70-龍の子


 戦の絶えない戦乱の時代に、争う人間達の手が届かない山の奥深く、鬱蒼と茂る静けさの中で九つの卵が産み落とされた。

 卵は時間の経過と共に徐々に大きくなり、卵殻も硬度を増していく。それらは母龍が集めた柔らかい布団の上で静かに寄り添う。

 ――それが幾日続いたかやがて一つまた一つと何も知らない無垢な殻が割れ、小さな獣達が生まれた。子供達は初めての外の空気を吸い込もうと声を上げて泣いた。

 子供達は数日もすれば立って歩くようになり、辿々しく言葉も話すようになる。母龍は子供達のために拵えた離れ家で彼らを寝かせ、母屋へ帰る。それを繰り返した。

 更にもう幾日も経てば思考も明瞭に、個性が出て来る。六男三女の幼子達はそれぞれの能力や性格を加味し、狩猟、食物採取、家事を担当することになった。最初は上手くいかないことも多かったが、それも慣れてきた。

「今日は僕とシフとサイは狩猟、ホロとハカは採取、カン、トウ、サン、ショウで家事を分担しよう。狩猟と採取も終わり次第家事に加わる。異論はあるかな?」

 母龍が出掛けると長子の贔屓ひきが各自にその日の役割を与える。これが日課だった。

「異論!」

 間髪入れずに手を挙げた羊のような角を生やした饕餮とうてつに、贔屓は発言を許可する。

「俺も狩猟がいい!」

「そうか? シフの千里眼は狩猟に欠かせないしサイも狩り向きだからな……じゃあ僕と交代でいいか?」

 饕餮の『異論』はこれが初めてではない。過去にも何度かあった。贔屓は慣れた調子で対応した。

「良くないです」

 今度は魚のような尾をぴんと立て、鴟吻しふんから声が上がる。

「ヒキ兄様は狩猟に必要です。仕留めた獲物の巨躯は力持ちのヒキ兄様でないと持てません」

「そんなに大きい獲物を狙わなくてもいいよ、シフ……」

 饕餮も鴟吻も全く譲ろうとせず膠着してしまった。

 困り果てていると、痺れを切らした狴犴へいかんが小さく手を挙げる。

「トウも狩猟に行けばいい。家事は三人で何とかする。時間が惜しい」

「さすがカン兄様!」

 饕餮は喜ぶが、家事の人数が減ってしまうのは心配だ。長子とは言え九人を纏めるのは骨が折れる。贔屓は小さな頭を悩ませた。

「三人でできる? 薪割りに水汲み、洗濯、掃除、畑……」

「狩猟と採取が終われば手伝ってくれればいい」

 視野の広い狴犴がいれば上手く家事を熟せるだろう。その信頼はある。贔屓は少し考えるが、頷くことにした。

「……じゃあ家事は任せるよ。サンとショウもそれでいいか?」

「トウ兄様は我儘だから……」

「頑張る」

 狻猊さんげいは呆れたようにお下げ頭を掻き、体の小さな末子の椒図しょうずは精一杯頷いた。

「四人もいるんだから、狩猟は失敗できないな。それじゃあ皆、頑張ろう」

 九人はそれぞれに分かれ、与えられた仕事を熟す。

 母龍が母屋にいるのは朝餉あさげ夕餉ゆうげ、睡眠の時間だけだ。食事は一日二食が基本で、夕餉は陽が少し傾いた頃だ。その間に母龍は周辺を巡回したり人里の様子を窺ったりと忙しい。

 母龍の留守の間に全ての仕事を終わらせるのが九人の日課だ。仕事が早く終われば遊ぶこともできる。遊ぶ時間があれば良いなと考えながら、兄弟が多いことを生かして分担している。

 狩猟と食物採取の班が出掛けると、狴犴は納屋から斧を持ち出した。

「僕が薪割りと水汲みをするから、二人は手分けして……サンは洗濯、ショウは掃除をしてくれ」

「カン兄様! アタシが川に行くの!?」

「む……。だがショウはまだ小さい。一人で川に行かせるのは危ない。それとも……サンが薪割りするか?」

「それは……」

 自分の小さな手を見下ろし、狻猊は渋々洗濯に行くことにした。

 狻猊は水が苦手なのだ。椒図は水が平気なのだが、体の大きさを考えると椒図を川に行かせるのは躊躇われた。それは狻猊も理解している。そして薪割りは力仕事だ。力のある狴犴がやるしかない。

「サン姉様。ボクも一緒に洗濯する。終わったら一緒に掃除しよう」

「ショウ……」

「そうだな。二人で行くなら問題ない」

 不貞腐れた顔をしていた狻猊はころりと表情を変え、小さな椒図を抱えて家の中へ洗濯物を取りに走った。

 椒図の小さな叫び声を聞きながら、狴犴は輪切りにした大きな木の上に小さく切った木を置いて斧を振り上げた。



 一方食物採取に向かった物静かな蒲牢ほろう𧈢𧏡はかは、大きな籠を背負って静かに道の無い山を歩く。人間は山には上がって来ない。母龍に人間に近付いてはいけないと言われているが、山にはいないので警戒する必要はない。鬱蒼と茂る草木の間をずかずかと進んで行く。

 とは言っても人間がどんな生き物なのか見たことがないので、遭遇してもわからないのだが。

「ほ……ホロ兄様……待って……」

「……あ、ごめん」

 髪と同じ色の小さな角を頭に生やした蒲牢は立ち止まって振り返る。魚の性質を持つ𧈢𧏡は陸では足が遅い。動きの少ない家事をする方が安心なのだが、性格を考えると繊細な彼女は食べられる草やキノコを見分ける役が適している。

「ハカはゆっくり来て。木の上から少し見てみる」

「う、うん」

 足元にキノコを見つけて蹲む𧈢𧏡を一瞥し、蒲牢は木の上へくるりと跳び乗った。少し先まで枝を跳び、食べられる物はないかと周囲を見渡す。近くに良い物を見つけ、蒲牢はすぐに引き返した。

「――ハカ。良いの見つけた」

「キノコより良いの?」

「甘い物」

「行くっ」

 𧈢𧏡が逸れないように速度を落として走り、良い物の所へ戻った。木々に蔓を絡める楕円形の紫色の木の実があちこちに実っている。

「わあ、通草だ。美味しそう」

「通草は良い。美味しいし、蔓で籠も作れるし、薬にもできる。皆で食べても充分な量があるけど、何個持って帰ろうか。何個食べる?」

「い、いち……に……さ、三個……」

「一人三個だと……えっと、三十個? 三十個生ってるかな?」

「さ、三十!」

 小さな体で三十個も持てるだろうかと𧈢𧏡はぐるぐると考える。

「一人二個だと……」

「二十個かな。俺も半分持つから、一人で全部持とうとしなくていいよ」

「でもヒキ兄様じゃないから……」

 通草の二十や三十なら蒲牢一人でも持てると思うが、𧈢𧏡は心配性なのか蒲牢が非力だと思われているのか。

「じゃあここで一つ食べる?」

「えっ、でも……」

 それは抜け駆けするようなものではないかと𧈢𧏡は躊躇うが、蒲牢は口を開けている通草を一つ捥ぎ取った。

「俺も食べる。採取班の特権だ」

 悪戯でもするように笑い、実を割って𧈢𧏡に手渡す。小さな両手から溢れんばかりの大きな実を受け取り、先に白い果肉に齧り付く蒲牢に倣い𧈢𧏡も齧り付いた。種を飛ばし、通草畑になれば良いなと𧈢𧏡は思う。



 一方人数の増えた狩猟班の四人はなるべく音を立てないように鬱蒼とした茂みを黙々と歩く。

「……シフ姉様の千里眼ですぐに獲物を見つけられないのか?」

 そろそろ何か言い出す頃かと予想していた贔屓は慌てず、饕餮に声量を落とすよう口元に人差し指を立てた。

「山は広い。全部を見ようと力を使い続けるとシフが疲れてしまう。まずは僕達が知覚できる距離に気配を見つけること。そうすれば隠れてる獲物をシフの助けで仕留められる」

「思ったより狩猟も面倒だな。すぐに捕まえられると思ったのに」

「今日は四人なのでいつもより早いと思いますが……」

「しっ」

 三人に鋭く静止を促し、睚眦がいさいは姿勢を低くした。三人も慌てて姿勢を低くする。

 睚眦は木々の向こうを指差し、鴟吻に目を向けて自分を指差した。向こうに何かいるから自分が先行すると言っている。贔屓は頷き、それを確認して鴟吻は小さな杖を召喚し目を閉じた。

 口を開く鴟吻に耳を寄せ、目を離さずに警戒する。

「……猪ですね。指差した木の向こうで間違いありません。まだこちらには気付いてないようです。寝惚けてるんでしょうか? お尻を向けてます。大物なので気を付けて――あっ」

 千里眼の視界に動くものを捉え、鴟吻は慌てて目を開けた。贔屓が手を伸ばしているが、届かずに饕餮が飛び出してしまった。

「俺が行く!」

 小さな杖を召喚し、饕餮は槍を一本作る。物音と声で猪は振り向き、向かってくる幼い少年に警戒した。

 放たれた槍は猪の体に突き立ち、悲痛な声が上がった。だが倒れることはなく、蹄を地面に叩き付けた。

「浅い!」

「トウ兄様の馬鹿!」

「馬鹿とは何だサイ!」

 こちらに猛々しく走り出した猪はもう止められない。贔屓は鴟吻を抱いて跳び退いた。睚眦も逆方向へ跳び退く。木の上へ避難した饕餮は舌打ちした。

 猪は痛みで我を忘れているのか子供達に深追いはせず、そのまま走り去ってしまった。

「折角の猪肉……」

「オレが行くって言ったのに」

「あっ……この方向は駄目……! ホロとハカが!」

 千里眼で後を追っていた鴟吻は慌てて声を上げ、贔屓は頭を抱えそうになった。

「大丈夫だとは思うけど……追おう」

 鴟吻を抱えたまま、子供達は駆け抜けていった猪を大急ぎで追い掛けた。

「オレが先に行く。絶対仕留める。肉!」

「俺も行く!」

「トウ兄様は獲物を舐めて掛かるから駄目だ!」

「何だとぉ!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら贔屓と鴟吻を追い抜き、睚眦と饕餮は猪が掻き分けていった茂みを駆けていく。

 こんなに騒々しければ他の獲物は全て逃げてしまうだろう。今日の狩猟は失敗だ。饕餮は冷静にやれば獲物を狩れる実力はあるのだが、何せこの性格だ。狩猟には向かないと外していたのだ。途中で飽きていたし今後は大人しく家事班にいてくれることだろう。

