60-花の行方


 宵街の最高権力者の仕事は主に二つ。一つは人間の街から隔離した空間に存在する宵街の統制。もう一つは人間に対して必要以上の加虐を行った者を罰すること。この『人間』には変転人も含む。

 狴犴が科刑所に棲み統治を引き継ぐ前もそれは同様だったが、内容はやや異なる。科刑所が研究所と呼ばれていた頃、烙印を捺し地下牢に放り込むことは同じくあったが、機を見て必ず釈放された。重罪には厳しく当たるが、これも釈放されないことはなかった。長く生きる獣なら皆口を揃えて言うだろう――昔の方が良かったと。だが狴犴はそれを気にしない。誰が何を言おうと、どんな罪人だろうと釈放をしないこの体制を変えるつもりはなかった。

「いい加減出してほしいんだけど――」

 印で作った簡易な檻に囚われた鵺は座り込みながら狴犴に怨めしげな目を向ける。この檻の中では力を使うことができず、自力で出ることができない。これでは牢の罪人と同じだ。睚眦がいさいに拷問されないことだけが救いだが、いつまで閉じ込められるのか、苛立ちが募る。

 狴犴は殺風景な部屋の中で相変わらず机に齧り付き、少しも顔を上げずに書類に目を通している。白花苧環がいた頃は彼も書類の整理を手伝っていたが、今は狴犴が一人で熟している。鵺の何度目かの呼び掛けにも全く反応しない。

 紙の擦れる音だけが静かに響く部屋に、扉を叩く音が混ざる。ここに誰かが訪ねて来るのは珍しい。

「入れ」

 顔を上げずに一言発すると、扉は徐ろに開いた。くすんだ布に包まれた何か大きな物を抱えた少年が無言で部屋に入る。その青い髪に鵺は見覚えがあった。思わず息を呑み、目を見開く。出そうになった声は寸前で呑み込んだ。

(アサギちゃん……!? ってことはもしかして持ってるのは……)

 腕に抱えられている物は頭の無い人の形に見えた。人とすると丁度腹の辺りに頭ほどの膨らみがある。

(何でアサギちゃんがマキちゃんを……!?)

 浅葱斑は虚ろな目を狴犴に向けたまま立ち止まり、床に荷物を置いた。

 狴犴は漸く立ち上がり、布に包まれた物の前に膝を突く。布の端を捲り、中身を確認する。鵺の位置からでも少し白い中身が見えた。間違いない、あれは白花苧環の体だ。

「よくやった。次は牢から花魄かはくを連れて来い」

 浅葱斑に鍵を一本授け、狴犴は再び机へ戻る。椅子に座ると書類に目を落とし、もう顔を上げることはなかった。

 浅葱斑は鍵を握り、踵を返す。一瞬鵺と目が合うが、何も反応はなかった。一言も話さずに部屋を出て行く。

 状況が理解できずに閉まる扉を神妙に見詰めていると、鵺と狴犴しかいないはずの部屋の中に突然もう一つ甲高い声が響いた。驚き振り返ると、狴犴の肩をバシバシと遠慮無く叩く学帽を被った羊角の少女の姿があった。手に杖も持っている。獣だ。

