第11話 初恋の思い出

「胡桃。さっきのは何だったの? 完全に僕だけ置いてけぼりくらった感じだったけど」


 人の多い場所でする話ではないので、私と黎人は人気のない校舎裏のベンチへと移動していた。黎人は塾、私は一時間目の授業が控えているので、話は手短に済ませなくてはいけない。


「今は生井さんを一人にさせてあげたかっただけ。内心はきっと動揺していたと思うから」


 黎人は人の感情の機微に疎い部分がある。普段接客をしている私は逆に敏感すぎるのかもしれないけど、あの状況ではあれが引き際だったと確信している。謎解きという形で関わってしまったけど、本来ならこれは、生井さんと坂さんの二人だけの、極めてプライベートな出来事だ。


「胡桃は、坂さんがお酒をウイスキーからワインに変えた理由に気付いたんだよね?」


 生井さんの前で口に出すのは野暮だと思ったから場所を変えたけど、ここまで調査を続けてきた身として黎人にも知る権利はある。私の考えていることはあくまでも推測の域を出ないけど、生井さんの反応を見るに、限りなく正解に近いはずだ。


「中学時代の生井さんと坂さんは両想いだったんじゃないかな。だけど、卒業と同時に離れ離れになることが分かっていた生井さんは坂さんに思いを告げることはなく、二人の関係は中学卒業と同時に途切れてしまった。だけど、坂さんは大人になって、小説家としてデビューしてからも、生井さんへの思いを抱き続けていたんだと思う」


「だから、生井さんの名前と関連付けたウイスキーを小説に?」


「作中で社会人となった五福大一は、ウイスキーを飲む度に学生時代の恋を思い出している。坂さんが五福に自分を重ねて執筆していたとしたら、ウイスキーそのものが過去の恋心の象徴だったのかもしれない。あるいは無意識レベルで自然とそう表現してたのかも」


「確かに筋は通るけど、どうして後にワインに改稿を?」


「ご本人が亡くなられているし、完全に想像でしかないけど、坂さん自身に心境の変化があって、過去を過去と割り切って、現実としっかりと向き合おうと思ったのかもしれない。だからこそお酒の種類を、自分のペンネームから転じたワインに変えた。飲みかけのウイスキーと、飲み干したワインという表現の違いも、過去に縛られず、今の自分を受け入れるという意味なのかも。これなら、生前の坂さんが生井さんに初期の内容を見られたくないと発言したのも納得出来る気がしない?」


「確かに坂さんの立場からすれば、初恋の相手への個人的な感情が見え隠れする内容を、ご本人には見られたくないと感じてしまうのは当然かもしれないね」


 小説家ではなく、一人の男性として坂健道という人を捉えたことで、黎人もようやく腑に落ちたようだった。小説家、故人の思い、四十年以上の歳月。それらの要素が物語を複雑化させたけど、実際に覗き込んでみるとそれは、一人の男性の初恋の思い出が詰まった、とても個人的な感情だったのだ。


「胡桃は凄いな。僕一人ならそこまで感情を深く読み取ることは出来なかったと思う」

「私からしたら黎人こそ凄いよ。黎人は知識が豊富だし、物事を論理だてて推理することが出来る。私にはそこまでは出来ないもの」

「だとすれば、お互いの足りない部分を補い合う僕達は、やっぱり相棒だね」

「相棒か。そう言われて悪い気はしないかな」


 乙女心としてはパートナーという表現ならばもっと喜べたかもしれない。だけど、きっとこの言葉選びが黎人らしさなんだよね。そういう黎人だからこそ私は黎人に惹かれていった。だから私は相棒と呼んでもらえて嬉しいよ。


「やばい。そろそろバスの時間だ」

「私も、もうすぐ予鈴だから教室に行こうかな」


 話し込んでいる間に、全日制の生徒と定時制の生徒が交差する彼者誰時かわたれどきが訪れていた。一つの謎を解き明かし、すっかり達成感に浸っていたけど、私はこれから普通に授業があるし、黎人も塾に行かなくてはいけない。もう夕方だけど、私達の一日はまだまだ終わらない。


「それじゃあ胡桃、授業頑張って」

「黎人も、バスに間に合うといいね」


 慌ててバス停の方へ走っていく黎人を見送ると、私は生徒玄関の方へと向かった。


「ライラックが咲いてる」


 ふと、生徒玄関近くの花壇に植えられた赤紫色の花が目にとまった。春の花であるライラックだ。その名の通り、「ライラックの歌」の表紙にも写真が使われていたので、この数日でずいぶんと見慣れた気がする。


「そういう意味だったんだ」


 何となく気になり、スマホでライラックの花言葉を検索してみる。

 表示された花言葉は「初恋の思い出」だった。




 了 

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