29 懐かしの味って色々
「お先に失礼します」
退勤。
全く、なんて疲れる一日だったんだ。
しかし、そんな些末な事を無視して私にはやるべき事が残されている。
「初日の感想と、職場環境がどうだったか聞き出さないと……っ」
ああいったローカルな環境だからこそ、労働基準が曖昧で劣悪な働き方をさせられているかもしれない。
それにあのエロ店長のことも心配だ。
無理にやめさせる気はないが、良くない環境に長居させる必要もない。
そのあたりをハッキリさせておかないと。
私は強い意思を持って帰宅する。
「ただいまー」
「……おかえりぃ」
家に帰ると、そこには座椅子に座ってローテーブルに顔を突っ伏している雛乃の姿があった。
金髪が放射状にテーブルに伸びていて、悲壮感が半端じゃない。
「だ、大丈夫?」
「何とか……」
これは、やはり。
相当な劣悪環境だったに違いない。
もしかしたらパワハラを受けた可能性だってある……!
「雛乃、どうしたの。やっぱりバイトで嫌なことあったの?」
「いや、別にないけど……」
嘘だ。
そうじゃなければ、こんな脱力しきった状態になるわけがない。
きっと、初めての仕事で自分がいかに酷い環境に立たされているのか理解していないのだ。
初職場がブラックであっても、そこが基準になってしまえば当たり前だと受け入れて真実に気付くのが遅れてしまう。
手遅れになる前に私が救い出してあげないと……!
「ほら、ちょっとでも嫌なことがあったなら言ってみて。一般的におかしい所があれば私が判断してあげるからっ」
私は床に膝を着き、ローテーブルから雛乃の体を起こす。
そこには疲弊しきった雛乃の表情。
あんなに元気な子から、ここまで生気を奪うだなんて……一体どんなことがあったのだ。
「いや、
この期に及んでまだそんな虚勢を張るのかこの子は。
「いい?ストレスって言うのは溜め込んでもすぐに満杯になって体に異常をきたすのよ?美容にだって良くないし……自分の身を滅ぼすだけなのっ」
「それ特大ブーメラン発言に聞こえるんだけど、気のせい……?」
それは言うな。
「今は他人のことより、自分のことでしょっ」
「だから私は大丈夫なんだって……」
この子は……。
何事もすぐに投げ出すのは良くないが、かと言って我慢していればいいというものでもない。
要は見極めが大事だ。
それがまだこの子には出来ないのだ。
「分かった。私からバイトは今日で辞めさせてもらうように連絡しとくから」
「いやっ、いきなり何言ってんの?」
「お金のことなら心配しないで。今日分の給料は店には要らないって伝えて、あんたには働いた時給分を私が渡すから」
「え、マジ暴走しすぎ。上坂さん一人でどこに向かってんの?」
ともかく善は急げだ。
私はスマホの電話アプリを立ち上げて、お店に連絡を――
「こらこらっ、早まりすぎっ」
「あ、ちょっと」
しかし、それを雛乃に邪魔される。
横からすっと手が伸びスマホを奪われていた。
「返しなさい」
「返さない。上坂さん一人で盛り上がりすぎだって」
「そんな疲れきった顔して何言ってるの」
筆舌に尽くしがたい嫌な目にあったのだろう。
「疲れた顔になんのは当たり前だし」
「そうね。どんなパワハラを受けたか分からないけど、誰でも嫌なことあればそうなるわ」
だからこそ、私は雛乃を助けなければ。
「じゃなくて、普通に働いて疲れたって言ってんのっ」
「……ん、普通に疲れた?」
「当たり前でしょ、あたしは初日でバイトも初めてなの。何も起きなくたって疲れるに決まってんじゃん」
「……ああ」
仕事って疲れるよね。
特に最初の頃の疲労度って異常だ。
初めての業務、人間関係、環境に置かれて、そこにいるだけで疲弊したりする。
なるほど。
社会人になってそこそこ年数が経つ私にとって、その最初特有の疲労度は忘れてしまっていた。
「……つまり、雛乃は真っ当に働いて疲れた後ってこと?」
「そういうこと。これに嫌な事まで加えられたらあたしもヤバイって」
……なんだそれ。
結局、私の早とちりだったってこと?
