59-侵蝕


 街を留守にしている間に白花苧環の死体が消えた。

 安置していた部屋の壁は獏が吹き飛ばしたままで誰でも自由に出入りすることは可能だった。

 死体に被せていたテーブルクロスも見当たらない。人為的なことならテーブルクロスに包んで持ち出したと見るべきだろう。

 念のため床板の隙間にも目を通してみたが、種らしき物は見つからなかった。饕餮とうてつが噛み千切った指だけは瓦礫の隙間に転がっていた。

「死体が独りでに――って可能性はある? 何らかの印が作用したとか」

 頬に軽く手を遣りながら、獏はもう一度部屋を見渡す。白花苧環が消えた以外に変化はない。

 椒図は面を手に提げたままの獏を一瞥し、暗い窓の外へ目を遣った。

「そういう印は無いと思うが……こんなことなら印を学んでおくんだったな」

「じゃあ誰かが持ち去ったって考えるのが自然かな」

「浅葱斑が怪しいが」

「街の外から誰も来てないって言うならそれが一番可能性は高いけど、もっと前から街に誰かが潜伏してた可能性もあるね。饕餮が実は街から出てなかった、とか」

「一度拒絶した食事を持ち去るとは思えないが……」

「食べる以外に興味ないの?」

「そういうわけではないが……逆に言えば、食べるためなら誰にでも協力すると思う」

「そっか……」

 頬を摩りながら徐ろに部屋を歩く。表通りから建物を出れば螭が気付くだろう。窓の方から出た、若しくはこの部屋の中で転送離脱したと考えるべきだ。

「……顔、痛むか?」

「え?」

 椒図が崩れた壁から獏へ視線を移していることに気付き、獏は顔を上げた。無意識に打たれた頬を摩っていた。

「大丈夫だよ。……少し驚いただけ」

「もう友達に死なれるのは御免だからな……。つい力が入ってしまう。脱獄してもう二度も蜃を殴ってしまった。……友達を解消されるだろうか」

 睫毛を伏せる椒図に、友達などいない獏は想像を巡らせるしかできない。

「仲が良いからこそ本音で言えることがあるんだと思うよ。逆に言えないこともあるだろうけど。友達だって喧嘩くらいするよ。蜃だって何で殴られたのかわかってるでしょ。案外、君と同じことを思ってるかもしれないね。――お兄ちゃん」

「……?」

 唐突な兄呼びに椒図は首を傾いだ。

狻猊さんげいが君にお兄ちゃんって呼ばれたがってたよ。たった一人の弟だから、椒図の味方をするって。君も兄って存在に憧れがあるんでしょ?」

「変な揶揄い方を覚えてきたな……。狻猊の話は初耳だが。兄弟と言っても僕達の中に兄や姉と呼ぶ者はいない」

「九人兄弟なんだよね」

「そんなことも聞いてきたのか? よく回る口だな……」

龍生九子りゅうせいきゅうしのことは木霊から聞いたよ」

「木霊? 面識はないんだが」

 獏は木霊から聞いた話を椒図にも聞かせた。狴犴を嫌っていることもだ。椒図は黙って耳を傾け、考えるように口元に手を遣る。

「木霊は僕より長生きらしいな。僕が知ってるのは狴犴の統治する宵街だけだ。上の三人には会ったことがない。だからか九人兄弟の実感はないんだ。六人の感覚だな」

「そうなの? 狻猊は味方してくれるって言ってたけど、他に味方になってくれそうな人はいないの? 狴犴と睚眦がいさいと饕餮を除くと後一人いるよね?」

𧈢𧏡はかだな。蜃にも言ったが、𧈢𧏡は死んだまま化生していない。兄弟だからか死と化生は感知できるんだ」

「そう……それは……残念と言えばいいのかな……?」

「悠長に話してるが、苧環は探さなくていいのか?」

 兄弟の話は椒図には必要な話とは思えなかった。優先すべきは消えた白花苧環だろう。

 だが獏は笑った。まだ少し赤い頬が痛むようで眉を僅かに寄せる。強く叩き過ぎたと椒図は反省した。

「狴犴も遣ろうとしてることは同じだからね。マキさんの種を植えて栽培する。だったらまだ酷いことはしないでしょ? 種を捨てたりとか」

「確かにそうかもしれないが……植えた種を印で囲われたら取り返すのは至難だと思うが」

「そういう印があるの?」

「似た印はある。空間を仕切る物ではないが」

 やはり印は厄介な物のようだ。

 獏は蹲んで瓦礫の隙間から白花苧環の指を拾い、淋しげに眺める。

「木霊の畑は不可侵空間だけど、その前で僕を感知できなくなったことで、畑に入ったことは容易に想像がつくよね。マキさんの種を持って木霊に会いに行ったんじゃないかって。それで狴犴は焦った――マキさんがここにまだいるのか確認して、いたから攫った。僕が留守だったからじゃなく、木霊に会ったから……が理由なのかな」

