

それと同時に。製鉄所では布団に寝ていた水穂さんが、玄関先から犬の鳴き声がすると言い出したので、ジョチさんが、玄関へ行ってみた所、一匹のラージミュンスターレンダーが、半分切れたリードを引きずりながら、吠えているのが見えた。これは恵さんの犬で、名前はモリーであることを思い出した杉ちゃんと女地さんは、どうやってモリーがリードを切ったのか、不思議で仕方なかったが、

「多分ご主人が大変な目にあっているのを知らせたくてここへ来たんでしょう。それでは彼のあとを追って見たらどうでしょう?」

と、水穂さんが言うと、モリーは二人にこっちへ来いとでも言いたげに、製鉄所の玄関から走り始めた。ジョチさんに車椅子を押してもらいながら、杉ちゃんたちはモリーのあとを追いかけた。

しばらく道路を走って、杉ちゃんとジョチさんはモリーに案内されて、バラ公園の中に入り、そのまま東屋の近くに走っていった。東屋の中では、恵さんが、酒井ノブエさんの差し出した契約書にサインをしようと言うところだった。ちょうどそのときに犬が高らかに吠える声がして、二人はその手を止めた。それと同時にモリーが二人の間に突っ込んできて、恵さんの膝の間に収まった。どうして犬がこんなところに、とノブエさんは驚いていた。ジョチさんは、風で飛んできた、親月苑のリーフレットを拾いあげて、恵さんが親月苑に無理やり入信させられそうになっていたのを知った。

「やれやれ、こういう宗教法人は困ったものですね。全く信徒を増やすだけが宗教ではありません。宗教は、皆の生活を豊かにしてくれるためのもので、高額なお金を支払わせるだけのためのものではないのです。」

ジョチさんは、一生懸命主人の顔を舐めているモリーを見て言った。

「本当だねえ。相手をだまして入信させるなんて、ホント、相当おかしな団体だね。」

杉ちゃんも、変な顔をして、彼女たちを見つめていた。

「かわいいワンちゃん。ご主人をとても大切にしているのね。こんなワンちゃん、初めて見たわ。だってうちの犬は、主人である私に、こんなにもなつくことは無いわよ。よほどしつけが良かったのね。」

一生懸命顔を舐めているモリーを眺めながら、葛西ノブエさんは、羨ましそうに言った。

「きっとね、犬は記憶力のいい動物ですからね。その出会ったときの事を忘れてないんじゃないか。ほら、保健所から連れてきたときの犬だった辛さ。犬は、人間よりも賢い動物でもあるんだぞ。忠犬ハチ公とか、いい例じゃないかよ。」

と、杉ちゃんは彼女に言った。

「お前さんは、犬も大事にできなかったら、人間も大事にできることはないよ。お前さんはただ、変な宗教の信徒を増やしたいがだけに、彼女に近づいた。犬で繋がろうなんて本のお触りさ。それじゃあ犬も浮かばれないよ。そういうことなら、人間も犬も大事にしてあげなきゃだめだと思うよ。」

「そうよねえ。しかしどうしてリードを杭に結んで置くように指導しておいたのに、どうして切ったのかしら。それが私にはどうしてもわからないわ。」

ノブエさんはそう言っているが、杉ちゃんの車椅子の車輪の近くに、杭がつけられていて、半分にちぎられたリードがついていることに気がついた。

「まあ、犬ですからね。人間が思っている以上のことを考えていることもあるでしょう。それは僕らにはわからないことです。かしこいモリーと言うべきでしょう。」

ジョチさんは、そういった。驚かれても、そう答えるしかなかった。それしか人間にできることも無いのだろう。いずれにしてもわかっていることは、犬は時々人間以上の存在になれるということだった。

「そういうことですので、製鉄所へ戻りましょうか?こんなふうに女性をカモにする宗教団体に所属している人なんて、碌なことが無いというか、関わらないほうが懸命ですよ。賢いモリーくんのお陰で、もとの世界に戻ってくることができてよかったということにしましょう。それでは失礼いたします。恵さん行きましょうか?」

ジョチさんは、そう言って、恵さんを連れて製鉄所へ戻ろうとした。モリーと杉ちゃんもそれに従うことにした。その時恵さんが、

「待ってください!」

と言った。

「彼女、葛西ノブエさんも仲間に入れてあげてください。彼女もきっと、つらい日々を送ってきたのではないかと思うのです。だから、こういう宗教に頼らざるを得なかったのでは無いでしょうか。きっと彼女だって、犬を大事にしたい気持ちもあったのでしょう。ですが、それが、何かの原因でできなくなってしまったのでしょう。だから、彼女が悪いわけじゃないんですから。」

ノブエさんは驚いた顔をして、恵さんを見つめている。

「悪人も救われるのが、阿弥陀仏の願いでもあるからな。」

杉ちゃんはため息を付いた。

「まあお前さんも、たしかに犬が好きで、犬が一緒にいて楽しいと思ったこともあったんだろう。そうだったんだろう?お前さんの気持ちは、元々それだった。お前さんだって、大事な人間でもあったよな。愛されていたこともあるから、お前さんは誰かを新興宗教に入れようとしたんじゃないのかなあ?そういう気持ちがあると、お前さんはいわゆる三枚舌外交みたいな、そんな事はどうぜできやしないんだ。それは、認めろよな。」

「それでも他人を変なふうに扱って、大金をいきなり支払わせるとか、その様な事はしてはいけません。それはちゃんとあなたもしっかり思っておかないとね。それを無視して、強引に人を勧誘することは、あってはなりませんよ。」

ジョチさんはノブエさんの顔を見てそういった。ノブエさんは、

「申し訳ないことをしました。本当に人からだけではなく、犬にも愛されていて、あなたは幸せですね。中島恵さん。今回の事は本当にごめんなさい。」

と、恵さんに謝罪をした。

「いいえ、大丈夫です。今度は犬をつれて来てください。かわいいワンちゃんを連れて、わたしたちに会いに来てください。ワンちゃんと、私のモリーが、一緒に遊んで居るのを見るのを楽しみにしています。一緒に楽しく遊べるといいですね。そういう日が来るのを待っています。」

「ありがとう、ございます。」

ノブエさんは申し訳無さそうに、恵さんに言った。それと続けて、杉ちゃんたちにも申し訳無さそうに頭を下げた。

「お前さんも早く犬を連れて、こっちへ来いや。」

杉ちゃんはにこやかに笑った。

「ありがとうございます。でも、これまでいろんな人に、新宗教の話を持ちかけてしまって、色んな人に迷惑かけたから、それをまず謝って回らなきゃ。中には、とんでもない金額を支払わせてしまった人もいました。その人達に謝らないと。」

ノブエさんは杉ちゃんたちに向かってそういうのだった。

「まあいろんな人に、大変な思いをさせてきたから、その償いも、大変なこともあるでしょうけど、できるだけ早くこちらへ戻ってこられるといいですね。」

ジョチさんがそう言うと、モリーがノブエさんの右手をそっと舐めてくれた。

「お前さんは本当に賢いモリーだな。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。その日も暑い日であったが、その日は暑い日であったことも忘れてしまいそうなほど、大きな騒動があった日だなと杉ちゃんたちは思った。

いつの間にか、太陽は雲に被って消えていた。もう、まもなくにわか雨が降ってくるのかなと思われる日だと思った。そうやって雨が降ってくるついでに、夏は遠ざかっていき、秋という新たな季節がやってくるのである。そうやって、季節が変わるように、人間社会も変わっていくのだなと思う。


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賢いモリー 増田朋美 @masubuchi4996

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