57-幸せな家


 時折騒々しい透明な街を走り、杖に乗って飛ぶ螭を先頭に獏と黒葉菫は皆のいる古物店に戻った。相変わらず霧で視界は悪いが、水を操る螭は水滴の集合体である霧を物ともしない。霧を切り分け道を開くことも造作無い。

 店の前では皆が獏達の帰りを待っていたが、面に隠れた表情は浮かばない。

 獏の脚は走っている内に元の通りに動くようになっていた。根を張っていた悪夢が消えたのか取り込んだのか、それは定かではない。

「悪夢は端に持って行けたようだな」

「そのことなんだけど、話がある。蜃もいいかな」

「?」

 負傷した白花曼珠沙華は螭に任せ、灰色海月達変転人も店の中へ戻す。椒図と蜃は獏に天井に穴の空いた部屋へ連れられた。

 何の話なのかと怪訝な顔の椒図と蜃はそれぞれ椅子とベッドに腰掛けた。椒図はもう布団の上ではなく椅子に座って問題ない。

「まず蜃に確認したいことがある」

 獏は立ったままいつもより語気を強くし、黒いフードに隠れ眉を寄せる蜃に目を向けた。

「何で言わなかったの? 先代の獏を殺したのは、先代に頼まれたからだって」

「!」

 嘘ではないと思っているが確認をする。質問としてしまうと白化くれる可能性があるため、問い詰める形にした。

 明らかな動揺が蜃の表情から読み取れた。椒図も訝しげに蜃を見る。

「……何で…………いや、そんな話、誰から聞いたんだ?」

「黒い着物を着て、黒髪に赤いリボンを付けた金色の目の幼い女の子だよ」

「は……?」

 蜃は困惑し椒図に目を遣る。椒図も眉を顰めながら首を振り、自分が獏に言ったわけではないと示す。

「その子、化生前の先代なんだよね?」

「誰かから聞いたのか?」

 言葉を思い付かないでいる蜃の代わりに椒図がもう一度尋ねた。その質問は正しい。同時に存在することのない獣が化生前のことを知るには誰かから話を聞くしかないのだから。以前見た夢とやらでも先代の姿を見たが、それは記憶が不鮮明ではっきりと容姿を言えない。

「僕もまだ半信半疑なんだけど、この街の端にその子がいたんだ」

「!?」

「生きてるってことか……!?」

「死んでるって言ってたよ。いるのは残影だって。街の中の悪夢を暴れないように端に繋ぎ止めてるらしい」

 蜃と椒図は息を呑みながらもう一度顔を見合わせ、理解の及んでいない顔で獏を見る。

 獏は少女から聞いた悪夢のことを話した。彼女が蜃に殺せと言ったことを話すと、蜃は徐々に俯いてしまった。

 暫くは沈黙が続いたが、やがてぼそぼそと蜃は言葉を紡ぎ出す。

「……椒図が連れて行かれて、あそこにはもう俺とあいつしかいなかった。俺が誰にも言ってない以上、その話を信じるしかない」

「じゃあ君は、先代に頼まれて殺したんだね。……何で言わなかったの?」

 最初の質問に戻り、蜃は椒図を一瞥した。

「頼まれなくても殺してたからだ。殺した事実は変わらない。どっちでもいいだろ」

「結果は同じでも、全然違うでしょ。まあ君は僕に相当恨みがあるみたいだから、同じかもしれないけど。でも僕にとっては違う」

「何だよ、頼まれて殺したら、君は俺を許すのか? そんな気持ち悪い感情、俺はいらない。幾らでも恨めばいい。その方が俺も清々する」

「許すとか許さないとかの問題じゃない。先代は君に頼んだことを『悪い』って言ってた。だったら僕もその気持ちは同じだ。今君が僕を殺そうとしても、それはまた別の話なんだよ」