 全速力で駆け抜けた猪は鴟吻の心配の通りに蒲牢と𧈢𧏡の許へ茂みを揺らした。

「……何だ?」

 通草を齧っていた蒲牢は先に騒々しい気配に気付き、その方向を見詰める。

「ホロ兄様?」

 獰猛な視線を感じ、蒲牢は一瞬呼吸が止まった。

「ハカ、危ない!」

 慌てて地面を蹴り、𧈢𧏡を抱いて地面に転がった。猪は止まることなく駆け抜けていく。

「な……何……」

「きっと皆に内緒で通草を食べたから……罰なんだよ!」

「それはない……」

 むっとする蒲牢の視界に騒々しい饕餮と睚眦が飛び込み、状況を何となく察した。狩猟班が逃がした獲物なのだろう。

「あー! ホロ兄様とハカが美味そうなの喰ってる!」

「猪は!?」

「二人共。追わなくていい」

 𧈢𧏡を助け起こしながら起き上がり、蒲牢は土を払いながら制止する。転んだ拍子に籠の中身が飛び出してしまった。

「ハカが頑張って採ったキノコが散乱した。拾って」

「でも猪……」

「生きるために食べる猪で誰かの命が奪われるのは駄目だ。あんなに気が立ってる猪を追い掛け回すな」

「わかった……」

 一番猪を仕留めたくてうずうずしているのは睚眦だ。だが彼は素直に言うことを聞く。手綱が握れないのは饕餮の方だ。幸いなことに通草に興味が移ったようだが。

 遅れて走ってきた贔屓と鴟吻は落ちているキノコを拾う睚眦と通草を喰らう饕餮を見て状況を察した。

「ホロ、ありがとう。怪我はないか?」

「あと少し気付くのが遅れてたら猪の餌になってた」

「獣は食べないよ。猪は」

 キノコ拾いを手伝いながら、贔屓は果肉を食べ皮を捨てる饕餮の両頬を軽く抓んだ。

「トウ……もう少し大人しくできないか? あと皮も食べられるんだから捨てるな」

「ふぁ……ほへんひゃはい……」

 反省しているのかわからないが一応は謝る。

「首輪を付けられるのは嫌だろ?」

「ひあ……」

 散乱したキノコを拾い終え、𧈢𧏡は籠を背負い直した。蒲牢の籠からも飛び出していた通草に気付き、拾って戻しておく。

 鴟吻は饕餮の頬をむにむにと抓んでいる贔屓の袖を引き、不安そうに尾を揺らした。

「あの猪……家の方に向かってます……」

 贔屓は饕餮から手を離し、今度こそ頭を抱えた。

「家は不味い……壊されても畑を荒らされても……母様の機嫌が」

 その言葉に、皆は硬直した。母龍が怒ると空気が突き刺さるように凍り付くのだ。

「急いで家に戻ろう」

 蒲牢と𧈢𧏡も採取をそこそこに贔屓達に付いて家へ戻った。



 洗濯を終えて戻った狻猊と椒図は、木を組んで作った物干し竿に洗った服を干していた。竿に手が届かないので、輪切りにした木を踏み台に洗濯物を広げる。

「今日は天気がいいからすぐ乾きそうだね」

「これが終わったら掃除かー……天気がいいなら遊びたいな」

「何して遊ぶの?」

「昼寝もいいなぁ」

 狻猊は椒図の言うことを聞いていないようだ。洗濯物を広げながら空想に耽っている。

 黙々と洗濯物を干しながら、椒図は少し離れた所で黙々と薪を割っている狴犴に振り向いた。疲れた素振りは見せず規則正しく斧を振り下ろしている。その彼と目が合った。狴犴は「あ」という顔をした後ぼそりと言った。

「猪」

 何を唐突に言い出すのかと椒図は不思議そうに首を傾ぐが、狴犴の目はもう椒図を見ていなかった。何処か遠く――椒図の後ろを見ている。振り返った椒図は心臓が止まりそうになった。

「わ……あ……」

 猪が決死の形相でこちらに向かって来ていた。驚きの余り椒図は洗濯物を握り締め、踏み台の上にいることを忘れて逃げようとして足が縺れた。

 隣の狻猊にぶつかり、彼女も空想から目を覚ます。駆け込んでくる猪を視界に捉え、二人は翻筋斗打って竿と洗濯物諸共地面に落ちた。

 猪の目線がそちらへ動いたことに狴犴は気付き、斧を刺した薪を蹴り飛ばし、斧を猪へ投げ飛ばした。斧はくるくると回転するが、それも計算していたのか猪の脳天に深々と突き立った。頭を割られた猪はどうと倒れ、勢いのまま地面を滑る。

 猪が動かないことを確認し、狴犴は洗濯物に埋もれて踠く二人へ駆け寄った。すっかり土で汚れてしまった洗濯物を引き剥がす。

「大丈夫か?」

「かっ、カン兄様! いっ、猪は!?」

「狩猟班には家事を倍やってもらう」

 倒れた猪に目を向ける狴犴の視線を追い、狻猊と椒図は感嘆の声を上げた。

「夕餉は猪肉!」

「カン兄様凄い!」

 動かないことをもう一度確認し、狴犴は猪を踏み付け斧を抜いた。手負いであることには気付いていた。狩猟班がヘマをやらかして逃したのだろう。

「追ってヒキ兄様達が来るかもしれない。その汚れた洗濯物は兄様達に任せよう」

 自分達が洗い立ての洗濯物に埋もれていることに気付き、狻猊と椒図は血の気が引いた。洗う前より汚れている。

 程無くして狴犴の言葉通り贔屓達は駆け足で戻って来た。倒れて血を流す猪と洗濯物に埋もれて座り込む狻猊と椒図、そして血に濡れた斧を手に提げる狴犴を見て何がどうなったかすぐに察することができた。

「採取班も帰って来たのか。丁度いい。全員で薪割り以外の家事をしてもらう」

「!」

「サンとショウは少し休んで、料理に着手するといい。食材が揃ったからな。洗濯物はそいつらに押し付けろ」

 戻ってきた兄弟達を見下すように目を細め、狴犴は母屋の中へ消えた。斧の血を拭いに行ったのだろう。残された狩猟班は気不味く、とんだ迸りの採取班は戻らなければ良かったと思った。

 落ちた洗濯物を拾い、贔屓は狻猊と椒図を助け起こす。見る限りでは何処にも怪我はないようだ。洗濯物が汚れただけで良かった。

「怖い思いをさせたな。大丈夫か?」

「大丈夫! 夕餉は猪!」

「カン兄様が一撃で仕留めたよ。凄かった」

「カンがいてくれて助かった……」

 籠に汚れた洗濯物を詰めながら、贔屓は胸を撫で下ろした。狴犴が分担して畑の方に行っていたり家の中にいれば、狻猊と椒図がどうなっていたか、考えたくもないことだった。贔屓は二人の頭をがしがしと撫でて抱き締めると、二人は擽ったそうに笑った。

「それじゃあ……」

 汚れた洗濯物を見下ろし、贔屓は考える。

「効率を考えると洗濯はシフとハカにやってもらうのがいいけど……僕が責任を持つよ。水汲みも僕がする。シフとハカは掃除をしてくれるかな? ホロとサイは畑を頼むよ。トウは……うん……何がしたい?」

「探検」

「んっ……そ、そうか……」

 何ものも饕餮を縛ることはできないのかもしれない。兄弟を纏める力がないのだろうかと贔屓は肩を落とす。

「……トウも畑。おいで。ヒキ兄様は優し過ぎる」

 母屋に採取籠を置いて戻って来た蒲牢は饕餮と睚眦を促した。畑は家の裏手にある。すぐ近くだ。饕餮は不満そうな顔をするが、蒲牢が腕を引くと渋々引き摺られて行った。

「ホロも大概緩いけど、意外としっかりしてるよな。僕より」

「ヒキ兄様、私も洗濯手伝います。掃除はそれからでも遅くないです」

「ありがとう、シフ。でもこれは僕がやらないと」

 洗濯籠を持ち、鴟吻を制して贔屓は一人で川に向かった。止められるとそれ以上前には出られない鴟吻は眉と尾を下げながら𧈢𧏡を促し、納屋へ箒を取りに行った。𧈢𧏡は採取籠を母屋に置き、元気のない尾を垂らす鴟吻の後に続く。

 予想外のことは起きたが、母龍が帰る前に全て終えることはできるだろう。猪は狻猊が小さな杖を咥えながら捌き、幾らかを干すために切り置いておく。折角の大物だ、鍋にすることにした。椒図は籠の中に通草を見つけて燥いだ後、中身を取り出して皮を水に浸した。果肉は甘いが皮は苦いので椒図は苦手なのだが、兄弟でも好みは違う。皮の灰汁を抜く間、せっせと体重を掛けて大根を切った。

 畑は蒲牢の指示の下、何とか饕餮を繋ぎ止めて食べる分の収穫をした。饕餮は食べ物には興味があるのだが、労力は惜しみたいようだ。

 母龍が帰る頃には皆疲れ果てていたが、玄関の戸が開くと九人は駆け寄って横に並んだ。母龍は偶に米を持ち帰るが、今日は何も持っていなかった。

「母様、おかえりなさい」

 母龍は杖を仕舞い、子供達の姿を見て眉を顰めた。

「……随分汚れている」

 予想外の出来事の御陰で汚れを落とす時間がなかった九人はそれぞれ自分と兄弟達の姿を見遣り、思った以上に汚れていることに焦りを覚えた。

「気高き龍の子がそんな見窄らしい格好ではいけない。恥よ。自分達が龍の子だということを自覚しなさい」

 冷ややかな目を向けられ、九人は緊張と威圧で俯くしかできなかった。贔屓も長子とは言えまだ子供だ。母龍に逆らう言葉は言えない。溜息を吐く母龍が九人を押し退けて居間に座るまで、皆一言も言葉を漏らせなかった。

 狻猊は猪鍋を中央に置き、母龍の前に器を置いた。ぐつぐつと煮える猪肉の香りに、九人の疲れも緊張も一瞬吹き飛ぶ。

「蒲牢、睚眦。先に食べなさい」

 母龍が先に肉を抓み、蒲牢と睚眦は他の皆を目で見回しつつ遠慮がちに箸を伸ばした。本当は皆で一緒に食べたい。二人はそう思っていた。

「いつものように、成り損ないの七人は龍となることに励むように。そうすれば蒲牢と睚眦のように食べることができる」

「はい」

 九人は性格も容姿も似ることはなかった。龍の性質を継いだのは蒲牢と睚眦だけだった。

 母龍は他の子もいずれ龍の性質となることを夢見ている。獣の性質が変わることは通常無いのだが、ここにはそれを指摘できる知識のある者はいなかった。九人もいて龍の性質を持つ子がたったの二人しかいないことに母龍は大層嘆いていた。

 母龍は食べ終わると、食後の通草も食べずにさっさと居間を出て行った。母龍と子供達が顔を合わせるのは食事の僅かな時間だけだ。

 残された湯気の立つ鍋を見詰め、九人は少しずつ鍋に近付いて頭を突き合わせた。

「カンが仕留めてくれた大物だ。感謝して食べるように」

 騒いで奥の部屋まで声が届かないように声量を落とし、贔屓は狴犴に頭を下げた。皆も彼に倣って頭を下げる。

「だからカンが最初に肉を選んで食べてくれ」

「選ばなくてもどれも同じだ」

 然程興味がないようだがきっちりと野菜ではなく肉を一つ掴んで自分の器に入れた。

 食べたくてうずうずしていた饕餮はもう食べても良いかと鍋に箸を伸ばす。それを見て他の皆も一斉に箸を伸ばした。母龍がいる間は腹が鳴りそうになるのも必死に抑えていたのだ。あんなに動き回って腹が空かないはずがない。𧈢𧏡と椒図はもたもたとしていたが、皆それぞれ肉を貪った。母龍がいる間はゆっくりと食べていた蒲牢と睚眦も、皆に交じって鍋を突いた。やはり皆で食べる鍋は美味しかった。九人の中では誰が龍であろうとどんな性質を持とうとも、それを気にする者はいなかった。

