67-監視
薄暗い宵街の上層にある科刑所で狴犴は頭を悩ませていた。
どれくらい気を失っていたのか、蒲牢の襲撃でこっ酷く叩きのめされてしまった。目覚めた時には檻に入れていた鵺の姿はなく、蒲牢もいなくなっていた。
白花苧環の種を取り出すために科刑所から出した
次の手を打たねばという時に椒図の化生を感知した。死後まだ数日しか経っていないはずなのに。早過ぎる。獣がいつ化生するかはそれぞれ異なるが、一般的に最低でも半年から一年は間が空くものだ。化生してしまったのだからそういう場合もあると思うしかないが、こうも早いと何の準備もできていない。
(真っ新な椒図の力の程は不明だが、確保しておいた方がいい。だが居場所……虱潰しに捜すのはあまりに非効率的だ。
散乱した書類に目を落としながらも意識は思考に向いている。書類の文字が頭に入って来ない。
(……兄弟の死があれば鴟吻は振り向くだろう……誰かが死ねば感知して千里眼で覗くはず。問題は誰か……誰を殺すかだ。今場所が明らかなのは
そこまで考えて、狴犴は目を閉じた。息をするように自然と兄弟を殺すことを考えていることに気付き、頭に手を遣った。自分の思考とは思えない。
(これは仕方無いこと……いや違う……。だが必要な犠牲だ。違う……。あそこまで育った苧環を渡すわけにはいかない……)
何度も思考を否定しながら狴犴は立ち上がり、何とか冷静だと思っているものを取り戻し部屋を出る。最近妙な感覚に襲われることが多い。自分の思考なのに何かに蝕まれているような不快感がある。
(人を借りた方がいいな。……浅葱斑も捜さなければ)
白花苧環は狴犴にとって突出した強い変転人だったがそれは獣以上ではなく、強い獣を更に強力にしたいがために使い捨ての駒にした。
(……した? 本当に?)
なのにその獣を敵に回しても彼を取り戻そうとしている矛盾に狴犴はまだ気付いていなかった。
思考と焦点が揺れる。まるで自分の意識が抜けていくようだった。
* * *
暗い煉瓦の街の屋根を跳んで古物店に戻った獏と蜃、そして灰色海月は、店の前できょろきょろとしている黒い人影を見つけた。警戒するが、見知った顔であることにすぐに気付く。
「スミレさん!」
屋根から飛び降りて駆け寄ると、声に気付いた黒葉菫が振り返った。
「戻ってたんですか? 今は何処に……」
「その言葉はそっくりそのまま返したい所だけど、僕達は端に行って少し悪夢を潰してたんだよ」
「悪夢に攻撃できるように――いや、今はそんな話をしてる場合ではないんです」
「何かあったの?」
「見た方が早いです」
黒葉菫は慌てた様子で店ではなくその隣の家へ入って行く。獏と蜃が街に戻ってからそちらには入っていないが、他の皆はそこにいるのだろうか。
至極色の背に続いて二階へと上がり、白花苧環の体を安置していた部屋のドアを開けると、びくりと足が止まってしまった。
「何これ……」
奥の壁が崩れて穴の空いた部屋の中にはあちこちにべっとりと血が付着していた。白花苧環の流した血溜まりは拭き取ったので彼の物ではない。最後にこの部屋を見た時にはこんな物はなかった。
「俺は投函された手紙の回収に行ってたんですが、戻って来たら誰もいなくて。これが誰の血かわからないんです……」
「僕達も街に戻って来たらクラゲさんしかいなかったよ」
「海月も皆が何処に行ったか知らないって言ってたぞ」
蜃も腕を組み、血痕に目を遣る。あちこちに飛び散っているのは、何らかの脅威に対して抵抗したからだろう。
「クラゲは寝てたので……黙って出てすみません」
「いいよ。手紙を溜めるわけにはいかないもんね。とにかくこれが誰の血か、手掛りがあればいいんだけど」
部屋を見渡し、少ない家具の隙間も覗き込む。黒葉菫と灰色海月も獏に倣って部屋の隅々に目を遣った。蜃は、こんなことをしている場合ではないのにと気を揉みながら、落ち着きなくうろうろとする。蒲牢もまだ戻らず椒図の行方がわからない今、捜しに行くこともできずもどかしい。
蜃の焦燥を感じ取りながらも獏は手掛りを探す。椒図も心配だが、徒事ではない血痕を放っておくわけにはいかない。
(これは……?)