「そうかもしれない。誰が苧環を攫ったのか、何処へ行ったのか、もう少し手掛りがあればいいんだが」

「狴犴のことはわからないことが多いしね……やっぱり直接聞くしかないのかな」

「もし行くなら、次は僕も連れて行ってほしい。力にはなれないが、見えない所で危険な目に遭うよりはいい」

「君と狴犴の仲はどうなの? 地下牢に入れられたんだからお察しだけど」

 椒図は苦笑し、獏の背を軽く叩いた。崩れた壁から外に出る。場所を移すようだ。店に戻る椒図の後を追い、獏も跳んだ。

 天井に空いた穴から部屋に入り、椒図は椅子に腰を下ろす。蜃はこの部屋にはいないようだ。まだ階下にいるのだろう。獏もベッドに腰掛ける。

「僕は兄弟とあまり話したことがない」

「引き籠りだったんだってね」

「……ああ……まあ、そうだな……」

 そこはあまり触れてほしくないことなのか、歯切れが悪い。

「それについては蜃には言ったんだが……」

「いいよ、無理に話さなくても。君と蜃は友達だからたくさんお喋りするのは当然だよ」

 微笑む獏の言葉に、椒図はきょとんと目を瞬いた。

「獏とは友達とは言えないのか……。化生して記憶も無いからな……」

「君は友達に固執するよね」

「固執してるつもりは……」

「ふぅん……僕はどっちでもいいけどね。それより――」

 ごそごそと懐を漁り、目を伏せる椒図の前にハートの杖を向けた。この話題では椒図を困惑させる一方だ。暗い空気を引き摺るより話題を変えてしまった方が良い。

「杖の扱い方を教えてよ。椒図は上手いんでしょ? 僕はダダ漏れの水だそうだから」

 杖に取り付けられた変換石が少し大きくなっていることに椒図もすぐに気付いた。狻猊の所へ行ったのは結果として良かったのだろう。

「ダダ漏れ……狻猊が言ったのか? 自覚はないが、僕で良ければ教えるよ。手本は見せてやれないが」

「君は水をぴったり止められるとも言ってたよ。まずは持ち方構え方とか?」

「いや、それは何でもいい。極端に言えば、口に咥えてもいい」

「そんな持ち方はしないけど」

「水か……。それに倣ってみるか」

 立ち上がる椒図に付いて立ち上がり、部屋を出る彼を追った。階段を下りると、革張りの椅子に座って俯いていた蜃がはっと顔を上げた。何故机上にシュガーポットだけがぽつんと置かれているのかはわからなかったが、机の前を横切り、椒図は無言で台所に入る。

 棚の中を漁っていた黒葉菫は慌てて端に避けた。

「飲み物ですか?」

「ううん。杖の扱い方を教えてもらうんだ。ちょっと水道を借りるね」

「はい。どうぞ」

 杖に何故水がと黒葉菫の頭に疑問が浮かぶが、変転人は杖を持たない。きっと獣にしかわからないことなのだろう。

「……あの、マキは見つかりましたか?」

 棚からティーカップを一客取り出す椒図に目を遣りながら、黒葉菫は気になっていたことを尋ねた。焦燥はあるが、共に消えたのが浅葱斑だと言うので、何か理由があるのだろうと焦燥は表に出さずに様子を窺う。そして何より獏が焦っている様子がない。

「手掛りはないけど、タイミングから見ても宵街に行ったと思う。僕にはアサギさんが自分の意志で攫ったとは思えないから……狴犴絡みだとすればマキさんの種を育てることが目的だろうし、まだ焦らなくていい――って言い聞かせてる所」

「言い聞かせて……?」

「取り乱すより冷静になる方が頭が冴えるでしょ?」

 獏も内心は焦っているのだと知った黒葉菫は、その思考を参考に落ち着くことにした。

 感情がわかりやすい獏の表情を見つつ、椒図は蛇口の下にカップを置く。

「人に教えるのは得意ではないが、狻猊の言葉を参考に力の流れを可視化してみよう。飽くまでイメージだが、カップを変換石とし、僕の場合は……」

 獏も頭を切り換え、椒図の手元を見る。椒図は蛇口を捻り、勢いが強くも弱くもない程度に水をカップに入れる。高さがあるので多少は水が跳ねるが、飛び散ることはない。丁度満杯になった所で椒図は水を止めた。

