68-捜索


 静謐な夜の街の古物店で、獏と蜃と蒲牢は椅子やベッドに腰掛け険しい顔を突き合わせていた。

 化生した椒図を狴犴より先に見つける。この目標の下、頭を回していた。現在はおそらく持っている情報量は狴犴と同じだ。何も手掛りがない。

 蒲牢は狻猊さんげいに椒図の化生場所の予測を尋ねに宵街へ行ったが、これも手掛りはなく完全にお手上げだった。

「自分を参考にできればいいけど、俺は記憶を継いでるから化生後の行動は参考にならないな」

 時間が経てば経つほど、化生した場所よりもどう行動するかに焦点が当たる。蒲牢は自分が化生した時のことを頭に浮かべるが、やはり参考になりそうにない。記憶を継いでいない無知の状態とは動き方が変わってしまうからだ。

「それなら俺も同じだ。記憶があるからな」

 蜃もまた記憶を継いで化生したので、参考にはならないだろう。

(記憶があったから、報復するために獏を捜したなんて言えない……)

 目を逸らしながら、悟られないように蜃は口数を減らす。

 蒲牢は無言の獏へ目を遣った。獏からは記憶を継いだ話は聞いていない。

「獏はどうだ? 化生してるか? 記憶を継いでないなら何か参考にできるかもしれない」

「僕は参考にならないんじゃないかな……」

 確かに記憶は継いでいないが、獣によって性格は違う。同じ行動を取るとは思えなかった。

「それは皆で判断しよう。言いたくないなら無理にとは言わないけど」

「……」

 獏は頭の中で化生直後のことを思い出す。自分が化生した自覚はなかったが、先代の話を聞いたことで自分は化生したのだと知った。当時のことは言いたくないほど嫌なことではない。聞き手の気分は良くないかもしれないが。

「別に話してもいいけど」

 蜃も視線を戻し、聞く態勢を取る。どんな話でも思考の材料となるなら、聞き漏らすまいと背筋を正す。獏を見世物小屋に売ったのは蜃だが、その前に何処にどう化生したかは知らない。

 獏は当時のことを思い出しながら、静かに話し出す。

「僕が化生したのは明治の初め頃。壊れた民家の中だった」

「民家?」

 早速話を遮ったのは蒲牢だった。

「そんな人間の近くで化生することもあるのか……」

「珍しいの?」

 蒲牢は黙って頷き、続きを促した。人間の前で化生すれば騒ぎになってしまう。突然そこに現れるのだから。

「何だか暑くてね、瓦礫を退けながら外に出たら、辺りが火に囲まれてた」

「火事か……?」

「炎と壊れた民家が視界を埋め尽くして、生きてる人間はいなかった」

 蒲牢と蜃はごくりと唾を呑んだ。只の火事ではないとすぐに察した。

「生きてる人間は、ってことは……」

「死んだ人間ならいたよ。丁度襲撃が落ち着いた頃だったんじゃないかな? ……あれは戦だろうね」

 化生のタイミングによってはそういうこともあるだろう。だが戦渦の中でその現場に化生するのはどちらかと言うと稀有と言える。

「野放しの悪夢がいたから食べて、暫くは周辺を歩いて他にも悪夢がいないか探した。僕は食事のために人間に近付かないといけないから、その後も度々人間の前には出たよ。――ね、参考にならないでしょ?」

 思わず二人は呆然としてしまった。炎に囲まれていれば、化生直後に焼け死んでしまう危険もあっただろう。時期ももう少し早ければ襲撃の直中だったかもしれない。あまりに危険な化生場所だ。

「椒図の性格……性質なのかな? 今までと変わらないなら人間からは寧ろ離れるだろうし……」

「……無事で良かったな、獏」

「僕のことはそんな重く受け止めなくても。昔のことだし」

 しんみりとしてしまった蒲牢に困ったように苦笑する。獏自身は何も思っていないのだが、やはり化生場所としては最悪のようだ。獏としては食事の悪夢の近くに化生したのだから良いことなのだろうが。