瓦礫の陰に妙な血の跡があった。まるで靴の先のようだったが、それにしては大き過ぎる。偶然その形になっただけだろうかと獏は首を捻る。
蜃は落ち着かずにドアを閉めようとし、陰に何か光る物が落ちていることに気付いた。
「……何だこれ?」
抓み上げてみると、海色の小さな石が揺れる耳飾りだった。何処かで見たことがあるような気がする。記憶を手繰るが、なかなか思い出せなかった。
「……獏、これ何か知ってるか?」
「ん? 何?」
顔を上げて蜃を見た瞬間、獏は血相を変えて駆け寄った。
「ウニさんの耳飾り……!」
それは善行で雪山に行った時に見つけた宝飾品の中から黒色海栗が持ち帰った物だった。
「ああ、海栗のか……。何処かで見たと思えば」
「これ、何処に?」
「ドアの陰に落ちてた」
黒葉菫と灰色海月もドアに集まり、蜃は獏に耳飾りを渡した。
「ウニさんに何かあったのかも……」
もう一度、今度は血痕を集中して見る。床や壁に飛び散る血の量はとても掠り傷とは言えない。もし全てが彼女の血なら致命傷だろう。
崩れた壁の瓦礫にも点々と血があることに気付いて駆け寄る。地面を見下ろすと、暗い路地に黒い染みが見えた。夜目の利く獏ならば見えるが、変転人には闇に紛れて見えないだろう。
耳飾りをポケットに入れ、獏は壁の穴から飛び降りた。黒葉菫と灰色海月も追おうと地面を見下ろすが、変転人はたかが二階の高さでも打ち所が悪ければ死んでしまう。躊躇う二人を後ろから見ながら、変転人は不便だと蜃は思う。
「飛び降りていいぞ。下にクッションを作ってやる」
実体が作れるのは一瞬だが、タイミングを合わせるのは慣れている。蜃は杖を構え、くるりと回す。何もない所にいきなり飛び込むのは勇気がいるだろう。実体ではないが蜃気楼でクッションを地面に置き、視覚的に安心させる。
「ありがとうございます」
先に飛び降りたのは黒葉菫だった。彼は蜃が獏を殺そうとした所を見ていないからか簡単に信じて飛び降りた。少しくらい躊躇うのではと思っていた蜃は驚きつつもクッションを実体化させる。
柔らかいクッションに埋もれて無傷の黒葉菫を確認し、灰色海月も意を決して飛び降りた。傷はもう良いのか疑問だったが、蜃はもう一度クッションを実体化させる。
まだ傷が完全に癒えていない彼女は案の定背中を押さえた。幾ら柔らかいクッションと言えど、衝撃が全く無いわけではない。黒葉菫に手を貸してもらいながら立ち上がる灰色海月を見下ろし、クッションを消して蜃も飛び降りる。
地面に降りると黒い染みもはっきりと見えた。血痕は暗い路地の奥へ続いている。
三人が歩いて行くと、すぐに辺りを見回す獏の姿を見つけた。どうやら血痕はここまでのようだ。
「手が届く範囲にドアも窓も無い」
「もしウニの血痕で、ここまで逃げて来たんだとしたら、逃げ切れないと悟って傘で離脱したんでしょうか」
「うん。可能性はあるね。離脱したんなら病院にも行けるはず……」
だがそれは飽くまで良い方の可能性だ。
「でも、ここで止めを刺されてたとしたら」
「…………」
「それといないのはウニさんだけじゃない。もし鵺と螭がいてこの様なら相手はやっぱり悪夢かな……」
もし相手が悪夢なら触れることができず一方的に遣られるのも納得ができる。
