65-流転
再び目を覚ました時、幾分痛みは落ち着いていた。
白いカーテンに囲まれた小さな空間から外を覗く。前に目を覚ました時は夜だったが、今は窓の外が明るい。病室の明かりは消えたままだが、窓に掛かったカーテンから外の光が漏れて部屋の中を照らしていた。
少しだけカーテンを抓んで外を見、明るさに目を細める。周囲に背の高い建物は無く、民家も疎らで畑が広がっている。人通りの少ない静かな病院のようだ。
明かりが点いていないのなら、まだ誰も目を覚ましていないのだろう。意味の無い点滴の針は今度は抜き、獏は蜃の方のカーテンを開けた。またベッドから抜けて何処かで倒れていると大変だからだ。
「…………」
だがその心配は杞憂で、蜃はベッドの上で横になって眠っていた。こちらも幾分怪我の具合が良くなったのか、穏やかに寝息を立てている。寝て体力の回復に努めているのだろう。
もう一つのカーテンを開けると椒図が少しも体勢を変えずに眠っていたが、今ならわかる。
誰が置いたのか彼の体の上に花冠が置かれていた。花は少し元気がないが、まだ色を保っている。
ひたひたと冷たい床を歩き、彼の頬に手を触れた。血の通わない冷たさに、唇を噛む。これが誰かの所為ならば、それは間違いなく獏の所為だろう。悪夢の処理ができない獏など無意味だ。
「もっと何か……上手く遣れたはずなのに……」
自責と後悔が渦巻き、指先が震える。彼の体がこの後どうなるのかわからないが、蜃はこのことを知っているのだろうか。知らないなら知らない方が良いのではないかと思ってしまう。
深く息を吐き、その場に座り込んで膝を抱えた。このまま病院でじっとしているわけにはいかない。正確な日数はわからないが、もう何日も経っているのだ。その間にまたあの街で悪夢が暴れているかもしれない。だがここに杖は無く、あの街に戻る術がない。首輪は嵌めていないが、杖が無ければ意味がない。
(……確か白い獣が、毎晩様子を見に来てるって言ってた……。夜になれば話を聞いて……街に戻って……)
病室の中には時計が無く、時間はわからなかった。
ゆっくりと立ち上がり、窓のカーテンを少し開ける。見上げても太陽は見えなかったが、地面を伸びる影は長い。先程外を見た時よりも僅かに影が伸びている。今は午後で、もうすぐ夕刻だろう。
しんと静かな部屋の中で仕方無くベッドに戻り、目を閉じた。見知らぬ白い獣が来るのを待つしかない。
――そう思いながらいつの間にか眠ってしまったらしい。薄らと目を開けるとぼんやりと白が見え、心臓が縮み上がった。
「!?」
ぱちりと目を開けると、銀髪銀眼が蹲んで無表情でこちらを見詰めていた。目が覚めたことを確認し、彼はゆっくりと立ち上がる。
「点滴が外れてたから起きてるのかと思ったけど、寝てたのか?」
「…………」
びくりとした拍子に体に忘れていた痛みが走り眉を寄せる。心臓に悪い現れ方をしないでほしいものだ。白くぼやけた視界は幽霊でもいるのかと思ってしまった。……いや幽霊が怖いとか信じているとか、そういう話ではない。
獏は痛みを意識の外へ、そして心臓を落ち着かせながらゆっくりと起き上がった。
「文句を言いたそうな顔をしてる」
獏は顔に手を遣り、いつもの動物面が無いことに気付いた。治療されたのだから、邪魔な物は外したのだろう。それとももっと前に外したのだったか、記憶が曖昧だ。だが今は面よりも。
「街に戻りたい」
文句を言われると思っていた白い獣は不思議そうに数秒ゆっくりと瞬きをし、やっと理解したのか口を開いた。
「開口一番それとは。殊勝だな」
「……何が」
「悪夢のことだろ? 君が入院してる間、一度襲って来たな」
「!」
「大丈夫。あれは俺の歌が効くみたいだ。倒せはしないけど、追い払うことはできる」
肝が冷えたが一番の懸念が払拭され、獏は深く安堵した。追い払えるなら充分だ。椒図も蜃もこの獣も、触れられないのに打開策を考えてくれる。獏は触れられるが故に視野が狭くなってしまい、そこまで頭が回らなかった。
「街の端の……崖? あそこが少し崩れたけど、蜃の状態が安定すると和らいだ。あれは蜃が創った物なんだろ? 製作者の状態と連動してるのか?」