「次は獏の場合」

 カップを空にし、再び蛇口の下に置いた。今度は勢い良く蛇口を捻り、カップから跳ね返る水が飛び散った。すぐにカップは一杯になるが、溢れても水は止めない。

「……わかるか?」

 きゅっと蛇口を締め、襤褸に掛かった水を見下ろした。恐々と様子を窺っていた蜃が机に額を擦り付けて肩を震わせている。

「僕の力が強過ぎる……?」

「確かに強いんだろうな。だが狻猊が言ったのは、蛇口を捻る加減のことだな」

「加減……」

 獏は手を見下ろし、首を捻った。そんなことは考えたことがなかった。変換石に力を籠めれば出力できる。そのことしか考えていなかった。

「勢いが良いことは必ずしも悪いことではないが、慣れないと扱いは難しい。勢いが強いほど出力する力が石に溜まるのが速いと言える。お前の出力速度はかなり速いんだろう。あと……そうだな。力の強い獣特有かもしれないが、出力するために必要な力を一気に全て注がない」

「?」

「石には許容量がある。そこから溢れない程度に注いだ力を随時出力していく。注ぎながら出力するんだ。少し難度が高いかもしれないが、溢れないよう丁度止めるのが難しいなら、こっちの方が楽かもしれない」

「椒図って、もしかして……実は強い?」

「! ……いや、そんなことは」

「目、逸らしたね」

「…………」

 逸らした先で蜃と目が合い、今度は蜃が目を逸らした。友達を解消されたかもしれないと椒図は心の中で冷汗が流れた。

「……杖が……不得手な獣がいるとは思いもしなかった」

 あからさまに話を逸らす椒図に目を細め、獏は杖を置く。

「教えてもらう上で、前提を知ってもらった方が良さそうだね」

「……前提?」

「僕は元々、杖が無くても力を使えた」

「……?」

「訳あって杖が欲しくなったから作ったけど、本来は杖を使わない。街の外では杖を封じられてるけど、鍵を開けたり物を軽くしたり、簡単なことならできるよ。それ以上は烙印の所為でできないけどね」

 杖を置いたまま、空中で指先をついと動かしシンクのティーカップをふわりと転がせた。この街の中では杖無しでは力を使えないが、小さな物ならこの程度なら動かすことができる。独りでに転がったカップを手品かのように見詰めて固まってしまった椒図が可笑しくて、獏はふふと笑った。

「これ以上は、今は杖を使わないとできない」

「……驚いたな……。杖を使わない獣は初めて見たよ。確かにそれだと杖は不得手かもしれないな」

「一応杖は力の制御も兼ねてるんだけど、制御しきれてないみたいだね……」

「実際に使って慣れていくしかないな。獏なら大丈夫だろう」

 椒図はハートの杖を手に取り、じっと観察してみる。いつも獏は懐から杖を抜く。無から召喚はしない。そのことは不思議に思っていた。仕舞うことができないのかと。そもそも地下牢の罪人は杖を出すことすらできないので、烙印が特殊な所為だと思っていた。

 獏の代替品ではあるが、椒図は試しにハートの杖に力を籠めてみる。当然だがやはり変換石に変化はない。力を使えないよう正常に封じられている。烙印の力は強力だ。杖を置き、痛感する。