相手が獣なら黒色海栗だけでは勝ち目はないが、鵺と螭、二人も獣がいれば抵抗できるはずだ。その場合、血痕は黒色海栗達の物ではなく、相手の物である可能性もある。
「あの、螭は宵街に行ってます」
「そうなの?」
「はい。随分長く罪人の食事作りを地霊に任せきりなので、一度様子を見ると言って出て行きました」
「先に言ってほしかったけど……じゃあ螭の心配はしなくていいみたいだね」
獣の数が一人減ってしまったが、相手が獣なら鵺も只では遣られないだろう。獏も万全の状態で彼女と手合わせをしたことはないが、仮にも執行人なのだ。獣に舐められては務まらない。
「悪夢の仕業なら訊いたら答えてくれるのかな……。またあれを見るのは嫌だけど……」
「?」
「スミレさんとクラゲさんは店に戻ってて。もし誰か戻って来たら、また誰もいないって困らせちゃうからね」
「……はい」
悪夢の仕業だとしても釘は刺しておいたのでこれ以上の被害はないと思うが、信用はない。せめて誰の血か特定できて黒色海栗と鵺の血ではないとなれば安心できるのだが、そう都合良くはいかないだろう。
灰色海月と黒葉菫を店に戻して仕方無く嫌々と蜃を連れて再び端へと行ったが、今度は頭を垂れる悪夢は現れず、声を掛けても何も返って来なかった。光の矢を打ち込んでやろうかと思ったがやめておいた。見なくて良いなら見ないに越したことはない。
何も得られず店へ戻ると、また人影が店の前でうろうろとしていた。互いに気付いたのは同時だっただろうか、目が合う。
「…………」
黒色海栗だろうかと一瞬安心してしまったが、彼女よりも背が高い。知らない女だった。緩く編んだ黒髪に、黒い服。奥の手に黒い傘を提げていることに気付く。黒の変転人だ。
「ここの人?」
街で唯一の光の灯る店を指差し、女は妖艶に笑った。
「……君は?」
「私? 名乗る程の者じゃないわ」
「何しに来たの?」
このタイミングでの来客は狴犴が差し向けた敵の可能性がある。下手なことは言えない。
「罪人の獏に用があるんだけど」
女はちらりと獏の後ろにいる蜃を見る。黒いフードを被り顔はよく見えないが、本来この牢である街にいるはずのない者だ。
「後ろのは気にしないで。この街に迷子はよくあることだからね」
息をするように獏は嘘を吐いた。
人間の迷子は稀にあるが、蜃は迷子ではない。ここは何も言わない方が良いだろうと蜃も会話を獏に任せて黙っておく。
「獏に用があるんなら、僕がその獏だよ」
「確かに聞いた通り、変わったお面を付けてるのね」
「それ、誰から聞いたの?」
「獏を監視するよう言われて来たのよ。だから早くこの建物の中に入って。よく知らないけど後ろの人もついでに」
「監視……? 監視役なら既にいるけど」
「そんなこと言われても知らないわよ。監視しろって言われただけだもの。とにかく中に入って」
「…………」
どのみち店の中には入るつもりだったが、敵なのか何なのかわからない女を連れて入るか考え倦ねる。黒い傘は手に持ったままで仕舞う気配はない。武器を持つよりは良いが、こちらに持ち帰りたいものでもあるのかわからない以上、警戒するしかない。
(黒ならもしかしたらスミレさんが知ってるかな?)
