64-友達


 さらさらと水の流れる音がする。

 空は明るく、青い。鳥の囀る声もする。

 さらさらと木の葉の擦れる音と共に柔らかい風が頬を撫でる。

 岩の上から穏やかな流れに垂らした糸がひくひくと揺れ、ハッとして竿を引いた。

 風を裂いて引き上げた魚がキラキラと白い玉を散らして宙を舞い、同時に背後から聞こえた物音に驚いて竿を強く引き寄せてしまった。

「――あ」

 いつの間に背後にいたのか立っていた人影の顔面にべちゃりと魚が跳ねた。

 慌てて糸を引き寄せ、魚を舞い戻す。

「悪い! 誰かいると思わなく……て……」

 よく見るとその青年の髪は緑色をしていた。普通の人間の髪にそんな色はない。ぴちぴちと跳ねる魚をぶら下げたまま、食い入るように赤髪の少年は彼を見た。

「……獣か?」

 岩から飛び降りると、青年は逃げるように数歩下がった。

「こんな所に人間は来ないから……釣りをしてて……。獣は……あんまり見たことがなくて……」

「…………」

「……そ、そうだ! お詫びにこれ、この魚をやる。まあまあ美味いぞ」

「…………そんな動く物、食べられるのか……?」

 初めて口を開いた青年に、少年は無意識に嬉しくなった。どう笑顔を作れば良いのかはわからずぎこちなく引き攣ってしまうが、目立つ髪色ゆえに人間から距離を取っていた少年は久し振りに誰かと会話ができたことを嬉しく思った。

「このまま食べるわけじゃないからな。焼いて食べるんだ。少し待っててくれ」

 一歩また一歩と後退っていく青年を呼び止め、少年は杖を召喚し焚火を作った。跳ねる魚を落ちていた枝に刺し、河原の石の隙間に突き立てる。

「そんな物を食べるのか?」

「魚を食べたことがないのか? 普段は何を食べる獣なんだ?」

「……考えたことがない」

「はぁ……?」

 不思議なことを言う獣だった。獣によって好む物は異なるが、誰しも食事をしないと生きられないはずだ。なのに考えたことがないとは、食事をせずとも生きられる獣も存在するのかと少年は首を捻った。

 魚が焼き上がるまで無言では間が持たないので、雑談でもしてみることにする。

「俺は困ってる人間を見てると楽しくなる。こんな見た目だから姿は見せないけど、偶に脅かして遊んでるんだ。君は?」

「……暗い……場所にいると、落ち着く」

「そ、そうか……」

 暗い奴だな。青年の第一印象はそんな感じだった。会話があまり続かない。

 次に何を話すべきか考えている内に魚は焼き上がり、こんがりと焼けたそれを青年に渡すと、じっくりと観察した後に恐る恐る口に運んだ。食べてもらえたのは嬉しかったが、その後はあまり良くなかった。

「……美味しくない。味がしない」

「む……」

 正直に言うと、第一印象はあまり良くなかった。

 だが会話を重ねる内に仕方のないことだったのだと理解できた。青年にはその時、味覚がなかったのだ。

 少年が話をすると、青年も少しずつ話をしてくれるようになった。青年は人間を殺してしまったことがトラウマとなり感覚を閉じてしまったらしい。高が人間一人殺した程度で、と少年は思ったが『親切にしてくれた人』の怪我を閉じようとして命まで閉じてしまったことが原因のようだ。それ以来自分の心も閉ざし、人を避けるようになった。

 青年が少年に近付いたのは単純な理由だった。髪色からすぐに獣だとわかり、糸を括り付けた木の棒を川に投げる奇怪な行動をしているのが気になったらしい。少年は彼が釣りを知らないことに驚いたが、閉じ籠っていれば知らないことも多いだろうと青年にも釣竿を作って渡した。