「へいかーん! 今の子食べていい!? 我、お腹すいちゃった! そこの白いのは不味くって!」

「白いのは勝手に食べるな」

「今の子は? 食べても?」

「あれはまだ利用価値がある。無くなれば食べても構わない」

「ちっ。今すぐじゃないのか。灰色はどんな味がするか味見したいのに。もう一人の灰色は若過ぎる気がするのよね。もうちょっと熟成させないと草の味がしそう」

「草……? 灰色海月は植物系ではないが」

「えっ、そうなの!? じゃあ食べてみようかな」

「あれは食べない方がいい。獏から恨みを買っても知らないぞ」

「獏ってあれよね。うん、この前見た見た。元気そう」

「見たのか? 全くお前は……また好き放題を」

 顔を上げずにではあるが狴犴がこんなに喋るのは珍しい。

 少女は鵺の視線に気付きぴょんぴょんと跳んで来る。檻の中の鵺を頭を傾けながら覗き込んだ。

「誰だっけ? 獣は不味いけど、美味しい獣もいると思う?」

 ぎらりと好戦的に輝く双眸が不快感を表わす鵺の顔を映し、けたけたと嗤う。

 鵺は透明な街で白花苧環が殺された時に、彼女のことを椒図から聞いている。だが彼女は鵺を知らないだろう。初対面のように取り繕う。

「誰よ、お前」

「我は饕餮とうてつ

 くるりと回り、片手でスカートを抓んで名乗る。

 不敵に嗤っていた饕餮だったが、ふと顔を顰めてくるりと狴犴を振り返った。

「……狴犴、印が鬱陶しいからちょっと切ってくれない? 自動発動の奴」

「ここは私の部屋だ」

「切らないってことか。不快だから我に向かってくる印は破壊してるけどね!」

「……設置が面倒なんだ、早く出て行け」

「あはは! もっと壊す? 壊してみる?」

「…………」

「ごめーん。怒らないでー。空腹で破壊衝動が出ただけなの。餌食べていい?」

 口を尖らせながら、全く反省していない顔で人差し指を立てる。狴犴はそれを一瞥しやれやれと溜息を吐いた。

「……好きにしろ」

「やりぃ」

 饕餮はすぐに杖を掲げ、くるくるとピザ生地のように回しながら扉を開けた。がんがんと杖をぶつけるが気にせず、嵐のように歩いて部屋を出て行く。入って来た時はあまりに唐突で気配にも気付かない程だったが、出て行く時は騒々しく普通に歩いていた。

「……饕餮って、お前の弱味でも握ってるの?」

 気圧されているように見えてしまったのだが、二人の普段の関係を鵺は知らない。

「握られてはいない。ただ御転婆な彼女を静かにさせておきたいだけだ」

「餌って言ってたけど、何?」

「気にするな」

 浅葱斑を食べるやら鵺に向かって美味しいか訊くような少女だ。餌が何なのか良くない予感しかしない。人間を喰う獣が存在することは知っているが、あれがそうなのかと眉を顰める。人間を食べたことのない鵺にはわからない感覚だった。

 また暫くは何を話し掛けても狴犴は何の反応も示さなかった。再び反応を示したのは、浅葱斑が戻って来た時だった。

 彼は今度は四角い虫籠のような檻を提げて部屋に入ってきた。檻としては小さいが虫籠としては大きい。その中に小さな少女が蹲っていた。透き通るような雪の肌に、宝石のような瞳。愛らしい顔は不安そうに揺れている。地下牢に収容されている罪人、花魄だ。鵺も勿論知っている。

 檻を机に置き、浅葱斑は一歩下がった。花魄は膝を抱いて座ったまま、こてんと横に倒れた。

「よ……酔う……」

 檻を揺らしながら連れて来たからだろう、花魄の不安そうな顔は酔いに耐えていた顔だったらしい。可憐で愛らしい容姿だが、中身までそうとは限らない。

「釈放なら、この揺さぶられる地獄も許そう……」

「釈放ではない」

「ゆ……許さない……」

「頼みたいことがある」

「この状態で……?」

 恨みを籠めた声がか細く消え入るようだ。狴犴は感情の籠もらない目で見下ろし、控える浅葱斑にもう一度使いを頼んだ。

「水を一杯持って来てくれ」

 浅葱斑は虚ろな目を動かさず、黙って踵を返した。

(アサギちゃん……これは操られてると見た方がいいかもしれないわね……意思があるように見えない)

 すぐにコップに一杯の水を持ち戻って来る。檻の横に置き、浅葱斑はまた一歩下がる。

 狴犴は檻の錠を開け花魄を抓み、水の中へ沈めた。水責めにも見えるが、これは花魄には必要なことだ。暫く浸かった後、生き返ったように彼女は水から顔を出した。

「助かったわ」

 弱ると萎れてしまう花魄は、水を得ると元通りの元気を取り戻すのだ。

「変転人の種の世話を任されてほしい」

「……」

 コップを机の端に置き、狴犴はくすんだ布を捲って見せた。コップの縁に小さな手を載せ、花魄は表情を変えずに見下ろす。

 罪人の力を借りるとは示しが付かない。椒図を使おうとしていた時もあったが、脱獄したことでそれは無かったことになった。鵺は顔を顰めるが、狴犴が何を企んでいるのか知る機会でもある。今は黙っていた方が良いだろう。

