第10話 ウイスキー

「初版本の内容を教える前に、経緯から話しておきましょうか。私と坂くんは中学時代の同級生。卒業後、坂くんは陽炎橋高校に入学したけど、当時の私は進学はせず、県外の旅館に就職して住み込みで働くことになった。成人式や同窓会にも出席しなかったし、実は坂くんとは中学を卒業してそれっきりなの。ペンネームだったし、彼が小説家としてデビューしたのを知ったのも、訃報を知った時だった」


 中学卒業以来会っていなかったというのには正直驚いたけど、当時は携帯電話が普及していないし、生井さんが卒業と同時に県外に就職してしまったのなら、それきり疎遠になってしまうのも仕方がない。


 中学卒業と同時に就職するにあたり、生井さんもあまり気持ちに余裕はなかったと思うし。地元を離れていた時期のことだから、陽炎橋市出身の坂さんが小説家としてデビューしたことも把握していなかったのだろう。


「転機が訪れたのは数カ月前。卒業から四十年の節目を記念して中学の同窓会が行われてね。私も久しぶりに参加したの。亡くなって三十年が経ってなお、坂くんの話題は絶えなくてね。その話の中で坂くんの親友から、病床の坂くんの言葉を聞かされたの。『生井さんは「ライラックの歌」の本を読んだのかな? 最初の頃に読まれていたら恥ずかしいな』。坂くんはそう言ったそうよ」


「だから、初期の『ライラックの歌』を探すように?」


「坂くんには悪いけど、彼がどうして私に見られたくないと思ったのか気になるじゃない。たけど手元には第五版以前の本は無いし、図書館や書店を探しても見つからなくて。インターネットには疎いのだけど、頑張ってネットでも探してみようかと思っていた矢先に、まさかの灯台下暗しね。通っているこの陽炎橋高校の図書室に、坂くん自身が寄贈した『ライラックの歌』の初版本を発見した。そうして、私の持っている本と初版本とでは何が違うのか。二冊をじっくりと見比べるのを繰り返し、現在に至るわ」


「図書室の本の存在にはいつ気づいたんですか?」


「比古さんは一年生だったわね。三学期には選択授業があって、その中に図書室での読書と感想文の提出というものがあるの。その時に『ライラックの歌』に気付いて、担当の先生に定時制の生徒でも本を借りられるのか確認もした」


 図書室を利用している定時制の生徒は実質、生井さんだけ。その生井さんはどうやって図書室を利用出来ると知ったのか、密かに疑問だったのだけど、定時制の生徒でも授業で図書室を利用する機会があるとは私もまだ知らなかった。


「初版本は一体どんな内容だったんですか? お酒の種類が変わっているそうですが」


 核心へ迫ろうとする黎人へ、生井さんは先程図書室で借りて来た初版本の、本文の最後のページを開いて私達に示した。


『――僕はウイスキーのボトルを棚の奥深くにしまいこんだ。この一杯と共に、君とはお別れだ』


 私達の読んだ文庫では登場するお酒はワインだったけど、初版本ではウイスキーとなっていた。また、ワインの時はボトルを飲み干していたけど、こちらでは飲みかけのウイスキーのボトルを棚の奥にしまい込む表現になっている。


「内容そのものに大きな変化はないけど、作中で五福大一がお酒を飲む描写の全てがウイスキー、第五版以降はワインに変えられている。バブル期の作品だから、当時の流行を反映してワインに変えただけかもしれないけれど、ウイスキーだからといって物語が破綻するわけではないし、何よりも私に見られたら恥ずかしいという言葉の意味が理解出来ない。そのことがずっと謎なの。是非とも探偵さん二人の意見も聞かせてもらいたいわ」


 内容の詳細が語られると同時に、生井さんからの交換条件も提示されることとなった。作中でお酒は確かに印象的な小道具だけど、それだけで物語が大きくひっくり返ることはない。しかも生井さんという特定の個人に対して、著者の坂さんが恥ずかしさを覚えるというのが大きなポイントだろう。ウイスキーでは駄目で、ワインなら大丈夫。それはどうして?