「この辺りは人間が来ないから、何も気にせず釣りができるんだ。人間が……特に上流に近寄る奴がいる所は駄目だ。偶に死体を釣るからな」

「死体? 人間のか?」

「戦があると、たくさん人間が死ぬ。虫を潰すみたいに呆気無い。そんな所で釣った魚は美味しくない。まあ最近は戦も少し落ち着いてる気はするな」

「……人間は呆気無く死ぬんだな」

「俺にはどうでもいいけどな。でも人間にも評価できることがある」

「評価?」

 少年はぱっと顔を明るくし、身を乗り出した。

「そう! 湯屋って奴があるらしいんだ。熱い湯に入れるらしい。冬の水浴びは地獄だからな。熱いっていいよな」

「湯か……。鍋のような物か?」

「一度見て構造を知れば俺も作れる。……って、鍋? 煮込まれるのか?」

「ふ……ふふ」

 困惑する少年が可笑しかったのか、青年は我慢できず珍しく笑った。笑った所を初めて見たかもしれない。

「……あ、掛かってる。椒図、魚!」

「あっ、急に引っ張るな蜃……」

 岩の上で竿を取り合っていると足を滑らせた。二人揃って川に落ち、慌てて河原に上がる。

「どうしよう、折角手に入れた塩が水浸しだ!」

「塩水に浸せば味が付くんじゃないか?」

「それだ!」

 その日初めて、冷えた体を温めるために湯屋に行った。目立つ髪色の所為で一人だと行くのは躊躇われた場所に二人で行った。無防備に服を脱ぐことは躊躇われたが、脱ぐのは皆同じだ。拾った金を番台へ渡す時に髪を凝視されたが、そそくさと中へ入った。

 この時代――江戸時代の湯屋は混浴で、横目でちらりと女の方を見て潤けた顔や緊張した顔をしている男達が奇妙だったが、体が温まることには感動した。目立つ色の髪に視線は感じたが、話し掛けてくる人間はいなかった。


 いつの間にか二人は友人と言える存在になっていた。具体的にいつからかはわからないが、毎日が真新しくて楽しかった。偶に二人で人間を脅かしたりもした。

 まだ過去は忘れられないが椒図の味覚が戻ると、人間の住む街で食べ物を買うこともあった。勿論、拾って集めた金だ。

 そういう他愛もない毎日だった。


     * * *


 ぼんやりと目を開くと、真っ暗な空があった。

 少しずつ目が慣れてくると、空ではなく天井だとわかった。知らない天井だった。

 体が重く、無理に起こそうとすると痛みが走る。

 それでも身を起こし、腕に刺さっている鬱陶しい針を抜いた。

 周囲を見渡すと、白いカーテンに囲まれていた。見下ろすと自分もいつもの服ではなく白っぽい寝間着を着ていることに気付いた。

 体は痛むが冷たい床に足を降ろし、ふらつきながらそっとカーテンを捲る。きょろきょろと見回すと、同じようにカーテンで囲まれた空間が二つあった。

「…………」

 ひたひたとカーテンから出て、近くにあったドアを引く。廊下は明かりが疎らで暗かった。部屋の中も暗く、ここは夜なのだと思った。廊下はしんとして誰もいない。

 ドアを閉め、カーテンを振り返る。自分のいたカーテンの隣をそっと開け、ぼんやりと中を見詰めた。

「し……」

 蹌踉めきながらひたひたと歩み寄る。駆け寄ったつもりだったが、走れていなかった。

 ベッドの上に同じ白っぽい寝間着を着た姿に、呆然と立ち尽くした。

「何で……こんなこと……」

 杖を召喚しベッドの上に向けたが、力が入らなかった。力が抜け杖は床を跳ねて消える。その場に力無く座り込み、動かないベッドの上を見上げた。

「俺が……地下牢から出さなければ、こんなことには……」

 傷付いた体を見上げ、蜃は大粒の滴を零した。

 椒図は蜃を庇った。椒図の金平糖はまだ一粒残っていた。庇うなんて焦って行動をしなければ、金平糖を使って躱せた攻撃だっただろう。狙われた蜃の責任だ。考える時間を与えられなかった。悪夢はきっと意図的に蜃を狙ったのだろう。街と悪夢が繋がっているなら、悪夢同士も繋がっているはずだ。二度も悪夢を翻弄した蜃の力を疎ましく思ったのだろう。椒図は関係なかったのに。

「早く……目を覚ませ……」

 返事はない。閉じた睫毛は上がらない。

「夢を見たんだ……昔の……。椒図が自由になったら、また……釣りができるかな……」

 大粒の滴が膝に落ち、蜃の体は力無く傾いた。白い床に炎色の髪が燃えるように広がった。



『向う横町よこちょのお稲荷さんへ 一銭あげて ざっとおがんで――』


 微かに聴こえる幼い少女の歌う声に誘われるように、重い瞼が開く。

 全身が痛む。そして腕に違和感があった。何とか起き上がり、腕を見下ろす。針が刺さっていた。それに繋がる管を辿り、点滴だと理解した。

 辺りを見回すと、カーテンに囲われている。病院かもしれない。

 管を引っ掛けないように立ち上がり、何も履いていない足がひたりと冷たい。点滴の台に指を掛けて共にドアへ歩く。自分のいたカーテンの他に、同じようなカーテンの囲いが二つ。すぐに理解した。

