63-治療


 再び宵街に戻った蒲牢ほろうは酸漿提灯の並ぶ石段を上下に見渡し、飛び慣れない身の丈以上の間棒に慎重に腰を下ろして浮かび上がる。宵街の道幅は決して広いとは言えない。そろそろと石段を下り、目的の工房のドアに棒先を大きくぶつけた。

「誰だ……?」

 ドアを殴るような音に、中から狻猊さんげいが警戒しつつ顔を出す。体勢を立て直そうとした蒲牢は突然開いたドアに反応できず彼の鳩尾に棒先をぶつけてしまった。

「――くぅ」

「……ぁ」

 間棒から飛び降り、くるりと仕舞う。蒲牢に殺意があれば徒事では済まなかったが、殺意があれば狻猊ももっと警戒しただろう。

「悪気は無かった」

「お、おう…………って、蒲牢!? 本物か!?」

「偽物がいるのか?」

 ぷかぷかと煙草を吸う狻猊は腹を押さえながらもバシバシと蒲牢の肩を叩き、地面に打ち込もうとしているのかと蒲牢は数歩下がった。

「久し振りだな。元気してたか? オレは今突かれた腹以外は元気だ」

 突いた腹を根に持っているのかいないのか、狻猊はけらけらと笑う。

 それに蒲牢は笑い返すことができず、早く用を済ませようと問題の壊れた杖を召喚した。呑気に会話をするために来たわけではない。久し振りに会う兄弟だろうと、蒲牢は淡白だった。

「杖を直してほしい」

「杖?」

 差し出された杖を受け取り、狻猊は煙を吐いて顔を顰めた。

「こりゃまた派手に砕いたなぁ。石の交換と、あと台座も修理だな」

「急ぎで頼む。……けほ」

「あ、煙駄目だっけか? お前」

「喉を痛めるから好きじゃない」

「お前歌うもんな……」

「外にいる。後で取りに来る」

「おう。安心しろ、すぐ修理してやるからな」

 蒲牢は頷き、煙を遮るように早々にドアを閉めた。

 杖の修復は耳飾り以外なら自力でも可能だが、それだと何日も掛かってしまう。力を使うのに必要不可欠な杖が譬え数日でも使用できないとなると不安がある。狻猊なら一日と掛からず修理してくれるので大いに助かる。

 蒲牢は再び慣れない間棒を召喚し、そろりと乗りふらふらと下層へ飛んだ。狻猊は煙を力に変えて使用するため彼にとっては必要不可欠なものだが、どうもあの煙草という物は噎せてしまい蒲牢は苦手だ。歌わなくても苦手だ。

 石段を下り、小さな広場にあったカフェを目指す。折角また宵街を訪れたのだから、修理を待つ間に違う味の飲み物を買うのだ。顔には相変わらず感情が無いが、これでも機嫌は良い方だ。

 広場を離れて然程時間は経っていないが、広場の景色は少し変わっていた。地面に広がっていた血溜まりが綺麗に洗い流されている。

「……さっきの獣様?」

 空のバケツを手に持ったナズナがひょこりと店から顔を出す。その後ろから紅花も不安そうに覗いていた。紅花は地面ではなく椅子に座れるようになったようだ。手に先程は持っていなかった箱を大事そうに抱えている。

「もう一杯欲しい」

「は、はい! すぐに用意します」

 薺はバケツを足元に置き、急いでタピオカの瓶を取り出す。

 蓋を開けてカウンターに差し出しカップを置くので、また好きなだけ入れても良いようだ。気前の良い店だと蒲牢は機嫌良くカップを手に取った。

「お好きなだけどうぞ。またミルクティーにしますか?」

「今度はココナッツミルクにする」

「はい。畏まりました」

 黒と白のタピオカを交互にまた大量にカップに落とし、蒲牢は無表情ながら上機嫌だ。鵺に連れられて行った街での凄惨な一件を忘れたわけではないが、それとこれとは話が別だ。ああいうことに一々気分を滅入らせていては、すぐに壊れてしまう。