 食事を済ませると順に土を落とすために水浴びをし、片付けを終えて陽当たりの良い崖に沿った離れ家に戻った。陽が沈む前に九人分の布団を敷く。部屋は狭く足の踏み場もないが、寝るだけなので問題はない。

 布団を被りながらお喋りに興じ、それぞれ寝息を立てて暫く経った頃、一人ぽつんと眠れない子供がいた。頭を動かして皆が寝ているのを確認し、起こさないように起き上がる。手足を踏まないようにそっと歩き、離れ家を出た。

 すっかり陽の落ちた崖の上の黒い空には星々が煌びやかに瞬いている。丁度良い石に腰を下ろし、魚のような尾をぱたりと揺らした。夜は冷える。肌寒い空気に小さくなりながら、鴟吻は暗く沈む遠くの木々を見詰めた。谷の向こうの山に明かりはない。

 ぼんやりとしていると、ばさりと頭に何かが落ちてきた。慌てて払い除けようとするが、危険な物ではないとすぐに気付く。柔らかい感触――上着だった。土を踏む音がして振り向く。

「ヒキ兄様」

 贔屓は鴟吻の隣に座り、星を見上げた。

「寝れないのか?」

「お、起こしてしまいましたか……?」

「シフが元気ないように見えたから」

 驚いて尾をぴんと立てる鴟吻を見て贔屓は笑った。鴟吻の尾は彼女の感情を如実に表わしている。背後にある尾の動きに本人は気付いていないようだが、尾を見れば感情が一目瞭然だ。

「元気は……なくは、ないです」

「今日は大変だったから、疲れたのかな」

「それは……皆大変で、でも怪我がなくて……良かったです、けど……」

 歯切れ悪くぽつりぽつりと漏らす彼女の尾は地面に伏せられている。やはり元気がない。

「サンもショウも無事で……その……」

 二人の名前を出したことで、贔屓も漸く理由がわかった。鴟吻の頭にぽんと手を置き、ゆっくりと撫でる。

「シフも無事で良かった」

「!」

 途端に尾がぱたぱたと勢い良く振られ、頬を染めた鴟吻は途惑うように照れながら贔屓を見上げた。次子の鴟吻にとって兄は贔屓だけだ。他の兄弟の前では姉であることを自覚し堅実であろうと心懸けているが、本心は甘えたいのだ。平たく言うと鴟吻は贔屓のことが大好きだった。

「トウはもう少し力を付けないと狩猟には入れられないな」

「ホロと組ませてみるのはどうですか? 今日も畑で上手く手綱を引けてるみたいだったので」

「ホロも行動が読めない時があるけどな……」

「ヒキ兄様が一人で悩むことはないです。私も頑張ります」

「……じゃあ、明日も早いしもう寝ようか」

 撫でられて興奮していた鴟吻は、今が夜だということを思い出した。もう皆寝静まっているのだ。贔屓と話していると時間を忘れてしまう。しっかりしないとと尾をぶんぶんと振る鴟吻に、贔屓はまた笑った。

 皆の眠る離れ家に戻り、二人も静かに眠る。

 そういう毎日を過ごし、九人はそれなりに楽しくやっていた。



「今日の狩猟は釣りにする。僕とシフとハカで釣りをしよう。ホロとショウは食物採取を頼むよ。カン、トウ、サイ、サンは家事を。異論はあるかな?」

「異論」

 手を挙げたのは蒲牢だった。

「昨日の採取で動物の痕跡があった。熊かも。危ないから今日は採取を休みたい。代わりに畑を頑張る」

「熊か……それは危ないな。熊肉は魅力的だけど、魚も食べないと母様に叱られるしな。わかった。ホロとショウは畑をしてくれ」

 饕餮からは異論はなく、他に手を挙げる者もなく九人はそれぞれの仕事へ向かった。

 蒲牢は椒図を連れて畑へ行き、畑に植えた野菜の様子を確認する。

「虫や病気がないか確認して、ショウ」

「うん」

 黙々と目の前のことだけに集中することが椒図は得意だった。自分のほんの近くの狭い空間に閉じ籠るようで心が落ち着く。

 反対側の端から確認を始めた蒲牢も黙々と進む。

「澄み渡る翡翠の森 囀る小鳥の声は遠く 踏み締めた土の奥で 不快な夢を囁き続ける――」

 小さな声で歌い始めた蒲牢に、椒図は顔を上げて目を輝かせた。澄んだ蒲牢の歌声は優しく耳に心地良く、だが徐々に不穏になる言葉に椒図は息を呑んだ。

「この地の底に這いずる黒き芥」

 歌を止めて蒲牢は突然立ち上がり、大きく振り被って崖の方へ何か黒い物を放り投げた。谷に落ちていくそれを見届け、蹲もうとして椒図と目が合う。

「土竜がいた」

「土竜……!」

 徐々に不穏になる歌は土竜を見つけたからなのかと椒図はもう一度崖の方を見た。何処まで落ちたかわからないが、戻って来ることはないだろう。

「まだいると困るから、騒がしくしておいて」

「頑張る」

 椒図も立ち上がってぴょんぴょんと跳ねて地面を叩いた。

「ホロ兄様の歌、好き」

「……そう?」

「安心する」

 ふわりとあどけなく笑う椒図に蒲牢も何だか照れ臭くなった。歌うのは好きだが、面と向かって好きと言われると恥ずかしい。

「ホロ兄様は物知りで凄い」

「そうかな……」

 兄弟達の頭の中を覗いたわけではないので蒲牢には基準がわからなかった。土竜についても畑を見ている内に気配に気付くようになっただけなので、物知りと言われても実感がない。

「ショウもきっと凄くなる」

「そうかな?」

「たくさん食べて大きくならないとな」

「うん!」

 擽ったそうに笑う椒図に微笑み、再び蹲んで野菜の様子を見る。鴟吻の千里眼でも地中は覗けない。どのくらい土竜に穴を掘られたのか考えたくなかったが、隆起した土がないか探しておく。作物を荒らされるのは御免だ。


「ショウ――!」


 騒がしくとは言ったがそれ以上に騒々しく、饕餮が駆けてきた。呼ばれた椒図は野菜の中からひょこりと顔を出す。

「トウ兄様」

「あ、ここか。ちょっと休憩して遊びに行こうぜ」

「遊び……」

 椒図は蒲牢へ目を遣り、目が合った。

「……トウ。休憩はまだ早い。そっちの家事はどうした?」

「掃除は終わった」

「本当に?」

「終わったー」

 幾ら何でも早過ぎる。毎日掃除しているとは言え、家の周囲と母屋と離れ家全てを終わらせるには早い。家事班全員で一斉に掃除をしたなら納得できるが、いつものように分担しているはずだ。

 だが遊びと言われ、椒図の顔は爛々としている。まだまだ遊びたい盛りの子供なのだ。……蒲牢も子供ではあるが。

「……まあいい。畑は俺が進めておくから、ショウは少し遊んでおいで」

「いいの!?」

「天気も良いし、これからは休みの日を作るのもいいかも」

「ホロ兄様、ありがとう!」

 元々自分達で食べる分だけを育てている小さな畑だ。一人で手入れもできないことはない。

 饕餮は椒図の腕を引き、先に声を掛けておいた狻猊も連れてこっそりと飛び出した。狴犴には内緒だ。狴犴は仕事を放り出すことを許すはずがない。

「何処に行くの? トウ兄様」

「面白い物を見つけたんだ。山の下に行く」

「山を下りるの?」

 道の無い茂みを走り、躓きそうな木の根を跳ぶ。第八子と末子と言えど人間より遙かに身体能力は高い。息を切らせることなく難無く山を駆け下りる。

「あんまり下に行くと母様に怒られないかな?」

「行くなって言われてるのは人里だろ? 人間に会わなければ大丈夫だって」

 饕餮に続きあっと言う間に山を下り、ちらりと人影が見えて慌てて暗い茂みに飛び込んだ。三人は気配を消してそっと様子を窺う。

「……道がある」

 茂みの向こうに草が疎らな道と呼べる物が見えた。獣道ではない。その端に何やら人工的な小さな家のような物がある。人影達はそれに手を合わせ、目を閉じていた。

「あれ何……?」

「猪でも熊でもない……まさかあれが人間って奴か?」

「人間は不味いよ! 不味いってトウ兄様!」

 狻猊は慌てて饕餮の袖を引くが、饕餮と椒図は好奇心が勝り人影に釘付けになってしまった。人影は母龍より少し背丈が低く、あまり印象に残らない顔の女達だった。女達は目を開けると、急ぐように立ち去った。

「逃げてったな」

「もしかして……面白いのって、あれ?」

「そうそう。あの家みたいな奴」

「絶対不味い奴でしょ!」

「いいからいいから」

 誰も戻って来ないことを確認し、饕餮は茂みからゆっくりと出た。椒図は躊躇うが好奇心に負けてしまい彼の後ろに続いた。狻猊は警戒し、茂みの中からハラハラと様子を窺う。

 饕餮と椒図は道の端の小さな家を見下ろす。屋根と柱しかない簡易な作りの家だった。二人で両腕を回せば囲めるほどの大きさだ。その前に里芋や大根などの作物と小さな袋が置かれている。

「サン――今日の夕餉が置いてある」

「な、何で夕餉……?」

 遂に狻猊も好奇心に負けてしまい、茂みから飛び出してしまった。二人の許へ行くと確かに饕餮の言った通り食べ物が置かれている。

「何で?」

「さあ? 日頃の行い?」

「トウ兄様は何もしてない」

「煩いな」

 首を捻る饕餮と狻猊は扨置き、椒図は恐る恐る芋を突いてみた。何の変哲も無い只の里芋だった。

「これで畑仕事しなくてもいいぞ、ショウ。全部持って帰ろう」

「本当? ホロ兄様も喜ぶ?」

「喜ぶ喜ぶ。泣いて喜ぶ」

「トウ兄様は適当だなぁ……」

 狻猊は呆れるが、椒図は乗り気になってしまった。蒲牢一人に畑を任せて遊びに来てしまったことに多少の罪悪感はある。この作物の山を持ち帰れば蒲牢もきっと喜ぶ。そう信じて椒図は軽い芋や豆を抱え、饕餮は重い大根を拾った。一緒に置かれている小袋も開けてみると、中は米だった。