 蜃はしんみりと言うより険しい表情をする。

「つまり……椒図も危険な場所に化生した可能性があるってことだよな?」

「僕のケースは稀だと思うけど。今は戦もないし」

「稀が絶対起こらないとは言えないだろ! すぐに捜しに行かないと! ……ああでも何処に……」

 焦って立ち上がってすぐに頭を抱える。手掛りの無い状態で何処へ行けば良いのかさっぱり思い付かなかった。

「蜃の言うことは一理あるけど……。聞き込みでもしながら、とにかく歩いた方がいいのかな」

 頭を動かしても答えが出ないのなら、足を動かすしかない。獏も立ち上がり、蒲牢を見下ろす。

「じゃあ俺も……」

 誘われているのだろうと気付き、蒲牢も立ち上がる。国外に化生することはないが、国内でも広過ぎる。骨が折れそうだ。

「クラゲさんを呼んでくるね」

 獏がドアを開けようとすると、向こうからノックをする音が聞こえた。ぶつけないようにそっとドアを開けると、灰色海月が少し身を引いて立っていた。ノックの直後にドアが開いて驚いてしまったようだ。

「どうしたの? クラゲさん。何かあった?」

「ヨウさんがいるとなかなか手紙を渡せないので、ヨウさんが棚を徘徊してる隙にスミレさんから回収した手紙を預かりました」

「ああ……そう言えば言ってたね」

「もし善行に行くなら私が付いて行きます。ヨウさんのことはスミレさんが見ておくと言ってました」

「監視なんて置くんだから、善行であっても街から出す気はないだろうね。街を出た時点で感知されるのかなぁ?」

「首輪を付ければ意図的に感知されない限り大丈夫だと思いますが……。首輪は制限無く街の外に出ることを阻止するための物なので、宵街に連絡が行くのは首輪をせずに出た時だけ……だと把握してます。もしすぐ感知できるならヨウさんを監視に派遣しないような……」

「そうだね……烙印のことは」

 よくわからない、と言おうとして、ふと蒲牢に目を向ける。

「君が宵街にいた頃から烙印はあったの?」

「……ん? あったよ。今とは少し違うけど。罪人には烙印を捺すけど、刑期があった」

 以前刑期について獏は白花苧環と話したことがあった。木霊も言っていたが、やはり元々は刑期が存在していたらしい。

「釈放する時は解除印を捺して烙印を無効にする。烙印は消えない傷だから、釈放されても残るけど」

「ふぅん。僕もそっちの方が良かったな」

 そういうことを含めての人望なのだろう。獣の罪は主に人間に対しての加害だ。宵街に普通の人間はいない。釈放しても文句を言う者はいないだろう。

「――そうそう。蒲牢の悪夢を食べるのは少し待っておくね。椒図を見つけるまで記憶は残しておいた方がいい」

「……そうか。それは残念だな。悪夢なら睡眠を取ればいつでも生産できるから、常備されてる食糧だとでも思ってくれれば」

「悪夢を生産なんて言う人は初めてだよ」

 常に同じ悪夢を見続けるのは異常だ。過去の記憶と深く結び付いているとしか思えない。ならば記憶ではなく悪夢であっても下手に食べることができない。餌を前に『待て』と言われる犬の気分だが、食べて椒図に係わる記憶が欠けてしまうようなことがあれば目も当てられない。今は我慢だ。

「クラゲさん。ヨウさんには内緒で、椒図を捜しに外に連れて行ってもらえるかな?」

「善行ではないですよね?」

「緊急事態だから大目に見てほしいなぁ」

 通常、獏が街の外へ出るのを許されるのは願い事を叶える善行をする時だけだ。それは鍵の掛けられた檻のように願い事という鍵がなければ開けられない話ではなく、監視役である灰色海月が止めるよう言われているだけだ。以前獏は無断で外に出て後で仕置印を当てられたが、今なら執行人の鵺も味方だ。お仕置きなんてされないだろう。

「鵺に咎められることもないし。……それとも、クラゲさんは僕じゃなくて狴犴の味方をする?」

「…………」

 窺うように首を傾ける獏に、灰色海月は少し視線を下げた。人の姿を与えてくれた獏は親のようで、それに応えたい気持ちが勝る。それはずっと変わらない。きっと監視役失格なのだろう。元を辿れば灰色海月は獏の傍にいたいために監視役になったのだ。誰の味方だなどと、最初からはっきりしている。

「……わかりました。ですが首輪だけは付けてください」

「ありがとうクラゲさん。首輪は仕方無いね。狴犴を欺くためにも必要だからね」

 外套の襟の釦を外すと、急いでいることが伝わったのか灰色海月はすぐに冷たく重い首輪を獏の首に嵌めた。

「何処に行くんですか?」

 掌から灰色の傘を引き抜きながら、順に三人を見回す。三人はその一番の問題に唸り、獏が仮に場所を指定した。

「とりあえず、周りを見渡せるビルの屋上とかどうかな? 実際に街を見れば何か思い付くかもしれない」

「ビルって……人間が多くないか?」

「都会は確かに人間が多いけど、多いから建物もたくさんあって狭い場所も多いはずだよ。山奥だと野生動物がいたら危ないし。記憶を継いでなくてもそれくらいは頭にある。わかってればいの一番に近付こうとは思わないよね?」

