62-庇護
霧の掛かる透明な街で顔を突き合わせ今後の作戦を練っていた獏達は、一旦古物店の中へ戻った。街の端から襲来した悪夢は待てども気配が消えたまま戻らなかった。どうにもこの街の悪夢は行動が読めない。いや悪夢の行動など読めたことはないのだが。
獏は革張りの古い椅子へ、蜃と椒図も椅子を並べて座った。黒葉菫は珈琲でも出そうと台所へ入り、黒色海栗も付いて行く。ここにいた変転人の数も今は黒の二人だけだ。少し寂しく思う。
蜃と椒図から地下牢の内部構造を聞きながら、獏は頬杖を突いた。地下牢は大きな縦穴の壁に沿って檻が並び、横道が幾つも伸びる。そんな中から小さな
「僕のいた檻の近くには誰も収容されてなかった。その横道は除外していい」
蜃が簡単に紙に地下牢の図を描く手元を見ながら、実体を創造する力を持つ蜃は形を捉える能力が高く絵も上手いのだと獏はぼんやりと考える。
「うん……」
描き上がった図の上に人に見立てたチェスの駒を一つ抓み、獏は上の空で返事をした。動物面で顔が隠れていてもぼんやりとした雰囲気は周囲に伝わる。
「疲れたか?」
「え?」
「悪夢に関しては獏に頼るしかないからな……。烙印もあるし、疲れたんだろう?」
気遣う椒図に一拍置いて獏は苦笑した。
「それは仕方ないことだよ。でもまあ……いつもなら悪夢を蹂躙するために使った力はその後の食事で回復できるけど、この街の悪夢は腐ってて食べられないから、力を使っても食事できないのがね……。消耗する一方だから、善行しつつ遣っていかないといけないのかな」
獏は机上に置かれる珈琲に目を落とし、骨の折れる人間の願い事を思い出して溜息が漏れてしまう。罪人なのだから我儘を言えることではないのだが。
「僕が悪夢を見れば、それなら食べられるのか?」
「食べられるけど、獣はあんまり悪夢を見ないんじゃない? それと……今は夢を食べることは烙印で禁じられてるけどね。無理矢理なら食べられるけど」
「そうなのか? 確かにあまり見覚えはないが……」
口を挟まずに熱い珈琲を一口飲み、きゅっと顔を顰めてシュガーポットに手を伸ばす蜃を見ながら会話を続ける。
「例えば人間だと四肢を切り落とされると悪夢だって認識するけど、拷問に耐えた君だったら悪夢とまでは言わないんじゃない? 悪夢は内容によるものじゃなくて見る人の感情によるものだから、その人に嫌な気持ちがないと悪夢にはならないんだよ。だから人間は上質な悪夢を見るし、獣は……丈夫だし自由に生きてるからなかなか見ないんじゃないかな」
「そうなのか。地下牢に入れられた当初はよく魘されたんだがな。最近はもう記憶が擦り切れてしまったのか、よく眠れる。諦めたとも言うのかもしれないが」
砂糖を注いでいた蜃は漸く飲める味になった珈琲を啜り、眉を顰めた。
「俺……悪夢を見た覚えがない……。椒図は魘されたのに、俺は薄情なのか……」
「嫌な出来事があっても皆が悪夢を見るわけじゃないよ。見てても目が覚めたら綺麗さっぱり忘れてることだってあるし。悪いことがあっても、皆が不幸にならないといけないことなんてないよ」
「獏……」
蜃は神妙に獏の手元を見、自分の珈琲を飲んだ。
「俺も結構砂糖を入れたと思ったが、君はそれ以上だな……」
「今日はスミレさんが先に砂糖を入れてなかったから」
砂糖をティースプーンに山盛り三杯入れた蜃とその倍を放り込む獏は、何も入れずに飲んでいる椒図を宇宙人でも見るかのように無言で見詰め、自分のカップに目を落とした。
「おい、黒葉菫。今度から俺の珈琲はカフェオレにしろ」
「えっ」
台所の前で待機していた黒葉菫は困惑した。珈琲しか淹れたことがなく、カフェオレなんて淹れたことがない。名称は耳にしたことがあるが、どんな物なのか知識がなかった。