「綺麗事だろ」

 ふいと目を逸らし、蜃は脚を組んで頬杖を突いた。

 終わらない口論に再び獏が口を開きかけた所で、椒図は軽く手で制した。

「蜃も頑固だからな……。一旦保留にしよう。獏、他に何か聞いたことはあるか?」

「蜃に確認することはもうないけど」

「獏もそう剥れるな。僕達は化生前の獏には会えないのか?」

 面で顔を覆っているのだから表情は見えないし剥れているわけでもないが、声色に何か感じたのかもしれないと獏は一旦口を閉じ呼吸を整えた。

「……悪夢を介して繋がっただけだから、君達じゃ会えないと思う」

「そうか……会えるならもう一度会いたかったが、仕方ないな」

 守るために地下牢へ行った椒図は獏が死んだことも知らずに生きてきた。最期に会うことはなかった。それはとても淋しいことだろう。静かに伏せた目は憂いを帯びていた。

「……椒図にも確認したいことがある」

「何だ? 僕にわかることなら答えよう」

「剥離のいん、ってわかる?」

「剥離……?」

 疑問を返したことで、彼が知らないことはすぐにわかった。だが椒図は口元に手を遣り考える仕草をする。

「印に詳しいのかと思ったんだけど。それに先代が、弱い獣は印に頼るって言ってた。椒図は自分のことを弱いって言ってたから」

「確かに弱いが……印に詳しいわけではないな。名称は聞いたことがあるんだが……」

「知ってる人に心当たりがあるなら、それでも」

「その印で何をするんだ? 心当たりがないわけではないが、訊くのは骨が折れそうだ」

「この街の悪夢に攻撃すると蜃にも影響があるんでしょ? その繋がりを断てるかもしれない印だって、先代が教えてくれた」

「! ……それが本当なら訊いてやりたいな」

 繋がりを断つ方法が得られたのに、椒図の顔は浮かない。喜ぶどころか苦い表情をする。そのことを不思議に、獏は首を傾げた。蜃はまだ理解できていないのか、自分のことなのに呆然と大きな瞳を瞬いている。

「おそらく狴犴が印に詳しい」

 苦い表情の理由がすぐにわかり、獏も頭を抱えそうになった。

「僕が地下牢に入ってからは情報が途切れているが……狴犴の力は僕も知らないんだが、印については熱心に学んでいるのを何度か見たことがある。独自の印も作成している。剥離の印も作り方を知っている可能性はある」

「それは可能性がありそうだけど……今は狴犴を避けてるのに、こっちから会いに行かないといけないって言うのは……」

「だから骨が折れる。必ず知っているとも言い切れないしな。それだと只の骨折り損だ」

「でもそれしか活路がないなら考慮はしないとね……。螭にも訊いてみて、手掛りがなかったら考えよう」

「そうだな」

「蜃は理解できてないみたいだけど」

「君が今、俺を馬鹿にしたことはわかる」

「馬鹿にはしてないよ。君が先代に頼まれて殺したんなら、僕は君の脚を切り落とそうとしたことを謝りたい。そのお詫びに先代に君と街を切り離す方法を訊いたんだから」

「……。恨めばいいのに……君は!」

 腰を浮かせた蜃に水を差すように、そっと部屋のドアが開いた。静かに覗き込んだ灰色の頭を見、獏はころりと表情を変える。と言っても面で隠れて見えていないが。

「どうしたの?」

「後にした方がいいですか?」

「構わないよ。大方話は終わったし」

「放置するわけにはいかないので、願い事の手紙を回収して来たんですが」

「ああ……そうだね。少し力を使ったし確かにもう少し食べておきたいかも」

 獏は蜃を一瞥し、ドアへ向かう。灰色海月の手に広げられた手紙を適当に一通手に取り、思い出したように振り返る。

「ねえ椒図。狴犴が印に詳しいなら、この僕のお面……狴犴に貰ったんだけど、何もないかな……?」

 珍しく皆の前で自分から動物面を外し、獏は眉を下げる。空虚な面では感情が読みにくいが、面の下の顔には豊かな表情があり椒図は安心した。差し出された面を受け取り、裏返したりと見回す。