 罪人とは言え花魄はかなり特殊な例だ。襤褸を纏わず小綺麗で、首輪も烙印もない。彼女が小さ過ぎる故に大きさが合わないのだ。特注品を拵える案もあったのだが、首輪には強度に不安が残るのと、烙印に関しては小さ過ぎて模様が刻みきれず威力が発揮できない問題があった。なので檻の方に首輪と烙印の機能を施している。檻から出ると自由に力が使えてしまう問題があるが、仕方のないことだった。

「またなの? しかも首が繋がってない」

「首が無いと問題があるのか?」

 また、という言葉に鵺は眉を寄せた。黙って聞いているには不愉快な会話だった。

「吊れない死体は興醒めね。吊す首が無いと吊せないわ」

「吊さないと種は取れないのか?」

「そういうわけじゃないけど。吊せると私の気分が良くなる」

「この状態ですぐに種を取り出して栽培できるか?」

「すぐに? だったら腹を掻っ捌いて心臓を取り出して、じっくり時間を掛けて煮て煎じて固めてあげないと」

「それでいい。場所を用意する」

「まさか承諾されるとは思わなかったけど……この変転人が憐れだわ……」

「螭の所へ行けば鍋があるが、空きは無いだろうな。鵺の家の鍋を借りよう」

「何でよ!」

 思わず叫んでしまい、鵺は慌てて口を塞いだ。幾ら普段下手物を好んで食しているとは言え、人の臓器を鍋で煮詰められるのは抵抗がある。もう死体ではあるが死んでからもそんな扱いをされてしまう白花苧環にも遣る瀬無い気持ちになる。

 花魄はたった今鵺の存在に気付いたようで目を丸くし、勢い良く身を乗り出してコップが倒れた。幸い机の上だったので床に落ちずに安堵した。

「鵺だわ! 檻……? あんたも罪人になったの? ようこそ!」

「ようこそじゃないわよ。私は罪人じゃない」

「あんたの家で心臓を煮込む話になってるの。何か食べたい内臓があれば他にも煮込んでみる? モツ煮込みよ」

「食べたくない」

「……っ!」

 花魄は心底驚いた顔をするが、鵺はそんな物を食べると一言も言った覚えがない。口をきゅっと引き結び、不快な顔で目を逸らす。花魄は驚いて様子を窺うように倒れたまま左右に頭を動かした。

「捌いて心臓を取り出せ」

 無駄話を聞いている暇はないと、狴犴は浅葱斑に命令を下した。浅葱斑は微塵も躊躇を見せずに白い塊を見下ろし、跪く。

「――待って!」

 無駄話をしていた花魄は起き上がり、白い塊へと飛び降りた。布をクッションに全身で着地し、浅葱斑の前で両腕を広げる。

「心臓は新鮮さが命! 鵺の家に行ってから捌きましょう!」

「そうなのか。ならそうしてくれ」

 狴犴は無感動に浅葱斑に目配せし、後は任せたと言わんばかりに椅子へ戻った。

 浅葱斑は花魄を抓んでもう一度檻へ入れ、白い塊の上に載せて抱え上げる。

 何だかわからないが言うことを聞いてもらえるらしいと気分の良くなった花魄は格子に捕まり、ひょこりと鵺に向かって頭を出し、にやりと意味深長な笑顔を作った。それは浅葱斑の体に遮られ狴犴には見えなかった。