「いいね。じゃあ僕も」
「それって、どう作れば……」
「半分ミルク入れる奴だろ、確か」
「半分ミルクなんですね。わかりました」
珈琲は苦いから薄めろと言うことかと黒葉菫も理解できた。ミルクを足すくらいならすぐにできそうだ。淹れられる飲み物が増えることは喜ばしい。
「……悪夢が見られるよう、努力してみるか」
決心したように呟いた椒図を獏は呆れたように見た。
「故意に見ようとする人は初めてだよ……。努力しようとしてる時点で悪夢じゃないよ、椒図」
「難しいな」
ぽつりと呟くと同時に、勢い良く店のドアが開いた。騒々しいが螭だろうかと顔を上げ、通路に座っていた椒図は咄嗟に頭を下げた。
「――っ!」
勢い良く飛んで来た人間の顔程ある堅く丸い物が獏の面に直撃した。
「すまない獏! 避けてしまった……」
衝撃で椅子から落ちて尻餅を突いた獏を、慌てて立ち上がり身を乗り出して確認する。面越しに顔を押さえているが、無事のようだ。
膝の上に落ちた重く堅い物を拾い、机を支えに獏も立ち上がる。丸い物は机上でごろりと転がった。――メロンだ。
メロンを投擲した人物は蹌踉めきながら通路を進んだ。思わず椒図も道を空ける。
「クラゲさん……」
灰色海月は机を挟んで獏の前に立ち、泣きそうな顔で睨み付けた。
「私を置いて行かないでください!」
大声を出すと傷に響き、灰色海月は机に手を突きながら背中を押さえた。まだ入院していなければならないのに、獏の姿が見当たらず勝手に戻って来てしまったようだ。
「ご、ごめん……でも」
「でもではないです! 私は貴方の監視役です! もう……置き去りは嫌です……」
その『置き去り』は最初に人の姿を与えた時のことを言っているのだろう。獏は気不味くメロンを見下ろした。少し罅が入っている。面が割れたのかと思ってしまった。
「ごめん……。それでも、病院にいた方が安全だから……」
「監視役は安全じゃないことはわかってます。……刺されたのが貴方じゃなくて良かったです」
「……身代わりなんて考えないで。君が刺される方が大変なんだから」
泣きそうな顔ではあるが、灰色海月は泣かない。涙の出し方はわからない。
「何で戻って来ちゃったのかな……僕の近くにいない方がいいのに」
ぼそりと独り言のように呟く。近付いたために殺された白花苧環が脳裏を過ぎってしまう。結局獣と変転人は近くにいない方が良いのだ。
「メロンは
獏は溜息を吐き、厳しい言葉だろうかと思いつつ一歩下がって言った。
「死んだら意味ないんだよ、クラゲさん」
まだ怪我も治らない内に戻って来るのは看過できない。せめて烙印の解除印が手に入るまでは大人しくしていてもらいたかった。
「…………」
「僕が守れない時は、ちゃんと逃げて」
「……はい」
理解したのかどうだかわからないが、灰色海月は素直に返事をした。怒りながら店に戻って来たが、怒られることもわかっていたのだろう。
「スミレさん、ウニさん。クラゲさんをベッドに運んで、大人しくしてて」
「はい……」
困惑しながら見守っていた黒葉菫は灰色海月を促し二階へ上がった。黒色海栗もメロンに目を遣った後とんと慌てて二人を追う。
「まさか避けられないほど消耗していたとは……」
「避けられるよ。……でも、避けない方がいいと思ったから。……ちょっと後悔したけど」
面越しに顔を摩りつつもう一度溜息を吐いた。メロンをぶつけられればそれは痛いに決まっている。
唖然としていた蜃も憐れむように獏を見た。
「変転人も怒る……と言うか、獏はよく怒られるんだな」
「何でかなぁ」