「僕の見る限りでは何もないと思う。隠し印なら見つけるのは難しいが」

「隠し印?」

「変転人が使っている契約の刻印もその一種だが、見た目には何も見ることができない印のことだ。印が得手なら勘付くこともできるそうだが、生憎僕は不得手だ」

「何処に仕込まれてても気付けないってこと? このお面、付けてて大丈夫なのかな……」

「今まで何もなかったなら今更心配はしなくてもいいと思うが、狴犴と対峙することがあるならその時は念のため外しておいた方がいいかもしれないな」

「……わかった。頭に入れておくよ」

 面をもう一度被ろうか迷いながら獏は部屋を出る。

 階段を下りる音が聞こえると、椒図は蜃に向き直った。

「獏に見世物小屋のことを言おうとしただろ」

「…………」

「お前が売ったことは獏に言うな。それに関する感情を獏は制御できないみたいだ。殺されるかもしれない」

「今の俺は弱いからな。正面からでも殺されるかもな」

 自嘲気味に笑うが、椒図は笑わなかった。寧ろ真剣に、睨むような目で蜃を見る。

「……何だよ」

「言うべきか迷っていたが、釘を刺すために言っておく」

「?」

「蜃は命を絶たれても、もう化生することはない」

「……?」

 獣は死ぬと化生するものだ。蜃自身もそうだった。突然何を言っているのかと怪訝な顔で首を傾ぐ。

𧈢𧏡はかがそうだった。記憶を引き継いだ獣は、化生することがない」

「は……? そんなの初めて聞いたぞ。そもそも何処に化生するかなんてわからないだろ? 知らないだけで、その𧈢𧏡って奴もきっと何処かで化生してるだろ。友達か?」

「𧈢𧏡は僕の姉だ。血縁者には死と化生が感知できるらしい。𧈢𧏡は僕が地下牢に入るより前に死んだ。なのにまだ化生しない」

「姉……。兄弟の多さはもう何も言わないが、死から化生までの期間はそれぞれ違うだろ? それだけ時間が掛かる場合もあるかもしれない。明日化生するかもしれないだろ?」

 椒図が地下牢に入る前だと優に百年以上経っている。その空白は確かに長いと言えるが、化生しないなんて信じられない。

 椒図は至って真面目な顔で時折不安そうな色を瞳に映している。蜃は宥めるように苦笑するしかなかった。

「一理あるが、気に留めておいてほしい。無茶はするな。友達は二度と失いたくない」

「もう一度死んで同じように記憶が引き継がれる保証もないし、何よりほいほい死ぬのは嫌だ。無茶なんかしないって」

「じゃあ何で死んだんだ? 化生前のお前は充分強かっただろ?」

「それは……毒芹が悪夢に取り込まれてたから……」

「触れることができなかった、だろ? そういう不可抗力の話をしてるんだ」

「……椒図も触れない癖に」

「だから獏に任せるしかない。だからお前は見世物小屋のことは言うな」

 そこに話が繋がるのかと蜃は漸く腑に落ちた。獏に守ってもらうために獏を怒らせるな。そう言いたいのだろう。それは屈辱的でもあるが、椒図の懸念も理解できる。

「椒図は過保護だな……」

「蜃はもう少し慎重に動け。負傷したままで地下牢まで僕を脱獄させに来たことは忘れてないからな」

「う……」

 それを言われてしまっては何も言い返すことができない。気が逸ったとは言えあれは無謀なことだったと自覚している。反省はしているのだ。

 わざわざ掘り返すなと剥れていると、階下から聞き慣れない男の大声が響き渡った。何なんだと蜃と椒図は顔を見合わせ、そっとドアを開けて階段を覗いた。どうやら灰色海月が持ち帰った手紙の差出人が来たようだ。


「ああ――神よ! お会いしたかったです!」


 男はもう一度大声を上げ、椅子に座る獏が動物面の奥で困惑しているのが伝わってきた。

「……えっと…………とりあえず、座る?」

「はい! 失礼します!」

 元気に返事をし、男は床に膝を突いた。

「床じゃなくて椅子に……」

 見えなかったのだろうかと灰色海月は椅子を男の前に寄せた。目の前に置いていたのだが。

「この方は貴方様と同じ神なんですか? それとも神の使い……」

「灰色海月さん。人間だよ。僕も神じゃない」

「なんと、謙遜する神でしたか」

「謙遜する神って何?」

 悪魔とは散々呼ばれたが、神と呼ばれるのは初めてだった。どちらにせよ面倒なことには変わり無さそうだ。願い事の手紙も一応目は通したが、前置きが長くてよくわからなかった。

 何とか椅子に座ってもらい、漸く会話ができる態勢になる。床に座られては机の陰になりよく見えないのだ。

「……それで、願い事は何かな?」

「はい神! 手紙にも書きましたが、改めて言わせていただきます」

「僕は宗教を始めた覚えはないんだけど」

「そうですね。それを始めるのは人です。人が神を崇め、それが広がっていくものです」

「…………」

 話が通じそうになかったので、獏は口を閉じた。また何か妙な噂が流れているのかもしれない。

「私の願いは、幸福な生活です。不自由のない温かい家庭、明るい笑い声……庭で花を愛でるのも良いかもしれません」

「穏やかな生活を求めてるんだね。願う――ってことは、現時点ではそういう生活を送れてない、ってことだろうね」

「さすがです神。話が早い。実際見ていただければ、よりわかると思います。私の努力も」

「頑張ってるんだね。じゃあ見てみようかな」

 先に指の輪で見てみるが、神への気持ちが強くて何だかよくわからなかった。直接目で現状を見るしかない。努力をしたと豪語しているのだから、どれほど理想に近付けているのか期待はせずに楽しみにしておく。得体の知れない獏に願い事をするのだから、自力では達成できないことは目に見えている。

