39 日常にこそ悩みはある


 問題が起きている。


 私は雛乃ひなのとの関係性を改めて再構築した結果、大きな問題と対峙していた。


しおりさん、寝ぐせヤバいけど」


「あー……うん。雛乃が直して」


「むり、自分でやりな」


「えー……」


 もちろん、私の寝ぐせを問題にしているわけではない。


 ていうかそんなことはどうでもいい。


 それは些末な問題だ。


「栞さん。洗面台濡らしたら、拭いてっていっつも言ってるじゃん」


「……雛乃、ここの家主を言ってみな?」


「は?栞さんだけど?」


「つまり、そういうこと」


「なにが?」


「私がルールだ」


「うわぁ……自分が濡らしたのに女子高生に後始末させるんだ。最近の大人はそんな感じなんだ」


「……マイルールに従って、拭きます」


「えらいえらい」


 もちろん、洗面台がびしゃびしゃだとか。


 私の洗顔が荒すぎるとか。


 そんな事もどうでもいい。


 それよりも、もっと大前提の問題だ。


「栞さん、ストッキング伝線してるよ」


「なにっ」


「ほら、そこに穴」


「うわっ、マジだ」


「履き替えなよ」


「めんどくせー」


「そのまま行くわけにもいかないでしょ」


「雛乃が履かせて」


「いや、それはなんかマズくね……?」


「……そうだね」


 もちろん、これはこれで問題だけど。


 重要視するほどの事ではない。


 これはほんの日常の一コマ。


 そんな一つ一つの出来事に、共通している問題があるのだ。


「今日は帰り遅いの?」


「いや、なるべく定時で帰る」


「わかった。栞さん、何か食べたい物ある?」


「んー。今はあんまり思いつかないな」


「そっか。どうしようかなぁ……」


「雛乃が食べたい物でいいよ」


「いいの?」


「いいよ」


「そっか、おっけー。そうする」


「ん、それじゃ」


「はい、行ってらっしゃい」


「行ってきます」




 今度こそ、何てことのない生活の一ページだと思った事だろう。


 だが、それは甘い。


 こんな穏やかな会話の中ですら、私をしっかり悩んでいた。


 あまりに頻出するものだから、その問題は私の中で大きく膨れ上がっている。



        ◇◇◇



 来たるは職場。


 今すべきは事務処理業務。


 私はモニターの画面を見つめる。


 ちなみにキーボードを叩くはずの指は動いていない。


「……」


「せんぱーい、パソコンは見てるだけじゃ動きませんよー?」


 隣から陽気な声が聞こえてくる。


 今日も後輩の七瀬ななせは周囲の動向をくまなくチェックしている。


「あれ、これ視線入力に対応してなかった?」


「……先輩がボケるとか、珍しすぎて反応に困るんですけど」


 あ、やばい。


 思わず素の私が出てしまった。


 家のことを考えていると、そっちに引っ張られるから困ったものだ。


「えっと、つまんなかった?」


「斬新ですけど。先輩のキャラじゃなさすぎて素なのかボケなのか、一瞬反応に困りました」


 もっともだった。


 まあでも、雛乃だったらすかさず私にツッコんでくれるけどな。


『んなわけなくね?』


 とか言いそう。


 あ、いや、待てよ。


 雛乃はパソコンに弱いんだったな。


 『へー。そんなのも出来るんだ。パソコン神』


 案外、こんな感じで普通に乗っかってくるかもしれない。


 ……。


 いやいや、今は雛乃の反応とか関係ないから。


 どんだけ脱線していくんだ、私の思考。


「さては悩み事ですね?」


 大正解。


 全ては悩み事が起因している。


「まあ、それなりにね」


「なんですかぁ。言ってみて下さいよ」


「仕事中でしょ」


「画面見つめてるだけの人に言われなくないです」


「……痛い所つくわね」


 だが実際のところ、この問題が解決しない限り私は仕事に集中することが出来ないのかもしれない。


 それでは給料泥棒になってしまうし、会社にとっても不利益だ。


 それならば対話の機会を設け、その後に仕事に取り組めるようになるのであれば、この方が会社にとっても有益ではないのだろうか?