「……確かに」

 一応考えてはいるらしいと蜃は行き先に頷き、フードを目深に被る。蒲牢も異論はないと頷いた。

 灰色海月も壁から離れ、灰色の傘を開く。狭い部屋の中でぶつけないよう距離を確認し、指定された場所へと灰色の傘を回した。

 四人は人の気配の無いビルの上へ姿を現し、柵に手を掛け下界を見下ろした。背の高いビルが乱立する都会だ。陽は沈みそうだが、まだ明るくて助かった。幾ら夜目の利く獏だからと言って、暗い街は細部がよく見えないのだ。

「狭い場所と言えば……地上だと路地とか?」

「じゃあ地下なら下水道か?」

「そんな所に入るかなぁ……」

 自分なら入りたくないと首を捻りながら、獏はぐるりと見渡す。

 地上と言ったので引き合いに地下を言ってみた蒲牢は、あまり良い答えではなかったらしいと再考する。

「下水道は落ちたら大変だろ。幾ら泳ぎが上手くても」

 真面目に返事をしながら、蜃は椒図のことを考える。川に落ちた時も水浴びをした時も、椒図は泳ぎが上手かった。蜃も泳げるが、椒図の方が嫋やかで速かった。

 蜃の言葉で蒲牢もふと思い出して呟く。

「椒図は貝属だからな。水中は得意だ」

「え? 椒図も貝なのか?」

「も?」

 何気無く言ったことだったが、蒲牢は表情が乏しいながらも怪訝に目を瞬いた。

「俺も半分貝なんだ。半分は龍だけどな。椒図から自分が何に属してるか聞いたことなかったな……まさか同じ貝属だったなんてな」

 獣は殆どが人の姿をしているが、属する生物が存在する。平たく言えば獣は突然変異のようなものだ。突然不可思議な存在として生まれる。故に殆どは同種の個体がいない。

 灰色海月は獏に『バク属』と言うが、強ち間違いでもない。

 属性が椒図と同じだったとは、何だか照れ臭くなってしまい蜃ははにかむように笑う。その肩を蒲牢は焦ったように勢い良く掴み、蜃は面喰らった。

「君は龍なのか?」

「えっ? そうだが……何か変か……?」

「龍なら教えてほしい……龍は特別なのか?」

「は……?」

 質問の意図がわからず蜃は首を傾いだ。何を騒いでいるのかと獏も下界を覗くのを止め二人の方へ行く。

「俺達が……何で殺されなくてはいけなかったのか……」

 無意識にぽつりと言葉を漏らし、蒲牢は慌てて目を伏せた。唇を噛み、それ以上は言わないよう平静を装う。

 獣達は皆人間のような姿をしていて、角が生えているなど特徴がない限りは何の生物なのか推測することができない。長年共にいた蜃が、椒図が何の生物なのか知らなかったように。

「特別かと言われても……俺は半分貝だし……。まあ龍はプライドが高いとか言うが……」

 蒲牢が無意識に呟いた言葉の意味を問いたかったが、質問を受け付けない空気があった。触れてはいけない気がして、蜃はそれを言及しなかった。

「他には……?」

「他? 他は…………あ、使い所はないが、天気なら操作できる。正確に言えば、雲を操れる」

「天気……?」

 想像もしなかった回答に蒲牢は感情が乏しいながらもきょとんとしてしまった。

「俺の場合は、少し雨を止ませることができるだけだ。別に力を使ってまで天気を変えたいとは思わないんだが」

「……俺も龍なんだけど、天気……雲が操れるのか?」

「蒲牢も龍なのか? 龍の特徴だから、操れると思うが……俺と同じなのか他の天気かはわからないが」

 蒲牢は思い詰めたように手を離し、ふらふらと柵へ手を掛けた。力が抜けたように柵に寄り掛かる。

「……大丈夫? 蒲牢……」

 獏も心配そうに様子を窺う。蒲牢が龍であることは容易に想像がついた。何せ彼らは龍生九子だ。龍から生まれたのだから龍であるはずだ――そこまで考え、先程の二人の会話を思い出す。