首を傾げつつ罅の入ったメロンを台所へ置く。椅子に戻ろうとすると、置いたメロンが僅かに傾いた。
「……」
微かな震動。すぐに警戒するが、外で悲鳴が上がった。
「何だ?」
首を傾ぐ蜃と椒図の脇から通路を走り、獏はドアを開け放った。白花曼珠沙華と螭の前に、黒い塊が蠢いていた。螭はすぐに距離を取ったようだが、街灯に括り付けられている白花曼珠沙華は逃げることができず、黒い触手に絡め取られていた。
どう見ても悪夢だ。だが何も気配を感じなかった。今も感じない。
「さっきの悪夢か? これは見えるが……」
「僕も正確に識別することはできないから特徴で察するしかできないけど……」
先程と同じ悪夢なら、視認できないほど薄く伸ばして姿を消すはずだ。今見えているだけが全てとは限らない。
「ぁ……ぁぅ……」
黒い触手は白花曼珠沙華を引き、縛っていた縄を千切った。体が自由になっても、白花曼珠沙華の手には武器を出せないよう包帯が巻かれている。彼女は何もできないまま、触手は黒い靄を吐き出しながらその口の中へ潜り込んだ。
「不味い。助けないと……でも悪夢を切断すると……」
今は血を吐いていないが、蜃を振り返り獏は苦虫を噛む。悪夢を傷付けると蜃の体に影響が出てしまう。迂闊な行動はできない。だがこのままでは――
「少しくらいなら、耐えられる。イカレ女にあれだけ刺されても生きてたしな」
「蜃、それは……」
蜃より椒図の方が途惑うが、蜃は気にした風もなく杖を出して構える。悪夢を野放しにしている方が危険だと理解しているからだ。
獏も杖を出し、変換石に力を籠めた。
「ぁ……あアア!」
だがその光は彼女に届くことはなく、水風船が弾けるように白花曼珠沙華は内側から赤い肉片となり飛び散った。
飛沫となった血を浴びながら言葉を失う。思考をする時間が与えられない。この悪夢は――速い。
「さっきの悪夢じゃない……!」
「じ、じゃあ花吹雪じゃ駄目か!? 地面だったら当てられるか!?」
一瞬にして変転人を破裂させた悪夢に全身が警戒した。悠長に構えていられないと蜃は前へ出て杖をくるりと回す。吐血の無い内なら以前のように大きな地面をコピーできる。悪夢の速度を目の当たりにし焦っているとも言えた。
「待って!」
杖の変換石が光り蜃気楼を構築していく。それが実体となる前に、蜃の体は触手に掬い取られた。
「!」
腕を掴もうと手を伸ばすが、届かなかった。蜃は暗い空に放られ、奥の建物へ投げ付けられた。
「蜃!」
椒図は間髪入れずに蜃を追い屋根の上へ跳んだ。
「椒図! 待って!」
投げ飛ばされた蜃が建物に叩き付けられる音はしなかった。きっとクッションでも出して衝撃を和らげたのだろう。それより獏から離れることの方が問題だ。獏でないと悪夢に抗えない。
「螭! 店に入ってて! スミレさん達を絶対外に出さないで!」
「わ、わかりました!」
目の前で人が破裂し呆然としていた螭は後退りつつ走った。浴びた返り血もそのままに警戒しながら店へ入る。
獏も地面を蹴り、蜃が飛ばされた方へ急いだ。
先に襲来した視認できない悪夢は自身が勝てないと悟って端へ戻り、より強い悪夢が出て来た――そう考えられる。もしそうならこの街の悪夢には確実に知能があることになる。
そしてどうして悪夢の気配を全く感じないのか。跳んだことで理解できた。
(脚が……重い……)
何ともないと思っていたが、街の端で悪夢に根を張られた時のことを思い出す。根は千切れそれで終わりだと思っていた。だが実際はまだ中に潜んでいて、蝕んでいたのだ。烙印が悪夢の消化を邪魔しているのだろう。
(僕自身に悪夢の気配が重なって、気配を感じられなくなった……?)