 こじつけすぎるが、そういうことにする。


 そして、こういう時に話せる相手が七瀬しかいない人脈の薄さは私自身を呪いたい。


「ほらほら、言ってみてくださいよぉ」

 

「本当につまらない話よ」


「それでもいいですって。先輩が普通の話するだけでも、それはそれで面白いですから」


 おい、なんだそれ、どういう意味だ。


 私を珍獣みたいに扱っていないかこの後輩。


 ……まあ、いい。


 それも、私の問題に比べれば些末なことだ。


 私は話す覚悟を決める。


「いい、これは完全に私個人の悩み事よ。会社には全く関わらないことだから、あんたお得意のスキャンダルとは無縁だからね」


「分かってますって。職員のプライベートも大好物ですよ、わたし」


 それはそれで性格悪そうだな。


「じゃあ、言うけど」


 他の職員に聞かれては困るので、隣どうして身を寄せ合って小声で話す。


「ぜひぜひ」


 七瀬は何を期待しているのか知らないが、にやけ顔だ。


 ふん、この私の悩みを蜜にして今日も夜の街を楽しめばいいさ。


 兎にも角にも、私はこの毒素を吐き出すことにする。




「友人を苗字から下の名前呼びに変える時って、どのタイミングがベストだと思う?」


「……は?」




 恐ろしいくらい乾いた声が返ってきた。


 これはこれで予想外の反応で私も驚く。


 ていうか、後輩が先輩に返す返事じゃない。


「えっとぉー……今、なんか変な質問してきました?」


 変な質問なんて一ミリもしてないわっ。


「いや、だからっ。いつも苗字で呼んでた子を、下の名前で呼ぶタイミングって難しくない?急にどしたってならない?」


「……んん、ええっとぉ……はあ」


「いや、“はあ”じゃなくて、どうしたら自然に出来るのかって聞いてんの」


 お気づきだっただろうか。


 雛乃は私のことを名前で呼んでくれるようになったのに、私は未だ苗字呼びなのである。


 雛乃が急に言い方を変えるものだから、私はその波について行けず、結果お互いをを呼び合う度に苗字と名前という妙な距離感が生まれてしまったのだ。


 これぞ、これこそが、私をずっと悩ませている大きな問題だった。


「いや、好きなタイミングでいいんじゃないですか?」


「だからっ、そのタイミングが分かんないから、ここだよって目安が欲しいんじゃないっ」


 “このタイミングで下の名前呼びに変えると、とっても自然です。”


 みたいなものがあれば、それを目安に私も呼べるじゃないか。


「いやいや、そんなタイミングないですって」


「ないのっ!?」


「驚く所じゃありません」


「うそ……」


「と言いますか、普段と違う呼び方をした時点で違和感が生じるのは当たり前なので。それを自然に溶け込ませようなんていう発想が不健全です」


「え、不健全なの」


「コミュ障丸出しです」


「それは言うなよっ」


 分かった上で悩んでるんだよ、こっちは。


 全く、コミュ力オバケの七瀬に聞くのがやはり間違っていたか。


 彼女と私では対人スペックに差がありすぎる。


「でも先輩は多分、変な所で悩んでますよ」


「これ以上私をディスる気か」


「いえいえ。だってですよ?名前なんて呼びたくなったら自然と呼んじゃってるもんじゃないですか」


「……む」


「まあ、初対面から名前で呼ぶことで距離を縮めようって考え方もありますけど。ふつーは仲良くなったら無意識に言っちゃうものじゃないですか?」


 それはあくまで七瀬の考え方の一つで、一つの答えでしかないのは分かっている。


 しかし、それが妙に刺さってしまったのは何故だろう。


「それに名前で呼びたい人なのにバレたくないなんて。仲良くなりたいのか、なりたくないのか。いまいち分かりません」


「それは……」


「先輩はその人と、どうなりたいんですか?」


 ……あれ。


 相談してすっきりするはずだったのに。


 悩みが更に大きくなっている気がするのは、なぜでしょうか。


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