「龍生なのに、椒図は貝属なの……?」

 蒲牢の肩がぴくりと動く。まるで怯えているようだった。

「……あ、いや、獣の誕生は僕にはよくわからないから、不思議なことじゃないのかもしれないけど」

 訊いてはいけないことだったのではないかと、獏は慌てて言い直した。

 蒲牢は背を向けたまま首を振り、下界を走る小さな車の列をぼんやりと見詰める。

「……俺も何が正しいのかはわからない。龍生だけど、龍は俺と睚眦がいさいだけだから」

「二人だけ……」

 それが多いのか少ないのか判断材料が乏しいが、率直な感想だと少ないと感じた。

「他の獣に訊くのは少し怖くて、でもずっと、龍の何が特別なのか知りたいと思ってた。蜃が自分から言ってくれた御陰で少し溜飲が下がった。……まだよく理解できてないけど」

「俺も全部が龍ってわけじゃないから、はっきりと答えが言えなくて悪いな……」

「大丈夫。充分だ」

 振り向きながらぎこちなく目を伏せる。

「もしかしたら椒図も何か悩んでたのかな……」

 蜃も重い空気に釣られて途惑いながら呟いた。

 今は自分の悩みではなく椒図を捜している最中だと思い出し、蒲牢は重くなってしまった空気を振り払うように手を振った。

「幼い頃はそんな悩みはなかったよ。何せ龍じゃない兄弟の方が多いし……。それより椒図を捜そう。脱線させてごめん」

 龍のことを考えると化生前のことを思い出す。母龍は龍に拘っていた。それを知るのはもう蒲牢しかいない。この悩みを共有できる者はいない。今は母龍から離れて兄弟達はそれぞれ好きに生きている。いつまでもその悩みを抱えているわけにもいかない。蒲牢は離れた柵へ歩き、気持ちの整理をするために黙って下界を捜している振りをした。

 心配そうに目で追っていた獏も、これ以上その話を続けても蒲牢を追い詰めるだけだと深追いはしなかった。獏の過去も悩みの塊だ。気持ちはわかる。答えを出せないのなら、そっとしておくのが良いだろう。

 とりあえずは椒図を捜すことに気持ちを戻し、獏は蜃に目を遣る。

「……あんまり気が乗らない方法だけど、人間に聞き込みをしてみようか」

 人間の街に化生する獣を捜すためには、獣より圧倒的に数が多い人間を頼った方が良いだろう。蜃もあまり気が乗らないが、理解はできるので獏の提案に頷くしかなかった。

「椒図のためなら……でも人間と話すのは獏がやってくれ」

「散々人間に係わっておいて喋りたくないなんて可笑しな話だけど」

 蜃は過去に多数の人間を自分の創った街へ招き神隠しを行った。人間と話せないはずがない。

「ねえクラゲさん。願い事の手紙を見せてくれる? 僕に手紙を出した人間なら、こっちの話にも素直に答えてくれるかも」

「一つは丁度この下です」

「下?」

「差出人がこのビルの中にいます」

「ああ成程……無意識に思念を辿って来ちゃったのか」

 適当なビルの屋上へ来たと思っていたが、どうやら手紙の思念を拾ってしまったようだ。

「……何の話だ?」

 蒲牢も下界から顔を上げ、三人の許へ戻る。少しは気分が落ち着いたようだ。

「狴犴に、人間の願い事を叶える善行を科されてるんだよね。僕だけらしいけど」

「……。どんな願い事なんだ?」

 狴犴の統治に口出しはしないが、そんな刑を科しているのかと蒲牢は心の中で訝しげに首を傾ぐ。獣が人間に見つかると騒がれて面倒なのに、わざわざ人間と係わる善行は大変そうだ。