「……皆は無事なの?」
「ここにいる三人以外なら、無事だ」
質問に対して質問を返されるが、白い獣は構わず獏の質問に答えた。怪我人の憂慮を取り除いてやるのが先だろう。蜃に訊く方が正確かもしれないとついでに考えを改める。
「良かった……」
獏は安堵し小さく微笑んだ。無表情な白い獣とは違い、獏は本当にくるくると表情が変わる。
「大丈夫だし無事だから、少し話ができるか? 俺の悪夢を食べてほしいって話は覚えてるか?」
ぼんやりとしていたので薄らとだが、確かにそんなことを言っていたと獏は思い出した。空腹と枯渇で思わず身を乗り出してしまう。
「今から話すことは誰にも言わないでほしい」
「……わかった、けど……君は誰?」
「……そう言えば、名乗ってないな。俺は
「蒲……牢……」
木霊が言っていた、龍生九子の一人であり過去に宵街を統治していた『上の子』の一人の名だとすぐに思い出した。つまり椒図の兄でもある。彼は誰の味方をするのか、ここにいるのなら椒図の味方なのだろうか。
いや今は彼ら兄弟のことを考えている場合ではない。悪夢の話が先だと、釣られた餌を前に獏は生唾を呑んだ。体の回復には悪夢が必要だ。
「俺は毎晩、同じ悪夢を見る。昔の記憶が鮮明に再生されるように」
「毎晩……それは余程辛い体験だったんだね……。でも眠れてはいるんだね」
「眠いから寝る。途中で起きられたらいいけど、ぐっすりで困る」
「……それは悪夢が君を掴んで離さないみたいだね。毎晩となれば酷い靄になりそうだけど、獣だからかな、無事でいられるのは」
「靄?」
「酷い悪夢は黒い靄となって獏の目に映る。そして外に溢れて、あの街の悪夢みたいに成長して、獏以外の目にも視認できるようになる。あの街の悪夢はちょっと変わってて腐ってるけどね」
「……そうなのか」
「獣の悪夢を食べたことはないけど、毎晩となるとかなり膨大な量になるのかな。いつ頃から見てるの?」
「……………」
蒲牢は黙り込み、床を見詰めた。目線を落ち着き無く動かしている。
「……何百年か……」
獏はぴしりと固まった。人間の悪夢は精々が数日だ。それ以上は悪夢が外に漏れ出す。毎日同じ夢を見る例も少ないだろう。人間の一生よりも遙かに多い量の悪夢を食べたことなどない。悪夢は別腹だと思っているが、これはさすがに腹がはち切れてしまう。
「わかったよ……一度じゃ食べきれないから、何回かに分けよう。でも毎晩となると、元になってる記憶も食べないと、また同じ悪夢を見る羽目になるかもしれないね」
「!」
何気無く言ったことだったが、蒲牢ははっと目を見張り食い付いた。これまで無表情だった彼に明確に感情が見えた。
「記憶が食べられるのか……?」
「う、うん……そうだけど……」
「記憶を食べると、君はその内容がわかるのか?」
「それはわからない。悲しいとか怖いとか感情は味に出るからわかるけど、内容までは」
「だったら食べてほしい。過去の記憶を全て……」
「全て? ちょっと待って……君、何年生きてるの?」
悪夢が何百年と続いているなら、少なくとも同じ日数の記憶があるはずだ。悪夢だけでも膨大で腹の心配をしているのに、同程度の記憶もとなると目を回してしまう。
「……いや、今のじゃなくて、化生前の……」
「化生してるの……?」
それ自体は別に珍しいことではない。それより化生したことを自覚しているなら、彼は記憶を継いでいることになる。毎晩見るほどの悪夢――おそらく、自身の死んだ時の記憶だ。
「化生前の記憶を全てって……物凄い量だよね……? 何百年……?」
「……五年だ」
あまりに小さな数字に、獏は聞き間違いだと思った。獣の一生にしてはあまりにも短過ぎる。
「五年ならすぐに食べられるか?」
「……思ったよりかなり……短いね。詮索はしないけど……」
「俺はこの記憶を捨てられるなら捨てたいとずっと思ってた。獏ならこの呪いの悪夢を食べてもらえると思ってたけど、まさか記憶まで食べてもらえるとは思わなかった。剥離の印は自分には使えないし……」
「それは全ての獏の特技ではないけどね……」
「そうなのか? でも君が可能なら、良かった。生きててくれて」