今までもこの街の悪夢は気配が稀薄過ぎて殆ど感じられなかったが、最近はここの悪夢にも慣れてきて少しばかり感じられるようになったと思っていたのに。
飛距離が足りずに屋根から滑り落ちそうになるが、寸前で踏み止まる。脚が重いだけで、体力が削られているわけではない。
自棄に静かだ。窓の割れている家が目に入り、屋根を跳び移る。
「……!」
薄暗い石畳の上に人影があった。慌てて飛び降りるが一瞬足が止まり目を見張った。ぞわりと全身に寒気が走るのを感じた。
「椒図! 蜃!」
太い触手が二人の体を貫いていた。蜃を庇おうとしたのだろう、椒図は覆い被さるように背に触手を突き立てられていた。それを嘲るかのように蜃の体まで貫通している。仰向けの蜃の目は虚ろに彷徨い、口の端から血が流れていた。
悪夢は突き刺さった触手をすぐに抜こうとせず、傷口を抉るように捻る。白花曼珠沙華が弾けた光景が脳裏を過ぎり、獏は杖を握り締め唇を噛んだ。
「――やめろ!」
悲痛な声は耳の無い悪夢に届いているのだろうか。獏は杖を翳し、突き立つ触手を光の糸で切断した。同時に蜃の口からごぼりと血が吐き出されるが、そうなるとわかっていても触手を突き刺したままにしておきたくなかった。
切られた触手は黒い靄となり、穴の空いた椒図の背から鮮血が溢れた。
獏は慌てて駆け寄り杖を翳す。生死の確認をしている余裕なんてなかった。ただ早く止血をしなければと、そのことだけが全身を支配していた。
触手を切られた悪夢は獏を敵と見做し、黒い塊からうぞうぞと幾本も触手を伸ばした。止血に集中する獏の頭を狙い、触手が繰り出される。
黒い触手は振り向いた獏の面を弾き飛ばし、壁に叩き付けた。闇の中でも輝く金色の双眸が悪夢を睨み、向かって来る触手を刻む。その度に蜃の体はびくりと痙攣し口からは止め処なく血が溢れた。
(これじゃ駄目だ……! 蜃の体が……)
蠢く触手が一斉に振り下ろされる。月の瞳にはそれは知覚できていた。気配を感じずとも、動きはわかった。
だがそこから退くことはできなかった。申し訳程度の薄い光の壁を張るが、それを貫き触手は獏の体に突き刺さった。まるで剣山が降ってきたようだった。はたはたと落ちる赤い滴が足元で跳ねる。背後の二人には一本たりとも触れさせない。
「……っか、は……」
杖を握る手に力が入らない。
触手が引き抜かれる度に足元がふらつき、意識が朧気になる。抜かれた触手は何度も突き刺してきた。捕食者である獏への恨みか、触手に弄ばれ頭が揺れる。立っているのも不思議なくらいだった。きっと脚が重いから、動かないだけだろう。
震えそうになる目で悪夢を見上げ、血を流しながら呪うように睨んだ。
「殺す……殺してやる…………」
呪詛のように呟かれる言葉は声にならず、息も碌にできない。杖を握る感覚の無い腕を持ち上げようとするが、上手くできているのかわからない。
だがここで死んでは悪夢を屠る者がいなくなってしまう。店にはまだ無事な皆がいるのだ。行かせるわけにはいかなかった。
震える腕を上げ、前方に翳す。仄かに石が明滅し、乾いた音を立てて杖が地面に転がった。
「ぁ……ぁ……」
痛みが全身に走っているはずなのに何も感じない。
ただ何処か遠くで歌が聴こえた。幻聴だろう。
落ちそうな意識を必死に繋ぎ止め、また嬲るように体に触手が刺さる。
「――――」
重く嫋やかに、そして雹が吹雪いているかのように、人の声とは思えない透き通った音が耳を掠める。それは衝撃波のように悪夢を襲い、気圧された悪夢は怯んだ。悪夢は触手を伸ばすが、見えない音の壁から先には進めない。
「…………」
体を支えられ、獏は朦朧とする意識の中で声の主を見上げた。霞む視界に白い髪が揺れる。
