66-処理


 くるりとハートの杖を回して景色が変わり、獏と蜃は転瞬の間に白い病室から見慣れた黒い透明な街へと場所を移した。

「!?」

「わっ……」

 二人の足は空を掻き、思わぬ高所から落ちた。石畳の地面は遠く、屋根の上に腰を打ち滑り落ちる蜃の腕を掴み、何とかそれ以上の落下を踏み止まる。

「はっ……はあ……は……? 君は杖の扱いが本当にクッソ下手だな! 殺す気か!?」

 衝撃が傷に響き、互いに顔を顰める。

「そこまで下手じゃないよ。僕の所為じゃない。それにこんな高さで獣が死ぬわけない」

 悪夢の所為で重かった脚にはもう違和感は無く、蜃を支えるために咄嗟に動かすことができた。傷は開いていないが、動くからと言って無理はしないよう気を引き締める。

 通常なら店の近くの地面に転送されるはずだが、何故か上空に、屋根の上に転送された。折角体を動かせるほど回復したのに、また怪我が増える所だった。

 蜃は解かれた長い髪を鬱陶しそうに払い除け、訝しげに周囲に目を遣る。

「何だよ、これ……」

 霧はいつもより晴れていて、その御陰で遠くまで見通せた。屋根から見る街は、端が視認できるほど接近していた。

 獏は地面に目を落とし、眉を顰める。石畳や建物に所々損壊が見られる。悪夢の襲撃が一度あったと蒲牢が言っていたが、その時のものだろうか。今は見る限りでは悪夢の姿はない。

「空間が歪んできてる……? 悪夢の所為か……? それとも、俺の所為……?」

「端は見えるけどまだ距離はある。今は何も音がしないし静かだね。外には誰もいないし、店に行こう」

「繋がりが切れた所為でおかしくなったのか……?」

 安全を確認し飛び降りた獏に続き、蜃もぶつぶつと不安を呟きながら飛び降りる。

「繋がりより、君が瀕死だったからじゃない? 先に少しでも蒲牢から悪夢を食べておけば良かったな……」

「悪夢が無いと力が出ないのか?」

「全くではないけど……やっぱり烙印が邪魔してるのかな。不安定で気持ち悪い」

 獏でも視認できない悪夢が襲来したこともあり、見えないからと言って安心はできない。

 辺りを警戒しながら店に向かって歩き、蜃は獏を一瞥した。唯一悪夢を処理することができる獏がこの有様では不安がある。

「……じゃあ、さっき少し見た俺の悪夢をやるよ。さっさと喰え」

「え?」

 突然背後から頭を掴まれ間髪入れずに口付けられ、獏は驚愕で目を見開きながら味わう間もなく悪夢を呑み込んだ。

「――多少は頭が軽くなるな」

 口を離すと、頭の中の靄が晴れたような、すっきりとした気分になった。これが悪夢を喰われるということなのかと、初めての感覚に蜃は少しの感動を覚える。

 対する獏は突然の仕打ちに目を白黒させて頬を膨らせた。

「な……いきなり口に入れないでよ! 少しだったから良かったけど烙印が痛い! ああ……折角の食事なのに勿体無い……」

「食事とは言え口を付けるこっちの身にもなれ」

「杖があるし、別に口を付ける必要はなかったよ」

「はああああ!?」

「君にもわかるように例えてあげると、こっちは突然口に丸めたパンを捩じ込まれたのと同じだからね。更に烙印の所為で首を絞められながらって感じ」

 危うく喉を詰まらせる所だった。形の無い悪夢で喉が詰まるかはわからないが。こんなものは食事の内に入らない。只の嫌がらせだと獏は口を尖らせる。

 騒がしく口論を続けながら古物店のドアを開けると、中は対照的にしんと静まり返っていた。思わず二人もぴたりと口を噤む。

「…………」

 薄暗い棚の間を進み奥の台所を覗くが誰もいない。誰もいない以外は店内には特に変わった所はなかった。

 警戒しながらも階段を上がり二階へ行く。どちらのドアを開けようか迷うが、灰色海月の部屋のドアを開けた。

 部屋の中には一人しかいなかった。ベッドに横になっている灰色海月だけだった。だが漸く知った顔を見つけて少し安心した。

 ベッドの向こうに今までなかった木箱が置かれていたが、彼女が置いたのだろうか。黒い物が食み出ている。

 ドアを開ける音にも反応がないので、床を軋ませないように近付いて様子を窺った。

(……寝てる)