「エロ店長に変なことされたりしてない?」
「エロ店長ってなに。普通にちゃんと仕事のこと教えてくれたよ」
一番の懸念点を否定される。
なんだ、本当に何もなかったようだ。
「もうっ、だったら心配させるような態度とらないでよっ」
「いや、多分だけどこれに関しては上坂さんの反応が過敏すぎ……」
雛乃の目が淀んでいる。
なんだ、その変な生き物を見るような目はっ。
「まあ……いいや。何事もなかったのなら、それが一番だよ」
結局、私の取り越し苦労のようだ。
何だかどっと疲労が押し寄せる。
緊張感が解けてしまったようだ。
「雛乃、じゃあご飯にしようよ」
安心したのか、それと同時に空腹感が押し寄せる。
体は正直だ。
「ああ、はいはい……」
のそのそと、雛乃が立ち上がる。
しかし、その動きを見てふと我に返る。
いつものクセで言ってしまったけど、雛乃は疲れているんだ。
何も食事の用意くらい、今日は休んでもらってもいい。
「あ、雛乃、ごめん。大変だったら無理しないで、私が用意するから」
「ううん。もう準備しといたから大丈夫だよ」
……なんて子なのだろう。
あれだけ疲れていたのに、帰って来てから食事の用意までしてくれているなんて。
何だか申し訳なさが一気に襲い掛かってきた。
「はい、どうぞ」
すると目の前にはプラスチックで出来た筒状の容器。
蓋もされているのだが、その間からは湯気とほんのり醤油の匂いが立ち昇っている。
「……雛乃」
「なに?」
「これは……?」
「え、夜ご飯」
「……」
「あれ、上坂さん。前はこういうのよく食べてたって言ってたよね?」
そう、よく食べていた。
雛乃と一緒に生活するまでよくお世話になっていた食品。
安価で、保存が効いて、簡素な食べ物の代表格。
「か、カップラーメンじゃん……」
「うん」
わなわなと、手が震えた。
「手抜き!?」
「いやー、今日くらい許してよー」
“疲れたんだからー”と雛乃はぶうっと頬を膨らませる。
「そうだけど、分かってるけど……でもカップラーメンッ」
「え、そんなにダメ?美味しいじゃん」
確かに美味しい……。
いや、美味しかったと言うべきか。
長きに渡る一人暮らし生活、その弊害だろう。
私はこのインスタント系の食品全般に対して、確実に飽きている。
そしてそこに現れた雛乃という料理番長。
私はそのクオリティの差を叩きつけられ、もう雛乃の料理を求める体に魔改造されてしまっていたのだ。
その事実に、今気づかされる。
「うぅ……仕事終わりに、これはツラい」
私にとって仕事終わりの癒しは夜ご飯にあると言っても過言ではない。
その幸福を、もたらした張本人に奪われたのだ。
「そ、そんなにカップラーメン嫌なの……?」
私の反応が意外だったのか、雛乃が慌て始める。
「美味しくないよー」
「前と全然ちがうこと言ってるっ」
人は変わるのだ。
いや、君によって変えられたのだ。
「でもあたしも今日はさすがに……」
それは分かってる。
だからご飯を作れなんて言ったりしない。
でも理性で我慢できるのは、そこまで。
私の感情は雛乃の料理を求めて泣いているのだ。
「私に幸せの味を教えといて自ら取り上げるなんて……雛乃は神様にでもなったつもりかぁ」
「上坂さんが何言ってんのか、全然分かんないんだけど……」
「やっぱりバイトなんて辞めちまえー」
「今度こそ意味わかんないし……」
今日の晩御飯は懐かしい味がした。
……あんまり良くない意味で。
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