 扉が閉まると、花魄は緊張感を肩から抜いて笑顔を消した。

「全く……花の扱いが下手ね、狴犴は。それに……何だろう、心が何処にあるのかわからないわ」

 虚ろな目を動かさずぼんやり前だけを見詰める浅葱斑を見上げ、同じように前方を見る。

 薄暗い空間に、淡い型板硝子の窓が微かな光を受けて仄かに照らしている。誰とも擦れ違わず一つの足音だけが廊下に響いた。

 鵺の家は科刑所からは少し離れている。中層に買物へ行くことも多いため、上層の下の方にある。

 科刑所を出ると、飛ぶことのできない浅葱斑は重い体を抱えながら地道に酸漿提灯の並ぶ石段を下った。

 中層近くで横道に入り、石壁に打ち付けられた不揃いな街灯が照らす道を歩いた先に四角い石の塊のような家が現れる。変転人の家と然程変わらないが、それよりも中は広い。

 ドアを開けると暗く短い廊下があり、奥にあるドアを開ける。広い部屋が現れるが目的はそこではない。ゆっくりと部屋を見回し、ドアの無い出入口の先に台所を見つけた。布で包んだ白花苧環を床に置き、花魄の檻を開けておく。浅葱斑は一人で台所に入り、鈍く光る包丁を手に戻って来た。

 浅葱斑は虚ろな目で見下ろし、布を剥ぐ。白い体が現れ、頭部がごろりと転がった。両膝を突き、胸に刃先を翳す。

「…………」

 息を呑んで見詰めていた花魄は、刃先が微かに震えていることに気付いた。顔を上げると、彼の虚ろな目から一筋の滴が頬を伝っていた。狴犴に操られているはずの人形が感情を零していることに驚きつつ、花魄は彼を憐れに思う。

「……苦しいなら、やめなさい」

 手は震えているが、彼は包丁は引かなかった。

「私の声が聞こえてるかわからないけど、鵺も苦しそうな顔をしていたわ。狴犴に操られる人形でも、まだ躊躇が残ってるのね。それとも外側しか操られてないの?」

 浅葱斑はゆっくりと包丁を振り上げた。ここで止めるわけにはいかない。そう言っているようだった。包丁を握り締め白い体を見下ろし、震える手を一息に振り落とした。

 包丁が突き立ち、花魄は花のような形の杖を取り出し、ついと翻した。床の隙間から突如生えてきた蔦は浅葱斑の腕を縛り、後ろへ引く。床に倒れた浅葱斑の頬に触れ、そっと滴を拭った。

「これがあんたの意思なら、無理強いはできないわ。少し御休みなさい」

 虚ろな目は重くなる瞼に逆らえず意識を切り離す。

 花魄は振り返り、床に突き立った包丁に目を遣った。狴犴の操り人形なのかと思ったが、標的を避けるとは。どのみち物言わぬ死体ではあるが、これ以上傷を付けるのは躊躇われたのだろう。

 浅葱斑が完全に眠ったことを確認し、今度は転がった頭部の許へ行く。両手で押してみるが動かせそうになかったため、杖を振って蔦に運ばせた。

「可哀想に。蔦をぐるぐると巻けば首が付いたように見えるかな?」

 急がずとも、時間を置けば自然と種は取れる。狴犴は『すぐに』と何処か焦っているようだったが、煮詰めるのに時間が掛かったと言っておけば誤魔化せるだろう。――それに。

 人形の浅葱斑の見張りがあれば檻から出しても問題ないと思ったのだろうが、甘く見てもらっては困る。烙印も首輪も無い状態で檻から出してもらえるのならば、考えることは一つしかない。心臓を煮詰めるなんて、狴犴から離れるための嘘だ。死体の心臓に鮮度なんてものもあるはずがない。決意を新たに花魄は腰に小さな手を当てた。

(脱獄なんてわくわくするわ!)