 机に置かれた紅茶に口を付けながら微笑み、すぐに迂闊な行為だったと口を離した。獏を神としている男の前で飲んでは、神と同じ物を飲むわけにはいかないなどと言い出すかもしれない。顔は動かさずに無言で男に目を遣り、嬉しそうににこにことカップを傾けていることに安堵した。同じ物を飲んでも良いらしい。時折何処か遠くを見るようにぼんやりとするのが少し気になるが。

「クラゲさん、行こうか」

「はい」

 獏は外套の襟の釦を外し、露わになった烙印に灰色海月が冷たい首輪を嵌める。短い鎖の付いた首輪は飼い従えるようで、男は無感動な目でそれを見ていた。

 灰色海月は男を促して店の外へ歩き、後ろを付いて行こうとした獏は小声で呼び止められた。振り返ると蜃と椒図が階段の下から覗いており、善行にそんなに興味があるのかと獏は苦笑した。

「何?」

「今の男……危なくないか?」

 善行の興味と言うよりそっちかと、店を出る灰色海月を一瞥して蜃と椒図の許へ歩んだ。蜃はあまり興味がないようだが、椒図は心配をしているらしい。

「変な人は今までもたくさんいたよ。よくわからない獏に手紙を出すんだから、普通の人はなかなか来ないよ」

「そうなのか?」

「何で神なのか知らないけど、噂で広まってるなら後でクラゲさんに調べてもらうよ」

「罪人の善行とは言え、力に制限を与えた状態で放り出すのは危険だな……狴犴の奴、何処まで計算してるのか……」

「それはできればすぐにでも話を聞きたい所だね」

 烙印が機能している内は無闇に狴犴に近付けない。以前白花苧環が烙印を封じてくれたことがあったが、それと同じことができるか白花曼珠沙華にも勿論問い質した。結果は、できない。どころか初耳のようだった。白花苧環は白――と言うより変転人の中でかなり特殊な存在だったようだ。獣の力を濃く注がれた故に並の変転人以上の力があったことも、前半は知らないようだった。烙印を一時的に封じること、死者の思念の残滓を辿ることも彼にしかできないことだろう。手紙の回収をショートカットしていたこともあったが、それも特別なことなのかもしれない。

 獏は踵を返し、灰色海月と男を追った。灰色の傘を開いて待っていた灰色海月は、獏が店を出て来るとくるりと傘を回した。

 街の中は常に夜だが、街の外も今は夜のようだ。暗い空に街灯が滲んでいる。

「神、こちらです」

 一瞬の内に移動することにもすぐに慣れたのか動じていない。人気の無いポストから暫く歩くことになったが、しんとした住宅街の中で自棄に暗い建物が重い空気を纏って立っていた。

 その古い小さなアパートに、男は笑顔で近付いた。目的地はここで間違いないらしい。

 錆びた手摺に手を掛け、男は何度も振り向きながら二階に上がった。獏の顔は引き攣り始めた。

 明かりの無い暗い廊下に、表札の無いドアがぽつりと並んでいる。廊下の奥を指差しながら、男はその一つを軋ませて開けた。

「部屋に風呂とトイレは無いんですが、トイレは一階に共用の物があります」

 部屋は一部屋だけで、物はあまり無く狭かった。誰かと一緒に住んでいるようには見えない。男は明かりを点けるが、それでも薄暗い。

「不自由そうな寒くて暗くて静かな部屋……」

 思わずぽつりと漏らしてしまった。

「何か言いましたか?」

「いや、何でもないよ」

 男が求める生活とは正反対の環境だ。努力と言っていたが、見えない部分なのだろうか。ベランダも無く庭と呼べそうな物もない。花や葉の一枚も目に入らなかった。

「温かな家庭って言ってたけど、もしかして恋人がお金持ちとか?」

「いえ、恋人はいません」

「君の言ってた努力は見る限りじゃ生活を押し上げる力が不足してるみたいだね……」

 できる限り譲歩した言い方をしてみるが、この現状だと男の求めた物の全てを獏が用意しなければならず骨が折れそうだった。

「ですが意中の方はいます。会いますか?」

「そう……今頑張ってる所なんだね。呼び出せるくらいには仲が良いみたいだね」

「こちらです」

「……こちら?」

 笑顔の男に導かれて廊下に出、向かいのドアの前に立つ。嫌な予感がした。

 開かれたドアの向こうは男の部屋と同じく暗く狭い。その中には最低限の物だけが置かれていて、僅かに置かれた小物から女性であると想像することができた。狭い部屋の奥へ男は上がり、その前に膝を突く。