「米は少な過ぎるな……置いて行くか。肉も欲しいって書いておけば、肉も出て来るかな?」

「そんな都合良く?」

 仕事が減るのは狻猊も歓迎すべきことなので、二人に倣って作物を拾う。豪華な煮物ができそうだ。

「次は籠持って来ようぜ」

「籠は二つしかないよ、トウ兄様」

「じゃあアタシが通草の蔓で作ってあげる」

 三人は夕餉の時間にならない内に山を戻り、家へ帰った。椒図はまず蒲牢に見せようと畑へ行こうとしたがそれはもう終わったらしく、彼は箒を握って立っていた。

「……あ。遅かったな。それは?」

 三人が腕に抱える作物にすぐに気付き、蒲牢は手を止めた。帰りが遅いことは咎めない。

「これね、拾った。ホロ兄様、嬉しい?」

「……? 採取に行ってたのか? 危ないって言ったのに……。でもこんなにたくさん……群生地でもあるのか。それなら凄いな」

 褒められた椒図は擽ったそうに笑い、母屋へ走って行った。

「あっ、そうだ夕餉作らないと!」

 狻猊も家事を思い出し、続いて母屋に向かった。饕餮も作物を置くために後を追う。

 三人が腕に抱えた作物のことを蒲牢はそれ以上訊かなかった。よもや山を下りて人間の置いた作物を持ち帰ったとは思わない。ただ土が綺麗に拭われた芋や大根は少し気になった。随分綺麗に洗ってきたのだなと。

 いつものように母龍の帰りを待ち、居間に人数分の焼いた魚と味噌で煮た野菜を並べた。そしていつものように蒲牢と睚眦だけ先に食べることを許される。沈黙の中で母龍が食べ終わるのを待つが、煮物を食べた母龍はふと箸を止めた。

「この料理は誰が?」

「……あっ、アタシと椒図です」

「ボクです……」

 食事時に話すのは珍しい。反応が遅れてしまい、狻猊は冷汗が流れそうになった。椒図も焦り小声になってしまう。口に合わなかったのだろうかと緊張が走った。

「この野菜はどうした? いつもと違う」

「え? そ、それは……」

 狻猊はまだ食べていないが、そんなに味が違うのかと手が震えそうになる。人間の近くに行ったことを怒られるかもしれない。どう答えれば良いのか頭の中が真っ白になった。


「俺が拾いました」


 軽く手を挙げ、饕餮が名乗り出た。堂々と、それがどうしたと目を細める。

「拾った……? 一人でか? 何処で?」

「一人で、小さい家の所です」

「小さい家……? まさか祠?」

「祠?」

「山を下りたの?」

「止められてないので」

 母龍の表情は一変し、手に持っていた器を饕餮に投げ付けた。憎い物でも見るような形相で睨み付ける。

「それは人間が置いた物だ! 気高き龍が人間の物に触れるな穢らわしい! 二度と山を下りるな!」

 誰も何も言い返せなかった。突然の激昂に皆は金縛りに遭ったように動けなかった。母龍は忌々しげに睥睨するとすぐに居間から出て行った。

 戻って来ない母龍に困惑しつつも散乱した煮物に呆然と目を遣り、皆の視線は饕餮へ向く。

「トウ兄様、鼻血……」

「あー……」

 手の甲で血を拭い、饕餮は舌打ちして膝を立てた。

「ボクも行ったのに……」

「そ、そう! アタシも……」

「皆で怒られても痛みが三分の一になるわけじゃないだろ。だったら言い出した俺だけでいい」

 鴟吻は立ち上がり、母屋を出て行く。贔屓は転がった煮物を拾い集めた。

 兄としてなのか狻猊と椒図を庇った饕餮は面白くなさそうに剥れた。

「皆、話は後にしよう。ここだとゆっくり話せないだろ? 早く食べて離れに行こう」

 贔屓は安心させるように笑顔を作り、怯える狻猊と椒図の肩を叩いた。

 静かに戻って来た鴟吻は持ってきた布切れを饕餮の鼻に当てた。軽く切っただけのようだ。血はすぐに止まった。

 饕餮は落ちた大根を拾い、口に入れて黙って咀嚼した。器を持ちながら、皆も心配そうに見詰める。

「……いつもと同じ味なんだけど」

「トウ、落ちた物じゃなくて、器に入ってる物を食べて」

 饕餮は箸を使わずに手掴みで自分の器の煮物を食べた。母龍がいればきっとまた叱られたことだろう。不満げな饕餮のちょっとした反抗だ。

 気不味い空気の中、皆は急いで食事を済ませた。確かに味はいつもと変わらない気がする。大人になると舌が敏感になるのかもしれない。

 片付けを終え、九人は静かに母屋を離れた。母龍は様子を見に来ることもなく、奥の部屋へ消えたままだった。

 離れ家で布団を敷いた九人は布団を被りながら頭を寄せ合った。俯いたり目を逸らしたり気も漫ろな兄弟達を見渡し、贔屓が口を開く。

「……トウ。山を下りたのか? サンとショウも」

「…………」

「僕は怒らないよ。遊んでたら偶々山を下りてしまうこともあるかもしれないし」

 饕餮は頭まで布団を被り何も言わなかった。狻猊と椒図もどう言えば良いのかわからなかった。

 黙り込む三人の代わりに、彼らを見送った蒲牢が心境を察し口を開いた。

「……遊びに行ったのは知ってる。拾った食べ物がまさか人間の置いた物とは思わなかったけど」

「ホロが許可したのか?」

「何処に行くかは知らなかった。聞いておけば良かったな。今回のことは俺の監督不行届きでいい」

「……いえ。私の責任です」

 声を上げた鴟吻に、饕餮も布団から少し顔を出して怪訝な顔をした。

「祠……ですよね。私は知ってました」

「!」

「千里眼で見たことがあって……。人間が作った物です。おそらく私達……私は龍じゃないですが、龍を良くないものと見て、厄災が降り懸らないようにと作物を供えてるんだと思います。母様が何かしてるのかもしれませんが……人間が龍を恐れてるので、山に人間が入って来ないんだと思います。見つけた時に皆に言うべきでした」

「シフの所為じゃないよ。母様はその祠を知ってたんだから。母様が警告すべきだったんだ」

 布団から覗いている饕餮の頭をわしわしと撫で、贔屓は苦笑した。

「人間に近付くなとか人里に行くなとか言われても、僕達はそもそも人間を見たことがないし、脅威もわからない。警戒はしないとだけど、遅かれ早かれ今回みたいなことは起こったんだと思う。トウを責めることはできない」

「……人間も見た」

「見たのか?」

「私も千里眼で見たことあります」

「人間、手を合わせてた。目を瞑って」

「つ、角とか尻尾とか生えてなかったよ。それ以外はアタシ達と似てた」

 怒られないとわかったからか椒図と狻猊も口々に話し出した。しっかり人間に近付いてしまったことを。

「人間の姿がわかって良かった。今度からは近付かないようにな」

 皆を見回し、神妙に頷く様子にとりあえずは安心する。

「拾った物がまだ残ってるなら、勿体無いけど処分しておこう。祠から作物が消えてれば人間は驚くかもしれないけど、元の場所に戻そうとしなくていい。放っておこう。いいな?」

「わかった」

「うん」

 狻猊と椒図は頷き、饕餮も黙って頷いて布団に潜った。

「よし。じゃあ皆、疲れただろ? 寝ようか」

 それぞれ布団に潜るが、寝付くまで時間が掛かってしまった。それでも疲れた体は眠りを欲し、九人はぐっすりと眠った。

 翌日もまたいつもの一日が始まり、贔屓と鴟吻は皆を起こさないように離れ家を出た。母屋に行き、静かに朝餉を用意する。朝が得意ではない兄弟もいるので、寝かせておいてやろうと朝餉の当番は贔屓と鴟吻に固定している。用意とは言っても夕餉の残りなどを出すので、あまりすることもないのだが。

 夕餉は母龍の機嫌を損ねたので今日は残りの煮物は出さず新たに味噌汁を作っておく。

 母龍が起きる前に鴟吻は離れ家へ行って声を掛け、兄弟揃って母龍に挨拶をする。兄弟揃って――贔屓は皆の顔を確認し、小声で尋ねた。

「……ショウは? 寝坊か?」

「え? 本当だ、いない……」

「呼びに行く時間がないな……」

 椒図の寝坊はこれが初めてではなかった。以前寝坊した時は母龍は何も言わなかったので、今回も怒られることはないだろう。子供が九人もいるので、一人欠けた程度では気付かないのかもしれない。

「おはようございます、母様」

 食事を囲みいつものように朝餉を終え、母龍はすぐに出掛けてしまう。飛ぶ後ろ姿を見送った後、贔屓は椒図の分の朝餉を用意し、鴟吻は離れ家に椒図を起こしに行った。

「――あら?」

 朝餉の直前まで皆寝ているので全員の布団をまだ敷いているが、声を掛けても布団を捲っても椒図は出て来なかった。首を傾げつつ鴟吻は皆のいる母屋へ戻る。

「ショウはここにいますか?」

「いないけど、どうした?」

「離れにショウがいないんです」

かわやかな? 見て来るよ」

 贔屓は少し離れた所にある小屋へ行き、扉を叩いた。返事も物音一つもせず、開けてみると誰もいなかった。

 首を傾げつつ母屋へ戻ると、皆は心配そうに顔を見合わせる。

「ショウがいない……」

「……祠に返しに行ったとか? だったら俺が見て来る」

 立ち上がろうとする饕餮を慌てて制止する。

「待て。トウ達が拾ってきた作物はまだここにある」

「じゃあ一体何処に……」

「シフ、近辺を見てくれるか? ショウの性格だとあまり一人で遠くへは行かないと思うんだけど……」

「わかりました。少し待ってください」

 小さな杖を召喚し、鴟吻は目を閉じる。皆は息を呑んで見守るしかできない。待つ時間は落ち着かず心が浮ついてしまう。

 沈黙の中で鴟吻は突然目を開き、口元に手を当てて外へ駆け出した。

「……っ」

「シフ!?」

「うっ……」

 贔屓はすぐに後を追うが、座り込んで嘔吐してしまった鴟吻にびくりと体が強張った。

「シフ、大丈夫か!?」

 傍らに膝を突いて背中を摩ってやると、鴟吻はぼろぼろと泣き出した。

「ひっ……に、兄様……」

 六人も慌てて飛び出し、不安げに狼狽えた。

「シフ姉様……」

 鴟吻はぼろぼろと涙を溢れさせるばかりで、とても話せる状態ではなかった。落ち着くまで待つつもりで贔屓は背中を摩るが、全身で息をしながら声を絞り出すように彼女は訥々と話し始めた。

「し……ショウが……大変……」

 震える手で山を指差し、縋るように贔屓に訴えた。

「この方向に……まっすぐ……行くと、ショウが……」

「いるんだな? わかった。僕が行く。シフはここで皆といて」

「大変……大変……」

 何が大変なのか言葉にできないようだ。鴟吻の様子から見て悪い予感しかしない。頭を一つ撫で、贔屓は立ち上がり皆へ向き直る。

「シフはこんな状態だけど……心苦しいけど家事もしないといけない。今日は狩猟も採取も無し、家事を分担してくれ。ハカはシフに付いてやってほしい。あと……そうだな、ホロかサイは僕に付いて来て」