     * * *


 狴犴の通達が出されてもうどれくらい経っただろうか。相変わらず続報はないが、念押しの通達もない。

 宵街では通達など必要な情報は各層に設置されている掲示板で行われ、定期的に足を運ばねばならないが、つい先程も掲示板を確認したが新しい情報はなかった。

 小さな広場に並べられた机と椅子の一つに紅花ベニバナワラビは向かい合って座っていた。他にも疎らに有色の変転人が御茶を楽しんでいる憩いの場だ。

「お待たせしました。本日のケーキセットです」

「わっ、美味しそう!」

 傍らにある四角い穴の空いた石壁の中から運ばれてきたケーキと紅茶が机上に並べられるのを見て紅花は目を輝かせた。本日のケーキは檸檬ケーキだ。砂糖を掛けた檸檬の形のスポンジのケーキに砂糖漬けの檸檬の輪切りが載っている。

 有色が営む飲食店は少ない。箱が積まれたような建物は狭く、中にあまり人を入れられないのだ。だからこうして小さな広場を利用して机と椅子を並べている。広場自体があまり多くはないので、飲食店も少ない。

 店を出すのは主に有色だ。無色は獣の手伝いで忙しい。獣は宵街で店など開かない。有色は獣の生活を陰から支えるため、そして豊かにするために店を出す。勿論、自分達でもこうして楽しんでいる。力では獣の役には立たない有色が無色より数が多いのは、こうして宵街を維持するのに欠かせないからだ。街と言うのだから、賑やかな方が良い。

 飲食店が少ない故に店の者とも疾うに顔馴染みだ。他の注文があるため店主の彼女――ナズナは店に戻るが、無い時は一緒になって会話を楽しんでいる。

 紅花はフォークでケーキを突き刺そうとしたが、少し考えてフォークを置いた。手掴みで食べる。

「うん! 美味しい。ナナのケーキは宵街一だよ」

「漸く外を歩くのも抵抗なくなってきたけど、こう何も音沙汰がないとちょっと怖いよね」

「通達の? もしかしたらもう見つかったのかな。結果報告が欲しいよね! 嫌がってないといいなぁ苧環さん……」

「姿は全然見掛けないよね。下層に来てないだけかもだけど」

「後で中層行ってみる!?」

「あんまり上に行くと獣様の目が怖いよ」

「大丈夫だって! 路地からこそこそ行けば!」

「そういう度胸はあるよね、ベニちゃん」

 蕨も倣って手で檸檬ケーキを掴み、端を齧る。しっかりと檸檬の味がするが酸っぱ過ぎず丁度良い。

「苧環さんファンクラブたる者、勇気は忘れない……」

 渋い声を出しながら何だかよくわからない格好を付ける。

「空振りはやめてね」

「それはわからない……」

「迷惑掛けたら本末転倒だからね」

「それはわかる!」

「ベニちゃんの頑張り屋な所は好きだけどね……」

 困ったように苦笑する蕨に、紅花の表情もぱっと明るくなる。

「私もワラビー好きだよぉ。ファンクラブに入りたい時はいつでも言って!」

「それはちょっと」

 笑い合い、ケーキを齧る。鵺の手回しもあって変転人は通達に怯えることも少なくなった。変わらず外に出ない者もいないわけではないが、こうして外で御茶をすることもできる。平常に戻りつつあった。

「ベニちゃん、顔にケーキが付いて」

 指を差そうとした蕨の手が、糸が切れたように突然机に落ちた。

「ワラビー……?」

 力の抜けた指からケーキが落ちて転がる。和やかだった空気が突如として暗闇に呑まれたように、机には徐々に赤い色が広がっていった。頭から棒状の何かを串刺しにされた蕨が虚ろな目で何処か遠くを見ていた。

「ぁ……ぁぁ……」

 声を上げようとした紅花の口は突然背後から塞がれ、抗えずに店の中へ引き摺り込まれた。倒れた椅子が乾いた音を立てる。

 店からは広場を見渡せる。蕨だけではない、他にも串刺しになっている人がいた。無事な人は悲鳴を上げながら散り散りになって逃げていく。一体何が起こったのか、その場の誰にもわからなかった。


「――あれ? 思ったより人がいたのか。ちょっとり過ぎちゃった」


 上空から声が降り、頭を動かせないので目だけを上へ向ける。店の中の物陰からでは何がいるのか見えなかった。口を塞がれたまま床に座り込んで動けない。薺の手ではないことはわかった。それよりも少し大きく、骨張った感触だった。