「さっきの獣はまだ見つからないけど、代わりに狴犴を殴っておいた」

「え……? 狴犴様……ですか? 殴ったって……」

 宵街を治める言わば宵街で一番偉い獣を殴ったとは? と薺は耳を疑い動揺で目を彷徨わせる。聞くだけで冷汗が流れそうだ。

 何をそんなに驚くのかと当の蒲牢は不思議そうに小首を傾ぐ。

「少しは頭が冷えると思う」

「えっと……」

「大丈夫。逆恨みはしないと思うけど、君達のことは話してないよ」

「貴方様は……その、大丈夫なんですか……? 地下牢に入れられたりしませんか? 獣様に心配なんて烏滸がましいんですが……」

「それも大丈夫。心配してくれてありがとう」

 カップにまたタピオカを半分ほど入れ満足して手渡す。薺は動揺しながらも準備していたココナッツミルクを注いだ。

 その短い間に蒲牢は彼女の背後に座っている紅花を見、手元に大事そうに抱える箱に視線を落とした。紅花もすぐに視線に気付き、手元に目を落とす。

「これは……残ってたワラビーの物で……」

「…………」

 おそらく饕餮とうてつが喰い散らかした後に残っていた衣服や骨だろう。血と共に洗い流したと思っていたが、遺品として回収したようだ。あの精神状態で拾えたのかと疑問だが、薺が拾い集めたのかもしれない。変わり果てた友人を小さな箱に仕舞い、まだ呆然としている。

「獣様が言ってた、私にできること……。考えてみたけど、埋葬してあげることなのかなぁ……って、思ったので……。全然実感は無いんですけど……悪い夢みたいで……」

「君は強いな。もう考えることができる」

「強くは……」

「俺にはできないことだ」

「……?」

 ぽつりと漏らした一言の意味がわからず、紅花は顔を上げた。蒲牢は変わらず無表情だが、憂いを帯びていた。獣は変転人よりずっと長命だ。その分色々な経験をしているだろう。きっと変転人にはわからないことなのだ。紅花はそう思うことにした。

「え、えっと……お待たせしました……」

 ココナッツミルクを注いだカップを様子を窺うようにそっと差し出され、蒲牢は金を置いて受け取った。人間の街の金は持っていないが、宵街の通貨なら昔貰った物をまだ持っている。宵街の通貨は人間の街ほど種類が多くなく、一種類の硬貨の枚数で遣り取りをしている。飲み物なら硬貨一枚で買える。

 獣から金銭を受け取ることに慣れていないのか薺は途惑うが、今度は特に交換する物もないので金を受け取ってほしい。蒲牢は逃げるように来た時と同じくぎこちなく間棒に腰掛け、ふらふらと飛んだ。あまり長居はできない。

「また気になる流行り物があれば来る」

「は、はい。気に入っていただけて嬉しいです!」

 薺は精一杯、獣に失礼がないようぎこちなくも笑顔を作った。

 紅花にはまだぎこちなくすら難しいだろう。元のように笑顔を取り戻すのは時間が掛かる。だが彼女には友人がいる。薺は何とか気丈に振る舞っている。二人なら支え合えるはずだ。彼女達は、誰もいない蒲牢とは違う。

 ストローを咥えながらふらふらと中層へ飛び、今度はドアを突く前に地面に降りることができた。どの杖でも自由に飛ぶことができればそれは理想的だが、なかなか難しい。

 間棒を仕舞い軽くドアを叩くと、煙草を咥えていない狻猊が顔を出した。背中越しに硝子の灰皿に置かれた煙草が目に入る。

「おう。できてるぞ。確認してくれ」

 ぎょっとするほどタピオカの粒が沈んでいるカップを凝視した後、狻猊は見なかった振りをした。蒲牢とはあまり話したことがないが、以前と変わらずぼんやりと掴み所がない不思議な獣だと思う。

「早いな」

 新しい変換石が嵌められた杖を受け取り、くるりと回して見てみる。問題は無さそうだ。

「お前が杖を壊すなんて珍しいよな。初めてか?」

「俺が壊したんじゃないけど」

「は? 誰かに遣られたのか? お前に怪我は無さそうだが……何処のどいつだ」

「あれは仕方無かった。事故みたいなものだ。だからもういい」

「そうか? お前がいいならいいけどよ……」

「それより、饕餮を見掛けなかったか?」

「饕餮? いや見てないな。あいつも宵街に来てるのか?」

 ぼんやりとした無表情で話していた蒲牢は、纏う空気を唐突に切り替える。冷たく沈んだ色を感情の籠もらない双眸に浮かべ、空気を凍り付かせた。

「……変転人を食べてた。だから制裁したい」

 聞き間違いかと疑うような言葉に、狻猊は目を見開いた。

「変転人を喰った……!? それマジか……?」

「見つけたら叱っておいて」

「お、おう……。マジか……喰ったのか……」

 ぶつぶつと唸りながら険しい顔をし、口元に手を遣り空を掻く。煙草を咥えていると思ったらしい。振り返って煙草を見つけ、蒲牢に目を戻しながら取りに行きたそうな顔をした。