「こちらが意中の女性です。可愛い人でしょう?」

「…………」

 同じアパートに住んでいることに嫌な予感がしたわけではない。ドアを開ける前から、その部屋に人の気配がないことがわかっていた。どれほどの日数が経過しているのか、枯れた土の色をした女性が壁を背に死んでいた。

(本気で言ってるのかな……?)

 親指と人差し指でもう一度輪を作って男に向けようとし、突然声を上げられ手が止まってしまう。

「陽当たりが悪くて花は難しいと思ったので、観葉植物を育ててるんですよ!」

 部屋の押し入れを勝手に開けると、そこには鉢が幾つか収められていた。確かにそれは植物だった。だが愛でるべき物ではない。

「大麻草……」

 神だの言っていたが、薬物に手を出した結果なのだろう。死体と生体の見分けも付かない、幻覚に冒されている。

「ささ、もっと近くで見てください。私の努力を!」

 にこにこと背中を押し、押し入れの前に立たされる。どれが始まりなのか知らないが、これを努力と言うのは無理がある。気遣って譲歩したのが馬鹿のようだ。

「あのね……これは」

 振り向いた獏の目に映ったのは、はっとした灰色海月の顔だった。背後から包丁の柄がちらりと見えた。

「神でも使いでもない……只の人間が神に近付き過ぎることは許されない……」

「クラゲさん!」

 柄を握る男を突き飛ばし、ふらついた灰色海月を支える。背に刺さった包丁から赤い色が広がってゆく。

「君……最早何の分別もついてないね……?」

 杖を引き抜くが、透明なあの街の外では杖は使えない。それに使えたとしても獏の杖は今修理中だ。手に握ったのは代替品のハートの杖だと思い出し、舌打ちする。無理に首輪を破壊しても、この小さな変換石では只の人間相手でも戦えない。今は怒りを抑えることができない。過剰に注がれた力は全て自分に返ってしまう。こんな状況なのに、冷静にならなければならない。

「戻ったら殺してやる」

 灰色海月の背から真っ直ぐに包丁を抜き、手を当てた。物を動かすことなら今の状態でも可能だ。傷口を寄せ、応急的に止血をする。

 忌々しく包丁を投げ、男の首を掠って壁に刺さる。まだ殺しはしない。折角の食事なのだ、きちんと食べてから殺す。その冷静さは残っている。

 灰色の体を抱き上げ、杖で窓を破った。にこにこと笑顔を崩さない不愉快な男の顔にもう一度舌打ちをし、獏は部屋から飛び出した。

 杖も無く首輪も付けられた状態では転送移動はできない。幸い足で行ける距離に見知った人間が住んでいるため、そこへ向かう。家々の屋根を蹴り、できるだけ前へ跳ぶ。止血したとは言え、長時間放置するわけにはいかない。

 目的のマンションのベランダへ降り立ち、触れずに解錠し勢い良く窓を開けた。

由宇ゆう! いるよね!?」

「ふぁい!?」

 ベランダに背を向けていた青年はスプーンを咥えたまま驚いて振り向き、獏の姿を見て少しばかり安堵した。ベランダから突然声を掛けられることなどそうない。食べていたカップアイスを机に置き、抱えられている灰色海月の背中が赤黒く汚れていることに気付く。