「そう言えば海月は戻って来ないな。善行の事後処理が長引いてるのか?」

「クラゲさんは願い事の契約者に刺されて入院したよ。ここにいるより病院の方が安全かなって、後のことは知り合いに任せてる」

「善行なのに悪事を働かれるのか? 人間とはあまり話し……」

「……椒図?」

「いや……何でもない」

「言いたくないなら言わなくてもいいけど、途中で止められると気になるんだから気を付けてよ」

「ん……人間にはもうあまり関わりたくないと思っただけだ」

 ちらりと蜃を一瞥すると、机に伏せた手前に黒猫を座らせていた。目が合わないように盾にしているのだろう。

 ハートの杖を懐に仕舞い、獏はそっと台所から出て黒猫を持ち上げた。蜃はまだ大事そうに布袋を抱えている。

「ねえ椒図。折角だし服を着てみなよ。あと靴も」

「…………」

「何? 示しが付かないとか思ってる? 好意は受け取ってあげてよ、お兄ちゃん」

「その揶揄い方は……はあ、わかった。着るよ。でも蜃は……」

 蜃は勢い良く立ち上がり、布袋を押し付けるように差し出した。机に頬を当てていたからか、まだ少し赤い。

 椒図は遠慮がちに手を出し、躊躇いながら受け取った。蜃はすぐに手を離し、獏から黒猫を奪い取って自分の顔に当てる。

「さっさと着ろ」

「……ああ、着る」

 椒図はすぐに階段を上がった。ドアの閉まる音がした所で蜃は顔から黒猫を下ろした。

「な、なあ獏……椒図はまだ怒ってるか?」

「ふふ。もう怒ってないと思うよ」

「普段怒らない奴って怒ると怖いって言うだろ。一生引き摺られたり……」

「それは殴られて顎が砕けた時に考えればいいんじゃない?」

「そうか……まだ平手だもんな……。怒らせないようにしないと……」

 暫く待つと、少々困った顔をした椒図が階段を下りて来た。汚れのない落ち着いた服と靴は似合っているが、サイズが合わないのだろうか。

「椒図、きついか?」

「いや……久し振りに靴を履いたから窮屈には感じるが。一つ、どう付ければいいのかわからない物があるんだ。今の時代の流行り物か?」

 死角に持っていた物をよく見えるように差し出し、蜃と獏は固まった。レースで華やかだが控え目に飾られた二つの椀のような黒い物を目に、様子を窺っていた黒葉菫も背後で目を逸らした。

「あいつ……!」

「女性用の下着だね……椒図が付ける物じゃないよ」

「ああ、蜃の物なのか?」

「俺のじゃない!」

 椒図から黒い下着を取り上げ、机に叩き付けた。

「折角だし、蜃も付けてみたら? ウニさん……は寝てそうだけど、付け方を教えてもらえばいいよ」

「付けない!」

 余程嫌なのだろう。頑なに首を振る。

「……蜃?」

「付けないからな」

「口に……」

 獏は眉を寄せながら自分の口元を指差し指摘した。拒絶するのに必死で気付いていないらしく蜃は首を傾ぐ。口の端から一筋、赤い物が流れた。

 それに蜃も気付いて口元に手を遣り、その直後ごぼりと血を吐いた。

「!?」

「……っ!」

「蜃!?」

 口元を手で押さえながら、震える手ですぐに木霊から貰った血染花の錠剤を口に運ぶ。視線が泳ぐが、ごり、とゆっくりと噛み砕く。

 獏ははっと振り返り、目を細めて虚空を見詰めた。

「大丈夫か!? 蜃……一体何が……」

 困惑する椒図の声が店に響く。獏は虚空を睥睨した後、蜃を睨み付けた。

「君の今の対応、随分慣れてたね。それ、これが初めてじゃないでしょ。猶予があるなんて悠長なこと言ってられないくらい蝕まれてるのに、木霊に話してた時も、何で言わなかったの!?」

「……獏?」

「ここの悪夢は気配がわかりにくいけど……近くに微かに気配がする。一人で行かせるのは心配だけど――スミレさん、すぐに木霊を連れて来てくれる? 剥離の印を使ってもらおう」