「俺がここにいた頃の数少ない規則だったのに。人間を食べる獣は、変転人を食べてはいけない。狴犴が継いでから解禁になったのか?」

「そんな話は聞かないが……。あ、加虐許可申請書を出せば……いやそれでも無いか……」

「加虐許可申請書?」

 そんな名前の物に聞き覚えが無く、蒲牢は首を傾げた。贔屓ひきが宵街にいた頃はそんな物は無かった。

「オレも詳しくは知らないんだが、人間を喰う獣はどうしても人間を殺さなきゃならないだろ? ある程度は申請無しでも許されてるが、大喰いな奴もいるだろうし食事を罪にするわけにはいかない。だから予め許可を貰って免罪を乞うんだ。……って感じの奴だったはず」

「そんな物を作ったのか……大変そうだな。とりあえず狴犴は殴っておいた。食べることが禁忌のままなら、誰かが粛清しないと」

「も、もう殴ったのか。制裁執行人……だっけ?」

「その呼び方は恥ずかしいからやめてほしいけど。……それじゃあ、俺は急ぐから。饕餮のことだけ宜しく」

「え、じゃあ執行人? 拷問官……?」

「どっちも違うし拷問はしたことない。贔屓の手伝いを少ししてただけで、役職なんてない」

「お、おう……わかった。饕餮のことも……工房に来ることは無さそうだけどな」

 不機嫌な声を感じ取り途惑ってしまった狻猊から目を逸らし、蒲牢は修理してもらった杖をくるりと回してふわりと跳び乗る。やはりこの杖の方が手に馴染んで飛びやすい。

 暫く考えるように動きを止めて蒲牢の背を見送っていた狻猊は、辺りを見回してから室内へ戻った。怒らせてしまったのだろうかと反省する。どうにも蒲牢とは壁を感じてしまう。

 頭を切り換えストローを咥えて啜りながら、蒲牢にはもう一箇所立ち寄る場所があった。鵺に早く戻れと言われたので、なるべく早く用を済ませるため杖を急がせた。


     * * *


 不安を煽る静けさの中、澱む透明な街では螭による治癒が続いていた。閉ざされた三人の瞼は依然重く縫い止められたままだ。

 毛布をと叫ばれ慌てて運んだが、灰色海月はすぐにまたベッドに戻された。毛布は想像より重く傷に響いたのは確かだが、あの状態の獏を置いてまたベッドに戻されると不安が募る。部屋に一人でいると良からぬことばかり考えてしまう。

 ドアをじっと見詰めていると思いが通じたのか、ゆっくりとドアが開いた。黒葉菫だった。目が合うと彼は怯んだように目を逸らすが、神妙な顔付きで様子を窺う。

「……調子はどうだ? 今度何か持って来いと言われても、俺とウニがやるからクラゲは動くな」

「それを聞きたいのは私の方です。獏は……」

 蜃と椒図は腹に穴を空けられていた。獏には大きな穴はなかったが、全身を刺されたように血塗れだった。

「……まだ誰も目を覚まさない」

 もう二度と目を覚ますことはないのではないかと最悪な想像ばかりしてしまう。

「……あの……痛みは落ち着いたので、傍に行ってもいいですか……?」

 黒葉菫は暫し躊躇うが、小さく頷いた。あんな状態の獏を見てベッドで大人しくしていろと言うのは残酷なことだろう。

 起き上がる灰色海月の体を支え、立ち上がるのを手伝う。彼女は獏を慕っている。もし獏がこのまま目を開かず死ぬことになれば、それに立ち会えないのは一生後悔を引き摺ることになる。

 支えながらゆっくりと階段を下り、彼女の様子を確認しながらドアを開ける。

 支えにと黒葉菫の服を掴んでいた灰色海月の手に力が籠もり震えた。

 石畳に敷いた毛布の上に横たわる変わり果てた三人の姿を見下ろし、徐々に息が上がる。灰色海月は暫く見詰めた後、意を決して、ベッドの中で考えていたことを口にした。

「……あ、あの、私の生命力は……使えませんか……?」

 取り乱してはいないが心は乱れている。これを言うためにここに来たのだと黒葉菫もすぐに察した。獣を助けるのが無色の変転人の仕事だが、こんな助け方は教わったことがない。黒葉菫は息を呑んで三人を見詰めた。灰色海月が言っているのは獏に対してだけだろう。三人全員に生命力を与えるのは不可能であることは、この状態を見ればすぐにわかる。

