第119話

《氷室絢宅 弓道場》


 次の日の早朝、空は青く、風はさほど吹いていないが、3月の上旬にしては少し温かいと感じる気候だった。


 小さな弓道場の射場には、弓道衣の上だけを羽織り、下は長ズボン姿で弓を引く2人の姿。後藤葵と、鴨川恵見である。

 その道場は氷室絢宅のすぐ横、砂利道をまたいですぐ隣にある場所。的が手狭に3つ立てれる程度の広さでありフローリングは褐色。ところどころ朽ちてはいるが、弓を引くには申し分ない環境が整っていた。


 ひとつの霞的に対し交互に矢を射っていた2人、鴨川が4本目を引き終える。両者とも全て的中。まだ矢立箱には矢が残っているが、矢取りへとむかう。


「やっぱ鴨川も外さねぇな~。上手いわ」


 鴨川は女子の部、インターハイでは個人戦2位の成績。その弓の腕は後藤と張り合うには申し分なかった。


「ふふふ。負けないよ?」

「んじゃ、次は鴨川が矢取りの番な」

「うん」


 鴨川は座ってかけを外すと、座布団の上に置く。後藤は弓立てに弓を置くと、そこで正座をする。

 的場へと向かった鴨川が手を叩き矢取りの合図をする。


「はいります!」

「お願いします!」


 このとき、後藤葵は少し難しい顔をした氷室先生の様子に目を向ける。先生は隣の建物から砂利道を通り、矢取り道の中央付近で立ち止まると、2人に声をかけた。その声に鴨川は抜いた矢を手に持ったまま、氷室先生の隣で立ち止まる。


「おーい! ちょっと急用ができた、引き納めは中止だ。すぐに帰る支度をしてくれ」

「え……急用ですか?」

「ああ。悪いが続きはまた今度だ。冬休みにでもウチに来るといい」


 鴨川は残念そうな様子となるが、氷室先生がそう言うなら仕方ないと、そう思った。

 だが後藤葵は少し不自然に感じたようだ。なぜなら、いつもなら弓道場の近くでは電子タバコを吸わない氷室先生が右手に持っていたのは……カートリッジに刺さったままの電子タバコだったからだ。後藤葵は思った、なんでだ?

 

 それもそのはず。氷室絢は内心慌てていて、急ぎ生徒達を帰そうとしていたからだ。その理由は、さきほどまで氷室絢が見ていたテレビよりニュースの速報を聞いたため。


《長い刃物を持った男が、住宅に住まう男性を1人負傷させ、現在逃亡中。生き逃れた住民の通報により、事件発覚。変質者があらわれた現場は―――》


 この氷室絢宅の袂にある、古民家。


「鴨川、すまないな」

「いえ、急な用事なら仕方ないです……」

「あ――すまない。捨ててくる」


 鴨川の視線に気がついたのか、氷室絢は右手に持っていた電子タバコから吸い殻を外し、一旦捨てにいくため家へと戻った。

 鴨川は射場に戻って来ると、かけをつけたままの後藤葵に帰ろうと言った。だが後藤葵はすぐに帰ろうとはしなかった。


「氷室先生、なんか変じゃなかったか?」

「うん……なにか理由があるんだよ。帰ろう?」

「まぁ……分かった。この勝負の続きは―――」


 後藤葵の言葉を塞ぐように、それは響いた。


 男の怒号―――なにかが壊れる音。それは、隣の建物から。

 後藤と鴨川は突然の音と声にハッとなった。2人は硬直する、状況が理解出来なかったからだ。それもそのはず、2人は変質者が出た事を知らない。理解出来るはずもない。


 そして次の瞬間――――困惑する―――。


 弓道場の矢取り道、的場の方向から長い刃物を持つ黒い姿をした男がヌッと現れた。その男はジャリジャリと音をたてながら、2人にゆっくりと近づいていく。やがて矢道の上に踏み込んできた。