「ペンネームに酒を使っているぐらいだし、お酒に詳しかったのかな。何かお酒の種類によってメッセージ性が変わってくるとか? けど、流石にお酒のことはよく分からないしな」


 隣の黎人は早速考察を始めているけど、未成年ということもあって流石の黎人もお酒の知識には明るくない。私は仕事でアルコールを提供する機会こそあるけど、だからといってお酒そのものに詳しいわけではない。お酒方面の知識はきっと、人生経験豊富な生井さんの方が詳しいだろうし、明確な違いであるお酒の持つ意味については真っ先に調べていると思う。私たちはむしろ、もっと別の視点を持つべきなのではなのかもしれない。


「ペンネームは酒武道」


 私はペンネームについて掘り下げてみることにした。本名は坂健道だけど、名前は「たけみち」と読むことも出来る。本名を読み替えた後、別の漢字を当てて「酒武道」というペンネームになったと考えるのが自然かな。


「もしかして、読み替え?」


 図書館で初めて酒武道の漢字表記を知った時の感覚が蘇る。あの時私は、初見だと「たけみち」を「ぶどう」と読んでしまいそうだなと思った。もしそこに、作家としての言葉遊びのようなものが秘められているとしたら?


「さけ、ぶどう。……葡萄酒ぶどうしゅ?」

「胡桃。今何て?」


 呟きを拾った黎人がハッとした様子で私を見つめている。もう! ビックリするからかっこいい顔でそんなに見つめないでよ。


「ペンネームを読み替えたら、葡萄酒になると思って」

「葡萄酒はワインの漢字表記だ。ペンネームにあえて酒の字を当てている辺り、意図的に感じる。作中に登場するワインが一気に意味深になるね」


 ペンネームの中に、さらに隠されたもう一つの名前。ワインはいわば、作者の分身と言い換えることが出来るかもしれない。


「だったら、ウイスキーにも何か隠された意味があるのかも」


 胸が、パズルのピースが埋まっていくような高揚感に満ちていく。

 酒武道を読み替えてワインになるのなら、ウイスキーにもその法則が当てはまるかもしれない。ウイスキー、ウイスキー、ウイ……あれ、生井?


「すみません。生井さんのお名前って確か?」

「好ましいと書いて、このみよ」


 そうか。話は思ったよりもシンプルなんだ。ウイスキーの意味に気付いた瞬間、全てに納得がいった。


「ウイスキーの意味が分かりました。これはおそらく、生井好さんの名前ではないでしょうか。好はきと読めますから」


 私の言葉に生井さんは一瞬目を丸くし、少し間を置いてから無言で頷いた。静かに動揺しているという印象だ。


「そうか。確かにウイスキーは生井さんの名前に対応している。だけどどうして坂さんはウイスキーからワインに――」

「黎人。もういいよ」


 黎人の肩に触れて首を横に振る。黎人はまだ全てを理解出来ていないようだけど、これ以上私達が深入りするのは野暮だと思う。ここから先はきっと、生井さんと坂さんの四十年越しの物語だから。


「……卒業後は就職すると決めていたから、私からは何も伝えなかったんだけどな」


 かつての坂さんとの日々を思い返しているのだろうか。生井さんは目頭を押さえて俯いていた。


「私達はこれで失礼しますね」


 まだ釈然としない様子の黎人を連れて、教室をお暇することにした。生井さんも今は一人で感情を整理したい気分だと思う。四十年越しに届いた思いを咀嚼するには時間が必要なはずだから。


「二人には感謝しているわ。私一人ではきっと、坂くんの思いには気づけなかったから。ありがとう。探偵さんたち」


 去り際の生井さんの言葉に救われた気がする。私達の行為はきっと無遠慮な好奇心だったと思う。だけどそれが生井さんの手助けになれたのなら、この謎解きにも意味はあったと、今はそう思える。

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