 螭は水のようなリボンをふわりと操りながら灰色海月を一瞥するが何も言わなかった。治癒に集中しなければならないため、言葉を交わす余裕がない。代わりに壁を背に立っていた鵺が溜息混じりに答えた。

「何処でそんなことを覚えてきたのかしらね……」

「私の生命力で、少しでも……」

「結論から言うと、それはできないわ」

「どうして……」

「獣と変転人じゃ生命力の量が違い過ぎるのよ。獣の生命力の方が圧倒的に多いの。普通の人間程度しかない変転人じゃ、どうやっても足りないのよ」

「そんな……」

 獏は烙印の制限があるとは言え白花苧環と黒葉菫に生命力を与えていた。それは獣の生命力が高いからこそ分け与えられた。変転人は分けることすらできない非力な存在なのだと突き付けられ、灰色海月は唇を噛んで俯いた。

「普通の人間だとこんな状態にされたら即死だと思うけど、獣だからまだ大丈夫かもしれないって可能性だけはあるのよ。生命力が高いから。……だからクラゲちゃんは祈ることしかできないけど、信じてあげて」

「…………はい」

 頷くだけで精一杯だった。祈ってもそれは何の力にもならない。だが他に何もできない。

 鵺も生命力を分けることをしない。獣なら生命力を分け与えることができるが、相手も獣だ。しかも三人もだ。変転人に分け与えるのとでは訳が違う。

「螭の治癒も一応は生命力を削ってるのよ。螭の力で少しずつ生命力を搾り出して増幅させてるの。自分の生命力を削るから調整はかなり慎重に遣らないといけなくて時間が掛かるけど」

「…………」

 以前蜃を治癒していた時は極僅かしか癒されていないと感じたが、あれが短時間で行う限界だったのだろう。巫山戯ていたわけではなかったのだ。

 鵺は壁に寄り掛かり、幼い顔を険しく腕を組んだ。蛇のような尻尾はしゅんと垂れている。

『信じて』なんて戯言だ。螭の遣っていることは只の些細な抵抗に過ぎない。獣は生命力が高いが、内臓が複数潰れて生きていられるほど規格外ではない。医者に診せられる状態まで治癒するのがここでの目標だが、今のままだと絶望的だ。それを知らない灰色海月達に絶望を吹き込むのはまだ躊躇われた。