「救急車を呼んでほしい。今すぐ!」

「お、おう?」

 言われるがままスプーンから携帯端末に持ち替えた。灰色海月は意識が無いように見える。獏の焦りも尋常ではない。動物面で見えない表情が透けて見えるようだった。

 救急車を要請し通話を切ると、慌ただしく端末をポケットに捩じ込む。

「すぐ来るので下で待っててください。オレも一緒に乗ります。そのお面、怪しいので……」

「来てくれるなら助かる」

 獏は病院へ行ったことがない。透明な街に戻れるなら浅葱斑を頼るつもりだったが、灰色海月の意識が無くては街に戻ることができない。

 ベランダから外へ出ると、すぐに鍵を閉める音がする。窓越しに由宇は下を指差し、自分も玄関へ向かった。

 待つ時間は長く感じたが、滑り込んできた救急車に何とか詰めて二人で乗り込む。救急隊員の質問に獏は冷静に答えたが、怪しい動物面に隊員の方は冷静でいられただろうか。

 病院に着くと直ぐ様灰色海月は手術室に運ばれた。手術中のランプが点灯し、獏は白い壁を背に座り込んだ。

「向こうに椅子ありますよ」

「ここでいい。邪魔なら退くけど」

 膝を抱えて縮こまるように顔を埋める。人が来ないことを確認し、仕方なく由宇も壁に凭れて座った。

「願い事関係……ですよね?」

「……うん」

「物騒ですね……」

「戻ったらあいつを殺す」

「そうで……え?」

「殺す」

「物騒なこと言いますね……。前にオレの所に連れて来た子供も、死んだんですよね? ニュースで見て驚きました。願い事ってそんなに危ないことなんですか?」

「…………」

「…………」

「……クラゲさんが襲われたのはこれで三回目。一瞬でも人間から目を逸らすんじゃなかった。人間は信用できない。大嫌い」

 人間である由宇はその言葉に複雑な気持ちを抱いたが、否定することはできなかった。

「大丈夫ですよ。きっとすぐ元気になります」

「……そうだね。でもすぐ連れて帰ろうにも、意識が戻らないと帰れない。それに、目を覚ましたばかりのクラゲさんに送ってくれなんて言えない。傷に障る」

「帰れないって……どうするんですか? すぐに退院できるかもわからないですよね。一人くらいならオレの家でも泊められますけど」

「クラゲさんの病室に泊まるからいいよ」

「それは病院が許すかどうか……」

「駄目なの?」

「駄目じゃないかな……」

「人間は面倒臭いな」

 小さくぼやき、獏はふらりと立ち上がった。

「時間が掛かりそうだから、ちょっとあいつを殺してくる」

「ちょっとコンビニ行くみたいな感じで何言ってるんですか」

「駄目? あいつも殺してるよ。幸福感を全て食べてやって泣いて助けを乞うまで甚振って殺してやる」

 かくんと首を傾け、何が悪いのかわからないように不思議そうにする。それに対して何を言えば良いのか、由宇は何も言葉を持ち合わせていなかった。住む世界が違い過ぎる。それしか思えなかった。

「クラゲさんの手術が終わったら、状態を聞いておいて。君は家に帰ってくれていい」

「いや……普通に見送っていいのかわからないんだけど……」

 まだ座り込んでいる由宇に、獏はもう一度蹲んで手を伸ばした。

「人間は嫌いだけど、君は信用してあげてるんだよ?」

 首に掛かる細い指先に、由宇はごくりと唾を呑んだ。拒否権はない。そう言われているようだった。獏は彼の妹の由芽ゆめの存在も知っている。下手なことを言って妹の身に何かあってもいけない。由芽がいるからこそ由宇を信用していると嘯いているのかもしれない。

 由宇の目から畏怖を感じ取った獏は手を離し、何も言わずに立ち上がった。黒い外套を翻し、音も無く床を蹴り去って行く。

 変な奴に目を着けられたと思うが、灰色海月が負傷し治療を受けているのは事実だ。状態を聞いておくくらいはする。

(泊めるって言わなきゃ良かったかも……)

 溜息を吐く由宇の心情とは裏腹に手術は何事もなく無事に終了した。灰色海月はまだ起きる気配はないが、目が覚めた時に誰もいなければ不安になるだろうと枕元に手紙を書いて置いた。生まれたばかりだと聞いていたので、読み難いかもしれないが全て平仮名で書いた。

 そのまま帰路についたが、その夜は獏は戻って来なかった。

 漸く獏が戻ったのは翌朝早くだった。休みを取っておいた由宇はまだ眠っていたが、ベランダを開ける音で目が覚めた。また土足で、と言える雰囲気ではなかった。

 明かりの消えたまだ薄暗い部屋の中で、動物面を外した獏が冷たい金色の双眸でぼんやりと虚空を見ていた。白い頬には返り血だろうか赤黒い色が付着している。声を掛ける空気ではなく、由宇は眠っている振りをした。