その悪夢を見ていた何百年は蒲牢にとってとても辛いものだった。起きていても眠っていても頭から離れない記憶から漸く解放されるのだと、蒲牢は俯いた。獏は宵街には棲んでいなかったため、今まで出会うことはなかった。
空腹の獏はすぐにでも抓み喰いしたい気持ちだったが、ふと問題があることに気付く。
「願ってもない御馳走だから嬉しいけど、杖が無いんだよね……」
悪夢を食べると烙印が痛むためすぐに手を出せないが、首輪が装着されていないなら杖で抜き取ることは可能なはずだ。
記憶なら善行の代価として食べているので、痛みも無く食べることができる。
だが今は薄水色の寝間着に着替えさせられていて、杖が見当たらない。元々杖を持っている獣ならすぐに召喚できるが、獏はそうではない。
「杖……? ハートのあれか……?」
「ハートなら間違いないと思う……」
「目立つ物が落ちてたから拾っておいた。獣の杖なら落とせば消えるはずだけど、変換石が付いてるし玩具なのかわからなかった」
目立つハートの代替品を寄越してきた
蒲牢はハートの形の杖を取り出し、獏に確認する。そのファンシーな杖で間違いない。
何だかんだ愛着の湧いてきた杖を受け取ろうとし、ふわりとカーテンが揺れたことに気付いた。顔を上げると、ぼんやりと目を擦りながら蜃が立っていた。
「……声がしたから」
「ごめん。起こした?」
「いや……目が覚めただけだ」
それは起こしたと言うのではないかと獏は思ったが、まだ完全に頭が覚醒していないのか蜃は眠そうにカーテンを離した。その手で背後のカーテンを開ける。
「椒図……まだ起きないのか? 昔から寝坊はよくあったが……」
蜃はまだ椒図の死を認識していない。そのことに気付き、獏は受け取った杖を下ろし目を伏せた。死んだと伝えるべきなのか、気付くまで待つべきなのか。
「……椒図?」
ふと声色が変わったことに顔を上げる。困惑と不安の混じった声だった。
「何だ……これ……」
獏も床を確かめながらベッドを降り、蜃の背中越しにカーテンを覗いた。
「!」
椒図の体が霧のような物を纏い、空気に溶けるように消えていく。
「なん……、椒図!」
蜃は慌てて駆け寄るが、伸ばした手は空を掻き、倒れ込むように何も無いベッドに手を突いた。体に載せられていた花冠だけ、ぱさりと落ちる。
「消えた……? 何処に? 誰かの転送……?」
焦燥と狼狽できょろきょろとカーテンの中を見回し、助けを求めるように振り返った。
「まさか獏……? いや、そっちの誰か……」
「落ち着け、蜃」
獏は何もしていない。この現象の答えを知らない。蒲牢だけは動揺せず、静かに蜃を宥めた。
「何で俺の名前……。誰なんだ、君は……」
「俺は蒲牢」
「! 椒図の……兄……」
木霊から聞いた名前を思い出し、蜃は一歩下がった。椒図の兄弟は、狻猊は味方すると言ったがその他は確認できていない。警戒が先に出る。
「蜃、大丈夫だよ。蒲牢は僕達を助けてくれたんだよ」
「…………」
蜃は蒲牢と獏を交互に見て困惑するが、追い討ちを掛けるように蒲牢は口を開いてしまった。
「椒図が化生した」
「え……」
何を言われたのか蜃は理解できず、いや――本当はわかっていた。認められなかっただけだ。触れれば生死なんてすぐにわかったのに、認めるのが怖くて触れなかった。きっと蜃が最初に目が覚めた時にはもう死んでいた。頭の隅ではそう認めてしまっていた。だから涙が出た。その時の椒図には点滴は施されていなかったのだ。それを無意識に視界から排除した。認める前に化生したと言われ、何故別れの言葉を言えなかったのだろうかと後悔した。
「俺には死ぬなって言った癖に……君が死ぬなよ……」
蜃は糸が切れたように床に膝を突く。知っている椒図はもういない。二度目の別れが来るなんて考えもしなかった。
「うぅ……」
床に座り込み嗚咽を漏らす蜃に掛ける言葉が浮かばず、獏はただ黙って見ているしかできなかった。
(……今は何も考えたくない……でも、駄目だ……考えないと)
椒図が化生したことで一つの問題が浮上することに気付く。獏は感傷を払い除けるように頭を振った。
「椒図を探さないと……」