 時間が停止している街とは言え、与えられた事象に対しては柔軟に影響するため、坂に置かれた球のように死に向かおうとする体は止められない。

 待つしかできない歯痒い静寂で、こつりと石畳を踏む音が耳に届く。鵺と灰色海月達は静かに振り向き、音の主を確認した。

「蒲牢……戻って来てくれて良かったわ。呑気に買物までしてくるとは思ってなかったけど」

 手に持ったカップに気が抜けそうになってしまう。余程気に入っているのかまた大量のタピオカが沈んでいる。

「杖が直った」

 もう片手に握っていた杖をくるりと回して仕舞い、手に紙袋を持つ。まだ他に何か買っているのかと鵺は呆れそうになった。

「そこの三人は変転人か?」

 不安そうな灰色海月とそれを支える黒葉菫、そして背後で壁際に蹲んで見上げている黒色海栗へ順に視線を送る。三人は見慣れない獣に警戒しながらもこくりと頷いた。

「変転人には見る機会のない物を特別に見せてやる」

 紙袋を開けようとし、片手がカップで塞がっていることに気付いて蒲牢は辺りを見回した。

「……持ちます」

 置く場所を探しているのだと察した黒葉菫は手を差し伸べる。蒲牢は黒い変転人を数秒見詰めた後、カップを手渡した。

「少しなら別に……飲んでもいいけど」

「飲まないです。奪おうと思って受け取ったわけではないので……」

 蒲牢は空いた手で紙袋を漁り、中から一つごつごつとした質感の黒い木の実のような物を掴み出す。

胡桃クルミですか?」

 ここにいる変転人の中で一番長く生きている黒葉菫が口を挟む。色は黒いが、形は胡桃に似ている。

 堅い殻を纏う胡桃に見える物をころんと手に転がし、蒲牢は説明を加えた。

「これは胡桃じゃない。似てるけど、これは臓物の種だ」

「臓物……?」

 眉を顰めるような衝撃的な言葉が飛び出し、三人は困惑した。その言葉に反応したのは三人だけでなく、鵺もぴくりと反応する。壁から背を浮かせ蒲牢の持つ物を凝視した。

「それどうしたの?」

「病院で処方してもらった」

「怪我人も見せずによく出してもらえたわね」

「歌ったら貰えた。歌ってほしいって言われて。普段なら歌わないけど、今は一大事だから」

「ああ……そう言えば隠れファンだったわね……。納得したわ」

「?」

「お前の歌の隠れファン。お前は人が集まると逃げるから、研究所の妖精とか言われてたわよ」

「知らなかった」

 隠れられているのだから気付きようがないが、隠れているのには理由がある。蒲牢は大勢の前で歌うことは好まず、頼まれても応じることはない。歌っていると人が集まることがあり、それを彼は嫌がった。それが知れ渡り、蒲牢の歌が好きだと公言するのが憚られるようになったのだ。大勢が公言すれば嫌がるのではないだろうかと。蒲牢自身は歌をどう思われていようと何も思うことはないのだが、公言しないことが暗黙の了解となってしまった。だが目の前に本人が現れると思わず言ってしまうらしい。

 何だか腫物のようだと思いつつも今は歌の話をしている場合ではないと思い出し、蒲牢は話題を種へ戻す。

「これは獣の力で核果かくかが溶けて発芽して、臓器と成る種なんだ。これを獣の体内に埋め込めば、体内に残る力を使って潰れた臓器を修復できる」

「それがあれば助かるんですか……?」

 動かない三人に目を遣り、灰色海月は震える声を絞り出した。腹に穴を空けられた蜃と椒図には特に有用だろう。

「助かるかどうかは残ってる力次第だ。体内に残ってる力を栄養として発芽する物だから。この時必要な力は怪我をした本人じゃないといけない」

 説明しながら、時間が惜しいと気付き蒲牢は横たわる三人の傍らへ膝を突いた。

「力から情報を読み取って臓器を修復するから、他人の力だと修復が機能しないんだ。死にかけてる体にどれだけ力が残ってるか、遣ってみないとわからないけど」

 袖を捲り、椒図の腹に空いた穴にぐり、と種を埋め込む。嫌な音がしたが、蒲牢は眉一つ動かさず赤く染まった指先を抜いた。

「一つじゃ足りないかもしれないけど、種の数が多いとその分必要な力の量も増える。まずは一つで様子を見て、発芽できそうならもう一つ増やす」

 蜃の腹にも同じように種を埋め込み、濡れた指を引く。

「化生する方が苦しまなくていいと思ったけど、椒図はこの赤髪の人を庇ってるみたいだったから。生かしてあげた方が良い気がして」

 最後に獏の腹に種を置き、蒲牢は手を浮かせた。

「……この人は何処から埋めればいいんだろう……」

 全身を刺されているが、椒図と蜃のように目立った大穴は無い。無理に傷口を広げて手を入れても良いものかと首を捻った。

「……ああ、傷の上でもいいんだっけ。力が働くのに時間は掛かるけど、発芽すれば傷口から中に入ってくれる――って聞いた」

 病院で聞いたことを説明し終えた蒲牢はよく血の溢れている傷口の上に種を置いて立ち上がった。

「手を洗いたい」

 真っ赤に染まった指先を上げながら周囲を見渡す。黒葉菫は灰色海月から手を離し、店の中の手洗い場へ案内した。古物店の階段下の空間にはトイレが設置されている。そこに手洗い場もある。入口の天井が低いので背が高いと少し頭を打ってしまうが、気を付けてと言う前に蒲牢は頭をぶつけた。無表情は崩れないが、痛そうに眉は動いた。

 血を洗い流して小さく歌いながら店を出る蒲牢の後に黒葉菫も付いて行く。黒葉菫は臓物の種なんて物は初めて聞いたが、変わり果てた三人を助けたことで蒲牢への警戒心は薄れた。たっぷりと黒と白の粒を投入した謎の飲み物を持って来たり突然歌い出したりと掴み所はないが、悪い獣には見えなかった。歌は何の言語なのかわからないが、少し物哀しく澄んだ声は確かにファンがいるのが頷ける。

 店を出ても毛布の上の三人にまだ変化はなく、時間が掛かりそうだった。内臓が潰れた状態でどれほどの時間生きられるのか、既に死んでいるのか、誰も確かめようとしなかった。

 蒲牢は黒葉菫からココナッツミルクのカップを受け取り、ストローを咥える。数秒三人を見下ろし、唐突にはっとしたように再び三人の傍らに膝を突いた。今度は地面にカップを置き、獏の外套の襟を開ける。