「わかりました」

 躊躇いはあったが黒葉菫は掌から黒い傘を引きながら、店の外へ走った。悪夢と言うならこの場にいても黒葉菫には何もできない。

 椒図も理解し、険しい表情をした。悪夢に蝕まれ続ける街と繋がっている蜃の体はもう限界に近いのだ。それに気付けなかったことが悔しかった。

 外で壁が崩れる騒音が上がり、獏も動物面を被り出入口へ走った。頬の痛みはもう引いていた。

 残された蜃は棚に肩を預け、ぼんやりと薬を食べる。椒図は階段の下から黒色海栗を呼び、蜃を任せて獏の後を追った。

 外へ出ると螭が遠くを見詰め不安そうな顔をしていた。

「螭、何か見えた?」

「あちらに黒い大きな腕のような物が……屋根の上から家を潰したように見えました」

「屋根の上から? それはまた随分と育って膨れたね……」

「また悪夢ですか? 獏さんにしか倒せないんですよね?」

「うん。螭はここにいて皆をお願い」

「わかりました。お気を付けて」

 螭が指を差した方向へ石畳を蹴り屋根の上へ跳ぶ。その後ろから椒図も跳んだ。

「椒図は来なくていいよ」

「僕は無力だが、囮くらいにはなれるだろう? やはり黙って待つばかりでは」

「危ないよ」

「触れることはできなくても、避けることはできる。剥離の印を使うまではお前も攻撃できないだろ? 何か打開策があるか考える」

「……じゃあ、あんまり近付かないようにしてよ」

 屋根を跳んで行くと螭の言った通り、ぐしゃりと屋根が潰れた家があった。潰れた家は一軒だけのようだ。

「いないんだけど……?」

 大きな腕で屋根の上から叩き潰すような悪夢が建物の中に隠れられるとは思えない。だが見渡してもそれらしき靄はなかった。

「気配はあるのに、いない……」

「悪夢は消えることができるのか?」

「成長前なら獏以外には見えないんだから、獏以外から見えなくすることは可能かもしれないけど……僕にまで見えないのは有り得ない」

「それなら、少し離れよう」

「……うん」

 焦るように促すことを不審に思いながらも獏は椒図に付いて屋根を戻った。距離を取っても悪夢は姿を現さなかった。

「こんなのは初めてだな……端に帰ったんならいいんだけど」

「気配はあるんだろ? 僕は悪夢の性質については無知だが、獏には常に見える物だとすれば視覚に頼り過ぎてるかもしれない。見えなくなるほど靄を薄く伸ばすことは可能か?」

「……それなら有り得るかもしれない。昼間なら明るいけどここは常に夜だから、夜目が利くと言っても紛れやすいから……」

「元が大きいなら相当広範囲に引き伸ばされてるか?」

「……店に戻った方がいいかな」

「僕が付いて来て良かったか?」

「ん……そうだね」

 屋根を蹴り、急いで店へ戻る。上手く言い包められたことに不満だったが、今は反論している場合ではない。

「獏は悪夢に慣れ過ぎているみたいだからな。新しい視点を入れる役になってやる」

「はいはい。調子には乗らないでね」

「やはり靴の方が走りやすいな」

「だろうね」

 屋根を伝い地面に飛び降り戻って来た二人を螭は怪訝に迎えた。

「もう終わりましたか?」

「まだだけど、ちょっと特殊なパターンみたい。危ないから離れてて」

「はい。わかりました」

 懐からハートの杖を取り出し、石を見詰める。扱い方は椒図に教わったが、実践はまだだ。水の流れを見たことで感覚的に当たりを付けられそうな気はする。見切り発車も良い所だ。

(この前の悪夢もだけど、何だか考えて動いてるように見える……先代が取り込まれて本当に悪夢に知能を与えてるとしたら嫌だな……)

 靄が引き伸ばされているのなら、霧の所為で余計に視認が難しい。鵺に霧を晴らすように談判すれば良かった。

「椒図も離れてた方が――」

 道の先を見詰めていた獏は傍らの椒図の腕を引いた。一瞬前まで椒図が立っていた場所に、黒い触手が走る。直前まで視認できなかった。

「君の推測が正しいだろうね。でもわかった所で、君は今の気配に気付けた?」

 椒図は首を振る。悪夢の気配を視覚以外で感知することは難しい。獏には気配が感じ取れるが、椒図には攻撃を避けられなかっただろう。

「だったら離れてた方がいい」

 ハートの杖を振り、薄く伸ばした光の壁を立てた。今までの遣り方だと幾ら薄くても畳一畳分が限界のようだ。これほど薄くては水溜まりに張る薄氷と同じだ。一突きで壊されてしまい盾の意味がない。悪夢にはそれを判断できる脳味噌は詰まっていないので通常は何も考えずに突っ込むだけだが、この悪夢は様子を窺っているように見える。以前の悪夢もそうだった。