 上空で杖の上に立つ学帽を被る羊角の少女は微塵も反省の色を見せず、広場を見渡して地面に降りる。

「餌は一人って言ったけど、食べなきゃ大丈夫よね。ひー、ふー……」

 逃げ遅れ動けなくなっていた有色が「ひっ……!」声を上げ、少女はそちらを見ずに槍を投げた。一突きで物言わぬ肉塊になる。

「三人も殺しちゃった」

 一番近くにいた蕨の頭から槍を無理矢理引き抜く。残りの二人にも目を向け槍を振る。刺さっていた槍は刹那の内に消え去った。

「近くに生きてる人はいるー? いないー? いたら他言無用ね! 言ったらどうなるかなぁ……」

 歌うようにきひひと嗤い、手に持っていた槍も消す。地面に崩れた蕨を見下ろし、こんと爪先で突く。頭からはまだ鮮血が流れていた。

「これにしよ。いっただっきまーす」

 蹲み込み、柔らかい首に噛み付く。肉を噛み千切りべっとりと口元を赤く染めて満足そうに笑みを浮かべた。

 それを紅花は声を上げることもできず、震えながら物陰の隙間から見ることしかできなかった。目を逸らすこともできなかった。息を漏らすことも許さないような強い力で口元を押さえ付けられながら、ただ親友が喰われるのを黙って涙を零しながら最後まで見ていることしかできなかった。

 ――これが眠りの中の悪夢なら、早く目が覚めてほしかった。


     * * *


 狴犴は科刑所からあまり出ない。忙しいと言うのもあるが、外に出る必要がないと言うべきだ。

 龍生九子の長子――贔屓ひきと意見の対立があり宵街を渡された日から、狴犴は黙々と働き続けていた。

 獣の自由は尊重すべきだが、目に余る人間への加虐は罰さねばならない。その陰で狴犴がその罪人にどんな思いを抱こうがそれは誰にも汲むことはできない。

 力を持て余した者が罪人となる場合は多い。突発的に力を使いたかったからと衝動的な理由を挙げる者もいるが、それは狴犴にとってはどうでも良い。適当に睚眦に拷問させて地下牢に放り込む。どうでも良い罪人は通路側の檻に入れた。

 内に負の感情を押し込め抱える者は、狴犴にとって面白い力を持っていることが多かった。勿論全てではないが、そういう者は大事に隠すように横道の檻に入れた。

 その中でも特に面白かったのは獏だった。獏は宵街を訪れることがなく狴犴も会ったことはなかったが、有名な獣だ。名前は知っている。悪夢を喰う、只それだけの非力な獣のはずだった。

 それが継続的に少人数の人間を殺し続けていると報告が上がり、首を傾げるしかなかった。非力な女子供ばかりでも狙ったのかと思えば、そうでもないらしい。鵺に行かせたが、普通の人間程しか力を持たないはずの獏が到底可能とは思えない現場だったようだ。狴犴が現場に赴くことはないが、宵街に連れて来られた獏は作り物のような顔に赤く返り血を浴び、現場の凄惨さを容易く想像させてくれた。獏は何も語ることなく冷酷な金色の瞳で静かに睨むだけだった。

 通常なら睚眦に預けて拷問をさせる所だが、あまりに異質な獏を地下牢に閉じ込めるのは惜しかった。鵺もまた何かしらの胸中があった。それを利用し地下牢とは別に、廃棄された誰もいない街を牢とし管理し観察することにした。

 地下牢の罪人とは少し異なる束縛の緩い烙印を捺し、獏には善行を科した。人間を殺した獏に人間へ善行しろと言うのは、新たな死者を生むことになるだろうと想像はできた。だが刑として矛盾はしていない。矛盾しなければ怪しまれることもない。科刑所を出入りする者ももう殆どいないのだ。

 睚眦には獏の存在は知られていないだろうが、何処にでも湧いてくる饕餮は獏が罪を犯す前から知っていて、見世物小屋の話を狴犴は既に彼女から聞かされている。そのことから、名が広まることで力に変化があったのだと推測した。それを利用し、善行により獏の名を広め更に力に変化が起こるか実験をすることにした。今の時点では、烙印で力を制御していることもあり変化があったかどうかは判然としない。見世物小屋には随分と長く居たようなので、変化に時間が掛かることは覚悟している。