「そうだね……多いのは恋愛の悩みかな? 人間関係の願い事は多いね」

「……俺には難しそうだ」

「ふふ。僕が話すから大丈夫だよ。罪人の僕の仕事みたいなものだから」

 感情は乏しいが蒲牢は渋い顔をする。稀薄ではあるが、観察していると意外と感情がわかるものだと獏は思う。

「差出人は仕事中かもね。人が多そうだし少し待とう。待つ間に作戦会議でもしよ」

「作戦会議?」

「街を見下ろしてみて、気付いたことがあったかどうか」

 蜃はもう一度下界に目を遣り、渋い顔をした。視界に収まらない街が広がっていて、当然ながら人間の街に端なんてものはない。雑然としていて目が回りそうだ。

「広いのに狭過ぎて何処でもいそう……」

「それには同意だ。昔化生した時とは時代が違い過ぎる。昔はビルなんて無かった。今は隠れられる場所は幾らでもある。少し角を曲がっただけで見失いそうだ」

 記憶のある蜃と長生きな蒲牢は揃って溜息を吐く。二人は完全にお手上げのようだ。

「確かに建物が犇めいて狭いけど、比例して人間も多いんだからそういう場所には行かないでしょ。上から見るだけでも人や車が引っ切り無しに行き交ってるんだよ? 行くとしたら人が立ち入らなくなった家とかビルとか……廃墟とかじゃない? それか……水辺とか?」

「その通りだけど、街の中の川は石壁に囲まれてて泳ぐって感じじゃない」

「え。泳げないと駄目なの?」

「さあ……」

 街の中の川は人目があると蒲牢は言いたかったのだが、伝わらなかった。会話が暗礁に乗り上げてしまった。やはり化生した椒図を見つけるなんて無謀だ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、情報がなければ幾ら数がいても何も出ない。

 その後も見当を立てては論破を繰り返し、話は全く進まなかった。椒図が行きそうな所から興味のあることや嗜好に見当が移り、蜃の知る椒図と蒲牢の知る椒図とで食い違うことも多くなった。

「椒図は苦い物が苦手だった」

「は? あいつ普通に珈琲飲んでたぞ。ブラックで」

「え……」

 こんな遣り取りが増えてしまった。会話が進めば進むほど、考えるだけ無駄だと思えてしまう。

「……そろそろ行こうと思うんだけど、二人はまだここで話し合う?」

 とっぷりと陽が暮れ疾うに夜になっていたことに気付き、口を挟む機会を窺っていた獏は遠慮がちに尋ねた。

「いや、行く」

「もう何が何だか……」

 蒲牢が知る椒図はたった数年の幼少期だ。すっかり混乱してしまった。

 静かに待っていた灰色海月が灰色の傘を開くと、蒲牢は疲れた様子で傍らへ移動した。

「すぐ足下なのに傘を使うのか?」

「うん。途中の廊下であんまり擦れ違いたくないから」

 ビルの中は学校ではない。妖しい動物面が目に入ればすぐに不審者だと警戒されるだろう。関係のない人間とは極力鉢合わせたくない。

 灰色海月に目配せすると、彼女はくるりと灰色の傘を回した。差出人のいる階へ一瞬で移動し、疎らに明かりの消えた薄暗い廊下を見渡す。廊下の奥は暗く、突き当たりの壁がよく見えない。声も足音も無く、しんと静まり返っていた。

 傘を回す前に周囲を見渡したが、ビルの明かりは随分と消えていた。もう仕事は終える時間なのだろう。少し長く話し過ぎたようだ。

 目の前のドアに親指と人差し指で作った輪を向け、獏は躊躇無く開けた。蜃と蒲牢も後ろから物珍しく覗き込む。仕事をする人間の集まる部屋を覗くなど初めてだった。

 整然と机が並んだ部屋の中も半分ほど明かりが消され、椅子に座る者はいない。――ただ一人を除いて。

 薄暗い部屋の中で小さくカチャカチャと音が鳴っていた。その方向へ音を立てず、背中を向けて端末の画面を睨んでいる若い男の背後にそっと立った。獏に倣って三人も音を立てずに近付く。

「…………」

 男は画面に集中しているらしく背後には全く気付かなかった。何をそんなに集中して睨んでいるのかと獏も同じように覗いてみる。黒い画面には英数字が連なり、何が書かれているのか理解できなかった。

「……ん!?」

 集中していた男は黒い画面の中に、自分の背後に何かが映り込んでいることに気付いて凝視する。何かの動物の顔だと認識すると途端に血の気が引き、派手に叫びを上げた。

「うわあああああ!」

 三人は耳を塞ぎ、迷惑そうな顔をする。

「なっ、なな何だ!?」

「獏に手紙を出したでしょ? 来てあげたよ」

 心臓に悪い妖しい面を被った人物が喋り、男は眉間に皺を寄せた。動物面は性別不明の声をしており、身長は女性にしては高く男性にしては低い。その後ろの灰色の女はそれよりも少し高いが、かなり踵の高いブーツを履いていて殆ど爪先で立っている。後は無表情をしている雪のような銀髪の男と、目深にフードを被っている小柄な少女……フードからちらりと顔が見えるが可愛い。