 獣と違い変転人は背中を一つ刺されただけで大惨事だ。彼女の怪我はまだ癒えていないだろう。大人しく寝ているなら寝かせておいた方が良い。

 口元に人差し指を当て、獏はドアを指差す。無言で蜃を促し部屋を出た。静かにドアを閉め、向かいの獏の部屋のドアを開ける。

「……」

 変わらず天井から大穴が見下ろす部屋には誰もいなかった。

「誰もいないな。奥の倉庫か?」

「あんな狭い所に残りの全員は入れないよ」

 念のため廊下の奥のドアも開けたが、やはり誰もいなかった。

「スミレさんは街の外にいるみたいだけど……螭なら宵街に戻っても目を着けられないと思うけど、ウニさんと鵺はスミレさんと一緒にいるのかな?」

 黒葉菫の居場所だけは、白花苧環の残した刻印の御陰で意識すれば感知できる。街の外で何をしているのかまではわからないが。

「海月に訊くか?」

「怪我人を無理に起こすのは気が引けるんだけど」

「じゃあ先に端の悪夢を片付けるか?」

「……街の状態がおかしいなら、その方がいいのかな。端に行ってもいい?」

「別に俺の許可はいらない」

「危険かどうか聞きたかったんだけどね」

 天井の穴から外へ出、屋根の上からもう一度街を見渡す。跳び上がる程度なら傷付いた体でも可能だ。蜃も後に付いて屋根に上がる。蒲牢の前では焦りが出てしまい杖が召喚できなかったが、今は落ち着いているからか拍子抜けするほどすんなりと召喚できた。力はまだ然程使えなさそうだが。

「悪夢の処理はどうするんだ? 腐ってるとか言ってたよな。腹を下す覚悟ができたのか?」

「そんな覚悟はしたくない。……前に遣ったように、細かく切り刻んで磨り潰せば消えるはず。手間は掛かるし力も結構必要だけど――」

 ちらりと蜃を見る。

「?」

「その杖、壊してもいい?」

「いいわけないだろ馬鹿力」

「それは困ったね……」

 溜息を吐く獏に蜃は呆れた。狻猊さんげいに『獣の杖は肋骨』だと聞かされた所為で余計に抵抗がある。つまり杖を壊されるのは肋骨を折られるのと同義だ。痛みはないとは言え骨を折られたくはない。

「椒図から杖の扱い方を習ってただろ」

「そうだけど……慣れてる君にはわからないだろうけど、難しいんだよあれ」

「狻猊も赤子だって言ってたもんな。ま、何かに使えるだろうと思って……」

 得意気に服に手を入れようとし、ポケットが無いことに気付く。

「……俺の服って何処だ……?」

 病室はひたすら白く、黒い服は見当たらなかった。悪夢に刺されてかなり破れていたため、捨てられたかもしれない。

「……あ」

「何だ、心当たりあるのか?」

「クラゲさんの部屋に木箱が置いてあった。そこから黒い布が見えてたなって」

「……あったか? まあいい、見に行く」

「あっても破れてるよ?」

「着るんじゃなくて、ポケットに入れてたんだ」

「今どうしても必要な物?」

「必要!」

 踵を返して穴を飛び降りるので、獏も仕方無く付いて行く。悪夢が静かな今なら多少の余裕を持って準備しておく方が良いだろう。

 そっと再びドアを開け、灰色海月のいる部屋をぐるりと見回す。ベッドの向こうに木箱を見つけ、音を立てないように駆け寄った。木箱の蓋を開けると、黒い布が詰まっていた。

「当たり……か?」

 一番上にあった黒い布を持ち上げると、後ろから獏が手を出し掴んだ。ぱさりと黒い端切れが落ちる。

「これ僕の服だ。クラゲさんが繕ってくれたのかな? 穴が無い」

 蜃は再び木箱に手を突っ込み、別の黒い布を引っ張り出す。

「……俺の服は破れたままなんだが」

「クラゲさんが君のことどう思ってるか知ってる?」

「細いケーキ……」

 獏を殺そうとしたことを根に持たれている。蜃はむっと眉を寄せた。自分の蒔いた種だ。椒図が死んだ今はもう気が抜けてしまい獏を殺そうとは思っていないが、過去の行動は消せない。