 ドアを引くと、暗い廊下がしんと伸びていた。このような廊下を前にも見たことがある。以前依頼された願い事で夜の病院を歩いたことがあった。それに似ている。

 ドアを閉めて仄かな月明かりが透ける部屋を振り返り、手前のカーテンをそっと覗いてみる。中にはぽつんとベッドが一脚あったが、誰もいなかった。ベッドの上は乱れていて、点滴が放置されていた。

 もう一つのカーテンを開けると、答えがわかった。床に赤い髪を広げて倒れている人影がある。

「蜃……!」

 肩を軽く揺するが、起きる気配はなかった。ただ触れた体は温かかったので少し安心した。

 ベッドの上には目を閉じた椒図が静かに眠っていた。こちらも起きる気配はない。

 このまま床に寝かせておくわけにもいかず獏は蜃を抱き上げようとするが、上手く力が入らなかった。いつもなら軽くできるのに、それができなかった。どころか鉄の塊のようにとてつもなく重く感じた。体重がとてつもなく重いわけではないはずだ。それだけ体力が消耗している。

 途方に暮れていると、静かにカーテンが揺れた。


「星が一周廻り、やっと変化があった」


 振り向くと、銀髪銀眼の青年が立っていた。

「星……?」

「毎晩様子を見に来てた。やっと目が覚めた」

 蒲牢は蹲み込み、獏と目線を合わせる。獏はぼんやりとする頭で、どうやら少なくとも数日は眠っていたらしいと知った。

「獏に会ってみたかった」

「…………」

「もう少し回復したらでいい。俺の悪夢を食べてほしい」

 静かな要求に、獏はぼんやりと無意識に頷いていた。上手く力が入らない今、とても腹が減っていたのだろう。空腹の眼前に餌を吊られれば誰だって手を伸ばすだろう。

 蒲牢は倒れている蜃を抱き上げ、ベッドに戻した。点滴は医者が後でまた刺してくれるはずだ。

 元のようにカーテンを閉め、獏の許へ戻る。こちらも立てなくなっている体を抱え、ベッドに戻した。

「もう少しおやすみ」

 何かを言おうとした獏を遮るようにカーテンを閉めた。

 最後に椒図の許へ行き中に入ってカーテンを閉める。窓際のカーテンを開け、ベッドの端に座り暗い空を見上げた。

「……君とも少し、話してみたかったな」

 耳飾りの石が柔らかく光り、蒲牢は小さく口を開いた。優しく哀しい星の歌を歌う。

 この一週間の中程に、椒図はいなくなった。蜃と獏はまだ理解していないかもしれない。

 椒図に埋め込んだ種は発芽しなかった。こんな状態で数日持ったのだから、椒図は頑張ったのだ。

 椒図に鎮魂歌を歌うのは二度目だった。龍生九子は皆、一度死んでいる。その度に震えながら鎮魂歌を歌った。その頃の歌には何の力も無かった。歌に力が宿ったのは化生してからだ。

 化生前の記憶を継いだのは蒲牢と𧈢𧏡はかだけだった。今では蒲牢だけがあの悪夢を抱えている。それを兄弟の誰にも言うつもりはなかった。化生後の蒲牢は極端に感情が薄く、笑うことが無くなった。

 もう一度皆で一緒に暮らしたかったが、その望みは疾うに潰えた。皆もうバラバラだ。

 椒図は一番最後に化生し、その頃には蒲牢は宵街を去っていた。顔を合わせることはなかった。

 この椒図の死は兄弟全てに届いただろう。それに何を思うかはそれぞれだが、少なくとも悲しむ兄弟はいる。

 獣の死骸は他の生き物のように暫くは残る。化生すると入れ替わるように分解されて消えてしまう。蜃と獏が、こんな状態とは言え消える前にもう一度椒図の姿を見られて良かった。

 目を閉じると、毎晩見る悪夢が脳裏を駆ける。

 小さく歌いながら、微かな音を背後に捉えた。振り向くと椒図の体の上に花冠が落ちていた。

(……鴟吻しふんかな)

 姿は見えない。近くにはいないだろう。

 夜が明けるまで、蒲牢は静かに歌い続けた。

 無感動な銀の瞳から零れる物は無かった。

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