 人選で察した蒲牢と睚眦は目を見合わせる。

「俺も行く!」

 そこに饕餮も手を挙げた。

「駄目だ。トウは家事。すぐ戻るから心配するな」

「でも……!」

「カン、皆を頼む」

「わかった」

 鴟吻の指差した方へ走り出す贔屓の後を追おうとした饕餮の襟首を掴み、狴犴は彼を引き摺って納屋へ向かった。

 蒲牢と睚眦はどちらかと言われたが決め兼ねて二人で走り出した。茂みに入った所で立ち止まり再考する。

「頭がいるならホロ兄様が行く方がいい。頭か力、どっちだ?」

「シフは『大変』としか言わなかった。僕もこれ以上絞ることができない」

「じゃあ俺もサイも付いて行く。万一何かあった場合、普段の狩猟の人数はいた方がいいと思う。行こう、ヒキ兄様」

「ホロには敵わないな……」

「ヒキ兄様みたいに責任感はないから、適当言ってるだけでもある」

「自分で言うんじゃない」

 改めて三人で行くことを決め、指差した方へ真っ直ぐ向かった。山の中では真っ直ぐ行くのも苦労するが、毎日のように山を駆けている子供達はその辺りの感覚は正確だ。背丈は普通の人間の幼い子供と変わりないので鬱蒼と茂る草木に埋もれそうになるが、小さな椒図を見落とさないように周囲を慎重に見回す。

「ショウー! いるか!?」

 名前を呼びながら真っ直ぐ進みつつ茂みを分ける。家が完全に見えなくなるほど離れた頃に、睚眦が立ち止まった。

「……血の臭い」

 走り出した睚眦を追い、二人は唾を呑んだ。

「…………」

 そこには体を無惨に切り裂かれた椒図が仰向けに倒れていた。

「ショウ……!」

 急いで駆け寄り頬に触れる。――冷たい。脈が無い。

「何でこんな……」

「何だろう、これ……爪痕? 熊……?」

「近くに気配がないか確認してくる」

 睚眦は木の上へ跳び、周囲を見渡す。蒲牢も変わり果てた椒図の傍らに膝を突き眉を顰めながら傷を確認する。

「ヒキ兄様はどう思う? 熊?」

 熊が襲って来たのなら、次の犠牲者が出る前に始末しなければならない。

「……執拗に体を裂かれてるけど、顔は何ともないな」

「違和感をもう一つ挙げるなら、傷は正面からだけか? 逃げれば背中にも傷が付きそうなのに」

「逃げられなかった……。或いは最初の一撃で倒されて動けなかった……」

「足が竦んで逃げられず、正面から?」

「……その議論の前に、何でショウがこんな所に一人でってことだな」

「引き摺られたような痕跡はないよ」

 周囲を確認した睚眦は木から飛び降り、椒図の体を見てもう一度顔を顰めた。

「近くに大型の動物はいなかった。痕跡は地面から探してみないとわからないけど」

「ありがとう、サイ。とりあえずこんな所にいつまでもショウを寝させておけない。連れて家に戻ろう。……シフには見せないように」

「うん、わかった」

 贔屓は椒図の亡骸を抱き上げ、周囲を警戒しながら家に戻った。

 鴟吻は偶に星空を眺めている石の上に移動しており、家から離れてくれていて助かった。背を向けている鴟吻は気付かなかったが、彼女に付いていた𧈢𧏡は贔屓達に気付き、びくりと顔を強張らせた。

 他はそれぞれ洗濯や掃除にと家の外にはおらず、薪を割っていた狴犴だけが眉を寄せて様子を見に来た。

「……生きてるのか?」

「いや……死んでる。後で皆にも訊くけど、昨日寝た後にショウを見たか?」

「……見てない」

「そうか……。一晩土の上だとしたら可哀想だ。早く布団に寝させてあげよう」

「……ああ」

 贔屓は椒図を連れて離れ家へ行き、蒲牢と睚眦は狴犴から家事の分担内容を聞き手伝いに向かった。こんな時に家事をする気分にはなれなかったが、休むことも許されなかった。

 洗濯や掃除に行っていた兄弟達が戻ると贔屓が家事に参加していることに気付き駆け寄ったが、椒図のことを聞くと皆しんと言葉を失ってしまった。

 母龍が帰るといつものように皆で迎えたが、食事の間も沈んだ顔で、母龍が居間を出て行っても黙々と進まない箸を握っているだけだった。

 離れ家に戻る時、鴟吻をどうしようかと心配したが、布団を被せ傷を隠したからか千里眼で覗いた時よりは大分落ち着いていた。

 布団を被せているとは言え外に放り出すのは憚られ、皆の意見の一致のもと椒図は部屋の中で皆と一緒に寝かせることにした。椒図も皆と一緒にいる方が良いだろう。

 贔屓は皆に、昨晩布団に入った後で椒図を見たか確認を取る。皆は首を振ったが、𧈢𧏡だけが小さく手を上げた。

「私……厠に行きたくて目が覚めて……。その時、ショウが寝てるのを見た……」

「それはいつ頃? ちゃんと姿を見た? 布団を頭まで被ってるとかじゃなくて」

「うん。顔見た。夜明け前だよ。でも戻って来たら、いなかった」

「!」

 厠までは距離がある。月明かりがあるとは言え夜の暗さで𧈢𧏡が早歩きで行けるとは思えない。空白の時間はたっぷりとあるはずだ。

「ショウも厠かなって思ったんだけど……暗かったから擦れ違っても気付かなかったのかなって」

「その後ショウが戻って来てないなら、夜明け前に襲われたってことだな……。夜行性の動物か」

「夜行性……猪の傷ではなさそうだけど」

 蒲牢も考えてみるが、良い答えは浮かばなかった。

 八人が頭を突き合わせても、幾ら獣と言えどまだ幼い子供だ。それ以上の思考はできなかった。

「皆、明日も狩猟と採取は休もう。サンが干してくれた肉もあるし、畑もある。家事に専念しよう。危険な動物が彷徨うろついてるかもしれないから、山には入らないこと。家から離れる時は必ず二人以上で行くように。いいな?」

 兄弟達はそれぞれ頷き、布団を被り直した。饕餮と狻猊は頭まで布団を被り、狻猊は暫く啜り泣いていた。

 やがて狻猊も泣き疲れて眠ってしまうと、蒲牢は様子を窺いながら起き上がった。椒図の顔に傷がないので、こうしていると皆と同じように眠っているようだった。

 皆を起こさないように離れ家を出、暗い星空を見上げる。遮蔽物のない空は綺麗に星が見渡せる。

「……星の降る空の狭きに 祈るさいごのおもい風の音 君を覆い隠す葉は いつかそっと流れてゆく」

 虫も鳴かないしんとする道を歩きながら、蒲牢は小さく歌う。椒図は蒲牢の歌が好きだと言っていた。この歌は彼に届くだろうか。

「……ホロ!」

 誰もいないと気を抜いていたので、唐突に呼ばれてびくりと肩が跳ねた。振り返ると、贔屓が走って向かってきた。

「厠か……?」

「厠も一人で行くのは駄目なのか?」

「お前の場合は……ハカが言ってたから、何か探しに来たのかと」

「確かにそれもある」

「月明かりがあるとは言え暗いんだから、探すならせめて陽がある内にしろよ」

「夜明け前の方が状況が近いのかと思って」

「あのなぁ……」

 やれやれと頭を振り、贔屓は溜息を吐いた。それで蒲牢まで襲われてしまえば元も子もない。

「……ね、ヒキ兄様」

「ん?」

「嫌なこと思い付いたんだけど」

「嫌なこと?」

「ショウの傷って、動物の爪痕にしては大きいと思うんだ」

「僕達の知らない動物かもしれない。或いは大きく育ち過ぎた……」


「俺達の誰かがやったって、思わない?」


「……!?」

 ぴしりと空気が凍り付いたのがわかった。贔屓は酷く困惑し、傷悴したように蒲牢を見詰めた。

「…………なんて、冗談だよ」

 目を逸らし、蒲牢はくるりと足を動かし厠へ歩いた。贔屓があんな顔をするなんて思わなかった。

 厠に用があるとは只の口実で、厠に着いた蒲牢はとりあえずは中に入るが、黙って扉に寄り掛かり時間を潰した。厠には特に変わった所はなさそうだった。鼠一匹いない。

 丁度良さそうな時間に厠を出ると、贔屓は後に入らず蒲牢と共に家に戻った。本当にただ心配で付いて来ただけらしい。帰りはどちらも一言も話さず、そして誰とも擦れ違わなかった。

 離れ家に戻ると、外で何も起こらなかったことに安堵した。だが布団に入ろうとした時、暗い部屋の中で違和感に気付いた。

「ハカとサンがいない……?」

 二人のいた布団を捲り上げるが、空っぽだった。贔屓と蒲牢は顔を見合わせ、音を立てないようにもう一度外へ出た。

「どういうことだ……?」

「二人が同時にいないってことは、ヒキ兄様の言い付け通り二人で行動してるみたいだけど……」

「厠じゃないよな……? 擦れ違ってないし、ホロが入ってる間も周囲を見てたけど人影はなかった」

「厠に来る前に何かあった……?」

「状況が似過ぎてる……朝まで待ってられない。ホロ、夜の山を歩くのは平気か?」

「感覚で生きてるから平気。ショウを見つけた所に行くのか?」

「ああ。あとその付近を。何度も同じことが起こると考えたくはないけど、何かあったら駄目だ」

「うん。捜そう」

 贔屓と蒲牢は互いに逸れないように暗い山の中へ入り、夜が明けるまで二人を捜した。だが二人の姿も血痕も何も見つからなかった。もしかしたらこうして捜している間に二人は何事もなく離れ家に戻っているかもしれない。

 だが皆が起きる頃に離れ家に戻っても、二人の姿は無いままだった。

 眠らず捜し回って疲れ切った顔の贔屓と蒲牢に、兄弟達の目は一気に覚めた。事情を説明すると皆の顔は一様に曇ったが、今はまだ長話をしている時間がない。贔屓と蒲牢は汚れた顔だけ洗い、眠い目を擦り母屋に向かった。朝餉の用意は鴟吻が一人でしたようだが、起きると空の布団があまりに多く寝坊したのだとかなり焦ったようだ。

「ヒキ兄様……一言書き置きでもあれば、心臓が止まりそうなほど焦ることもないです……」

「ごめんシフ……。一刻を争うと思ったから……。千里眼は使わなかったのか?」

「それは……見るのが怖くて……」

「……ああ……そうだな。そんなに困らせたのに、朝餉の用意をしてくれてありがとう、シフ」

 疲れたように目を伏せる鴟吻の頭を撫でると、控え目だが魚のような尾がぱたぱたと振られた。それを見て贔屓も安心する。

 母龍が居間に来ると皆で食事を囲んだが、三人いなくなっても母龍は何も言わなかった。三人もいなければさすがに気付いているだろう。蒲牢と睚眦がいなければ何か言うだろうが、龍ではない子供がいなくても関心はないのかもしれない。