 今は服よりもそのポケットの中だ。頭を振り、蜃はポケットに手を入れた。中からじゃらりと小さな変換石が零れる。

「それ、もしかして狻猊の所にあった屑石?」

「何かに使えないかと窃盗くすねてきた」

 椒図は使えないと言ったのに、もしかしたらと結局持って来たようだ。

「俺の杖を壊されるのは困る。これを使え。これなら幾ら壊してもいい」

「ありがとう……。足りるかはわからないけど、確実に悪夢の数は減らせるよ」

「何でそんなに扱えないんだ……」

「たぶんだけど、君は石に力を注ぐ所が明確に見えるんだと思う。僕は目隠しされてるみたいな感じかな……目を閉じてカップに水を注ぐ時、すぐにぴったり満タンで止められると思う?」

「……それは難しいな」

「わかってもらえて嬉しいよ」

 漸く理解してもらえたとにこりと微笑む。

「……あ、何か落ちたよ」

 蜃がばさりと服を動かすと、ことりと小さな物が落ちた。

「俺の髪留め……」

 自分の赤い前髪に手を遣り、何も付いていないことに気付く。治療された時に外されたようだ。

「……獏。髪を縛る紐はあるか?」

「店内にリボンならあるけど」

「それは嫌だ」

 木箱にある残りの服を引っ張り出すと、またことんと床を叩く物があった。

「蜃……これ」

 転がってきたそれを掴み、蜃に差し出す。椒図が髪を束ねていた髪留めだった。

 最後に木箱から出て来たのは椒図の服だった。指先から力が抜けそうになるが蜃は拳を握り、その服のポケットに手を入れた。そこには金平糖の入った小袋がある。

「その金平糖……まだあるの?」

「一つ残ってるはずだ。これは俺が持っておく」

「うん。それがいい」

 何度も泣きはしない。少し上を向いて炎色の髪を一つに束ね、少し震える指で椒図の髪留めを嵌めた。椒図はもういないのに、微かな安心感があった。

 ――ぎ、と背後で音がし、木箱を物色していた二人は振り返る。ベッドの上から灰色の頭がぼんやりと見下ろしていた。

「クラゲさん……ごめん、起こしちゃったね」

「いえ……」

 灰色海月はぺたりとベッドに座り込み、言葉を探した。何か言わなければと思うが、呆然として何も喉から出て来なかった。獏と蜃が目を覚ましたことは蒲牢から聞かされていた。生きていたと安心した。だが実際に目の前に現れると、何を言えば良いのか思い付かなかった。

「あ……あの……無事で……良かったです……」

 それが精一杯だった。感情が複雑で、自分の感情なのに理解できなかった。泣きそうな顔をしながら、涙は出ない。その感情はまだわからなかった。

 獏は安心させるように微笑み、灰色海月に向き直る。

「心配させてごめんね。この服はクラゲさんが?」

「はい……大人しくしてと言われたので……裁縫はベッドの上でできることだったので……」

「ありがとう、クラゲさん。早速着るよ。これからまたすぐに行くけど、この街の悪夢を処理したら戻るから」

「できるんですか……? 私も一緒に……」

 行く、と言い掛け、灰色海月は口を閉じた。付いて行っても、怪我をしている変転人など只の足手纏いだ。邪魔になるだけだ。

 俯く灰色海月に獏は何も声を掛けない。悪夢に近付かせると危険なことは獏が一番よく知っている。行きたいと言われても行かせるわけにはいかない。自ら引くなら、それで良い。

「海月は連れて行かないのか?」

「…………」

 なのに横から口を出され、獏は不満げな顔をした。

「ここには他に誰もいないだろ? いつ戻って来るかもわからない。安全とも言い切れない。だったら一人残すより、連れて行った方が良くないか?」

「君が正論を言うなんて……」

「馬鹿にするな」

 端に行っている間にここに悪夢が襲って来ない保証はない。怪我の癒えていない彼女を残して行っても抵抗はできないだろう。

「……仕方無いね。クラゲさん、怪我の調子はどう? 動ける?」

 灰色海月は落ち込んだ顔をぱっと上げ、身を乗り出した。まさか蜃が口添えしてくれるとは思っていなかった。

「動けます! まだ痛む時はありますが……問題無く歩けます」

「あんまり走らないようにはしようか。蜃もまだ力を使えないし、二人は僕の後ろにいて」

「走るのは俺もきついな」

「え、まだ体に穴が空いてるの?」

「塞がってるが、胸が……揺れる……」

 深刻な顔で予想外の理由を呟かれ、獏は返事が遅れた。

「……狻猊がくれた下着があったよね? クラゲさんに付け方を教えてもらいなよ。僕は向こうで着替えてくるから」

 自分の服を持ち、獏はさっさと部屋を出る。急げと言っているようだった。

 今まで蜃が胸を縛り付けていた布は木箱に無く、獏の言う通り狻猊から渡された物を使うしかないようだ。女扱いされたくない蜃は体を見られたくないだろうと気を利かせて獏は出て行ったのだろう。灰色海月を見上げ、蜃は渋々頭を下げた。