 全ての人物に目を遣った後、妖しい動物面に視線を戻す。

「黒い象……?」

「これはバク科バク属のマレーバクです」

「ば、ばく……? ……あ、あれか! 出した! 確かに出した……何か少し噂と違うが……連れて行かれるはずじゃ……」

「うん。本来はね。今日は特別。出張大サービス。手っ取り早く願い事を聞くね」

「あ、ああ……あ、少し待ってくれ。いつの間に誰もいなくなったんだ……保存して帰ろう……」

 どうやら画面に集中している間に同僚は皆帰ったらしい。男はぶつくさとぼやきながら端末の電源を落とした。

「誰か声を掛けてくれてもいいのに……」

「お疲れ様」

「ありがとう……」

 獏はにこりと笑い、近くの椅子を引いて座った。蜃と蒲牢もとりあえず座っておく。同じように端末が置かれた誰もいない机が何列も整然と並んでおり、椅子は座りきれないほどあちこちにあった。

 男の机に灰色海月は紅茶のカップを置き、獏にも手渡す。

「君も早く帰りたいみたいだし、手短にね」

「あ、ああ……」

 優雅に紅茶を一口飲む獏を見ていると、時間に慌てている自分が馬鹿らしくなってしまう。どう足掻いても残業の時間なのだから、もうゆっくりとしていても良いだろう。折角出張して願い事を叶えに来てくれたのだ。本当に叶えてもらえるのか半信半疑だが、もうこんな眉唾物の噂に頼るしかない。手紙を投函はしたが、獏とかいう者が実在するのかは今でも半信半疑だ。だが獏を名乗る人物の背後に立つ者達も只者ではない雰囲気がある。特にフードを被っている少女が可愛い。

 男の視線を感じ、蜃は静かに悪寒を感じて眉根を寄せた。

「……オレはもう入社して二年も経つのに、あまり仕事ができなくて。今もこうして、こんな時間まで自分のミスの所為で……。声を掛けてもらえないのも、またあいつか……と思われてるんだと思います。だからもっと仕事ができるようになりたいんです。定時に帰れるくらい……あ、いや、多少なら残業も……まあ……」

 最後の方は自信が無くなったのか尻窄みになった。話しながら徐々に俯き、最後は深い溜息になる。

 顔に疲労が滲み出ている男の前で見せ付けるように獏は紅茶を飲み、不思議そうに首を傾けた。

「仕事のことを知らない僕がどうこう言っても上辺だけになっちゃうけど、ミスを認められるなら次は気を付けられるんじゃない? 君の言う『二年も』が何を基準にしたかは知らないけど、君のペースもあるだろうし。焦ると自分を追い詰めちゃうよ」