 薄暗い部屋の中で光る無感動な金色の瞳でベッドを一瞥し、部屋を横切って行く。廊下に沿う台所の前に立ち、戸棚からグラスを取り出した。水を注ぎ、一気に飲み干す。

 部屋に戻って来た獏はもう一度ベッドを一瞥し、壁にずり落ちるように座った。

「……起きてるでしょ」

 布団の中で由宇はびくりとするが、目を開けるかは迷った。

「獏にはね、わかるんだよ。眠ってるか起きてるか、夢を見てるか見てないか。眠った振りがしたいなら乗ってあげるけど」

 声色には恐怖は感じなかった。穏やかな声だった。目を開けると、獏はじっと由宇の方を見て頬杖を突いていた。

「おはよう」

「お……おはよう……」

「起きてくれて良かった。クラゲさんの状態、どうだった?」

 目はまだ冷たい色を湛えていたが、口元は微笑む。頬の赤黒い物には気付いていないらしい。

「命に別状はない、って。麻酔でまだ起きそうになかったので、置き手紙だけしてきました……」

「そう……ありがとう」

 由宇は躊躇いがちに自分の頬をとんと指差す。獏は小首を傾いだが、すぐに察した。

「……またやっちゃったかな」

 指で頬を拭い、血が付いてしまっていたと確認する。

「気を付けてはいるんだけどね……何処かで理性が途切れてるのかもね」

「風呂場の方に鏡ありますよ」

「鏡は……見たくないな。自分の顔なんて」

「見たことないんですか? 自分の顔」

「厳密には見る機会はあったんだろうけど、頭が真っ白になると言うか、脳が拒絶すると言うか、上手く知覚できないんだよね。だから見たことない」

 ゆっくりと腰を上げ、再び台所へ行く。見えないと言いつつ鏡の無い台所で顔を洗う。

 部屋に戻りながらポケットから鉄屑を抓んで口に入れた。食事の必要のない街では食べることもあまりなく、おやつは灰色海月が焼いた菓子がありすっかり食べることはなくなっていた。菓子に比べると鉄屑は随分と味気無い。ぼりぼりと歯応えだけは良い。

「それ……何食べてるんですか?」

「鉄屑」

 体を起こしながら、由宇は顔を顰めた。

「美味しいんですか……?」

「悪夢に比べると美味しい物ではないけど」

「朝御飯作りますよ。見てると歯が疼きそう……」

 寝間着のシャツのまま台所に入り、冷蔵庫に顔を突っ込む。鉄屑なんて歯が欠けそうだ。獏の歯は鋼鉄なのかと引き攣る顔で卵を掴む。

「嫌いな食べ物とかあります?」

「さあ? 食べたことのある物の方が少ないからね」

「洋食屋なんで、洋食でいいですか?」

「うん。いいよ」

 徐々に明るくなる窓の外へ目を遣りながら、鼻腔をつく香りとじゅわじゅわと聞こえる音に耳を傾ける。人間を殺した直後に食欲があるかと言うと実はあまり無いのだが、折角食べさせてくれると言うのだから興味はある。獏を神と宣い灰色海月を刺した男は痛みを加えて殺したが、それでも最期まで笑みの欠片を貼り付けていた。最期まで不快な男だった。食べた感情を吐き捨てたいくらいだった。口直しに久し振りに鉄屑を食べてみたが、あまり効果はなかった。

「――はい、どうぞ」

 バターが染みた半分に切られたトーストに、オムレツとウインナー、そして小さなトマトが転がる皿を前に置かれ、獏は由宇の顔を見上げた。

「多くない?」

「えっ、少食なんですね……」

 見たことはあるが初めて食べるトーストを一切れ掴み、裏返してみたりと観察して一口齧った。柔らかいパンから、染みたバターがじゅんわりと滲み出す。

「……美味しい」

「良かったです。やっぱり感想を聞けるのはいいですね」

 金色の目を丸くしながらもう一口齧る。灰色海月が作る菓子にもバターは使われているが、使われ方によって随分趣が変わるものだ。

「目が死んでましたけど、生き返ったみたいで良かったです」

「君ねぇ……」

 妹の由芽はかなりの怖がりのようだが、兄の由宇は肝が据わっているようだ。心中はどうだか知らないが、人間を殺してきた獣相手にもう動じていない。

 ふっくらとしたオムレツをフォークで切ると、中身が流れ出さない程度にとろりと蕩ける。具は何も入っていないが塩胡椒とこちらにも入っているバターの風味だけで充分だった。子供のようにくるりと表情を変える獏に由宇も満足した。