「……烙印があると、発芽しないかも……」

「え!?」

 鵺もはっとし、慌てて駆け寄った。

「早く言いなさいよ! 確かに力は制限してるけど……。私がやるわ。獏の烙印なら……一時的に機能停止できる」

 烙印の制限があると、失われた生命力の回復も殆どない。流出する一方だ。鵺は杖を召喚し、しゃんと回した。獏の烙印を執行人の権利で一時的に機能を停止させる。解除印ではないので数分程度しか停止させることはできないが、それでも何もしないよりは良い。発芽さえできれば、後は種が自ら成長してくれる。

「数分だけだけど、今の内になるべく回復して螭! 椒図も何とか遣ってみるから……」

 椒図の烙印の制限は厳しく、一時的にも機能を停止できないかもしれない。だが何もせず黙って指を咥えて見ていることはできない。譬えどうにもならないとしても、遣らなければ後悔する。

「ひ……干涸らびそうです……」

「スミレちゃん、水持って来て!」

 蒲牢は黙ってココナッツミルクを差し出そうとしたが、鵺は無視した。行き場を失い、蒲牢は自分で啜る。

 黒葉菫は店へ走り、急いでティーカップに一杯水を汲んだ。

 戻って来た彼からカップを受け取り、鵺は顔を顰める。

「こういう時はバケツよ、スミレちゃん。バケツに水を汲んで」

「え……は、はい」

 もう一度店へ行き、獣は規格外なのだと改めて思った。

「こっちの……見たことのある烙印の黒い人の方が内臓の損傷は少なく見える。上手く躱してる。見慣れない烙印の椒図と……この赤髪も穴は空けられてるけど心臓は避けてる。死んでないといいな」

「見たことあるとか見慣れないとか何なの?」

「黒い人の烙印は俺が宵街にいた頃にも使われてた烙印だ。少し手は加えられてるけど。椒図の烙印の方は束縛が強いみたいだけど、そういうのは俺がいた頃は使われてなかった」

 鵺と螭が地下牢に従事するようになったのは蒲牢達が去ってからだ。狴犴が取って代わった時に呼ばれたのだ。故に以前どんな烙印が使われていたのかは知らなかった。

「そうなんですね……。黒いのは獏さんで、赤いのは蜃さんですよ」

 蒲牢はぴくりと睫毛を上げ、思い詰めたように目を伏せた。

「……獏は聞いたことがある。会ってみたかった」

「あら、そうなの?」

「化生すると次はいつ会えるのかわからないな……生きててくれるといいな」

 憂いを帯びた目で獏を見下ろし、しんみりとタピオカを啜る。どうにも緊張感がないが、彼は突然ふと顔を上げた。

「……音がする」

「音?」

「見てくる」

 言うや否や杖を召喚し、蒲牢は杖に跳び乗った。

「ちょっ、待ちなさい! ……行ってスミレちゃん!」

「は、はい」

 バケツを手に戻って来た黒葉菫は鵺の足元に重いバケツを置き、慌てて蒲牢の後を追った。呼ばれない黒色海栗は壁を背に座ったまま毛布の上を大人しく見詰める。灰色海月も走れる状態ではないので、その場に留まった。

 人の足で走るより杖で飛ぶ方が当然速い。先に行かれると追い着けない。足元が暗く常夜燈を出そうとするが、このまま走っていれば振り回すことにしかならないだろう。

 暗い街を全速力で走って追う黒葉菫に気付き、蒲牢は後退して彼の腕を掴んだ。

「い、ちょ……ま、待ってください……!」

「片手で持ち上げるのは重い……」

「だからって引き摺るのは……!」

 足が縺れそうになり、転んで怪我を負う前に地面を蹴った。飛ぶ杖の先に何とか掴まり、一瞬ふらりと蒲牢の体勢も崩れるが慌ててふわりと上空へ上がった。

「無茶をする変転人だな……」

「こっちの台詞です……」

 黒葉菫は危なっかしい獏と過ごす時間も長くなっていた所為か、獣に対しても文句を言えるようになっていた。そのことに黒葉菫本人は気付いていない。蒲牢は無表情の中にも不思議そうに瞬きをする。