白は交流が少ないが、黒はそうではない。
獏は素直にドアを開け、すぐに心配そうに顔を出した灰色海月を手招いた。黒葉菫を呼んでもらう。死角で女からは中の様子が見えないはずだ。
早く入らないのかと女が怪訝な顔を始めた頃、黒葉菫も怪訝な顔で駆け寄って来た。
「何ですか?」
「知らない黒い人が来てるんだけど、君の知ってる人かなって」
「黒い人?」
黒葉菫は恐る恐るドアから顔を出し、黒い女と目が合った。
「あ」
互いにはっとした顔をする。
「あらスミレ君? どうしたのこんな所で。奇遇ね」
「ああ……黒い人か……」
女はあっさりと黒い傘を仕舞い、ドアを覗き込むように首を傾けた。
「知り合いだった?」
黒葉菫に警戒は見られず、女の方も気さくな態度だ。どうやら悪い仲ではなさそうだ。
「知り合いです。前に少し話した気もしますが、噂好きの奴です」
「ああ! 例の噂好き!」
以前白花苧環について色々と聞かせてもらった時に噂好きの仲間がいると言っていた。彼女がそうらしい。
「ってことはもしかして、この人に僕のお面の話をしたのはスミレさん?」
「駄目でしたか……? 監視役の代理をする時に少し話したことが……」
「ううん。お面のことくらいなら問題ないよ。知り合いで良かった。目的がよくわからなくて……少し話を聞いてもらえるかな?」
「ああ、それなら」
警戒すべき相手ではなかったので黒葉菫は久し振りに会う仲間の前に立った。女は親しげに微笑んで手を振っている。
「まず紹介しますね。彼女は
洋種山牛蒡は小さな葡萄のようにも見えるが全草に毒がある植物だ。こんな名前だが、食用の牛蒡ではない。
「姉さんと呼んで」
「それで……ヨウ姉さん、何でここに?」
洋種山牛蒡は軽く腕を組み、困ったような顔をする。
「獏の監視をしろと言われただけよ。スミレ君が前に言ってたような代理なのかと思ったんだけど。貴方がまた代理してるの?」
「他に何も言われてないのか?」
「他に? ……罪人をうろうろと外に出すなって言われたわね。だから建物の中に入ってもらおうと思ったの。それだけよ」
黒葉菫は振り返り、小声で獏に意見を求めた。
「……こう言ってますが」
「君から見て、嘘を吐いてるように見える?」
「いえ……普段からそう嘘を吐く人ではないので。ですが、監視役の代理ではない気がします。俺が代理を頼まれた時は、遣るべきことをもう少し明確に指示されました」
「嘘じゃなく代理でもないとすると……何も知らされずここに来た……? 頼まれた『外に出すな』っていうのもたぶん、店からじゃなくて街からだよね。店から出さなければ街から出すことにもならないけど」
「そうですね。この街は特殊なので確かに説明するのも理解するのも難しいです」
「うん。目的はわからないけど、ペラペラと噂を流されるのは困るから、この街の出来事はどうにか口止めできるといいんだけど。狴犴に情報を流されるのは困る」
獏は背伸びをし、黒葉菫に耳打ちした。マレーバクの面の鼻が当たったので、少し面を動かした。
黒葉菫は表情を変えずに小さく頷き、洋種山牛蒡に向き直る。
「ヨウ姉さん。監視役の先輩として俺から助言がある」
「助言? 人生経験は私が上だけど、確かに監視役としての先輩はスミレ君ね……わかったわ。何?」
「この街はかなり特殊なんだ。宵街にある地下牢とは違う。この街のことは他言してはいけないんだ。噂好きなヨウ姉さんには特に注意してほしい」
「貴方が獏のことを話してたのはいいの?」
「……ば、獏のことは、罪人だから、お面を付けてるとか言うのは、いい」
「そうね。お面のことくらいしか聞かなかったしね」
獏から耳打ちされた通りに話していた黒葉菫は唐突に耳打ちにない質問をされて焦ったが、何とか対応できた。何だか少し言葉が変だった気もするが。
「でも狴犴には伝えていいんでしょ? 監視としか言われてないけど、獏は罪人だし何かあったら報告義務はあるはず」