ぽつりと漏らした獏に、蒲牢は首を傾げた。蜃も不思議そうに顔を上げる。
「このまま何も知らない椒図を放っておくと、狴犴に利用される」
「利用……?」
蒲牢はそもそもの成り行きを知らない。獏が何を言っているのか理解できなかった。
「狴犴が椒図を利用して宵街を閉じたら、僕達にはどうすることもできない……」
「宵街を閉じる……? よくわからないけど、それは困る」
折角宵街に良いカフェを見つけたのに、閉じられれば行けなくなってしまう。獏の話は理解できないが、これは由々しき事態だろうと蒲牢も深刻に受け止めた。
「兄弟の死と化生は兄弟全てが感知できるんだよね? 椒図が言ってた」
「ああ、それはそう。感知できる」
「だったら狴犴も感知してるはず。何処に化生したかもわかるの?」
「それはわからない。わかるとすれば、
鴟吻は狴犴より前に宵街を統治していたと言う次子だ。獏は木霊の言葉を思い出す。
「鴟吻には千里眼がある。見ようとしないと見えないけど、見ようと思えばここで手を振れば鴟吻にも見える」
「じゃあ鴟吻の居場所はわかる?」
「それはわからない」
「紙に書いて置けば、読んでもらえる?」
「その花冠は鴟吻からだと思うけど、椒図の死を感知したから贈ったんだと思う。今はもうここを見てないよ」
「そうなんだ……。狴犴は鴟吻の居場所を知ってる?」
「知らないと思う」
知らないならすぐに椒図の居場所を突き止められることはないだろう。狴犴も今、策を練っている最中かもしれない。
「これは訊いてもいいのかな……」
「よくわからないけど切迫してるならどうぞ」
蒲牢は無表情で促すが、先程彼から悪夢の話を聞いた獏にはあまり気が乗らない質問だった。だが獣の化生を初めて見た獏には情報が無く、尋ねるしかなかった。
「化生する場所って当たりは付けられるものなの?」
「…………」
化生前の記憶を持つ蒲牢には残酷な質問だった。獏が聞きたいのは前回の椒図の化生場所だ。
「……俺は椒図には会ったことがなかった。今世の椒図がどんな獣だったのか知らない。でも……化生した後に行きそうな所なら、もしかしたら狻猊なら心当たりがあるかもしれない……」
「狻猊なら椒図の味方だから、話を聞いてくれる」
「飽くまで憶測だからな。……それに化生後は容姿が変わってしまう。見つけるのは大変だ」
「でも君は兄弟に会えたよね?」
「…………」
蒲牢は口を閉じ、昔を思い出した。記憶を継いだ蒲牢は確かに兄弟達を探した。見つけられたのは、兄弟の力を借りたからだ。
何の話をしているのか見当がついていなかった蜃も徐々に状況が呑み込めてきた。泣いている場合ではないと滲んだ涙を拭う。
「化生しても髪の色は大差ないと思う。俺がそうだった」
「君も記憶が……?」
「椒図とは化生前からの友達だ。全部忘れても……椒図を見つけたい」
蒲牢は目を伏せて小さく頷いた。今世の椒図には身を庇うほどの親しい友人がいて、新しい生でも出会おうとしてくれている。あんな最期になってしまったが、次また友人になれるのなら悪くない。死を考えると辛くなるが、手伝いはしたいと思った。
「……あまり言いたくなかったけど、仕方無い」
話すつもりはなかったが、話を聞く内に同情してしまった。死については考えないようにしているが、それは悪夢を思い出すからであって、何も感じないということではない。
蒲牢は今まで口を噤んでいた過去の話に触れる。
「――俺達は、君達とは少し違う」
ぽつりと口を開いた蒲牢に、獏と蜃は黙って耳を傾けた。悪夢に見るほど嫌なことを話そうとしている彼の言葉を一言も聞き漏らすまいと。
「君達には親がいないだろ? でも俺達には親がいる」
「…………」
同じ獣は通常、二人存在しない。故に獣は化生で命を繋いでいる。それは全てではないが、親のいる獣は少数だ。兄弟がいると知った時点で龍生九子は特殊な存在なのだろうと想像はできた。
「獣の中には稀に生殖を行える者がいる。俺達の親もそう……父親は聞いたことがないから
単為生殖とは、雄がいなくても雌個体のみで子を生す生殖法のことだ。脊椎動物では一部の爬虫類や魚類に見られる。