 灰色海月は棚に仕舞っておいた黒い下着を取り出し、心底嫌そうな顔をする蜃に装着してやった。

 サイズはぴったりで、目視でここまで正確な物を作る狻猊はやはり気持ち悪いなと蜃は思った。だが今はありがたい。

「……おい、海月」

「……何ですか?」

「他の奴は何処に行ったんだ?」

「え……?」

「ここに誰もいないだろ?」

「いないんですか? 気付きませんでした」

 どうやら眠っている灰色海月を起こさないように黙って出て行ったようだ。部屋を見渡すが置き手紙のような物は見当たらない。

「私からもいいですか?」

「おう?」

「二人だけ……ですか?」

 躊躇いがちに言ったことで、何を訊きたいのかすぐに察することができた。獏と蜃が目を覚ましたことを蒲牢から聞いているのなら、椒図が目覚めていないことも聞いているだろう。だがその先を蒲牢は話していないらしい。

「……椒図は死んだ」

「!」

「でも今は……悔やむより、することがある」

「…………」

 椒図と蜃は傍目から見ても仲が良かった。この店でもよく二人で話していた。空白を一番感じているのは蜃だろう。今はもう、その隣に椒図はいない。その蜃が彼の死より優先することがあるのなら、灰色海月が未練を口にするのは憚られた。

「この街の悪夢を片付けたら、化生した椒図を探すんだ」

「化生……ですか。でも記憶は……」

「記憶が無くても……いや、無いからこそ見つけないといけない。狴犴に椒図が利用される前に。今は蒲牢が宵街に行ってくれてる。そこで何か情報が掴めればいいんだが……」

「……私が寝てる間にそんなことになってたんですね。わかりました。手伝えることがあるなら、頑張ります」

「お、おう……。例えば……俺の破れた服、とか……」

 獏がいるから彼女は素直に話を聞いているのだろうとは思うが、蜃は試しに要求してみた。いつまでも寝間着のままでは落ち着かない。

「獏の服は繕えましたが、他はまだ時間がなくて……」

「あ、そ、そうか! それならいいんだ!」

 予想外の返事に言葉が詰まってしまったが、細いケーキを寄越してきた時より状況は良くなっているようだ。嫌われて放置されているとばかり思っていたが、繕うつもりならありがたい。

「靴なら修理は必要なかったので、こちらに」

 ベッドの下から別の木箱を引き出し、三足のブーツが現れた。

 椒図の遺品を見るとやはりまだ込み上げてくるものはあるが、自分のブーツを履くことに頭を切り換える。こうして見ると小柄な女性の体になった蜃の靴は小さく、青年の姿の椒図の靴は大きい。

 程無くしてドアを叩く音がし、灰色海月が返事をする。裸足だった獏もドアを開けてブーツに気付き、いそいそと履いた。

 それを眺めていると、蜃の腹が切なく鳴いた。

「蜃……緊張感……」

「きっ、君と違って俺は何も食べてないんだ! 点滴で腹が膨れるか!」

「さすがに御飯を食べる時間はちょっと……悠長過ぎるかな……」

「スミレさんが作ったキャベツ炒飯の残りと、切り分けたメロンの……三人の分がありますが、食べますか?」

「移動しながらなら、食べていいかな」

「では、おにぎりにしてきます」

 ぱたぱたと小走りで階下へ行く灰色海月を見送る。小走りができるなら傷も相当癒えているだろう。無理をしていなければ、だが。

 待つ間に蜃は木箱から自分の黒い外套を取り出して羽織る。破れてはいるが、フードは無事だ。被っている方が落ち着く。

 灰色海月はすぐにキャベツ炒飯のおにぎりを二つ持って戻って来た。二人に一つずつ渡す。握り慣れないので歪な形だったが味は変わりない。海苔の代わりに塩茹でしたキャベツを巻いている。