親しい黒葉菫相手に気を緩めてしまったのか、あっさりと誰の命令か口にした。やはり狴犴に頼まれて来たようだ。白花曼珠沙華のように口を噤む気はないようだが、そもそも黒葉菫と親しいことが既に狴犴にとって誤算なのではないだろうか。こんなに会話することをそもそも想定していないはずだ。変転人の交友関係など把握していないだろう。以前白花苧環も、狴犴は変転人の名前すら全てを知っているわけではないと言っていた。それに罪人とこうして争って変転人を巻き込んでいると宵街に噂でも流れれば狴犴の威厳に関わる。詳細を話したくとも話せないだろう。
「……いや、狴犴への報告も慎重に行わないといけない。今は情報が錯綜してる。中途半端な情報で惑わせるわけにはいかない。慣れてる俺が、そこは判断する」
「あら頼もしいわ。スミレ君がいるなら私なんていらなかったわね。それとも助手? 監視役の助手?」
「そうだな。そういう感じでいこう」
「わかったわ。スミレ君先輩」
耳打ち以上の質問に心臓が早鐘を打ち冷汗が流れそうだったが、黒葉菫は何とか耐えた。
元々彼はチェスでも早打ちで良い手を打つのだ。頭の回転は早い。落ち着いていれば臨機応変に対応することはできる。
獏が横から口を挟むことはできるが、罪人が口を出しても言うことを聞かないだろう。黒葉菫だからこそ彼女は素直に言うことを聞いている。
ドアの隙間から様子を窺う灰色海月にも事情が把握できただろう。新しい監視役が来ても対抗心を燃やさず冷静でいられるはずだ。
「じゃあ中に入ろうか」
監視とは言ったが、見るだけではないだろう。ここから出ようものなら全力で止める――そういう命令がされているはずだ。洋種山牛蒡は理解していないように見えるが、全ての事情を知らなければ確かに察することは難しい。あまり詳細な事情を話さなかった狴犴の失態と言える。話せないのだから仕方無いことなのだろうが。白花苧環のことも椒図のことも、彼は一人で抱えるしかなかった。白ではなく黒を送り込んで来たのも、もう信用できる者がいないからなのかもしれない。
聳える棚の間を抜けて奥の古びた椅子に座り、獏はぽつりと漏らした。
「ねえ、狴犴に信頼の置ける仲間っているの?」
傍らに置物のように控える灰色海月は黒葉菫を見、黒葉菫は椅子に座りながら洋種山牛蒡を見る。黒葉菫が口止めしたのだから、すぐに密告することはないだろう。彼女は噂好きではあるが噂なら何でも良いと言うわけではなく、親しい相手を困らせるようなことはしない。
「……マキがそうだったと思います。獣だと……やっぱり睚眦じゃないですか?」
「そっか……でも睚眦を派遣する様子はないよね。変転人を派遣するより確実なはずなのに」
洋種山牛蒡も辺りを見回し空いている椅子を見つける。蜃と同時に手を出してしまうが、蜃は手を引いた。何だか知らないが今の蜃の設定は迷子だ。獣ではない。下手に争わずに椅子くらい譲った方が良い。幸い手を少し出した所で引いたので、蜃が手を出そうとしたことは気付かれていないだろう。洋種山牛蒡が座るのを見て、蜃は離れて階段の下に座った。
「狴犴って人望ないでしょ?」
まるで旧友のように洋種山牛蒡は会話に加わる。白なら罪人を嫌うが、黒は罪人に抵抗がない。
獏と黒葉菫は口を閉じてしまうが、獏は思い直した。噂好きの彼女なら獏達の知らない情報も何か知っているかもしれない。勝手に喋ってくれるならありがたいことだ。噂好きとは如何ほどのものなのか、自由に喋らせておくことにする。黒葉菫が獏を警戒していないので、洋種山牛蒡も警戒を捨てている。
「罪人の僕からじゃ何とも言えないけど、そんなに人望ないの?」
「昔話なんだけど、昔は人望のある人が宵街のトップにいたそうよ。その人と比較すると人望なんてないわね」
それはおそらく龍生九子の