 状況が理解出来ないまま硬直する後藤と鴨川、しかしある事に気がついたのだ。その男の持つ長い刃物には、赤い血痕のようなものがついている。それは刃の半分程度……陽の光がそれを鈍く輝かせた。

 そこに氷室先生の姿はなく、その刃物を見た学生2人を恐怖へと落としいれるには充分な理由であった。


 男はゆっくりと近づいてくる。22メートル、21メートル―――。

 その時、パトカーのサイレンが鳴る音が徐々に聞こえてきた。男はサイレンの鳴った方に顔を向ける。


 鴨川は刃物を見た瞬間、射場の隅で縮こまり怯えていた。その姿を見た後藤葵は鴨川を安心させたいと考えていた。助けたいと思う勇気。

 その正義感は、その心は彼を動かす———俺は弓の使い手だ。サイレンの音は警察だ、時間を稼げば助かる。

 後藤はとっさに弓立に置いてあった弓を手に持ち、急いで矢立箱から矢を取り出すと、弓につがえすぐさま弓構えた。

 男はガチャガチャした音が聞こえたのか、後藤の方へと向き直る。


「——————!?」


 後藤にとっては、ただの威嚇のつもりであった。ビビってくれるはず。だがその考えはあまりにも浅はかで、逆にその男を憤怒させることになる。

 男はその場で奇声を上げた。


「——————!!」


 鴨川は恐怖のあまり、目を閉じ耳を塞ぎうずくまる。後藤は弓を打起し、急ぎ会へと入った。まともな思考など出来ないほどに後藤の心は恐怖に支配されたのだ。

 逃げてくれ———帰ってくれ。そんな想いだけが、無意識のうちに後藤の脳裏を駆け巡る。

 パトカーのサイレン音がすぐ近くまで———警察はもうすぐそこまで来ていた。通報により知り得た犯人の逃走車両は把握している、それを見つけたのだ。表ではバタバタと騒がしい音が鳴った。


 その瞬間、男は刃物を振りかざし、勢いよく矢道の上を走り出した———。

 その距離、15メートル、10メートル——————


—————————バシュンッ———。


 後藤は反射的に狙い、離れをした。その矢は男の手をめがけ飛んでいく———刃物が矢道へと落下した。

 男は悶えるように叫び———唸った。その声を聞いた警官がすぐさま駆けつけてくれた。


「いたぞぉぉ! こっちだぁぁ」


 駆けつけた複数の警官達により、男は取り押さえられ逮捕となる。

 氷室絢は負傷していたものの、命に別状はなかった。


 *


 うずくまっていた鴨川は、その言葉に目を見開く。


「きみ大丈夫か!? 警察です、もう安心してください」

「あ———」

「可哀想に、なにか温かいものでも持ってきてあげよう。おーい———」


 鴨川の目に映ったのは、和弓を手に持ち呆然と立ちつくす後藤葵の姿と、懸命に声をかける警察官の姿。

 鴨川恵見、その少女にとって、しばらく理解出来なかった光景である。

 そして矢道に転がるものを見た次の瞬間、鴨川はゾッとした―――。


 先端が紅くなっている矢。

 無造作に転げている、紅く染まった刃物。

 

 幸いにも後藤葵がとった行動は、正当防衛として認められる。

 誰が聞いても、その事実を疑うものはいなかったのだ。

 それほどまでにあの男は狂人であり、撹乱していた者だったからだ。


 後藤葵はそれを理解し、平常心となり卒業式で違和感なく振る舞うまでにはそう時間はかからなかった。

 だが……彼はこの出来事について、誰にも言うことはなかった。


 なぜなら、たとえ矢道で起こった事故だったとしても、従来の弓道において人に向けて矢を射る事は言語道断であるからだ。

 弓を志すものからしてみれば、これは愚行であるからにして。


 ***


 かつて凄腕の射手と呼ばれた「弓の使い手後藤 葵」の終着点。

 弓道家として最低な事をしたんだよ。なのになんで笑えるんだよ……鴨川恵見。

 





 

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