「蜃、走れそう?」

「まあ……思ったよりはいい。苦しくないし」

「それは良かった。使える物は使えばいいんだよ」

「使えるのが嫌なんだが……」

 げんなりとする蜃に、獏はふふと笑った。

「じゃあクラゲさん、手を」

 踊りを申し込むように手を差し出し、灰色海月は緊張気味に手を置いた。獏に触れていれば体が少し軽くなる。背に受けた傷に掛かる負担も軽減される。

片手にはおにぎりを持っているので蜃の手は持てないが、持つと言えば獣を侮るなと言われそうだ。

 再び屋根に上がり、街の様子を見る。特に変化は無さそうだ。

「悪夢に動きがないみたいだから、先にもう一箇所寄っていい?」

「何処だ?」

「僕達が遣られた場所」

「……わかった」

 あまり行きたくはない場所だが、蜃にとっては椒図と話した最後の場所だ。何も悪夢に刺されてすぐに意識が落ちたわけではない。あんな状態で椒図は蜃に無事を確認した。互いに意識は朦朧としていたが、掠れた声は耳に届いていた。

 気持ちを引き締めるために蜃はぱちんと頬を叩き、前髪に髪留めを留めた。

 おにぎりを食べながら屋根を跳び、周囲に目を遣り異常がないか確認しつつ進む。

「スミレさんは料理上手だね」

「ほぼこれしか作れないと言ってました」

「んん」

「美味い。久し振りに何か食べた」

 大きな瞳を爛々と輝かせて頬張っているので、蜃は余程腹が減っていたのだろう。食事ができるのなら、負傷した内臓ももう問題はなさそうだ。

「クラゲさん、僕達が遣られてから何日くらい経ってる?」

「ここでは正確な時間は把握できませんが、蒲牢が病院に様子を見に行った数を数えると……十日でしょうか」

「星が廻るって一週間って意味かな……」

 重傷ではあったが、臓物の種や宵街の薬を使用したからか想像していたよりも回復が早い。やはり人間の薬より獣用の宵街の薬の方が効果が高いようだ。

 動けるとは言え傷に障らないように速度を落としているので少し時間は掛かったが、割れた窓を見つけた。周囲の煉瓦の壁は所々崩れ、瓦礫が散乱している。

 平坦な場所を見つけて飛び降り、ぐるりと見渡す。獏は悪夢の気配がないか確認し、蜃はおにぎりの最後の一口を口に放り込んだ。

「俺がいたのは……」

「そこの瓦礫の所だよ。椒図が俯せに被さってた」

 獏の指差す方へ歩み寄り、地面を見下ろし目を細める。蜃の血なのか椒図の血なのかわからないが、黒く沈んだ血が飛び散っている。自分がもっと動けていれば椒図が庇う必要もなかった。蜃は奥歯を噛み、瓦礫を蹴る。重い瓦礫は動くことはなかった。

 灰色海月は崩れていない壁の際で待機し、生々しい交戦の痕が残る場所を見詰めた。ここで三人が重傷を負った。散乱する瓦礫と血を直視すると胸が痛む。

 獏はそれらの瓦礫の隙間を覗き込み、何かを探していた。

 何を探しているのかは知らないが、灰色海月の目にふと懐かしい物が映る。頭上から瓦礫が降ってこないか確認し、壁と瓦礫の陰になっていたそれを拾った。黒いそれは暗い街の中では目立たない。

「……あの、これ」

 探す邪魔をして良いのか逡巡するが、獏にとっては大事な物だろうと差し出す。

 だがそんな心配は必要なかったようで、振り向いた獏はぱっと子供のように顔を明るくさせた。

「これ! 見つかって良かった。壊れてないみたいだし、丈夫だね」

 いつも被っていたマレーバクの黒い面を受け取り、砂埃を払って顔に当てる。やはり面を被っていた方が落ち着く。病室にも灰色海月の部屋にも見当たらなかったので、心当たりがもうここしかなかったのだ。

「ありがとう、クラゲさん。これで心置きなく端に行けるよ」

「良かったです。とても似合ってます」

「クラゲさんが言うと含みがあるなぁ……」

 蹲んでぼんやりと血痕を見詰める蜃の肩を叩き、端に行こうと促す。

 その血痕は、化生したために体が霧のように消えてしまった椒図が遺した唯一の体の一部と言える。服や髪留めは体から離していたため消えずに済んだだけだ。椒図に着せられていた寝間着は彼と一緒に消えている。蜃は髪を束ねた髪留めに手を遣り、これが遺っているのは奇跡なのだと噛み締めて立ち上がった。

 再び獏は灰色海月の手を取り、三人は屋根の上へ跳ぶ。端が近付くにつれざわざわと体の奥が騒々しくなる。

 地面には黒い筋が蔓延り、家々の壁にも這い上がろうとしている。速度は遅いようで、屋根の上にはまだ目立った黒はなかった。それでも端には近付き過ぎず、二軒距離を開けて灰色海月の手を離した。悪夢に近付くと危険だが、離れ過ぎても手が届かない。