 拷問にかけていないため獏が人間を殺した手口については全くわかっていない。何も語らずとも顔を見られることを嫌がっていることだけは微かにだが感じることができた。そのため狴犴は狻猊さんげいの技を見様見真似で仮面を拵え獏に渡した。作り物のように不気味に整った相貌は目立ち過ぎることもあり、面を被るのは丁度良かった。善行を行うために必要な物なら製作の手間は惜しまない。

 白花苧環を視察に派遣したのはやはり死人が多いことによるものだったが、強き者と強き者を会わせれば何か相乗効果が生まれないかと期待があったからでもあった。強き者こそこの世に尊ぶべき素晴らしい才だ。結果としては白花苧環が獏に取り込まれることとなったが、所詮は変転人。人間でも獣でもない紛い物だ。早めに処理をして――違う、その言い方は不適切だ! 獏に関しては烙印の束縛を緩め自由にさせ過ぎたのだろう。

 監視役の灰色海月は獏に味方するだろうが、あの変転人は幼く弱い。監視役代理を務めた黒葉菫は腕は良いらしいが白花苧環ほどではない。所詮は変転人だ。

 何処で繋がりを持ったかは知らないが、椒図も獏の所にいるようだ。元々部屋に引き籠って鼠や虫を殺す暗鬱な性格なだけの弱い獣だと思っていたが、一つの街を使い人間で遊んでいたと知った時は驚いた。共犯者の名前は睚眦の拷問でも吐かなかったが、その後の調べで蜃という獣が関与していることがわかった。毒芹ドクゼリの御陰だ。それよりも椒図の力が街一つ分の空間を閉じることができる強力なものだったことに興味を持った。空間を閉じる力は使える。そう思ったのだが、獏に惑わされたようだ。それも獏の力なのかもしれない。獏の力は取留めが無い。

 獏の側に椒図がいるのは面倒だが、椒図は地下牢の罪人だ。完全な烙印により力を制御している。だが睚眦の拷問からどのように力を発動して白花苧環を攫ったのかは未だに謎だ。印を使うにしても力は必要なのだ。

 偵察に白花曼珠沙華を派遣したが、それも戻らない。絆されたか捕らえられたのだろう。仕方なく取っておいた手札、潰した白花苧環を連れて逃げた浅葱斑に施していた印を発動した。

 狴犴の部屋には数多の印が設置されている。目に見えない印は部屋に入った者を襲う。直接殺すような印は存在しないが、剥離の印のような容易に事故が起こる印も使用を禁じているため狴犴も使用しない。そんなものを使わずとも動きが封じられれば幾らでも殺せる。永続的な印も無いが、鵺を捕らえた檻は幾重にも同じ印を重ねて継続させている。烙印のように目に見える印は永続的にも使えるが、見えていては警戒させるだけだ。

「…………」

 狴犴は書類に目を通しながら、ふとした変化に気付く。浅葱斑に施した印の気配が薄くなっている。効果はまだ切れないはずだが、意識でも失っているらしい。浅葱斑に施した印は人形のように操れるが、その視界は共有しない。何が起こったのかはわからない。

(花魄の仕業か……? お前も脱獄するのか……まさかまた獏の所か? ……或いは木霊の畑か)

 あの小さな体では白花苧環の死体は運べないだろう。運べるとすれば精々頭部だけだ。浅葱斑が起きていれば運ぶことはできるが、印で操られている状態では花魄の言うことは聞かない。

(苧環を置いて行くなら問題ではない)

 白花苧環に更に力を与えて、今度は獣に匹敵するほどの変転人を作り上げなければ――違う、そうではない!

 強き者は良い。心を満たしてくれる。弱き者は、鴟吻しふん𧈢𧏡はかのようになるだけだ。

(獏は木霊に会ったようだが、また宵街へ来て苧環を奪おうとするか、他の手を打つか――見物みものだな)

 過程がどうあれ、最後に手元にあればそれで良い。その他の弱者はどうなろうと構わ――


 ……それは私の意志なのか?

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