「マキ……さん……?」
「……?」
白い睫毛が動き、銀色の目で獏を一瞥した。白花苧環ではない。それはすぐにわかった。白い彼の目は緑色だった。
銀髪銀眼の耳には小さな石が光っていた。
触手が引かれるタイミングを見計らって歌うのを止め、青年は獏の意識がある内に尋ねる。
「あれは何だ? 攻撃が透けて届かなかった」
触手が繰り出されると再び歌い、引かれると会話に戻る。
「歌は効くみたいだ」
「あれは……悪夢……。僕が……殺さない……と……」
「殺せるのか?」
「蜃と……街の繋がり、を……断たないと……蜃、が……」
「繋がり? 蜃とは?」
微かに獏の視線が動き、青年は理解した。背後で動かない体から無慈悲に血が溢れている。
「……鵺、こいつを支えて」
「な、何をするの……?」
様子を窺っていた鵺も屋根から飛び降り、言われた通り獏を預かった。
青年は歌いながら杖を召喚し、くるりと回して宙に印を刻んだ。
「繋がりを断つ。――剥離しろ」
印は光り、辺りを刹那光が包んだ。目が眩むような光に悪夢も動きを止めるが、光る以外には何も変化がなく悪夢はすぐに攻撃に戻った。銀色の青年に向けて触手を突き出し、直前で歌に阻まれる。
「……繋がりを断った。これでいいのか?」
背後から感覚の無い手を伸ばし、獏は青年の杖に触れた。嵌め込まれた変換石が煌々と光り震える。周囲に無数の光の刃が出力された。邪魔になるだろうと青年も歌を止める。
「……死ね」
光の刃は一斉に悪夢に襲い掛かり、動き出せないほど小さく切り刻み磨り潰した。食べられない物は跡形も無く潰すしかない。
青年の杖の石が粉々に砕ける頃には、悪夢はもう見ることはできなくなっていた。
「……あっ、獏!? しっかりしなさい!」
力を使い果たした獏は鵺の腕の中でずるりと頭を垂れる。青年は困ったように振り返り、自分の杖を見た。
「……壊された」
「
「杖が」
「歌で何とかできないの!?」
「無茶を言う……」
蒲牢は少し考えた後、小さく口を開いた。星雲のカーテンを広げるように優しく包み込む歌を歌う。
「それは何? 血は止まってないけど……」
「冷静になるように、気休め」
「ああもういいわ! 運ぶのを手伝って! 螭なら少しは癒せるはずよ」
「生きてるのか? これは」
「……っ」
獏もだが、後ろで重なり合って倒れている動かない二人に目を遣る。
蒲牢は俯せになっている緑髪の三つ編みの体を引き剥がし、初めて顔を見た。初めて見る顔なのに、胸の内に刺さるような妙な懐かしさを感じた。
「そうだわ! 椒図の烙印を解除すれば目を覚ますかもしれないわ! そうすれば傷口を閉じられるはず!」
鵺は急いで駆け寄り、狴犴の部屋から失敬した解除印を椒図の首の烙印に当てた。
「椒図……?」
蒲牢の無表情に微かに驚きが混じる。懐かしい名前だった。会ったことはなかったが、名前なら知っている。
「……これでいいのかしら? 解除しても烙印は消えないはずだから……これで解除できてるのかしら?」
「そんな玩具で烙印は解除されない」
「は!? どういうこと……?」
「そのままの意味だ。それは只の木の細工物。何の力も無い」
「嘘……。これが解除印だって聞いてたのに……!」
狴犴に捕らえられた時からその疑念はあった。これではっきりした。本当に最初から信用されていなかったのだ。狴犴は鵺に嘘を教えた。それだけのことだった。そのことに今まで全く気付かなかった。なんて愚者なのだろう。
項垂れる鵺を一瞥して杖を仕舞って代わりに間棒を浮かせ、それを支えに蒲牢は椒図と蜃を何とか持ち上げる。浮かせた間棒に慎重に腰を下ろし、何とか飛ぶことができた。三人乗りは初めてだ。
「落としそうだから、お先に」