「……昔の人望のある人って?」
会話の役を任されたことはわかったが、獏が何を聞きたいのかは完全に読み取ることはできない。面に隠れた顔を一瞥しつつ、知り合いとは言えやや緊張した面持ちで黒葉菫は話す。
「何て言ったかな……贔屓? もう一人いたらしいけど。それはもう宵街の皆に慕われてたそうよ。それに今の空はかなり暗いけど、もっと明るかったんだって」
「そうなのか。人望があると空が明るくなるんだな」
「人望で空は変わらないと思うわ、スミレ君先輩」
楽しそうに笑い、洋種山牛蒡は黒葉菫の肩をぽんぽんと叩いた。
「スミレ君は時々面白いことを言うから飽きないわ」
面白いことを言った自覚のない黒葉菫は獏の方を一瞥し、何も反応がないので目線を戻した。
「最近全然宵街に戻って来ないから退屈してたのよ。まさか死んだりとか……」
少し目を伏せ、彼女の笑顔が薄れる。無色の変転人が暫く宵街に戻らない場合、それは殆どが死を意味する。
「これは長期の仕事なんだ。何か気になる噂でも仕入れたのか?」
「そうそう! そうなのよ」
杞憂だったのだと心配を振り払うようにぽんと手を打ち、良い噂があったと身を乗り出す。
黒葉菫は宵街でも彼女の良い話し相手のようだと獏は観察する。洋種山牛蒡は獏など既に眼中にない。
「苧環を連れて来いって通達があったでしょ? その後の経過報告は全くないけど、実はもう苧環は死んでるって噂よ」
「!」
「そうよね、驚くわよね」
白花苧環が死んだことに対する驚きではなく、そういう噂が流れていることに対する驚きだったが、上手く都合良く解釈されたようだ。
「言うことを聞かない変転人を狴犴が始末したって噂よ」
「…………」
誰が流し始めた噂なのか知らないが、的のど真ん中を射ている。これには獏も面の奥で苦笑するしかない。事実を知っていると悟られれば面倒なことになるだろう。黒葉菫には真顔を貫いてほしいものだ。
「苧環って強いって噂なのに、やっぱり獣には歯が立たないのね――」
楽しく噂を披露していた洋種山牛蒡は突然立ち上がり、スカートの裾を翻して机に跳び乗った。そしてくるりと店の出入口へ体を向ける。それを黒葉菫は唖然と見上げた。
「え……」
洋種山牛蒡はドアを見詰めたまま掌からするりと悪夢の長い触手のような――鞭を引き抜いた。それは彼女の武器だった。
「……誰?」
開いた脚の間から見えるドアが開き、店に入ろうとした銀色の青年はぴたりと停止した。
「白っぽいけど、苧環じゃないわよね……?」
「……ヨウ姉さん、悪い人じゃないから落ち着け」
「スミレ君の知り合い?」
「知り合いだ」
洋種山牛蒡は黒葉菫の言葉を信じ、鞭を掌に仕舞って机から降りた。
突然土足で机上に乗られ、人間が土足で部屋に上がられて渋い顔をするのはこんな感じかと獏は考える。だからと言って靴を脱ぐ気にはならないので、洋種山牛蒡の行動にも口を出さない。
銀色の青年――蒲牢はドアノブを握ったまま、中に入っても良いのか出るべきなのか黙考する。
獏は洋種山牛蒡が背を向けていることを確認し、蒲牢に向かって口元に人差し指を立てて手招いた。隣の黒葉菫には洋種山牛蒡のことを頼むと指を差して頭を下げる。
指示の通り蒲牢は黙って店へ入り、階段へ行く獏の後を追った。洋種山牛蒡も不思議そうに付いて行こうとするが、黒葉菫が止める。
「監視役はここが定位置なんだ」
「そうなの? 今のは誰?」
「……それは……名前は俺も知らない」
「それは知りたくてうずうずするわね」
「駄目だ。監視役は……心を無にしないと」
洋種山牛蒡はぽかんとするが、何とか心を無にするよう努めた。
咄嗟によくわからない嘘を吐いてしまったが、何とか怪しまれずに信じてもらえたことに黒葉菫は安堵した。とは言え早くこの板挟みから解放されたい。嘘を吐くのは苦手だ。