「……そ、そうですか……? 物覚えが悪くて……怒られてばかりでも……」

「いきなり定時は難しいかもしれないけど、少しずつ遣ってみたら? その内もっと慣れるよ。辛いなら転職か……仕事なんて辞めちゃえ」

「何か……願い事を叶えると言うより、悩み相談……」

 尤もなことを言われ、獏はカップを下ろした。願い事を叶えると言っても獏は魔法使いではないのだ。いきなり仕事ができるようにはできない。

「今日はあんまり動きたくないんだよね。望むなら定時で帰らせるよう君の上司を脅すけど」

 にこりと不敵に笑う獏に男は背筋が冷たくなってしまった。

「それは仕事ができると言うより、脅迫……」

 定時という言葉で男は壁に掛けられた時計に目を遣り、愕然と項垂れた。

「終電……」

「?」

「最終の電車です……」

 どうやら話している内に間に合わなくなったらしい。

「少し聞きたいことがあるんだけど、答えてくれたら家まで送ってあげるよ。それは代価も貰わない」

「ほっ、本当ですか!? 何でも訊いてください!」

 頭上に垂らされた救いの糸に男はすぐに縋った。悩みを聞いてもらったことで、こんなに妖しい獏をすっかり信じきった顔をしている。

「昨日今日で緑色の髪の人を見たことある?」

「緑……? そんな派手な色だと見たらすぐ気付くと思いますが……見た覚えがないです」

「小耳に挟んだ程度でもいいんだけど」

「いえ……すみません。聞いたことがないです」

「……そう。君の感じだと一日の殆どは机に齧り付いてそうだし当然か」

 最初の聞き込みはこんなものかと肩を落とす。少しは期待もしていたのだが、そう上手くはいかないようだ。

「もし緑髪を見たり小耳にでも挟んだら、願い事みたいに手紙に書いて投函してくれる? もし見間違いだったとしても責めたりしないから」

「……は、はい。わかりました。願い事がなくても投函していいってことですよね?」

「うん。わざわざ願い事を考えてくれなくていいよ」

 遣り取りを観察し、成程と蜃は思う。聞き込むだけだと思っていたが、今は見ていなくとも今後も見ないとは限らない。こうして目を増やしていくのかと納得する。善行なんて面倒なものだが、物は使いようだ。連絡する機器を持たない獣には良い連絡手段になる。悔しいが蜃では連絡手段を得られない。こうして網を張ってくれる獏がいてくれることはありがたかった。

 懸念が払拭されて安心した男は冷めてきた紅茶を飲む。紅茶なんて久し振りに飲んだ。

「これ美味しいですね。何て紅茶ですか?」

 カップを机に置き油断しきっていた男は突如腕を掴まれたことに反応できなかった。


「――伏せて!」


 外に面した窓に何かがぶつかるような音がし、獏は灰色海月と男の腕を引いて頭を床に押さえ付けた。灰色海月は若いと言えどさすが無色の変転人だ、顔より先に床に手を突いた。透かさず耳元で手を体に寄せるよう言われ、胸元で両手を握る。男は手が出ず転ぶように床に落ちた。

 撓んで耐えきれなくなった窓硝子が撫でられるように端から弾け、破片が飛び散る。

「ひっ、い!?」

 机や床に破片が叩き付けられ、音はまるで豪雨のようだった。

 一瞬の音の猛襲の後に再びしんと静けさを取り戻す。手を床から離していなければ手に破片が刺さっていたかもしれない。灰色海月は小さく震えた。

 獏は二人の頭を押さえたまま恐る恐る顔を上げ、辺りに視線を巡らせる。同じく姿勢を低くしていた蜃と蒲牢も顔を上げ、何が起こったのかと机の陰から窓を覗いた。

「何だ? 今の……」

 窓は全て綺麗に砕け散り、辺りには破片が散乱していた。

「大丈夫だった? 誰も怪我はない? 咄嗟に伏せてって言っちゃったけど、床に貼り付いてたら危なかったね……ごめん」

 安全を確認し、獏は漸く二人の頭から手を離した。二人も恐る恐る顔を上げる。男は少し顔を打ったのか、眉間に皺を寄せながら頬を摩って頷いた。打っただけで、破片は幸い刺さっていない。

「俺は何ともない。硝子は落ちてきたけどフードを被ってたからな」

「俺も怪我はない。机の下に隠れた。『伏せて』の意図はわかったから大丈夫だ」

「隠れきれてなかったけどな」

「え?」

「私も大丈夫です。庇っていただいたので」

「破片が降ってきたけど、僕も大丈夫。随分遠くまで飛んだみたいだね。風かな?」

 散乱する破片に気を付けながら獏は立ち上がり、ぐるりと見渡してから風通しの良くなった窓へ近付いた。踏んだ破片ががちがちと鳴る。

 念のため柱の陰に身を隠しながら外を確認する。向かいのビルの窓も同じように割れていた。二階分の窓が横に全て割れている。隣のビルは異なる階が割れていた。

「変な割れ方……自然な突風じゃないのかな……」

 蒲牢も辺りを見渡してから、様子を窺いに一跳びで獏の傍らへ降り立つ。柱の陰に隠れる獏に倣って柱に張り付く。

「下は大騒ぎだな。ここにも人が来るかもしれない」

「ねえ蒲牢。この割れ方、どう思う?」

「……獣か?」

「やっぱり自然な割れ方じゃないよね?」

 蒲牢はこくりと頷き、柱に顔を寄せて遠くのビルを覗く。どれもある程度の上階だが、上の階だったり下の階だったり二階分の窓が割れていた。

「うん……でもビルは風が強いとも聞いたことがある」

「その度に割れてたら迷惑な話だよ」

「もし獣だとしたら、近付かない方がいいかもしれない。割れた範囲が広い」

「面白がって割ったのかな……そういう獣は結構いるでしょ?」

「いる……」

 可愛げのある悪戯から大量虐殺まで様々だが、規模に拘らず人間に危害を加える獣は多い。この件が獣だとしてもこの程度で狴犴に目は着けられないだろう。上から見下ろす限りではあるが、夜遅くということもあり人通りが少なく、死んだ人間もいないようだ。下にはあまり破片が落ちなかったことも幸いしている。殆どが風に押し込まれたように室内に散らばっていた。見る限りでは他の割れたビルの明かりは消えていて、おそらく無人だ。死者がいないのなら、狴犴は動かないだろう。