「俺から見た化生後の印象は、皆の成長した姿って感じがした。何処となく面影があるって言うのか……完全な別人ではないみたいな……」
「面影があるなら、見つけやすいってことだよね?」
「次もそうとは限らないけど……。性別が変わってる兄弟もいたし」
「性別が変わる可能性はそっちもあるのか……」
「変わると面影はなくなるの?」
「……ぱっと見はわからなかった。でも話してみると、懐かしかった」
首を捻りながら横に振る蒲牢の様子を見るに、性別が変わってしまった場合が一番厄介そうだ。
「椒図の性別は変わってたのか?」
「今世の椒図とは会話も交わしてないけど……男だよな?」
蜃は頷く。共に湯屋に行った仲だ。性別は断言できる。
「なら変わってない。化生前も男だ。次も男とは限らないけど」
「……いい。椒図がもし記憶も無く女になってたら、俺も……」
最後までは言えず、蜃は俯いた。記憶を引き継がず性別が変わってしまった場合、身も心も女性のはずだ。今までのように話せるのか不安が襲い掛かる。
「蜃、あんまり思い詰めないで……」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「まだ決まったわけじゃないんだから。君みたいに記憶を継いでる可能性だってあるよ」
蒲牢は記憶を継いでいるのだから、親のいる特殊な獣でも記憶を継ぐ可能性はある。記憶を継ぐのは稀に発生する不具合のようなものだが、可能性が全く無いわけではない。
蜃はまだ混乱が先に立ち冷静になりきれないが、獏の言うことも一理あると認めることはできた。
「そうだな……
「! それ誰から……」
今度は蒲牢が困惑した。蜃は怪訝に首を傾ぐ。
「椒図からだが……。記憶を継ぐと化生しないんだよな……?」
「椒図と𧈢𧏡は面識があったのか……? ……そんな風に解釈されてるのか……」
「?」
ぶつぶつと呟く蒲牢を怪訝に見詰め、蜃と獏は顔を見合わせる。
「……えっと、とにかく宵街に行って狻猊に会わないと」
少しでも早く手掛りを見つけたい。もしかしたら狴犴も同じことを考えて狻猊を押さえるかもしれない。狴犴が動く前に先手を打ちたい。
「蜃はまだ調子が悪そうだし残ってよ。僕が宵街に行く」
「俺も行く! 椒図のことは俺の方がわかる。どんな姿になってても、見つける」
譬え椒図が蜃のことを覚えていなくても、怯んだりしない。瞳に籠もった決意にはまだ揺らぎがあるが、目は逸らさない。
気が急いて話を進める二人が早々に宵街に行ってしまいそうで、蒲牢は慌てて制した。
「二人で決めないで。動けるなら獏はあの街に行って。宵街には俺が行くから。蜃はここに残るでも獏に付いて行くでもいいけど、宵街には俺一人でいい」
言い返されない内に素速く杖を召喚する蒲牢に焦り蜃も杖を召喚しようとするが、何度も着火に失敗するマッチのようになかなか杖を召喚できなかった。
「君はまだ力が回復してない。せめて杖がちゃんと握れるようになるまで回復に努めて。獏に言われてあの――街? 悪夢? とは繋がりを断ったから、ゆっくり休めると思う」
「それって、剥離の……」
それ以上は話すのを嫌がるように、蒲牢はくるりと杖を回し姿を消した。
「……何で僕はあの街なんだろう……。最初に街に戻りたいって言ったからなのかな……確かに悪夢の処理はしたいけど」
「街に戻るなら俺も行く」
「病院で休んでた方がいいんじゃないの?」
獏は自分のことは棚に上げておいた。
「繋がりの切れた街を確認しておきたい」
今までずっと繋がっていたあの街との繋がりが遂に断たれたのだ。離れている所為で実感はないため、それを確かめる必要がある。
「それに……俺一人ここに残されても、杖が使えないと何処にも行けない」
「……それもそうだね。入院する大怪我でも、皆何だかんだあの街で療養してるしね」
首輪が嵌められていない今なら獏も杖を使えば転送が行える。蒲牢に拾ってもらった目立つハートの杖をくるりと回す。
あの透明な街に戻るのは随分と久しい気がした。
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