二階へと上がった獏と蒲牢、そして気が急きながら付いて行った蜃は、天井に穴の空いていない方の部屋へ入った。漸く肩の力が抜けると、獏は真っ先にベッドに腰を下ろした。蒲牢も少し離れてベッドに腰掛ける。蜃はガタガタと椅子を引っ張って座った。
「――ど、どうだった!?」
前のめりになりながら蜃はごくりと唾を呑む。椒図が何処に化生したのか当たりは付けられたのか、気が急いて心臓の音が速くなる。
蒲牢は一度目を伏せ、顔を上げた。階下に見知らぬ変転人が増えていたが、それを尋ねる雰囲気ではなかった。
「……狻猊に訊いてみたけど、わからないみたいだった。前の椒図はふらっと宵街にやってきて殆ど家の中に閉じ籠ってて、話す機会があんまりなかったとか」
その答えに蜃は愕然とした。唯一の足掛かりだったのに、それが潰えてしまった。何も情報の無い所から椒図を捜し出すなんて無謀過ぎる。
「そう気を落とすな。こっちがわからないなら狴犴もきっとわからない。狴犴に先を越されなければいいんだろ?」
「そうだが……」
「これだけ時間が経てば場所も移動してるはず。椒図の性格と嗜好を考えて、行きそうな所を絞ろう」
さすが兄弟の多い第三子と言った所か。慰めつつも次の行動を示し不安を煽らない。
「……椒図もだけど、ウニさんと鵺も捜さないと」
ぽつりと呟く獏に蒲牢は小首を傾ぐ。
「何かあったのか?」
「隣の家の二階を見てくれるとわかりやすいけど、あちこちに血が飛び散ってて、ウニさんの耳飾りが落ちてたんだ」
「……悪夢か?」
「わからない……けど鵺も一緒なら、獣相手なら一方的に遣られることはないと思ってる」
「俺は人捜しは苦手だ」
「まあ探偵じゃないからね……」
蒲牢は何か言いたげな顔をしたが、すぐに睫毛を伏せた。
それどころではない蜃は、膝に手を置き椒図の行きそうな場所を黙々と考え険しく唸っている。真っ先に思い付くのは地下牢のような狭くて暗い場所だが、そんな場所は幾らでも溢れている。地名や施設で絞ることができれば良いのだが、何も思い付かない。
苦しそうな蜃を一瞥し、蒲牢も先に椒図へ意識を向けた。
「椒図はどんな獣だったんだ?」
「そっか、会ったことないんだったね。それなら蜃の方が詳しいよ」
名前を出され、蜃ははっと顔を上げた。死も化生も唐突過ぎてまだ整理できていない現状だが、椒図のことはすぐに答えられる。それだけ長い付き合いだった。
「……椒図は、最初は暗い奴だと思ったが、話してみると意外と頼れる奴で、良い奴で……」
泣きそうになってしまい、蜃は慌てて口を結んだ。記憶を継いでいればきっとこの街に戻って来るだろう。これだけ時間が経っても来ないと言うことは全て忘れてしまっている。今の椒図は蜃のことを知らない。そう考えてしまい、振り払うように頭を振った。
「そうか……椒図はそんな獣になってたんだな。俺の知る幼い椒図は人懐こくて明るい子だったよ」
「何か……違うんだな」
「人間の年齢で言うと四、五歳くらいの頃だからな。知能もそれに近い。獣だからその年頃の人間より頭は回るはずだけど」
「化生した椒図はどっちなんだろう……」
「根本的な所は変わってないと思うよ。仲間思いな所とか」
蜃を庇った椒図は仲間思いと言えるだろう。蜃は弱い自分を責めて顔を伏せた。
「……でもあんなに小さかった椒図があそこまで大きくなるとはな……。俺より大きかったような」
幼い椒図はこのくらいでと蒲牢は手で高さを表し、親から産まれた獣の成長を興味深く眺める。
最初と二度目の性格が違うなら、三度目の性格もまたがらりと変わっているかもしれない。考えれば考えるほど別人になっていく。どんな椒図でも受け入れると蜃は決意したが、考えるほど不安になった。
三人は椒図の情報を出し合い、まるで思い出話に花を咲かせるようにしんみりとした。
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