 以前獏と共に端へ行った時よりも大分早く街の端に着き、杖は止まる。いや、幾ら何でも早過ぎる。

「端が近くなってる……?」

 蠢く闇はそのままで、端の地面が欠けたように割れていた。

「これは……?」

「待ってください!」

 不思議そうに地面に降りようとする蒲牢を黒葉菫は慌てて止めた。足下の地面に黒い筋が這っていた。獏がそこを踏んで立ったまま意識が乖離していたことを思い出す。

「この下の黒い物は危険です」

「見たことない物だ」

 辺りを見渡し、屋根の上には黒い筋が届いていないことに気付く。黒葉菫をいつまでも杖にぶら下げておくわけにもいかない。

 屋根に足を降ろし、黒葉菫は漸く息を吐いた。手が赤くなっている。

「これが何か知ってるのか?」

「これは腐った悪夢だそうです。悪夢はこちらに触れることができますが、悪夢に触れられるのは獏だけです」

「危険物みたいだけど、何故処理しない?」

「蜃が……街と繋がってるので、それと繋がるこの悪夢を攻撃すると、蜃の体にも影響があるようで……」

「ああ……それで断ち切れと言ったのか」

「?」

「それなら大丈夫だ。俺が繋がりを切った。獏はさっき、その……悪夢? をちゃんと処理してた」

「剥離の印を使えるんですか?」

「……昔、使うことがあったから」

 淋しそうに睫毛を伏せる蒲牢の横顔にはやはり感情は無かったが、何か考えているようだった。

「俺にはこの黒い物は処理できないってことか。さっき聞こえた音は瓦礫が崩れるような音だった。きっとこの崖が崩れたんだと思う。ここは何なんだ?」

ほつれ……と以前鵺が言ってました。この街は蜃が昔創った物で、廃棄されてたそうです」

「……捨てられた物を拾ったのか。崖が崩れたのは、蜃があんな状態だからか?」

「それはわかりませんが……この悪夢を何とかしないと、いずれ街は壊れると……」

「そうか」

 崩れたことに関しては何が原因なのか黒葉菫には推し量ることができなかった。

 それ以上は蒲牢も何も訊かない。焦って質問を畳み掛ければ彼は狼狽えてしまうだろう。獣が強引に迫れば変転人が困惑してしまうことは容易に想像がつく。それがわかっているからこそ蒲牢は困らせるように尋ねはしなかった。

「悪夢に歌は効くみたいだったから、物理的に触れられなくても抵抗はできるんだよな? ……自分以外の獣のことはさっぱりだな。全く別の生き物だ」

 触れられないなら何もできることはない。蒲牢は仕方無く杖を浮かべて乗った。獏も蜃も意識がない内は話が聞けず手を出せない。

 その足下の家に亀裂が入り、屋根が崩れ始めた。

「!?」

 蒲牢は咄嗟に黒葉菫の腕を掴む。一瞬にして足場が無くなり、黒葉菫の足は空を掻いた。

「体勢が悪い……安全な場所に下ろす」

 落としてしまう前に崖から離れ、地面に黒い筋が這っていないことを確認して彼を降ろした。振り返り崖を確認すると、端に近い家々が一軒ずつ闇に呑まれたようだった。この街は崩壊している。あまり表情を崩さない蒲牢だが、訝しげに眉を寄せた。

「……乗って。皆の所に戻る」

 杖の高度を上げ、黒葉菫が乗るのを待つ。彼はやや躊躇いを見せたが、緊張気味に細い杖にそっと腰を下ろした。

「杖に乗るのは初めてか? 体勢を取る自信がないなら掴まった方がいい。首以外なら掴んでいい」

「…………」

 首を絞めはしないが、そう言われると何処を掴んで良いのかわからなかった。迷う黒葉菫を待たずに、蒲牢はふわりと杖を上空へ浮かせる。早くここから離れた方が良い。そう思い、来た時と同じように人間が走って追い着けない速度で飛んだ。振り落とされそうになり、黒葉菫は慌てて腰を掴んだ。

 急ぎ店へ戻ると、変わらず螭が三人の治癒に奮闘していた。先に黒葉菫を降ろし、蒲牢も石畳へ足を降ろす。

「ちょっと蒲牢。勝手にうろうろしないでちょうだい」

 眉を顰めつつ呆れたように鵺が諭した。まるで子供を叱りつけているようだ。

「この街は何なんだ? あまりに不安定過ぎる」

 蒲牢は全く意に介していないようだが。

「ちょっと待ってなさい。そろそろ病院に連れて行ける程度には回復したはず」

「宵街か?」

「お前がいた頃とは違うの。見ての通り二人は罪人で、ほいほい牢から出せない。特に椒図は脱獄だから……話が複雑なのよ。……狴犴を拘束しておけば良かったかしら……それも後が面倒ね」