 背後でこつんと唐突に石畳を叩く音がし、黒葉菫が戻って来たことを知る。

「木霊を連れて来ました」

「ふむ。ここが狴犴の嫌がらせ会場か。切迫していると聞き、花の加工もそこそこに来てやった。命を天秤には掛けられない」

 花畑を出ないと言っていたので木霊が来てくれるか心配だったが、危険を感じて来てくれて安心した。白花苧環が狴犴に殺されたと聞いて嫌がらせに熱が籠もっている。

「ありがとう。すぐ蜃を連れて来るよ」

 椒図が先に店へ走るので獏は出しかけた足を止めた。振り返ると黒葉菫の手に頬被りをした木霊が座っている。これでこの街と蜃の繋がりを断つことができる。

 木霊は威勢良く細い脚で立ち上がり、突然口から砂のような物を吐き出した。

「……!?」

 今度は頭の先から徐々に崩れていく。それは明らかに異常な光景だった。

「何なの……?」

「ぁ……ぁ……ああっ!」

 悲痛な声を上げ、瞳からは滴が流れた。

 何が起こっているのか、その場の誰にも理解できなかった。

「木霊……?」

「か……はく……さ、ま……申し、訳……」

 か細い声を漏らしながら瞬く間に木霊は砂のように崩れ、黒葉菫の指の隙間から流れ落ちた。後に残ったのは小さな砂の山だけで、それもさらさらと零れて消えていく。

「な……に……?」

 砂を吐いた時、木霊は驚いた顔をしていた。つまり木霊が自ら何かをしたわけではないはずだ。

「どうした……?」

 様子がおかしいことに椒図もすぐに気付いた。ドアに手を掛けたまま止まって振り返り、砂になった木霊に目を見張る。

「スミレさん……今のは何……?」

 黒葉菫も手を上げたまま事態を呑み込めずに掌を見詰めることしかできなかった。確かにそこにいたはずなのに、今は何も無い。最初から何も無かったかのように。

「わかりません……狴犴に何かされてたんでしょうか……?」

「何かって、印で……? 殺したの?」

「…………」

 待てども再び形が作られることはなく、もう何の気配も感じなかった。

「木霊がいないんじゃ……」

 直前に視界に現れる触手に光の壁を当てすぐに跳び退く。壁は一撃で砕け、直ぐ様もう一度薄い壁を作り出す。

 見えない悪夢がいるだろう方向へ目を向け、苦虫を噛む。剥離の印が無いなら、この悪夢は傷を付けないように追い払うしかない。

「木霊のことは後にしよう……こっちをどうにかしないと……」

 薬の御陰で具合が緩和したのか、蜃がそっとドアを開けた。前に立っていた椒図と目が合う。蜃の足取りは先程よりはしっかりとしていた。常に蝕まれているわけではなく、発作のようなものなのだろう。

「悪夢は……?」

 尋ねる目の前で獏の光の壁が割れ、悪夢はそこにいると認識はできた。だが攻撃の瞬間しか視認できない。今まで見た悪夢とは全く様子が違い混乱してしまう。

「……蜃。そんな体ですまないが、少し力を使えるか? 無理はしなくていい。苦しかったら、断ってくれればいい」

「……使える。前にやったように地面を作ればいいのか?」

 蜃は話を聞く前に杖を召喚した。以前椒図に言われ地面を作って悪夢にぶつけた。それは目論見通り悪夢に触れることができた。きっとそれをやれと言っているのだ。何処に悪夢が居るのかわからなかったが、街と繋がりがあるため気配は感じることができる。何処かに居るのはわかる。

 震えそうになる手で杖を握り締める。大きな地面を作るのは今は辛いだろう。だが椒図に良い所を見せる良い機会だ。

 静かに耳打ちされ、蜃は目を丸くした。何故そんなことを頼むのか理解できなかった。

 だがそれなら、然程力まなくても良い。目の前でまた光の壁が割れ、獏が跳んで退くのを目に蜃は杖を構えた。変換石が光り、ふわりと空に幾つもの小さな白い影が浮かび上がる。

「――花吹雪」

 突然暗い空に現れた花弁に螭は感嘆の声を上げ、獏は警戒し目だけで見上げた。

 風の無い街では煽られることなくはらはらと花弁が静かに舞う。杖を構える蜃に気付き、蜃気楼か実体を出したのだと察した。

「!」

 柔らかく舞っていた花弁が渦を巻くように激しく嬲られ、獏は跳び退いた。黒い触手が空間を穿つ。

(花弁は実体……!)

 近くでまた渦が巻き、地面を蹴る。悪夢の動きが手に取るようにわかる。

「これで盾に力を割かなくてもいいはずだ」

 花弁のような小さな物を実体にする程度なら今の体調でも造作無い。どんな悪夢なのか以前とは違うことしかわからない蜃だったが、椒図の言う通りにするだけで翻弄することができた。

 花弁が渦を巻くと勢い良く触手が飛んで来る。それとは別に花弁が微かに動く場所がある。視認できないほど薄く伸ばされた靄を触手として繰り出すには、形作れるだけの靄が必要だ。その分控えている靄が引っ張られて空気が動き花弁が揺れている。つまり花弁が揺れている範囲が、この悪夢の大きさだ。花弁は悪夢を擦り抜けるが、空気は感じられる。

 獏は花吹雪の中で悪夢の周囲を舞うように跳び、杖を振る。空に放った網はその目を埋め、光るテーブルクロスのように翻った。

「杭を打てないなら、包んで運んであげ――」

 だが光の布は何も捕らえず、ふわりと地面に落ちるだけだった。花弁が揺れたが、気配を感じなくなった。

「逃げた……?」

 周囲を見渡しながら気配を探るが、やはりもう気配を感じない。

(戻って来ない……完全に逃げた? 近くに潜んでる気配もない……。自分で端に帰ってくれた……?)