「蒲牢、随分汚れているが、朝から畑仕事でもしたの?」

 何と答えるべきか黙考するが、正直に話すことにした。

「……見当たらない兄弟がいたので、捜してました」

「そうか。気高き龍が仲間を思うのは良いことだ。でもそれは、同じ龍の仲間に対してのみ。これはお前が動くことじゃない」

 龍ではなくても蒲牢にとっては血の繋がった兄弟だ。まるで兄弟ですらないと言われているような気がして、蒲牢は唇を噛んだ。

「……俺には、皆変わらない兄弟です」

「…………」

 反論した蒲牢に母龍は何も言わなかったが、冷たい氷のような目で見下ろしていた。蒲牢でなければきっと器が飛んだことだろう。

 その後は静かに朝餉を終え、いつものように母龍を見送った。いない三人の名前が出ることはなかった。

「……ホロ、あれは少し肝が冷えたよ。器が飛ばなくて良かった」

「しっかり温めて」

「いやいや」

 疲れた顔で食器を濯ぐ贔屓と蒲牢を皆は心配そうに見た。寝ずに𧈢𧏡と狻猊を捜し回り、家事をする体力が残っているかもわからない。狴犴も器の水を切りながら、二人を一瞥した。

「ヒキ兄様とホロ兄様は寝るといい。家事はこっちで何とか回す」

「ありがとう、カン……。でもハカとサンが見つかってないのに寝るわけには。……ホロは寝ていいよ」

「捜すなら起きてる。家事なら寝る」

「ホロ兄様、正直過ぎる」

 食器を片付けながら、饕餮もぽつりと笑った。

 片付けを終え家事の分担をどうするか贔屓は頭を悩ませた。六人で家事と捜索をしなければならない。蒲牢にも手伝ってほしいのが正直な気持ちだった。

「……僕は二人を捜すけど、ホロはどうする? 洗濯は川に流しそうだし掃除は立ったまま寝られそうだけど」

「うん、それはそう。動いてる方が起きてられる。だから捜す方をする」

「人数は少ないけど、カンは……薪割り、シフは洗濯……いや、一人じゃ危ないな。トウと一緒に洗濯、その後は畑……できるか? サイは一緒に二人を捜そう。終わり次第、皆で掃除だ」

「俺も捜したい……」

「気持ちはわかるけど、もし大型の狂暴な動物が出て来たら、トウに倒せるか?」

「……頑張って倒す」

「トウはきっともっと強くなるから、その時に頼ってもいいか?」

「む……」

 今は連れて行けないと言われ、饕餮は頬を膨らませた。確かに猪も仕留められなかったが、今は敵を倒すことが目的ではなく捜すことが目的のはずだ。一人で先走らないかが心配で連れて行かない贔屓の心中は饕餮には推し量れなかった。

 膨れた頬を両手でむにむにと抓んでいると、珍しく狴犴が慌てたように戻って来た。先に薪を割ろうと母屋を出たことは贔屓も気付いていた。

「……ヒキ兄様。来てくれ」

「?」

「納屋に斧を取りに行ったら……」

 嫌な予感がした。

 狴犴に続いて納屋へ行き、開いた戸の中を覗いた。後ろに付いて来た皆も言葉を失った。鴟吻は吐くことはなかったが、贔屓の袖をぎゅっと掴んで震えた。

 納屋の中には捜していた二人がいた。椒図と同じような傷があり、狻猊の頭には斧が刺さっていた。二人は頭から血を流していた。贔屓の脳裏に嫌なことが過ぎった。蒲牢が言っていたことを思い出す。

「この斧は……」

「……いつも薪割りに使ってる斧だ。納屋に仕舞ってた」

 鴟吻の手を剥がし、贔屓は無意識に息を止めて納屋に入った。二人の頬に触れると冷たかった。やはり脈は無い。

「ヒキ兄様……二人は……」

 震える鴟吻の問いに、贔屓は首を振った。

「……死んでる。可哀想だから、斧を抜いてあげないと」

 頭を押さえて斧を抜くと少しだけ血が流れたが、それだけだった。壁に斧を立て、狻猊を抱き上げる。二人も離れ家の布団へ寝かせる。その意図に気付き、呆然としていた蒲牢も𧈢𧏡の亡骸を抱き上げた。

「……皆は家事をして」

 そんな気分ではない。誰もがそう思った。だが誰も何も言えなかった。

 贔屓と蒲牢は狻猊と𧈢𧏡を布団に寝かせ、腰を重く下ろした。二人の傷を確認し、目を伏せる。

「……ホロ……どう思う……」

 憔悴したように額に手を遣る贔屓を一瞥し、蒲牢は目を閉ざす二人を見下ろした。おそらく意見を求めているのではなく確認だろう。

「……体の傷はショウと似てる。でもショウの方が傷が多かった。ハカとサンは……斧が致命傷になってると思う」

「それが事実なら……斧を持つなんて動物がするとは思えない。……だったら、人間が……」

 言葉にするのを躊躇うように口が閉じていく。嫌な可能性ばかり考えてしまう。

「ヒキ兄様が認めたくないのはわかるよ。でも龍を恐れてる人間なら、山に乗り込むにしても武器を持参すると思う。わざわざ納屋の斧を使わないよ。あるかもわからないのに」

「他の……他の獣は? もしかしたら僕達以外にも獣が棲んで……もしくは通り掛かって……」

「……それは有り得そうだけど」

 必死に他の可能性を考えているようにも見えた。嫌な可能性を見ないように。

「犯人捜しも大事だけど、もう襲われないように何か考えないといけないな……。三人で終わりなのか、まだ……あるのか……」

「これまでのことを考えると、寝てる間が一番危ないのかな。でも寝ないと眠いし……」

「……見張りとして誰か起きてるといいか。僕が見張るよ」

「ヒキ兄様は今日は寝ないと」

「じゃあ僕は今寝て夜起きる……そうすればいいか? 家事はできなくなってしまうけど……」

「見張りは有効かもしれないけど……怪しい人が入って来たら、絶対起こしてよ」

「それは勿論」

 贔屓はぽんぽんと蒲牢の頭を撫でた。少し気恥ずかしくなり、蒲牢は目を伏せた。

「皆に言うべきか……寝てる時間が危ないなんて言ったら寝れなくなるよな。黙ってるべきか……」

「カンにだけ言って来るよ」

 欠伸をしながら布団に入る贔屓を見ながら蒲牢は立ち上がった。

「ヒキ兄様おやすみ。俺も後で少し休む」

「ああ、おやすみ……」

 余程疲れていたのだろう、贔屓はすぐに寝息を立て始めた。蒲牢も同じくらい捜し回っていたが、きっと贔屓の方が多くのことを思考している。その分疲れている。

 贔屓は優しい。多くのことを思考しても、誰かが苦しむような嫌なことには蓋をしようとする。

 外で薪を割る狴犴は離れ家から出て来た蒲牢に気付いて手を止めた。一目見ただけで疲労が窺える顔に目を伏せそうになる。

「……カン、少し話が」

「何だ?」

「今までの……殺された傾向を考えて、寝てる間の無防備な時が危ないってヒキ兄様と話した。だからヒキ兄様が皆が寝てる間に見張るって。それで今は寝てる」

「……わかった。僕はあまり効果がないのではと思うが……」

「カンもそう思う……?」

 狴犴は斧を下ろして頷いた。

「大きな物音や声が上がれば、寝てようが目が覚めたと思う。でもショウの時も、ハカとサンの時も、誰も起きなかった。静かに見張りを殺されたら結局誰も気付かない」

「うん……俺もそこが気になった。……でも、ずっと全員が起き続けることはできない」

「そうだな。家事もしないといけない」

「カンは冷静だな……」

「取り乱して何になる? ホロ兄様も家事をするなら、掃除でもしてくれ」

 輪切りの木の上に新しい薪を置き、斧を振り上げる。目の前のことを黙々と熟すことに関しては兄弟の中で狴犴が一番だろう。冷静でいてくれるからこそ、このような戦慄する一大事にも話をすることができる。

「少し休んだら掃除するよ」

 いつものように……とはいかないが何とか少なくなった兄弟で家事を熟した。母龍が帰って来る夕餉の時間までに家事を終わらせるのが忙しなくなってしまった。

 夕餉を終えると精神的な疲労もあり、皆ぐったりと布団に転がってしまう。死んだ兄弟達の布団は敷きっぱなしなので、自分達の布団も畳まなくなってしまった。こうしていると椒図も𧈢𧏡と狻猊も寝坊をしているだけのように見えて、少し淋しくも苦笑してしまう。

 陽が暮れる頃にはそれぞれ布団に潜り、寝息を立て始める。贔屓は逆に目を開き、布団から出ようとした。

 その袖を引かれ、少し起こした身をそのままに隣の布団から伸びる小さな手を見た。

「……シフ?」

 強く袖を引く手は震えていた。贔屓は布団に戻り、鴟吻はもぞもぞと隣の布団から潜り込んで肩に額を当てる。

「ヒキ兄様……」

 その声はか細く、微かに震えていた。

「……寝れないのか?」

「皆……もういなくならないですよね……?」

 寝ている間が危険だと鴟吻もわかっているようだ。怖くて眠れないのだと察した。

「大丈夫、僕が見張ってるから。シフは安心しておやすみ」

「…………」

 贔屓が頭を撫でると、鴟吻の後ろで布団が少し動いた。小さく尾を振っている。

「手も……握っていてください……」

「……わかった。シフが寝られるように」

 鴟吻は贔屓が何処にも行かないように片手でぎゅっと服を掴み、一晩中額を寄せていた。

 布団の中にいると温もりで寝そうになってしまうが、贔屓は何とか耐えて朝を迎えた。今度は寝ている間に何も変化はなく、胸を撫で下ろした。

 毎日何かが起こるわけではない。今までは偶々連続しただけなのだ。もしくは、贔屓が目を開けていた御陰か。

 朝餉を用意する時間になり、鴟吻も目を覚ます。どうやら充分寝ることができたようだ。一晩中手を握っていた甲斐があった。

「……おはようございます、ヒキ兄様」

「おはよう、シフ。皆無事だよ」

 鴟吻は安堵し、眉を下げながらも微笑んだ。これが本来の朝だったのに、朝に目を覚ますことがこんなに怖くなってしまった。夢ならばもう覚めてほしい。

 二人は他の兄弟を起こさないように離れ家を出る。眠る皆を残して離れ家を出るのは心配もあったが、外はもう明るい。もう夜ではないことに安心してしまった。

 母屋で朝餉の用意を進め、夕餉の残り物を装う。今日も天気は良さそうだ。洗濯物も早く乾くだろう。昼に寝たとは言えやはり眠い贔屓は一つ欠伸をし、窓の外をぼんやりと見上げた。


「――兄様!」


 突然の悲痛な声と共に、背に温かいものがぶつかった。背後から手を回され、体勢を崩して土間に倒れる。

「シ……」

 振り返ると、杖を構えた母龍が無感動な目で立っていた。

「に、げ…………逃げて……兄様!」

 咄嗟に支えた手にはべっとりと真っ赤な物が付いていた。

「シフ……」

 状況を理解するのに数秒掛かってしまったが、鴟吻の背には爪痕のような傷があった。何度も見た見覚えのある傷だった。

 贔屓は無意識に小さな杖を召喚した。まだ幼い九子は力も未熟だ。それでも抵抗しなければ殺される。必死に排除しようと蓋をした可能性が、目の前で杖を翳している。

 贔屓は動かない鴟吻の体を抱き、杖を振った。

「あああああああ!」

 鴟吻を庇い前に出ようとしたが、大人の獣の速さには敵わなかった。母龍が杖を一振りする間に幾つの爪が襲っただろうか。

 兄と姉が殺される瞬間を、目が覚めて母屋へ入ろうとしていた蒲牢は見詰めていた。開いた戸から中の様子が見えていた。母龍が二人を殺す所を、一部始終を見ていながら足が動かなかった。椒図も𧈢𧏡と狻猊も正面から攻撃され逃げた様子がなかった。その答えが今わかった。母龍に呼ばれ、殺されるかもしれないなんて警戒もなく何も理解できないまま殺されたのだ。