ふわりと浮かび上がる蒲牢を追い、悔やんでいる場合ではないと鵺も小さな体で獏を抱え上げ杖に乗った。ふらふらと飛ぶ蒲牢の後ろ姿をはらはらと見守りながら店へ急ぐ。
原形を留めていない飛び散った肉片の上を飛び、ふらふらと店のドアを叩くとすぐに螭が飛び出してきた。穴の空いた体を見、息を呑むのが伝わった。
「治癒を……」
「は、はい!」
螭は急いで杖を召喚し、店の中に向かって叫んだ。
「皆さん! 毛布を持って来てください!」
落とさないように蒲牢は二人の体を地面に下ろそうとし、螭に止められる。ぷるぷると震えながら毛布が敷かれるのを待ち、集中力が切れそうな寸前でやっと二人を下ろせた。
後に続いて来た鵺も毛布の上に獏を寝かせ、駆け寄ろうとした灰色海月を手で制した。
「精一杯頑張りますが、何処まで治癒できるかは……」
「遣れるだけ遣ってちょうだい。後は医者に任せるから。医者に連れて行く間、持たせられるくらい治癒できれば……」
「……はい。少し時間が掛かると思います」
三人の瞼は固く閉ざされており、血の気の無い蒼白な顔を擡げている。椒図と蜃は太い触手に貫かれ、蜃は更に内臓の損傷が深刻だ。獏は全身を幾度と剣に刺されたように損傷箇所が多い。誰の瞼も唇もぴくりとも動かず、呼吸をしているのかもわからない。息があるのを確認しないのは、皆怖かったからだ。もう生きていないかもしれない。それを確認するのが怖かった。
「……鵺。言われて付いて来たけど、一度宵街に戻っていいか?」
苦渋の表情で三人を見下ろす鵺に話し掛けるのは躊躇ったが、蒲牢はやはり声を掛けることにした。これは避けては通れないことだ。
「何でよ。こんな時に……」
「杖を直したい」
「……そうね」
あれだけの負傷で集中力も力の加減もできるはずがなく、蒲牢の杖は獏に壊された。味方として戦力に加えるとしても杖が無ければ意味がない。蒲牢にはまだ他に変換石の嵌った杖があるが、杖によって扱い方が異なるため同じ空を飛ぶでも身の丈より長い間棒では飛びにくい。三人乗りを加味しても先程はあまりに不安定な飛び方だった。
「すぐ戻って来て。――と、烙印の解除印の在処って知ってる……?」
あれだけ苦労したのに結局烙印を解除することができず、解除印に関しては振り出しだ。だが蒲牢は最初からあれが何の力も持たない物だとわかっていた。それなら本物の解除印のことも知っているはずだ。
「解除印は昔、
「変換石……!? 道理で一目見て偽物だとわかるはずだわ……」
「大きさもそんなに大きい物じゃなく、印鑑くらいの……指一本くらいの大きさだ」
「小さいのね……わかったわ。覚えておく」
額に手を遣り、鵺は疲れた顔でやれやれと頭を振る。狴犴が目覚めて引出しを開けたら、嘸かし滑稽なことだろう。そして鵺の目的も知られてしまった。狴犴は警戒を強めるだろう。やはり信じなくて正解だったと。
考え込む鵺は扨置き、蒲牢は長い間棒を何とかくるりと回した。空を飛ぶ時などに使用している杖は細身で軽く回しやすい長さなのだが、戦闘に使用する間棒は打撃に耐えられるようやや太く頑丈で重い。戦闘に集中している時は気にならないのだが、普段のぼんやりしている時だと重くて扱いにくい。常に気を張って生きているわけではないのだ。そのための使い分けだ。
姿を消した蒲牢の立っていた場所を一瞥し、鵺は頭を悩ませた。獏が目覚めないことには、先程の悪夢の説明が聞けない。何が起こったのか全く理解が及んでいない。
このまま死に絶えるのではなく目を覚ましてほしい。心の底からそう願った。でないと、狴犴を裏切ったことも意味がなくなってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます