61-制裁


 酸漿提灯の石段から少しばかり入った下層の小さな広場に、しんと凍り付いた空気が重く沈んでいた。

 全ての音が消えてどれくらい経っただろうか。咀嚼音さえ聞こえてきそうな張り詰めた静寂だった。

 その片隅にある四角く穴の空いた石壁の中で空気と同化するように息を殺し続け、やがて紅花の口元を手で押さえていた背後の何者かが身動ぐ。紅花は声も出せず震えるしかできなかった。体を少し前に押され、なずなの店の中から放り出されるのかと硬直するが、何者かは外の様子を窺っただけだった。

 静寂の中でまた時間が過ぎ、漸く手を離された頃には紅花は恐怖で衰弱し虚ろな目をしていた。

 背後の何者かは紅花の背を壁に預け、もう一度外の様子を見ようと身を乗り出す。

 紅花の目にも漸くその姿が映った。動きに合わせてその白い髪が揺れる。

「お……だ、まき……さん…………」

「……?」

 背後の者は怪訝な顔をしながら紅花を一瞥し、広場へ視線を移した。広場には血痕が残されているが、もう誰もいなかった。綺麗に肉を剥いだ骨や破いた服などは持ち去りきれずぽろぽろと残されている。殺しただけの死体は持ち去ったようだ。残した物も拾いに戻って来るかと暫く待ったが、戻る気配はない。

「も……もう、大丈夫……?」

 店の奥で蹲っていた薺も恐る恐る這って様子を窺った。咄嗟に店の奥に突き飛ばし助けてくれた銀髪銀眼の彼は振り返り、小さく頷く。

 その青年がいなければ今頃は薺も紅花もこの世にいなかっただろう。紅花が蕨から離れなければ薺も駆け寄っていた。そうなれば二人共殺されていた。

 青年はもう一度広場に目を遣り、様子のおかしい紅花に視線を落とした。片耳に付けた耳飾りがしゃらりと揺れる。

「君は大丈夫か?」

 紅花は虚ろな目で青年を見上げ、忙しなく肩を上下させ口をぱくぱくと苦しそうに動かす。

「ベニ、大丈夫!? どうしよう、ベニが……」

「過呼吸か?」

 混乱と恐怖が限界に達したのだろう。必要以上の空気を必死に吸おうとする。

 青年は紅花の前に跪き、一度視線を落とし口を開いた。

「耳を傾けて、それ以外は排除して」

 小さく息を吸い、耳飾りの小さな石が光る。

「――――」

 第一声だけで、空気が変わった。それは歌だった。だが言葉ではなかった。

 本当に人の声なのか、憂いを帯びた春の陽射しのような歌声は零れた草露が静謐に波紋を広げるように囀り渡り、木漏れ日のように、優しく綻ぶ花のように穏やかで、時折うら悲しく感じる旋律を奏でた。思わず呼吸を忘れてしまうような澄んだ歌声だった。

 ゆっくりと紡がれる旋律に紅花も混乱を忘れ目を丸くする。何を焦っていたのだろうと、呼吸も穏やかになる。だが涙だけは止まってくれなかった。

 もう大丈夫だろうと青年は口を閉じ、耳飾りの石も静かに光を落としてゆく。

「も……もしかして、獣様ですか……!?」

 穏やかな余韻を裂くように最初に口を開いたのは薺だった。身を乗り出して不安そうな顔をする。一瞬にして紅花を落ち着かせたのだ、人間の声ではない。

「わ、私、獣様に失礼な話し方を……」

「気にしなくていい。俺はただ通りすがっただけで、買いたい物があっただけ」

 獣の青年は表情を変えず、淡々と目的を口にした。

「買いたい物……ですか? もしかして、私のカフェでですか……?」

 獣がこんな下層まで買物とは珍しい。獣が変転人に交ざりカフェを利用することは普段ないので、何を求められるのかわからずじわじわと肝が冷えてしまう。この大人しそうな青年も変転人を食べるなどと言い出さないかと。

「ここはカフェなのか? 人が集まってるから何があるのかと思ったけど……カフェなら丁度いい」

 どうやら何も知らずに立ち寄っただけのようだ。まだ信用はできないが、この青年が偶然とは言え通り掛かったことは運が良かったのだろう。彼の買いたい物がどうか店にあるようにと薺は息を呑んで祈った。

「タピオカが欲しい。人間の間で流行ってる物だそうだ。けど俺が人間の列に並ぶと目立つ。宵街にもあるかと来てみたんだけど」

「た……たぴおか……」

 全く予想していなかった緊張感のない言葉が飛び出し、薺は目を瞬く。無表情を崩さない青年が何を考えているのかはわからなかったが、人を食べたいと言われなかったことだけは安心した。

「無いなら他を当たる」

「あっ、あります! 黒いのも白いのも!」

 蹌踉めきながらも立ち上がり、薺は机に黒と白の粒が詰まった瓶を置いた。初めて見るのか青年は興味深そうに瓶を覗き込む。

「黒と白はどう違う?」

「黒は黒蜜、白は糖蜜に漬けた物です。お好きな方を選んでください」

「…………」

 じっくりと無表情で見詰めたまま動かなくなってしまった。まるでこの青年だけ時間が止まってしまったかのようだった。

「……両方は……」

「両方でもいいです!」

 直ぐ様透明なカップに二色のタピオカを掬う。獣の言うことには逆らえない。そして待たせてはいけない。紅花はまだ話せる状態ではない。この獣の相手は自分がしなければと薺は震えそうになる手を必死に抑えた。

「お、お好きな飲み物を選んでください。定番はミルクティーですが、ココナッツミルクも……変転人の間では人気です」

「…………」

 再び黙り込んだ青年を待ちながら、薺は未だに座り込んでいる紅花を見る。広場の方をぼんやりと見詰めながら彼女はまだ涙が止まらない。蕨との付き合いは薺より紅花の方が長い。どんな言葉を囁いても慰めにはならないだろう。今はまだどんな言葉を掛けるべきなのか思い付かない。薺もまだ混乱が解けたわけではないのだ。

「……じゃあ、定番の」

「ミルクティーですね」

 準備していたミルクティーをすぐにカップに注ぐ。興味深そうに眺める青年の前で太いストローを差し、できるだけ待たせずに提供した。人が殺された直後に飲食ができるとは、獣の神経は変転人とは全く異なるようだ。

 青年は何処か心ここに在らずといった様子で、瞬き以外は表情を動かすことがない。変転人も人の姿を与えられて暫くは感情が乏しいが、獣はその限りではないはずなのに。彼は物静かで掴み所のない獣だった。

「ど……どうですか……?」

 声を掛けて良いものか迷うが、訊かずにはいられなかった。無表情を崩さない青年の機嫌が読み取れず、訊くしかなかった。

「……飲むか食べるかどっちかにしたい。意外と難しい……」

「す、すみません! お口に合わなかったですか……」

「人間は面白い物を流行らせる。美味しいと思う」

「!」

 紛らわしい返答だったが、機嫌を悪くしたわけではなさそうだ。心臓が止まるかと思ってしまった。

「……もう少しタピオカが欲しい」

「お好きなだけ入れてください!」

「いいのか?」

 有色の変転人は獣と会話をする機会など殆どない。この感情の読み取れない獣の青年とどう意思疎通をすれば良いのかわからず、薺は全て放棄するように瓶を突き出した。

 青年は困っているのか喜んでいるのか、ただ遠慮することもなく黒と白のタピオカを交互に掬いカップに追加する。透明なカップに半分程放り込み、漸く青年は手を止めた。つまり気に入ったのだろうと薺は漸く理解できた気がした。

「この甘い蒟蒻は美味しい」

「た、タピオカですね……」

 ずしりと重くなったカップを手に、青年は紅花の前にもう一度屈んだ。呆然と泣き続ける彼女にカップを向ける。まさか飲ませるのだろうかと薺はハラハラと見守った。

「さっきの獣は見覚えがある。これの御礼に、その獣を叱ってやる」

 紅花と薺を店に置いて出て行けば、変転人を襲った獣に制裁は可能だっただろう。だがそれだと店の中に誰かいると推測され、彼女達を襲う可能性があった。青年がここに来た時にはもう蕨は手遅れで、死者より生者の安全を優先した。

 紅花は虚ろながらも少し視線を上げ、震える唇を小さく動かした。獣に話し掛けられて黙っているわけにはいかない。この青年も機嫌を損ねれば危害を加えるかもしれないのだから。

「……さっきは……苧環さんと間違えて……すみませんでした……」

 ぼそぼそと囁くように小さな声だったが、青年の耳には届いた。

「期待に添える人物じゃなくて悪かった」

「いえ……そんな……」

「でも君にはまだその人がいるってことだな。悲しくても、遣れることはあると思う」

「……復讐……とか、ですか?」

「それでもいいけど、それじゃなくてもいい。君には時間がある。もう少し考えてみるといい」

「…………」

 青年は立ち上がり、ストローを咥えた。紅花には彼が何を言っているのか理解できなかった。今は思考が停止していて、何も考えられない。この喪失感をこれから永遠に引き摺っていくのだと思うと、時間なんてどうでも良かった。

「これの値段は?」

 唐突に話を変えるので薺は何を言われたのか理解できず反応が遅れたが、すぐにはっとしてぶんぶんと首と両手を振った。

「いいです! 助けてもらった御礼です! 貴方様がいなかったら私とベニも殺されてたと思います……だから、それだけじゃ足りないくらい、その……凄く感謝をしてます!」

「……いいのか? じゃあ、また何か気になる流行り物があれば、来てもいいか? 昔より店が減ってるみたいだから、何処に行けばいいかわからなくて」

「それは勿論です! いつでもいらっしゃってください!」

 一言発する毎に声が上擦ってしまう。獣と会話をするのは緊張する。無表情のまま表情が動かない所為か、余計に不安になってしまう。言葉から察するに随分長く宵街に来ていなかった獣だろう。今より店が多かった頃とはいつの話なのだろう。

 青年はストローを咥えたまま杖を召喚し、片手を添えて跳び乗る。とんと地面を蹴るとふわりと上昇した。

「……俺は死についてあまり考えないようにしてる」

 独り言のように呟き始めた青年に、紅花は顔を上げた。滲んだ視界に銀色がぼやける。一瞬視界に入ると白花苧環の白い色と重なって見えてしまう。

「だから、薄情に見えるかもしれない」

「……?」

 青年は一度口を閉じ、考え直して言い直した。

「実際……やっぱり薄情なのかも」

 それだけ言うと、青年は石段を飛び上がって行った。変転人が殺された直後に呑気にカフェで注文をする神経のことを言っているのだろうかと紅花も薺も首を傾ぐことしかできなかった。獣の思考を理解するのは難しい。

 青年はタピオカを啜りながら、間違えて人を轢かない高度を保ちつつ速度を上げる。薄暗い宵の街で光を弾く銀線が空に走る。中層を越え上層も突き進み、箱を積んだような大きな石壁の前で漸く止まった。

(ここに居なかったら、後はわからないな)

 それは科刑所と呼ばれる建物だったが、青年には以前の名の方が馴染みがある。

 入口に人影はなく、黙って中に入った。淡い型板硝子が廊下に仄かな色を落とす、暗く静かな空間だった。

 所々蔦の這う廊下を進み、階段を上がる。誰もいないのか何も音がしない。

 当たりを付けた上階の扉の前で杖を止め、水面に波紋を立てないようにそっと足を降ろした。くるりと杖を消し、ストローを咥えたまま扉を開ける。

 姿を現すや否や唖然とした顔が青年の方を見ていた。小さな檻の中の獣と、机に向かう獣。どちらの顔も青年は知っている。


「……蒲牢ほろう!?」


 手前にいた檻の中から先に声が上がった。銀色の青年はストローを離し、首を傾げながら檻を見る。

「鵺? 新しい遊びか?」

「遊んでないわよ! 捕まえられてるの!」

「悪戯でもしたのか?」

「悪戯……じゃなくて、ね……」

 解除印を盗もうとしたとは言えず、鵺は言い淀み目を逸らした。

 目を合わせてもらえなくなった青年は正面に座る狴犴に目を向ける。いつも涼しい顔をしていた狴犴の顔に僅かに焦りが浮かんでいた。

「蒲牢……今更……、何か用か」

「宵街に、ってことなら、流行りのこれを買いに来た」

 まだ粒が残っているカップをよく見えるように突き出す。狴犴に反応はなかったが、鵺はぼそりと呟いてしまった。

「ちょっと前に流行ってたわね……」

「……? ちょっと前……?」

 今現在も流行の最先端だと思っている物を否定され、蒲牢は無表情で首を傾げた。何故話が噛み合っていないのか理解できない。だが今はその話をしに来たわけではない。頭を切り換える。

「……ここに、ってことなら、饕餮とうてつはいるか?」

「饕餮? いないが、何か用なのか?」

「何処にいるか見当は付くか?」

「どうだろうな。あいつは神出鬼没だからな」

 銀髪の青年――蒲牢は困ったように黙り込んだ。表情は動かないが、伏せた睫毛に困惑が微かに見える。

「饕餮ならさっき来てたわよ」

 檻の中から補足する鵺を一瞥し、蒲牢はもう一度狴犴を見た。狴犴の表情は変わらない。蒲牢の問いでは『今はいない』という意味で、狴犴の返答は嘘にはならない。

「饕餮は何か言ってたか?」

「餌を食べるとか言ってたわよ。餌が何なのかわからないけど。狴犴に訊いてみたけど、気にするなって言われたわ」

 ふんと肩を竦める鵺の前に蒲牢はそっとカップを置いた。中は空になっていた。話を聞く間に飲みきったらしい。澄んだ銀色の目を真っ直ぐに狴犴へ向ける。

「狴犴。饕餮の餌って、変転人?」

「!?」

 鵺が目を見開くが、それは気にしない。当の狴犴は表情を変えない。

「変転人が襲われてるのを見たんだけど、」

 蒲牢は僅かに眼球を動かし、狴犴の微かな動きを見る。

「知ってるよな?」

 無感動な目を細め、後ろ手に杖とは別の身の丈よりも長い間棒けんぼうを召喚する。何処かぼんやりとしていた空気は霜が降りたように、双眸は凍て付く。

「統治者だろうと見過ごせない」

 狴犴が死角に何かを持ち、肩が動くのを蒲牢は見逃さない。彼はその手に杖を握っている。

「理由があったとしても、その結果に対して――制裁を与える」

 蒲牢は間棒をくるりと回し、床を蹴った。一跳びで距離を詰め、狴犴に振り下ろす。微塵も躊躇はない。

 狴犴は隠していた短い杖を前へ、印を発動する。衝突の衝撃で火花が散った。蒲牢の使う間棒は只の棒ではない。変換石が埋め込まれた杖だ。印を受け止めることができる。

「粛清する」

 感情の籠もらない鋭利な刃物のような銀眼で睨み、印を弾いた勢いのままくるりと後方へ降り立つ。

「……お前は宵街を去った。今更また粛清などと……ここに、贔屓ひきはもういない」

 狴犴は反論をしない。何か理由があるのか饕餮を庇っているのか――。

 杖を振り、狴犴は小さな印を空中に幾つも発動する。攻撃のための印だ。それを蒲牢は知っている。

 印が光り、機関銃のようにそれぞれの印から弾丸が弾き出される。蒲牢は距離を保ちつつ姿勢を低く床を駆け弾を躱す。

 足止めのための床の隠し印が発動し、床を踏む度に鵺の檻と同じ鋭い棒が串刺しにしようと聳り立つ。それら全てを舞うように躱し、駆けながら蒲牢の耳飾りが光る。

「……印を全て破壊する」

 息を吸い、闇を駆ける紫電のような旋律で歌を奏でた。暗く重く絡み付くように、全身に幾本もナイフを突き刺すように。責め立てる極寒の声が氷を割るように部屋の印を砕いていく。

 蒲牢の杖は用途に合わせて三本ある。空を飛ぶための杖、戦闘のための間棒、そして歌に力を持たせるための耳飾りだ。

「……!」

 印を砕かれた狴犴は自身の力を杖に籠める。

 だがそれが出力される前に蒲牢はするりと手を滑らせ棒の先を持ち狴犴の懐に入り、長い間棒を手足のように操り狴犴の杖を弾いた。杖が床に落ちる前に間棒を持ち直してくるりと回し、追撃する。

「――っが……」

 呆気無く弾き飛ばされた狴犴は壁に打ち付けられ、脳を揺さぶられ床に崩れた。

 床に俯せに倒れたまま、狴犴は動かなかった。その頭に間棒の先を突き付け、蒲牢は機械のように無感動な目で見下ろす。

(手加減した……?)

 微動だにしない狴犴を暫く見詰めた後、蒲牢は踵を返した。饕餮の居場所はわからないままだ。狴犴の相手をすることに時間を掛けるわけにはいかない。食事をした後にすぐにまた変転人を襲うとは考えにくいが、彼女の行動は把握しておきたい。襲わないように釘を刺しておく必要がある。

「殺したの……?」

 檻の中から一部始終を見ていた鵺は息を呑んで尋ねた。あの狴犴が呆気無さ過ぎる。

 蒲牢はぴくりと指先を強張らせるが、鵺はそれに気付かない。

「殺してない。気を失ってるだけだ」

「お前の戦う所は初めて見たけど、こんなに強いなんて……」

「……。狴犴に印を教えたのは俺だから、勝手がわかってただけだ。罠は知らないから罠であって、知ってれば只の玩具だ」

 何でもない風に言うが、やはり強いと鵺は思う。知っていても印をいとも簡単に破壊できる力が誰にでもあるわけではない。饕餮も印を破壊していたが、狴犴が印を扱うからこそ対策として身に付けたのだろう。

「……ねえ、印を破壊したのに何で私はここから出られないの?」

「出さない方がいいのかと思った」

「何でよ! 出してよ!」

「……反省してたら出してもいいのか……? 何の反省だろう……」

 鵺が閉じ込められている理由を知らない蒲牢は途惑ったが、狴犴に制裁が必要だったことを考えると単純に鵺が邪魔だったから閉じ込めた可能性は充分にある。それなら閉じ込めたままでは可哀想だ。

 じっくり考えた末に蒲牢は間棒でこんと軽く檻を打って破壊する。砕け散った檻は床に付く前に消え失せた。もし檻から出して襲い掛かって来ても、狴犴と同じように床に叩き落とすことはできる。

「恩に着るわ」

 解放された鵺は蒲牢ではなく狴犴の机へと走り、引出しを漁る。蒲牢の前で解除印を持ち出すことは躊躇うが、急ぎたい気持ちが勝った。

 その様子を怪訝に無表情で蒲牢は眺める。

「――あった! これだわ」

 目的の物はすぐに見つかった。引出しの中に無造作に転がっていた仕置印に似たシーリングスタンプのような黒い解除印を手に取り、鵺は急いで出口へ走った。

「そんな物が欲しいのか?」

 部屋を出て杖を召喚し透明な街へ戻ろうとした鵺は、はたと動きを止める。

(私の家にマキちゃんを連れて行くって言ったわよね……間に合うなら確保しておきたいわね……。それと蒲牢。こいつは使える)

 振ろうとした杖を下ろし、鵺は振り返った。

「お前も付いて来て」

「……?」

「もしかしたら饕餮にも会えるかもしれないわ」

 一度あの街に現れた饕餮がまた現れる可能性はある。嘘は言っていない。連れて行けば蒲牢は強力な戦力になる。今まではあまり会話をしたこともなく仲が良いわけではないが、性格は大人しく話がわかる……はずだ。何を考えているのかわからない顔をしているが狴犴を叩きのめしたのだから、敵にはならないはずだ。

「饕餮には一言言いたい。会えるなら行く。何処に行くんだ?」

「まず先に私の家よ。ちょっとした用でね。その後、目的地に行くわ」

 上手く話に乗ってくれたと安心して杖に腰掛け、鵺は先に飛ぶ。蒲牢も間棒から杖に持ち替え跳び乗った。その間も狴犴は目を覚ますことはなかった。

「お前を宵街で見るのはかなり久し振りな気がするんだけど、何でまた戻って来たの? 本当に……その、タピオカのためなの?」

「そうだけど?」

「……お前って、少し変わってるわよね」

「人と違うことを変わってると言うなら、全く同じ人なんか存在しないんだから皆変わり者だ」

「んん……どうなのかしらね、その理屈……」

 薄暗い石段を下り、鵺の家を目指す。薄暗い宵街を歩く者はなく、誰とも擦れ違わずに四角い石の家に着いた。

 家には誰かが侵入した痕跡があり、奥のドアを開けた先にも見覚えのない蔦が這っていた。床には包丁が突き立っている。だが肉片の一つも見つけられなかった。包丁は汚れておらず、鍋もコンロも使用した痕跡がない。

「誰もいない……どうしてかしら……」

 床に転がる小さな檻は花魄かはくが入っていた物だろう。鍵は開いたまま、中身がいない。烙印も首輪も無い彼女が檻にいないとなれば、自由に力を使える状態で逃げたと考えられる。あの小ささでは見つけ出すのも苦労するだろう。白花苧環はもう動かないので持ち運ばれたとしか考えられないが、浅葱斑の状態が気掛りだ。

「鵺も誰か探してるのか?」

「そうなんだけど……」

「俺も知ってる人か?」

「知らないと思うわ」

 浅葱斑も白花苧環も、蒲牢が宵街を出て行った後に宵街に来た変転人だ。花魄が罪人になったのも、蒲牢がいなくなった後だ。

「じゃあ特徴は? 気に留めておく」

「浅葱色の髪の変転人と、白い首切り死体よ。あと掌サイズの獣」

「聞かなければ良かった」

「何? 知ってた?」

「いや。碌な感じじゃなさそう」

 確かに碌な感じではない。

「浅葱色の変転人は狴犴に印で操られてるみたいなのよ。もし見つけたら印を壊してもらえる?」

「変な話だな。変転人に言うことを聞かせるのは簡単なのに、わざわざ印を使うのか……。見つけたら壊しておく」

 家の中を一周し他に痕跡がないか探したが、何も出て来なかった。何処へ姿を消したのか手掛りがない。

「……まあいいわ。先に手に入れた物を渡しに行く」

 行方は気になるが、足取りの掴めない者を探すより先に解除印を届けた方が良いだろう。解除印があれば獏と椒図は力を平常通り使えるようになる。それが正しい選択なのかはまだ悩む所もあるが、もう狴犴を信じることができない。饕餮が変転人を餌とすることを容認していたことが不信感を揺るぎないものにしてしまった。

「手に入れたって、さっきのか?」

「そうよ。お前が知らない、地下牢とは別の牢に行くわ」

「別の牢? 地下牢だけじゃ足りなかったのか?」

「そこもちょっと複雑なのよ……」

「少し離れてただけだと思ってたけど、宵街は随分変わったな……」

「お前の少しって何百年よ」

 何の感情も加わらない顔だが、哀愁のようなものは感じる。蒲牢は昔からこうだ。感情をあまり表に出さない。機械ではないので口調に少しばかりの抑揚はあるが、それだけだ。特に笑った顔は見たことがない。

「行くわよ」

 何を考えているのかわからない蒲牢の横顔を見、鵺は眉を顰めながら杖をくるりと回した。

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