「ヒキ兄様……シフ姉様……」

 足が竦んで動けない蒲牢へ、母龍は杖を仕舞ってゆっくりと歩いた。蒲牢の前で蹲み、返り血の付いた両手で掬うように震える小さな頬を抱いた。

「貴方は聡明で気高い龍。欠陥品とは違う。そんなに怯える必要はないの」

「……椒図と……𧈢𧏡と狻猊も……」

 息が上がり、声が震える。全身の体温が流れ出てしまったように寒かった。

「いつまでも龍にならない子達は、もう育てていても無意味……。欠陥品は始末した。ああ……何て親不孝なの……。最期の表情だけは良かったが。貴方は大丈夫。貴方は私の大切な龍の子よ」

「お……俺には、皆……皆、大切な兄弟です……!」

「そう……。疲れているのね。貴方もいずれわかるわ」

「…………」

「……興が醒めたわ。朝餉はいらない。また夕餉の頃に戻る」

 名残惜しそうに手を離し、母龍は杖を召喚した。蒲牢はまたびくりと硬直してしまうが、母龍はそれ以上は何も言わず飛び去って行った。

 蒲牢は糸が切れたように座り込んだ。心臓も呼吸も落ち着かない。

 贔屓の声を聞き付けたのか狴犴が離れ家から走って来る。その後を饕餮と睚眦が追う。

「ホロ兄様、何が……。血が……」

 頬に付いた血も拭う気力がなく、蒲牢は抜け殻のように俯いた。

 母屋の中を覗いた饕餮は息が止まりそうになり、動きたくないと言う脚を叩いて急いで二人に駆け寄った。

「ヒキ兄様! シフ姉様!」

 睚眦も二人へ駆け寄り、顔を顰める。贔屓は鴟吻を抱くように、血に濡れながら手を握っていた。

「この傷……。どういうことだ? ホロ兄様……」

 狴犴は重い蒲牢の体を支えて立ち上がらせ、土間で倒れる贔屓と鴟吻に目を遣った。

「……ホロ兄様」

 兄弟の声を聞き、茫然自失となっている場合ではないと蒲牢は苦しげに顔を上げた。

「やったのは……母様だ」

「!」

「龍じゃない子は殺される。……カン、トウ。今すぐここから逃げて」

 母龍が執心する龍の子は蒲牢と睚眦だけだ。ここにいては狴犴と饕餮の身が危ない。

「……母様は今何処に?」

「出掛けた。いつも通り夕餉の頃に戻るって。それまでにここを離れよう」

「に、逃げるって何処にだよ! 山を下りたら、何処に人里があるかわからないのに!」

「人里は気にしなくていい。母様の手から逃れられないように言っただけだと思うから。容姿も大差ないなら普通に紛れられると思う」

「ま……紛れられるか……?」

「……トウは、角を隠した方がいいかもしれないけど」

「ホロ兄様も」

 この中で人間の容姿にはない特徴があるのは蒲牢と饕餮だけだ。だが蒲牢の角は小さく髪と同じ色なので目立たない。饕餮は羊のような角に手を遣り、何か隠せる物がないかきょろきょろと辺りを見回した。

「ヒキ兄様とシフ姉様も布団に寝かせて、それから家を出よう。……誰か、手伝って」

 繋いだ二人の手を離すのは気が引けたが、一度離して蒲牢は贔屓を抱き上げた。もう微動だにしない亡骸だった。これからどうすれば良いのか、もう相談して声を聞くことも叶わない。狴犴も鴟吻を抱き上げ、蒲牢に続いた。

 兄弟の亡骸が五つになってしまった。こんなことになるなんて、誰が想像できただろうか。顔に傷がなかったのは、ただ母龍が死の絶望の顔を見たいだけだった。最期まではっきりと見える目で彼らは何を思ったのだろうか。

 贔屓と鴟吻を布団に寝かせ、元のように二人の手を繋いでおく。鴟吻は贔屓と一緒にいる時が一番機嫌が良かった。皆それを彼女の尾で気付いていた。気付いていないのは本人だけだっただろう。

「……ホロ兄様。少し考えたんだが」

「……何?」

「ホロ兄様とサイは龍だから、逃げなくてもいいんじゃないか? 僕達は山の外を知らない。どんな危険があるのかわからない。ホロ兄様とサイまでそんな危険な場所に行かなくてもいいんじゃないか?」

 それはあまりに正論だった。逃げなくても良いなら、家があり畑もあるここに残る方が生活の心配はなく安全だ。蒲牢は後ろに付いて来た睚眦を振り返る。

「……サイはどうしたい? サイが残るって言うなら、一人は心配だし……俺も残る」

 睚眦は眠る兄弟達に目を落とし、落ち着きなく視線を動かした。

「わからない……。でも、外が危険なら、人数が多い方が抵抗できる……気がする。この中で一番戦えるのはオレだと思うし……」

「確かに人数が多いほど、できることは多い」

 狴犴もそれには同意だと頷く。

「ホロ兄様は? どうしたいんだ?」

 ぽつりと返された睚眦の問いに、蒲牢は何と言うべきか迷った。どうするのが一番安全なのか、幼い頭で考えるには難題だった。

「ホロ兄様は自分のことも考えるといい。トウ……程とは言わないが、もう少し我を出せばいいんじゃないか?」

「我、って……」

 この中ではもう一番上の兄なのだ。皆のことを考えるのは当然で、我を出す必要はない。……それでも、一つの気持ちを話すくらいなら、良いのかとも考え直す。贔屓ほど献身的にはなれそうになかった。

「……俺は…………皆と一緒にいたい……」

 目を伏せながら、蒸したように顔の温度が上がってしまった。体温を下げることができず、顔を伏せる。

 狴犴と睚眦は思わぬ吐露に目を瞬き、頭に被る布を見つけた饕餮は丁度その瞬間に戻って来てあんぐりと口を上げた。

「ホロ兄様が……弟っぽい! とっ、トウ兄様って呼んでもいいぞ!」

「……呼ばない。何でそうなる……」

「ホロ兄様が一緒にいたいと言うなら仕方ないな。皆で家を出るか」

「カンまで揶揄うなよ……」

「確かに弟っぽいな」

「サイも乗るな」

 ここにいては揶揄われるだけだと蒲牢は立ち上がり部屋を出る。

「ホロ兄様ー、何処へ?」

「家を出るなら、何か……必要な物を持って行かないと。皆も準備して」

 もう一晩を過ごす余裕はない。母龍が帰る夕餉までに家を出なければならない。

 家を出るのだからもうどうでも良い。母屋は普段居間しか入らないが、奥の母龍の部屋も物色し必要な物があれば持って行く。

「必要な物って何だ……? 御飯?」

「トウ兄様は兄らしくないよな」

「サイ――!」

 饕餮は睚眦をぽかぽかと叩くが、猪も仕留められない饕餮の拳など痛くはなかった。

「暴れるな。食事は勿論大事だが、それを狩る物や調理する物が必要じゃないか?」

「なるほど!」

 狴犴も部屋を出、饕餮と睚眦も何かないか探しに付いて行った。離れ家の中には必要な物はないだろう。あるのは布団くらいだ。遊ぶ玩具もない。

 母屋の奥へ足を踏み入れた蒲牢は、しんとする廊下を歩き母龍の部屋の戸を開けた。あまり物の無い部屋だったが、机の上に化粧道具らしき物が散乱していた。今まで気にしたことはなかったが、こんな山の奥でも母龍は小綺麗にしていた。化粧をして毎日出掛け、新しく龍の子でも授かろうとしているのかもしれない。

 幼い蒲牢の中にある知識では、子を作るには両親が必要なはずだ。だが蒲牢や他の兄弟も自分達の父が誰なのか知らない。九人全員が同じ父とは限らない。戸を閉め、蒲牢は毒突くように小さく歌を歌った。こんな部屋に必要な物はない。

 狴犴は斧を持ち、饕餮は頭に布を被り、あとは鍋や人数分の器、干し肉を持って集まった。

「慣れた山はさっさと下りて、その先は慎重に行こう。途中で食べ物があれば少し採取もしよう」

「肉は?」

「狩猟は時間が掛かるから無視して」

 饕餮は不満そうだが、命には換えられない。渋々頷いた。

「人間が祠に作物を置いてたんだから、人間も俺達と同じ食べ物を作ってるってことだ。人里に行けば食べ物は手に入るはず。俺達が食べたことのない物もあるかもしれない」

「おお! それは楽しみだな!」

 兄弟の亡骸のことは頭から離れないが、いつまでも弟の顔が曇っているのを見るのは心苦しい。何か他に意識が向けられるなら、その方が気持ちも落ち着くだろう。

 四人は急ぎ足で出発し、駆け足で山を下りた。まずはできるだけ家から離れなければならない。途中で幾つかキノコを見つけて採りながら進んだ。

 山を下りると一同は一先ず安堵した。そこから何処へ行けば良いのかわからなかったが、真っ直ぐ行くことにした。祠とは違う方向へ下りたが、道らしき物は無い。鬱蒼と茂った草木が続き、身を隠すには良いだろう。

「……ん?」

 葉の落ちた木の下を歩くと、枝の間から白い物がちらほらと舞い落ちてきた。

「雪……?」

「積もると面倒だな」

「寒くないから大丈夫だ!」

「それは大丈夫だけど、雪が積もると足跡が付くから居場所がわかりやすい」

「それは大丈夫じゃないな」

「それに、幾ら大丈夫とは言え、積もった雪の上では寝れないだろ」

「それは冷たいな」

「空はかなり濁ってる。結構降るかもな……」

 それぞれ空を見上げ、顔に雪が降ってきた饕餮は頭を振った。狴犴は一言も発さず黙々と歩いているが、顔に掛かる雪を鬱陶しそうに払った。

「そろそろ夕餉の時間か……」

 太陽は見えないので自分の感覚だけが頼りだが、確かにそんな時間のような気がした。夕餉の頃に母龍は帰って来る。後ろを振り返り、駆け下りた山の方を見た。何処に家があるのか見えない。走ったからか山の全景が見える程かなり遠くまで来ている。こんなに離れていればすぐに見つかることもないだろう。

「少し休むか?」

「夕餉か? 喰う」

「あそこの落葉してない木の所に行こう。母様は飛ぶからな。上から見えない方がいい」

 上空を見上げ、葉の付いている木々の下へ潜り込む。雪も遮られて丁度良い。

 石や木の根に座り、蒲牢は干し肉を配った。

「最初に体力を失うわけにはいかないからな。ちゃんと食べて」

「おう。何か家事しなくていいのっていいな」

「トウは半分くらい休んでた気がするけど」

「気のせい」

「トウ兄様がいると終わりが遅い」

「何だと!」

「煩い。静かに食べろ」

「ふっ……。少しくらい賑やかな方がいいよ」

 狴犴の一蹴で饕餮と睚眦はぴたりと口を噤んだが、蒲牢が笑うと釣られて笑い出した。いつも食事は緊張ばかりで、母龍が居間を出て行ってからも笑いながら楽しく食べたことなどなかった。こうして笑いながら食べている方が、いつもより質素な食事なのに美味しく感じた。

