第7話 ワイン

『――ワインのボトルから注いだ最後の一杯を、僕は思い出を流し込むように飲み干した。この一杯と共に、君とはお別れだ』


 日曜日の午後十時。自室で「ライラックの歌」を読み終えた私は、文庫本を静かに閉じた。一度読みだしたら手が止まらず、週末の二日間で一気に読了してしまった。


 中学生時代に出会った男女の人生を、十二歳から二十五歳まで描いた長編ラブストーリー。三十二年前の作品なので時代を感じる部分はあるけど、とても読みやすい文体で、繊細に描かれた十代の少年少女の複雑な心情描写には現役の高校生である私も共感できる部分が多く、どんどん物語に引き込まれていった。


 出版当時の酒武道先生のご年齢は二十代前半。もしかしたら構想時にはまだ十代だったかもしれない。思春期の感性をまだ体が覚えていて、それでいて大人として社会へと羽ばたいていくような時期。そういった絶妙な時期だからこそ生まれた傑作なのかもしれない。


 主人公の五福ごふく大一ひろかずと、ヒロインの萩生はぎお牡丹ぼたんの出会いの時期。甘酸っぱい青春時代を描いた中学、高校編。別々の道を歩み徐々に心が離れていく大学、社会人編。物語は大きく分けて二つの物語で構成されている。物語は大一の一人称で描かれており、彼に感情移入して見入ってしまう。


 それぞれ遠く離れた大学と専門学校へと進学することとなり、お互いの夢のためにと関係を解消したものの、ずっと牡丹のことを忘れられず、新たな恋へと一歩踏み出そうとする大一が、相手の女性から別の女性と見ているようだと本心を見透かされる描写などがあまりにも痛々しく、大一はワインを飲むことで自分を誤魔化し続ける。


 最後は牡丹への思いを振り切り、大一が逃避の象徴だったワインを飲み干し、ボトルを処分するところで物語は幕を下ろす。ビターなエンドで、大一と牡丹が結ばれなかったことに胸は痛むけど、恋愛小説でリアリティを追及するというのは、こういうことなのかもしれないとも思う。少なくともハッピーエンドで終わっていたら、ここまで強く感情を揺さぶられることはなかったかもしれない。バブル期の終焉を感じさせる当時の時代背景も相まって、物悲しくもとても印象深いラストだった。


 読み終わった後、スマホで「ライラックの歌」や酒武道に関する情報を調べてみた。作品の映像化というテーマでインタビューを受けた際、生前の酒武道氏は、極めて個人的な物語なので、映像という形になるのは恥ずかしいと応えていたという小話。出身校や出身地に図書館に書籍が寄贈された話題なども拾えた。


「もしかして、黎人が気にしてたのって」


 最も私の関心が向いたのは、小説のレビューサイトに寄せられている書き込みだった。作品に関しては軒並み高評価、好意的な意見が大勢だけど、いくつか気になる内容が見つかった。


『――どうして初版本とはお酒の種類が違うんだろう?』

『――物語に直接影響しないとはいえ、大事な小道具だしどうしてお酒を変えたのだろう?』


 第五版とそれ以前では、作中で五福大一が好むお酒の種類が違うらしい。私が読んだ文庫本を含め、現在流通している「ライラックの歌」は全て、登場するお酒がワインになっていると見て間違いないだろう。作品に違いが存在しているのだとすれば、生井好さんが高校の図書館でのみ「ライラックの歌」を借りていたことにも理由が生まれる。この閃きを大事にしたい。私は勢いそのままに黎人に電話をかけた。


「黎人。今大丈夫?」

『大丈夫だよ。ちょうど「ライラックの歌」を読み終えたとこ』


 凄い。私と黎人の動きはシンクロしている。やっぱり私達って運命の……って、今はそれどころじゃなかった。


「私も読み終わって、色々と気付いたことがあるの。黎人が何に対して疑問を抱いたのかにも、たぶん気づけた」

「僕も本編を読んで理解が深まったよ。お互いに意見を出し合ってみようか」


 時間が経つのも忘れて、私達はお互いの推理を補完していくことに没頭した。

 今になって思えば、日付を跨いで黎人と電話をし続けたのなんてこれが初めてのことだったけど、この時は内容に熱中するあまり、そのことをあまり意識はしていなかった。どうしてその瞬間にドキドキ出来なかったのかと後悔したのは、目覚ましのアラームで目覚めた直後のことだった。

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