「クラゲさんと蜃はここにいて。もし悪夢が襲って来たらクラゲさんを連れて逃げて、蜃」

「悪夢に目があるのかわからないが、目眩ましくらいなら援護してやる」

「ふふ。少しは力が回復したようで何よりだよ」

 おにぎりを食べた効果だろう。元々烙印もないのだ、蜃の方が回復が早い。

 屋根を跳んで一軒近付き、獏は屑石を抓んで手に載せた。

「大人しく潰されてくれたらいいんだけど」

 屑石が光り、もう片手に持った杖でかんと弾く。変換石は飽くまで力を変換する物であり、操作するには杖が必要だ。烙印が無ければその身一つで操作できるのだが、今は杖が無ければ操作ができない。屑石と杖を繋ぐために杖の石も光るが、それはただ伝達するだけで、壊れるなら屑石だけだ。

 光の矢を屑石の許容量の限界まで作って杖を振る。同時に屑石が砕けるが、蠢く闇に矢は刺さる。

(すぐに呑み込まれる……切った方が早いかな)

 屑石を三粒手に載せ、光の糸を出力させる。

「!」

 攻撃されていると認識したのか、闇が黒い触手を繰り出してきた。獏は即座に反応し向かいの屋根へ跳び移る。先程まで立っていた屋根の瓦が抉られ、石畳を打った。

 杖を振り、その触手を光の糸で切り刻む。悪夢は刻まれるのを待たずに触手の数を増やして獏に襲い掛かった。屑石を追加し杖をくるりと回し、触手を繰り出す度に瞬時に切り刻んで潰す。

(間怠っこいな……)

 屋根を蹴り、端に沿うように走り、屑石を散撒いて闇へ打つ。蠢く闇は触手を伸ばすが、獏には触れられない。

「獏――……追った方がいいのか?」

 離れて行く獏の姿を見送るわけにもいかず、かと言って灰色海月を一人置いて行くこともできない。蜃は舌打ちをして灰色の腰を抱き寄せ屋根を蹴った。

「っ……!」

 杖に跳び乗り、屋根から屋根へ移る道の上だけふわりと飛ぶ。屋根の上は足で走る。

「二人で飛ぶのはきついな……」

 短距離の飛行なので何とか力を振り絞っているが、傷が少し痛む。

「すみません。ダイエットします」

「重さの問題じゃない。面積の問題だ」

「……ダイエットします」

「あ? ……いやそういうことじゃ……」

 二人分を浮かせることが難しいのだが、上手く伝わらなかった。頭を回している余裕は蜃にはない。蜃の飛行は無重力のクッションに体を乗せることだ。いつもは自分一人だが、今は二人分のクッションを敷かねばならず消耗が激しい。小さな子供ならまだしも、灰色海月は蜃よりも身長が高い。

 悪夢は獏に集中しているとばかり思っていたが、蜃と灰色海月の方にも不意に触手が伸びる。繰り出す方向を間違えただけなのか舐められているのか触手の本数は少ない。

 灰色海月は腕輪を生成し、海月の触手を悪夢に突き立てた。悪夢は僅かに怯み、闇へ戻って行く。

「海月の攻撃が効いてる……?」

「スミレさんに教えてもらいました。毒が悪夢を怯ませるそうです。ここの悪夢にしか効かないようですが」

「ここの悪夢は腐ってるって獏も言ってたからな。特殊なんだろうな。でも獏じゃなくても抵抗できるんなら特殊でもいい」

 屋根を走る間なら会話する余裕はある。飛ぶ間はいつも以上に集中しなければならず余裕はないが。

 黒葉菫から話を聞いた時は半信半疑だったが、少しでも力になれることがあるとわかり灰色海月は奮起した。運ばれてばかりでは只の荷物だ。抵抗できる荷物なら役に立てる。

 息を切らしながら屋根を飛び、漸く前方で獏が止まるのが見えた。慌てて屋根を移らず、蜃は道を挟んで距離を取って止まる。

 獏は蠢くばかりで襲って来ない悪夢を見下ろしていた。

「……?」

 悪夢は黒い靄を吐き出し、ぼこりと闇から黒い塊を吐き出す。動物面の奥で獏は眉を寄せた。今までと違う動きだ。塊はぼこぼこと震え、四肢のように四本の触手を作った。そして最後に頭部のような瘤が生える。それは毒芹の悪夢の動きに似ていた。毒芹も四肢のように触手を生やしていた。

 毒芹の悪夢は彼女の思念が残りそれが大きく作用していたが、これは違う物のはずだ。違うのに、大きさは異なるが人の輪郭を作ろうとしている。只の悪夢が人の姿を真似ようとするとは異様な光景だった。その異様な姿が跪くように、そして頭部のような瘤を――頭を垂れるように下げた。偶然の形とは思えなかった。

「……何……してるの……?」

 嫌悪感で顔を顰めるが、面で隠れて見えることはない。獏は昔、これと似た光景を見たことがあった。それを思い出し、声は忌々しげに、感情を抑え込もうと僅かに震える。問いなんて投げても悪夢は喋ることはない。毒芹ですら話せなかったのだから。


『獏様ノ仰セノママニ』


 だがそいつは、口も無いのに言葉を発した。

 獏の頭の中は混濁し、鼓動が速くなる。考えるよりも先に、忌まわしく憎い物を見るように屑石を鷲掴み散撒いた。

「消え失せろ!」

 光の槍がばらりと出力され、光の尾を引いて悪夢に突き立つ。悪夢は黒い靄となり霧散するが、闇からまた黒い塊が吐き出され人の輪郭を作り頭を垂れた。

「やめろ!」

 何度潰しても、幾らでも生産できると言わんばかりに悪夢は嘲るように人の輪郭を作り続ける。

『我々ハ獏様ノ為ニ』

「何なの……気持ち悪い……。僕を呼ぶな!」

 ――あの時と同じだった。あの時も悪夢は頭を垂れるような動作をした。だが言葉を発したのは初めてだ。先代の獏を呑み込んだことでこの街の悪夢は変異したのかもしれない。先代の獏を呑み込んだことで知能を持ってしまった。知能を持てばそれは生物と言わざるを得ない。食事の対象でしかない悪夢が恭しく頭を垂れ、言葉を話す。獏にとっては悪夢のような光景だった。

 あの時は言葉を話さず、言うことは聞くが知能は感じられなかった。だから利用した。だが今は明確な知能を向けられ、虫唾が走った。

 何やら様子がおかしいと感じた蜃は、灰色海月を置いて屋根を飛ぶ。見える距離なら置いて行っても大丈夫だろう。

 杖を強く握り締め、獏の手は白くなっていた。

「おい、どうした? あの悪夢は何だ?」

「見ないで……僕を見ないで……」

 かくんと蹲み込み、獏は頭を抱えた。

「あの悪夢が何かしてるのか? まさか精神攻撃……?」

「気持ち悪い……僕に近付かないで……気持ち悪い……」

 蜃の声は届いていないのか、反応を示さなかった。この悪夢から一旦離れた方が良さそうだと獏の肩を掴む。

「っ!」

 それを良しとしなかったのか、悪夢は触手を蜃に向かって繰り出した。獏に腕で押し退けられ、不安定な屋根の上で蜃は尻餅を突く。

「触れるな!」

 光る屑石を投げ、瞬時に悪夢を切り刻む。

『承知シマシタ』

 悪夢は黒い靄となり霧散しつつも、言葉は聞こえた。

「承知、って……あの悪夢、言うことを聞くのか!?」

「…………」

「獏? まさか……意識を乗っ取られた? しっかりしろ!」

 どうすれば良いのかわからず、狼狽しながら蜃は獏の頬を打った。固い動物面が手に当たり痛かったが、すぐに獏からも仕返しの平手が飛んできた。

「痛い……」

「夢じゃない……」

「俺で確認するな!」

 椒図に打たれた時よりも痛かったことで、椒図はあれでも加減をしていたことを今更知った。蜃はまた涙が出そうになった。決して殴られた頬が痛かった所為ではない。

「……悪夢は静かになったが、どういうことなんだ? 説明してくれないと、こっちは何もわからない」

「話したくない……あんな気持ち悪い物……」

「椒図だったら聞き出せるのか……?」

 椒図の方が頭が回る。それはわかっていた。人間の店へ買物に行く時もよく椒図が前に立っていた。椒図に頼り切りだったことを今更意識させないでほしい。もう礼も言えないのに。