「脱獄? やるな椒図」

「あのね……」

 暫く宵街を離れていた蒲牢は、狴犴の治める宵街がどうなっているのか把握していない。緊張感がまるで無い。

「……あの、」

 獣同士の会話に入って良いものか迷ったが、事は一刻を争う。黒葉菫は遠慮がちに発言した。

「人間の病院なら、アサギの知り合いの医者がいる病院を知ってます」

「アサギちゃん? ……不安はあるけど、腕はどうなの? こいつらを治療できる?」

 宵街を離れ旅ばかりしていた浅葱斑なら人間の知り合いがいても不思議ではない。だが浅葱斑は狴犴に操られたままだ。今は姿を消していて行方も知れない。その彼の知り合いと言われると二の足を踏むが、他に良い案も浮かばない。

「俺もその病院で治療してもらいました。血の……薬を渡せば、獣の治療もできると思います。前に椒図もそこで治療したので」

「椒図も治療してもらったの? それなら勝手はわかってるのかしら。血の、って血染花の薬よね」

「血染薬もたくさん貰ってきた」

 話を聞き、蒲牢は臓物の種が入った紙袋を差し出す。あれだけ血が流れたのだ、輸血用の薬も三人分処方してもらっている。

「気が利くわね。――じゃあスミレちゃん、その病院に三人を連れて行ってくれる? スミレちゃんとウニちゃんで三人運べるかしら?」

「先に病院に行って話を通してきます。すぐ戻ります。その時間はありますか……?」

「獏の方の種は外に置いたから発芽の兆候が見えてる。このまま力尽きなかったら大丈夫だと思う。椒図と蜃はわからないけど、そんな時間も待てないようじゃ死んでた方が苦しまなくていい」

「それは……」

 時間に余裕はない。そう言いたいのか他意はないのか、感情の抜け落ちた表情からは察することができなかった。ただ急いだ方が良いことだけはわかった。黒葉菫は掌から黒い傘を引き抜き、くるりと回して姿を消す。

 暫くは誰も喋らずしんと空気が停滞するが、其処彼処に飛び散っている肉片の数を数えながら待っていると然程経たずに黒葉菫が戻って来た。相当急いだようで息を切らしている。

 座って待機していた黒色海栗を呼び、何とか三人を二人で担ぎ上げた。灰色海月も手伝おうと手を伸ばしたが、それは黒葉菫が制した。

 傷に障らないようにとは思うが、どうやっても障ってしまう。呻き声の一つも聞こえず体も冷えており、不安になり毛布で包み直した。

「スミレちゃん、この薬を。必要なら残ってる臓物の種も使っていい」

「……あ、はい。ありがとうございます」

 蒲牢から紙袋を受け取り、頭を下げる。鵺の呼び方を真似たのだとすぐに気付けなかった。そう言えば名前を言っていない。

「……あの……黒葉菫です」

 両手が塞がるので紙袋は口に咥え、黒い傘を回した。二人と三人は姿を消し、治癒に尽力していた螭は力が抜けたように石畳に座り込んだ。

「み、水……」

 バケツに顔を突っ込み、急いで水を補給する。

「お疲れ様、螭。後は待ちましょ」

「まるで底が抜けたバケツみたいでした……。治癒を施してもすぐに力が抜けて……」

「……生きてると思う?」

「私は生きてると思います。辛うじて、今の時点は……。死んでいると、死体は治癒を受け入れてくれないので」

 辛うじて生きているとしても刹那も安堵はできない。三人共、何の反応もなかった。

「一番酷い状態は椒図さんでした」

 螭はバケツに落としていた視線を上げ、蒲牢を見た。相変わらず感情の無い顔をしている。何を考えているのかわからない。

「……蒲牢さん……その……」

「気を遣わなくていい。今の椒図とは何の関係もない」

「それは、どういう……?」

「……。中で休む」

 話したくないと言うように会話を打ち切り、蒲牢は足早に店へ入って行った。螭と鵺は顔を見合わせ怪訝に首を傾ぐ。蒲牢と椒図が兄弟だということは、古い仲である二人も知っている。蒲牢の言葉には違和感があった。兄弟なのに何も関係がないはずがない。言葉の意味はわからなかったが、蒲牢はいつも何を考えているのかわからない。何も考えずに言っただけかもしれない。

(変なことを言ってしまった……)

 蒲牢は目を伏せて眉を顰める。その感情の無い相貌には苛立ちが滲んでいた。

 薄暗い棚の間を歩き、店の奥にぽつんとある椅子に腰掛ける。小さく口を開き何か歌おうとしたが、何も声が浮かばなかった。

 蒲牢の歌は何の言語でもない。感覚を声にしているだけで、意味のある言葉ではない。歌に力を得た日から、言葉は失った。きっと呪われたのだろう。

 感覚すら声にできず、蒲牢は静かに暗い天井を仰いだ。

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