「話は後にしよう。人間か獣か、誰がここに来てもあまり鉢合わせたくないだろ?」

「そうだね」

 机から顔を覗かせる三人の許へ戻り、外の状況を話した。蜃は険しい顔をするが、男は人為的なものだと思っておらず驚くだけだった。

「明日は仕事しなくてもいいかもね。すぐに家に帰るならここで送るけど、どうする?」

「施錠しないといけないので、ちょっと待ってください。先に外に……あっ、外って大丈夫ですか?」

「うん。それじゃあ外で待つよ。目立たないよう表通りには出ないから、ビルの角を曲がってくれる?」

「はい。わかりました」

「願い事の代価は家に帰ってからね」

「ありがとうございます。さっきは悩み相談なんて言ってしまいましたが、会社ではそんな話もできなかったので……何と言うか、こんなに優しくされて……。皆は先に帰るし……。獏って聖母みたいですね……ぐす」

 突然勝手に泣き出し、皆ぽかんとした。

「聖母じゃないんだけど……」

 思わず頬が引き攣ってしまう。蜃はその言葉が大層面白かったらしく、一拍置いて声を殺して笑い出した。

「早めに出て来てね」

 笑い過ぎて呼吸が苦しそうな蜃の首根っこを掴み、灰色海月に目を遣る。泣き出した男を呆然と見ていた彼女は慌てて灰色の傘を開いた。通路は狭く傘を回せないので、机の上に乗る。

 男に小さく手を振り、彼以外の皆はくるりと姿を消した。まるで夢でも見ているかのようだった。しんとする部屋の中で男は我に返り、早く下に下りなければと部屋の明かりを消した。


 人間は皆表通りに集まり、ビルの角を曲がった所に人気ひとけは無かった。窓が割れて暫し経ち、もう割れることはないと安心したのだろうか。こんな時間なので疎らだが、表通りに野次馬が集まっていた。遠くでサイレンの音も聞こえる。誰かが通報したようだ。警察が来る前に離脱したいものだ。

 だが幾ら待っても男はビルから出て来なかった。幸いパトカーは離れた場所に停車したのでまだこちらには来ていないが、何箇所施錠しているのだと思うほど一向に男が遣って来ない。

「……クラゲさん、少し様子を見てきてくれる? まだ施錠が終わってないなら、置いてすぐ戻って来ていいから。後どれくらい掛かりそうか訊いてほしい」

「わかりました」

「折り返し戻るなら俺も行くよ。連続して傘は使えないだろ?」

 直ぐ様挙手した蒲牢に獏も頷く。

「本気を出せば連続できます」

「ふふ。本当かなぁ? とりあえず今回は蒲牢と行ってきてくれる?」

「……はい」

 役に立てると言いたかった灰色海月は少し眉を下げ、大人しく灰色の傘をくるりと回した。

 その僅か数秒後、二人は戻って来た。あまりに早い。蒲牢は眉を顰めながら蜃の袖を掴んだ。

「今すぐ街に戻ろう。あの男は待たなくていい。――死んでる」

「!?」

「何で……」

 首輪を嵌めた獏は力の制限がある。自分に転送を頼んだのだと察し、蜃は杖を召喚した。

「わからないけど、体中切り裂かれたみたいで、あれは明らかに人為的だ」

「獣……?」

「俺達が行った時には何も気配がなかった。もしかしたら窓を割ったのと同じ獣かも……」

「ちっ、折角の協力者が一瞬でパァかよ。脆いな、人間は」

 椒図捜索の第一歩だったのに、振り出しに戻されてしまった。悔しいが人間とはそんなものかと諦めもある。

 人の目がないことを確認し、蜃はくるりと杖を回した。今は椒図のことに集中したいのに、他のことにまで目を向けていられない。

 蒲牢の言葉と睫毛を伏せる灰色海月の様子を見るに、状態の良い死体ではなかったのだろう。蒲牢がすぐに折り返し転送したことを考えると、あまり長く直視したわけではないはずだ。その判断に獏は感謝する。彼が一緒に行ってくれて良かった。一目見て死体とわかるものを彼女にあまり見せたくはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る