「何も言わないなら君の方が馬鹿だからな! ばーかばーか!」

「……椒図には話した」

「話してるんなら……」

「君は光の場所にいるでしょ?」

「……は?」

 突然何の話をされたのか理解できなかったが、何か話そうとはしている。最後まで聞くことにした。

「君は罪人じゃない」

「……罪人じゃない……と言われても……地下牢に入ってないだけで、罪人だと思われてると思うが……。化生したのが駄目なのか? でも記憶はあるし……」

「話さない理由を捻り出してるんだから乗ってよ」

 真面目に返した自分が馬鹿みたいではないかと蜃は舌打ちした。

「散々こっちを調べておいて君は何も言わないのか?」

「調べた? 何を?」

「この街は何なのかとか、俺のこととか、色々だ!」

「それは君がこんな街を創ったからでしょ」

「そうだ、この街は俺が創った物だ。そこにいる悪夢と関係あるなら、俺には話してもらう権利がある。……海月とは今距離があるし、聞かれたくないなら丁度いいだろ」

「椒図に話したから、俄然聞きたくなったの? ……まあ、確かに君の言うことも一理あるけどね……」

 動きを見せない闇を見下ろし、獏は大きく溜息を吐いた。

「……どうやら本当に僕の言うことを聞くみたいだ」

「そうなのか?」

「君の御陰で少し冷静になったよ。反射的に殴り返しちゃったけど」

「……」

「最初は僕を敵と見做して攻撃してたけど、勝てないとわかって切り替えたのかもね。この悪夢には少し知能があるみたいだ」

「知能があると……厄介だな?」

「本当に理解して言ってる? まあいいけど。……昔も似たようなことがあって、悪夢が僕の言うことを聞いた。その悪夢を使役して、僕はたくさん人間を殺した。食事の対象を使役するなんて、滑稽で気持ち悪いでしょ?」

 話すのは二度目だからか、椒図に話した時よりも落ち着いて話すことができた。溜め込み過ぎて椒図の前で全て吐き散らしてしまったようだ。椒図には悪いことをしてしまったと、今更反省した。

「……俺にもわかるように例えると……?」

「……うん? ん…………羽を毟られて焼かれようとしてる鶏が突然起き上がって従順に付いて来る……みたいな?」

「気持ちわる……」

「わかってくれて良かったよ」

 気持ち悪いと言うより気味の悪い光景だが、蜃は素直に心底嫌そうな顔をした。こういう包み隠さない反応は良くも悪くも安心する。蜃のこういう所に椒図も安心して友達になったのだろう。

「……でも、あのおっかない悪夢が君の言うことを聞くなら、使えるんじゃないか?」

「使役できるから使えるけど」

「そうじゃなくて、利用できるんじゃないか? 宵街に乗り込む時とか。悪夢には君以外触れられないし、かなり強くないか? さっき君も、使える物は使えって言ってただろ?」

「遣れないことはないと思うけど……気が乗らないね。あの時とは悪夢の性質も違うし」

 会話の途中でまた闇がぼこりと黒い塊を吐き出し、悪夢が頭を垂れた。まるで命令を待っているようだった。不快な行動をする悪夢を睥睨し、獏は吐き捨てる。

「ここの悪夢は気分が悪くなる。言うことを聞くなら、この街を蝕むのをやめて黙っててよ」

『承知シマシタ』

 悪夢はずぶりと闇に戻り、注視するがそれ以後は出て来る気配はなかった。

 相変わらず腐った肉塊の聲は脳に響き気分は悪いが、距離を取っているからか悪夢の数を減らした御陰か以前感じた不快感よりは抑えられている。

「……これで少しは侵蝕が落ち着くといいんだけど……。クラゲさんも向こうで一人で困ってるし、吐かない内に店に戻る」

「大丈夫なのか?」

「それはこの街が? それとも僕?」

「両方だ」

「ふふ……僕を心配してくれるなんてね。根を張ってる悪夢は侵蝕がゆっくりだから、引くのも遅いかもね……。不審な所があればまた悪夢を潰していくよ。知能があるなら、一旦僕に取り入っておいて後で寝首を掻く計画でもあるのかもしれないね」

 わざと聞こえる声量で言い、悪夢を牽制しておく。

「僕の方は、意識があるなら大丈夫じゃないかな」

 今は街の悪夢と繋がっていないからだろう、獏は暫く待ってみたが先代の獏の声が聞こえることはなかった。悪夢の妙な行動を見るに、悪夢を抑えていたあの少女の残影はもう全て呑まれたのかもしれない。一人で昏い闇の中で悪夢を抑える孤独から彼女はもう解放されただろうか。

 獏は蜃を促して灰色海月のいる屋根へ跳んで彼女の手を取り、疲れた顔で古物店へ戻った。

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