第112話
―――――バシュンッ
――――パァン!
藤原の屋敷のすぐ裏には、的が3つほど立てれる程度の広さを持つ、古めかしい弓道場があった。
年季は入っているものの、しっかり手入れはされている。周囲は背の高い茂みに囲われていて、のどかな鳥のさえずりが聞こえ、ゆっくりと弓が引けるいい環境だと思う。
(納射以来だろうか? こんなにも真剣に弓を引いたのは)
自分でも真剣に弓を引いているのが分かるくらい、集中していた。
弓が反り返り――矢が放たれる――徐々にかつてかっこ弓の使い手と呼ばれていた時の感覚に近付いていくのを感じている。
―――――――バッシュン
――――パァンッ!!
――バシュン!――――――――
離れを出した後、左手に持っていた弓が円を描くように弓返りをする。それと同時に風を切り裂くような矢風が鳴る―――そして霞的に吸い込まれるかのようにして、それを貫いた。
―――――パァンッ―
俺は
射場の隅で正座をし、右手につけていた「かけ」を丁寧に外す。用意していたクッションの上にそれを置き、俺は矢取りへと向かった。
【
左手に弓を持ち、右手には矢を持った状態で、両手を腰に添えた姿勢の事。
石が敷き詰められた矢取り道を歩く途中、袴姿で立っていた藤原に声をかける。髪飾りは外していて、珍しくレンズのない眼鏡は掛けていないようだ。それだけ本気って事だろうと思う。
「射込みは終わったよ。藤原は引かなくていいのか?」
「私はすでに引いていたから大丈夫だ。それにしても……先生が袴姿になると、なんだかその髪型がカッコよく思えてしまうな、フフ」
「ははは、そりゃどうも。真剣勝負だからな。こっちのほうが俺も気合いが入る。ところで的は霞的でいいのか? なんなら
「そうだな……いや、最初は霞的でやろう」
【
霞的の直径は三十六センチ。星的はそれよりひと回り小さい二十四センチの的の事だ。白黒模様の霞的とは違い、中央に黒い的心があり、その周囲は白い的の事である。
俺は矢取りを終えたあと射場内へと戻り、弓に張ってある弦の高さを、専用の定規を使い確認する。その後藤原も張っていた弓を手に持ち、専用の定規で確認した。
互いに道具の調整を終えると、その場で正座したのち「かけ」を右手に着用する。その時、藤原は何か嬉しそうな様子で、こんな事を言い出した。
「後藤先生……もし私が先生に勝ったら、弓の使い手と名乗れるだろうか?」
「名乗ってもいいけど、俺に勝てたらの話だぞ?」
今の藤原に、いつものような雰囲気は感じない。それは眼鏡を掛けていないからと言うより、純粋に弓道を楽しんでいるような気持ちが伝わってくるからだと思う。
それも変革した弓道ではなく……伝統的な武道としての「弓道」を楽しんでいる気持ち。
そんな嬉し顔をして――だから俺は応えてやりたい。その終着点は酷く醜いけど、その気持ちに「弓の使い手」として応えてあげたい。
皆が知る「弓の使い手」は、きっと憧れの存在だと思うから。
だから俺はその名に恥じぬ弓を……藤原に魅せてやりたい。
俺は弽を着け終えると弓を左手に持ち、矢を右手に持つ。的がある安土へと体を向け、そこにある2つの的を注視した。
俺の隣には、同じようにして弓と矢を持つ藤原瞳の姿。その表情は、嬉しそうに微笑んでいた。
「よし、やろうか。言っとくけど、俺は外さないぞ?」
「フフフ、何をいう? 日頃弓を引いていない後藤先生より、私の方が筋力もスタミナもあるのだ。そう簡単には負けてやらぬぞ?」
そして互いに執弓の姿勢となると——
揖をし、摺足で前進する———
【
それは互いに1本ずつ矢を射り、継続して最も多く的中した物を勝利者とする競技方である。
《1段目》
——バシュン————バシュン!!
——パンッ———パンッ!
「おお、あぶねー……もう少しズレてたら外れてたな〜」
『ほう。ならこの勝負、長丁場になれば私が勝利してしまいそうだな?』
《4段目》
——————バシュン———バシュ!!
———ターンッ!! ——ターンッ!!
「お? もしかして藤原、さっきのギリギリだったか?」
『中りは中りだ、見ているがいい、次は私の必殺技だ!!』
《8段目》
—————バシュン! バシュン!
———パァン!! パァン!!
『なんだ、当ててしまったのか? なかなかしぶといではないか!』
「おい藤原……俺が会に入ってたとこ……ワザと狙って当てたろ?」
『気のせいだ、たまたまであろう? そうであろう?』
《星的—2段目》
——カシュンッ!! ———カシュンッ!!
—————ターンッ!! ターンッ!!
『な……また的芯だというのか? イヤらしい奴だ、イヤらしいのは髪型だけにしてくれないか?』
「わりぃな、袴姿になった俺は、最高にイケてるんだよ!」
『ほう……フフフ、楽しいな〜』
《星的—5段目》
———バシュンッ——バシュンッ!!
———パァーンッ!! ———パァン!!
「どうだ? 言った通り的芯だったろ?」
『うう〜む、なかなかしぶといではないか。そろそろ外したらどうだ?』
「弓の使い手になった俺は、外さねぇよ!」
《星的—7段目》
———そして、ついに決着がつく。
———バシュンッ!! ———バシュンッ!!
—————ガンッ!! ———パァアンッ!!
『おおおおおお!! なんて事ニャ!!』
「ははは! 俺の勝ちだな!」
俺は残心を終え、悔しそうな藤原をからかう。どうやらこの時ばかりは、俺の方が有利らしい。藤原は弓を持ったまま俺の方を向き直る。その表情は不満そうにも感じられたか、何もこの戦いは今日だけの事ではない。
「悔しいだろ〜? またいつでも挑戦してこいよ!!」
『ぐぬぬぬ!! 悔しぃ悔しい!!』
何度でも―――何度だって――
「いつでも勝負してやるよ……また腕を磨いて、挑んでこい——なぁ? そうだろ?」
『フフフ…そんな事を言っていいのか? 私はどこまでも追いかけて行くぞ? 曲がった事が大好きだからな!』
「心配すんな。真っ直ぐだろうか曲がっていようが、どっちでもいいよ。藤原は俺の教え子だ」
——後藤先生……うん、ありがとう———
左手には弓を握り、右手には弽をつけたその弓道少女は、嬉しそうに笑っている。
幸せそうな顔をして——それがとても儚くて——
そんな藤原に対してかけた言葉は、そう簡単には達成しないだろうがな。
俺はただ、その探究心あふれる気持ちに応える以上に、弓道そのものを楽しむ藤原の姿に、魅入っているようであった。
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