「ホロ兄様、食べ終わったらまた歩くのか?」

「歩くけど、落ち着いて眠れそうな場所を探そう。見つかり次第今日は休む。先まで進もうとして陽が落ちてしまったら動きにくいからな」

「二人ずつ起きて見張りをしよう。何もないといいが、夜行性の動物もいるからな」

「後は雪が積もらないことを祈ろ」

 固い肉を噛み千切って顔を上げた時、白い雪と共に赤い滴が視界に散った。

 今し方話して一緒に肉を食べていた饕餮が、頭から槍を貫かれ鮮血を流していた。

「ぁ……」

 唇が震えながら小さく開閉する。何かを訴えているのかただ息をしようとしているのか、眼球を動かす力も無く虚空を見ている。

「トウ!」

 蒲牢は手を伸ばしたが、睚眦に突き飛ばされた。

「!」

 茂みに倒れ、急いで体を起こす。睚眦の手には小さな杖が握られ、上空に向けて目を細めている。その後ろで同じく突き飛ばされた狴犴が眉を寄せた。

 蒲牢も空へ目を向けると葉の覆う木々が目に入ったが、その向こうで一瞬何かが光った。

 葉で視界が遮られているのに、重い空気を裂いて槍が飛んで来た。睚眦は杖を振り止めようとするが、軌道を逸らし切れずに肩に突き立った。

「ぐっ……!」

「サイ!」

「狙いは僕だろう……」

 背後で身を起こす狴犴を振り返り、睚眦は汗を滲ませながら首を振った。

「カン兄様は……前に出るな……」

 一瞬目を逸らした隙に、刺さった槍に掛かる力があった。一気に槍を引き抜かれ、睚眦は奥歯を噛んだ。


「何故、山から下りたの? いけない子達」


 ぞわりと全身が凍り付く。そこに立っていた母龍の手から槍が霧散し、杖が振られた。睚眦が庇う暇もなく狴犴の体は切り裂かれた。

「カン!」

「カン兄様……!」

 睚眦の体を押し退け、母龍は何度も執拗に狴犴に爪痕を残した。蒲牢も立ち上がり母龍を取り押さえようとするが、全く力が及ばず無意味だった。睚眦は痛みに顔を顰め膝を突いたまま、力が入らなかった。


 ――それからどうやって家に帰ったのか、覚えていない。

 離れ家の布団に狴犴と饕餮もいたので、何とか連れて帰ってはいたのだろう。母龍がわざわざ殺した子を持ち帰るとは思わない。

 降り出した雪はしんしんと降り続け、やがて白銀が視界を埋めた。吐く息は白いが、あまり寒さは感じなかった。

 睚眦の肩の傷が治るまで蒲牢は殆ど一人で家事を熟した。冬のために蓄えた物があるので狩猟に出る必要はなかったが、必要があっても蒲牢一人では狩りはできないだろう。元々兄弟の中で蒲牢は一番要領が良く、狩猟以外なら分担され遣ったことがある。それが今は辛かった。

 結局何処にも逃げられずこの様だ。幼い力では母龍の手から逃れられない。残った蒲牢と睚眦は龍だから殺されることはないだろう。だがこのままここに居て良いのかはわからなかった。

 母龍は何も変わらず朝餉の後は出掛け、夕餉の頃に帰ってきた。

 その間に家事を熟す。変わらない毎日。

 一つ気になることがあるとすれば、狴犴を庇って負傷した睚眦を見る目が以前と違う。そんな気がした。

「ホロ兄様……」

「……何?」

「オレも……殺されるかもしれない」

「! 何で……」

「母様がオレを睨んでる気がする……。最近よく『違う違う』ってぶつぶつ言ってるし……」

「でもサイは龍だから……」

 大丈夫、という言葉は喉から出て来てくれなかった。睚眦の感じている通り、蒲牢もそれが気になっていた。単に蒲牢一人で家事をしていることに対しての不満ならば良いのだが、狴犴を庇ったことが原因なら母龍が何をするかわからない。龍ではない兄弟のことを母龍は欠陥品と言っていた。欠陥品を庇ったことが母龍の気に障ったのなら警戒しなければならない。

「……ホロ兄様、龍って何だ? そんなに凄いのか? シフ姉様は尻尾があるしトウ兄様は角があるけど、角ならホロ兄様もあるし、他は何も変わらないのに」

「俺もよく知らない……能力に違いがあるのかも。俺達はまだ子供だから、気付いてないだけかも……」

「……母様は飛んでるから、オレ達も飛べるのか?」

「可能性はあるけど……」

 蒲牢は潜っていた布団から這い出て母屋とは逆の崖側の戸を開け放った。冷気が流れ込んでくる。

 縁側に立ち、白い息を吐きながら小さな杖を召喚した。頭上でくるくると回しながら力を籠め、縁側を蹴る。

「あっ」

 蒲牢の姿が消え、睚眦も慌てて布団から出た。縁側を覗くと、雪の上に蒲牢が俯せに埋もれていた。

「……くくっ」

「…………」

 寒くないと言っても雪は冷たい。埋もれながら体を起こし、顔に付いた雪を払う。笑いを堪える睚眦を振り返り、蒲牢は縁側の上へ戻った。

「今は飛べる気がしない」

「みたいだな。ホロ兄様の穴ができた」

 蒲牢は穴を見下ろしながら睚眦の背中を押した。

「あっ」

 穴の隣に睚眦も落ち、冷たい感触に慌てて飛び起きた。

「サイの穴ができた」

「兄様……!」

 睚眦は蒲牢の服を掴み、縁側から引き摺り落とした。再び雪の上に倒れた蒲牢の上に、周りの雪を掬って載せる。

「埋めるな」

 雪を振り払いながら体を起こし、蒲牢も雪を集めて投げ付けた。

「仕返し!」

「ぶっ」

「手が赤くなってきた」

「ホロ兄様にも」

「ぶっ」

 雪を投げ付け合い、二人は笑った。雪が積もったのはこれが初めてではないが、二人で遊んだのは初めてだった。主に狩猟を担当していた睚眦は蒲牢と話す機会も他より少なかった。

 一頻り雪を投げ合った後、二人は縁側に座って足を投げ出した。もう寝ないといけない時間だが、まだ眠くなかった。

「ホロ兄様は最近歌わないな」

「ん? ん……そうだな」

「離れててもホロ兄様の歌は透き通ってて、よく聞こえてた。あれ結構好きだった。……安心すると言うか」

「……そんなに大声だったか?」

「小さくても聞こえた。不思議な声だよな」

「そうなのか?」

「自覚無しかよ」

 睚眦はまたくくと笑い、足を揺らした。

 蒲牢は星の見えない雲の覆う暗い空を見上げる。また雪がちらつきそうだ。

「……雪の降る空の狭きに 祈るさいごのおもい風の音」

 小さく歌い出した蒲牢の横顔を一瞥し、睚眦は目を閉じた。

「君を覆い隠す雪は いつかそっと溶けてゆく――」

 澄んだ声は冷たい空気にも阻まれることなく、しんとする雪の中でも揺らぐ灯火のように静かに息衝いていた。

「……少し寂しい……綺麗な歌だ」

 睚眦は目を開け、揺らめく灯火を見詰めるように目を細めた。

「……寝るか」

 二人は立ち上がり、戸を閉める。さすがに少し冷えた。布団に潜り込み、静かに眠る。

 ――蒲牢が睚眦の声を聞いたのは、それが最後だった。

「…………」

 翌朝、亡骸は八つになっていた。昨晩遊んだ雪の上で睚眦はあの爪痕を付けられ赤く冷たくなっていた。

 母龍は龍すら殺し、平然と朝餉に出て来た。蒲牢は朝餉の用意をしに来たわけではなく、母龍に問うために母屋へ赴いた。母龍は蒲牢が何か言う前にあの時と同じように頬を包み、怯える顔を冷たい双眸で見詰めた。

「貴方は一番聡明で気高い龍。それだけのこと。睚眦は駄目だった。欠陥品を庇う下品な子。貴方は――そうではないわよね?」

「…………」

「言葉では何とでも言うが、貴方は何も動いていない。私が欠陥品を殺した時、聡明な貴方はもっと早く私が遣ったと気付いていたはず。なのに何もしなかった。何もしなければ、貴方が殺されることはない。それがわかっていた。なんて聡明で――気高い子なの」

「っ……」

 違う。そうじゃない。言おうとした言葉は声にならず、恐怖の中に掻き消えた。母龍に睨まれていると手足が動かなくなる。

 母龍は手を離し、いつものように出掛けた。

 一人残された蒲牢は地面に膝を突き、唇を噛んだ。

 それは、皆同じだった。皆、逃げることを選んだ。勝てないことがわかっているからだ。母龍を殺そうとした所で返り討ちになるだけだ。贔屓も気付いていたのに気付かない振りをした。でも母龍に襲われた時、鴟吻を守るために杖を向けた。睚眦もそうだ。敵わないとわかっていても杖を握っていた。

(俺は……何もできなかった……)

 何もする気になれず、蒲牢は離れ家に戻った。崖側の戸を開け放ち、白い世界を見下ろした。何も無いように真っ白で、全てを覆い隠す。この悪夢のような出来事も覆って、全て無かったことにしてほしかった。

 八人の亡骸は、最初に殺された椒図も含めて皆綺麗なものだった。顔に傷がないのは母龍の欲望のためだが、腐敗することもなかった。獣の屍骸とはそういうものなのかもしれない。ただ冷たくなっただけの体が寝ているだけ。そのことは幼い蒲牢には救いだった。まだそこにいることを感じられたから。

「雪の降る空の狭きに 祈るさいごのおもい風の音 君を覆い隠す雪は いつかそっと溶けてゆく――」

 掠れそうな声で蒲牢は歌った。睚眦はこの歌声を、離れていても聞こえたと言っていた。今の八人にも聞こえるだろうか。

「憂い愛しき夢の痕 いつかの翠緑におもい馳せ 皆を連れ去る両手は」

 この屍骸もいつかは朽ちるのだろうか。朽ちれば蒲牢は本当に一人になってしまうのか。その考えに至り、蒲牢は沸々と怖くなった。皆と一緒にいたいから、ここでまだ生きているのに。


 睚眦が死んでから家事は全て蒲牢が熟した。何を遣っているのだろうと何度も思ったが、他に何をすれば良いのかもわからなかった。生きるためには母龍に逆らわないように息を潜めるしかなかった。だがそうまでして何故生きたいのかわからなかった。

 半年ほど経った頃だろうか。雪もすっかり消え青々とした草木が伸びる頃、蒲牢は母龍に反抗した。時間は掛かってしまったが兄弟達を想う気持ちを全て吐き出し、小さな杖を握った。

 最期に聞いた母龍の言葉は「貴方に言葉はいらない」だった。

 先に喉を潰され、その後全てが黒くなった。

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