 様子がおかしいことには皆気付いた。獏は周囲を警戒しながらも蜃と椒図の許へ駆け寄る。

「蜃。花片はもういいよ。油断はできないけど……悪夢は帰ったみたい」

「帰った……? そんなこともあるのか……」

 眉を寄せる椒図の隣で、やはりまだ体調は優れないのだろう蜃は地面に腰を下ろす。

「具合はどう?」

「今は何ともない。軽い貧血なくらいだ。それより、木霊が砂になったって……?」

 黒葉菫の手を見遣り、不可解な現象を思い出す。獏も地面に蹲んで唸った。

「僕は獣の死の瞬間って見たことないけど、あんな感じなの?」

 木霊が砂になる瞬間を見ていなかった蜃は椒図を見上げた。椒図も膝を突く。

「人間や他の動物と同じように死体になるはずだが。あの木霊のように生きたまま、砂……? 変化するのは初めて見た。様子から見て外部から何らかの影響があり、本人の意志とは無関係に起こった現象だと思うが。復活しない所を見ると、死んだと仮定した方がいいかもしれない」

「宵街から出たことが引き金になったのかな……」

「それは有り得る」

「そう……」

 花守がいなくなった宵街の花畑はどうなるのだろうか。不可侵空間では何も感知されることなく、いなくなったことにも誰も気付かないかもしれない。

 狴犴がもし白花苧環を手中に入れたのだとしたら、栽培を頼む可能性のある木霊が見当たらず最初に異変に気付くだろう。

「消える前に『かはくさま』って言ってたんだけど、心当たりはある?」

「かはくさま? 何だそれ」

 全く思い当たらない蜃は首を捻る。代わりに椒図がぴくりと反応した。

「……花魄かはくか?」

「知ってるの?」

「名前だけだが。地下牢にいる」

 獏は眉を寄せた。同じ地下牢にいたから名前を知っている、それだけのことだが、地下牢にいるのは問題だ。つまり花魄も罪人だ。


「花魄さんなら存じ上げてますよ」


 にこりと微笑みながら、蹲んで頭を突き合わせる獏達が気になった螭は覗き込むように声を掛けた。

「作戦会議ですか? 口を挟んでしまいましたが」

「いいよ。花魄を知ってるなら都合がいい。螭は地下牢の炊事係だもんね。花魄ってどんな人なの?」

 螭も両膝を突いて正座し、輪に加わる。振り向けば見える距離なので白花曼珠沙華から目を離しても問題ないだろう。

「私も会ったことはないのですが、食事が特殊な方なので覚えています。先程から木霊……と言ってましたが、木霊を使役している木の精です」

 獏達は顔を見合わせ、まだ糸が繋がっていることに驚きつつも安堵を覚えた。木霊を使役しているなら、花魄も剥離の印を使えるかもしれない。

「特殊な食事って……? ……というか螭はここにいて大丈夫なの? 地下牢の御飯は?」

「地霊に任せてますよ。教えれば恙無く遂行してくれます。不測の事態には対応できませんが、充分です」

 それはもう全て地霊に任せれば螭は炊事係をしなくても良いのではと思うが、料理を作るのが余程好きなのだろう。

「花魄さんはとても小さな方のようで、小さな容器を用意します。ミルクと角砂糖を一つ。それだけ食べる方です」

「木霊も小さいし、同じくらいの大きさなのかな?」

「それだけ小さいと地下牢の檻からも抜けられそうだが、檻も特殊かもしれないな」

 地下牢の罪人らしい指摘に納得する。確かに木霊ほど小さいと普通の大きさの檻では無意味になりそうだ。

「檻が何でも、地下牢には居るんでしょ? 地下牢に迎えに行くってことだよね……?」

 視線を上げて獏は椒図を見、椒図は蜃に目を遣った。蜃はきょとんとしていたが、少し時間は掛かったが脱獄に使った通路を訊かれているのだと察した。

「それは」

「待って」

 口元に人差し指を当てられ、蜃は口を噤んだ。獏は今度は螭を見る。

「螭はどっちの味方? もう一度はっきりさせよう。狴犴か、僕達か。嘘を吐いたら覗き窓で見てあげる」

 指で作った輪を見せながら、獏はかくんと首を傾けた。普通の人間以外は覗くつもりはないのだが、脅しとしては使える。

 螭は不思議そうな顔をした後、ゆっくりと黒い空を見上げた。

「誰かの味方をするつもりはありませんでしたが。今まで宵街の片隅に宛行われた小さな部屋の中で料理を作る日々でした。あまり外に出ることもないので、先程見せていただいた花吹雪はとても綺麗でした。その御礼になら、その分の味方はしますよ」

 嘘を言っているようには見えなかった。嘘ならばそんなまどろっこしい理由を作り上げないだろう。『その分の味方』が何処までを指すのか見極めなければならないが、確かに花吹雪が舞った時彼女は少女のように目を輝かせていた。

「味方をしてくれるんだね。ありがとう」

 獏は微笑み、螭も微笑んだ。

「でもこの話の間だけ離れてくれる?」

「えっ、会議に混ぜていただける流れではなかったですか」

「君の言い方だと、後でこっちが不利になるかもしれないでしょ。だから」

「都合の良い女がいいんですね……」

「人聞きが悪いけどそれでいいよ。こっちは命が懸かってるんだから」

 螭はしょんぼりと眉を下げ、静かに後退った。白花曼珠沙華の所まで戻り、眉を下げながらこちらを見ている。それを気にせず、獏は輪に戻った。

「はい。言っていいよ、蜃」

「言い難いんだが」

 視線を感じながら、気にしないように身を乗り出した。こつんと頭がぶつかる。

「……宵街の下の方に地下牢に繋がる穴があるんだ。海栗が他の有色と話してるのを聞いた。繋がってると言ってもどうせ途中で壁とか鍵の掛かった扉でもあるんだと思って、様子を見るだけのつもりで穴に入ったんだ。でも壁も扉も見張りも無かった。出たのは地下牢の下の方だったから檻は近くにはなかったが。壁を登るのは無理だと思う。俺は飛んで上まで行った」

 地下牢に長くいた椒図は補足をする。

「見張りがいないのは当然だ。それだけの人員が狴犴の許にはいない。僕が地下牢にいる間も見回りなんて殆どなく退屈だった。宵街の下層なら譬え穴を見つけてもそれは変転人だろう。変転人は飛べない。地下牢の縦穴を上がることはできない」

「その穴は使えそうだね。ウニさんにも話を聞いてみよう」

 蜃が店から出てしまったので共に店外へ出たが悪夢相手にできることもなく、近くで空を見上げながらぼんやりとしていた黒色海栗の袖を一番近くにいた蜃が引く。

「ウニさん、宵街の地下牢に続く穴のことを聞きたいんだけど、いいかな?」

「穴……」

 有色の変転人に聞いたあれかと思い出し、黒色海栗は頷いた。話すには頭をぶつけないといけないと勘違いした彼女は身を乗り出し、ごちんと強めの鈍い音が鳴った。

「加減しろ……」

「平気」

「俺は平気じゃない」

「穴は紅花ベニバナワラビから聞いた」

 頭を押さえる蜃は無視し、話し始めた。

「地下牢は採掘場だから、昔掘った横穴が幾つもあるって言ってた」

「へぇ……採掘場の再利用なんだね。幾つもってことは、蜃が通った以外にも穴があるんだね」

「地霊の大きさだから、入口は小さい。だから見つけにくい」

「それで放置されてるのかな? 檻の無い下の方に繋がってるなら、狴犴ももしかしたら把握してないかもね」

「僕も横穴は初耳だ。地霊が掘った穴なら螭は把握してるかもしれないが」

 皆で横目でちらりと螭を見ると、彼女はもうこちらを見ていなかった。

「横穴のことは慎重にいきたいね。狴犴がもし把握してなくて、螭から漏洩することになったら目も当てられない」

「そうだな。他に横穴があるとしても何処に通じているかはわからないから、蜃が通った道が一番安全で確実だろうな」

「でも飛べないといけないんだよね?」

「蜃の体は今は不安があるからな。無理はさせたくない。そうなると飛べるのは……」

 もう一度皆で螭の方を見る。この中では螭しか飛べる者がいない。

「じゃあ協力してくれそうな仲良しの飛べる獣っている?」

 椒図は蜃を見、蜃は首を振った。椒図はばつが悪そうに目を伏せた。良くない質問だったと気付き獏も焦る。

「ご……ごめん。今のは僕が悪かったよ……」

「友達は蜃しかいなくてな……力になれなくてすまない」

「僕も友達はいないから、気にしないでよ」

 焦り言葉を加えるが、もし人間だとしたら寂しい会話なのかもしれない。

「もう少し心当たりを探して、なければ螭に頼んでみる……?」

「そうだな……地霊を使役してるなら地下牢の内部も心得ていそうだからな」

「獏より友達が多いんだから気を落とすなよ椒図」

 一か零の違いだが、椒図は獏の方を見て何か言い掛けばつが悪そうにやめた。友達がいないことを気にしたことのない獏はけろりと首を傾ぐ。

 椒図がばつを悪くしたのは獏を友達としていないことに対してだったが、見世物小屋の話に触れて怒らせてしまったことで、獏にはあまり良く思われていないだろう。獏にも友達ではないと言われてしまった。獏の心は霧が掛かっているようによく見えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る