「……心配して見に来てみれば……」


 突然からりとベランダの窓が開き、フードを被った黒衣がどっかと部屋に靴底を叩き付けた。

「人間に餌付けされてるのか君は」

 乗って来た杖をくるりと回して仕舞い、腕を組んでずかずかと部屋に入る。突然の来訪者に由宇はぽかんと口を開けながら、どいつもこいつも土足で、と思った。

「迎えに来てくれたの? 蜃。よくここがわかったね」

 トーストを齧りながら顔を上げる獏に、赤い前髪の隙間から蜃は眉を顰めた。

「あ? 帰りが遅いって過保護な椒図が心配するから見に来てやっただけだ。俺が行くことも渋ってたけどな。なのに君は呑気に美味そうな物を……」

「……食べますか?」

「食べる」

 ベランダから入って来る人は普通の人間ではない。おそらく獏と似た何かだろう。獏が敵意を見せていないので、由宇も然程警戒はしなかった。もう一度同じ物を用意するために台所へ行く。

「僕は餌付けじゃないけど、君は餌付けされたいの?」

「は? 人間の料理の腕を見てやるだけだ」

「早く戻らないと椒図が心配しない?」

「少しくらい待たせても大丈夫だろ。それより海月はどうした? 見当たらないが」

 途端に獏の顔が曇り、何か良くないことがあったと蜃にも察することができた。

「……病院。願い事の契約者に刺された」

「君がいながらか? 油断し過ぎだろ」

「そうだね。人間に背を向けるべきじゃなかった」

 自棄に素直に非を認めるので、蜃も毒気を抜かれた。灰色海月とは良好な関係のようなので本当に落ち込んでいるのだろう。

「それで街に戻れなくなったってわけか。この人間は何なんだ? 餌係か?」

「善行の協力者……かな。悪い人間じゃないよ。今の所はね」

「人間に痛い目を見させられた所なのに人間を信用してるのか? 実は御人好しか?」

「人間は嫌いだよ。害があればちゃんと始末するし」

「そうみたいだな。微かに血の臭いがする」

 物騒な会話をする前に由宇は同じ朝食を置いた。蜃はこの話は終わりとばかりに身を乗り出した。

 フォークを握り、ふるふると揺れるオムレツに突き立てる。柔らかく崩れながらも落とさないように口に頬張った。幼子のような食べ方をする。

「悪い人間じゃなさそうだな」

「蜃は現金だね。良かったら僕のトーストも半分食べる?」

「いいのか? 食べる」

 実際はそんなものではないのだが、二人は仲が良いのだろうと由宇は思った。冷たい目をして感情を無くしていた獏は今は鳴りを潜めている。こんなことで警戒が解けるのなら、幾らでも料理を振る舞って良い。靴は脱いでほしいが。

「海月が退院するまでこっちにいるのか?」

「ううん。君が来てくれたから、迎えに行って街に戻るよ」

「――なあ獏」

「何?」

「俺達で宵街に乗り込まないか?」

 何気無く呟かれた言葉に、トーストを口に運ぼうとしていた獏は口を開けたまま止まってしまった。そのままの体勢で蜃に目を遣る。蜃は変わらぬ調子で口を動かしていた。

「……何で?」

「君は罪人と言っても完全に力を封じられてるわけじゃない。椒図は力を使えないが。鵺が捕まった以上、誰かが行かないといけないだろ? 解除印を手に入れるために」

「本気?」

「君は言っただろ? 弱い獣は印に頼るって。印に詳しい狴犴はつまり弱いってことだ。印を使わせなければ恐れることはないだろ」

「言ったのは先代だけどね……君は椒図のために?」

「それも勿論ある。それと、剥離の印に関しては俺の問題だろ?」

「……お詫びとしてそれは手伝うよ。でもやっぱり不安要素はある。そんなに言うなら下見くらいなら行ってもいいけど、狴犴の所に行くならせめて螭を引っ張らないと」

 螭には力の制限はない。そして弱くなったとは言え蜃を瀕死に追い込んだ獣だ。味方ならば心強いだろう。

 だが彼女は地下牢の炊事係で言わば狴犴側の者だ。今は中立の態度を取っているが、何か企んでいないとも言い切れない。狴犴の前に行けば態度を変えるかもしれない。腹の内が読めるまではあまり信用できない。

「それと、烙印の所為で僕の位置は筒抜けだよ」

 朝食を頬張りながら顔を突き合わせ何やら相談する二人を遠巻きに眺めながら、由宇はうずうずとした。二人の会話が途切れた所でつい口を挟んでしまう。

「何か面白い話ですか?」

 目を爛々としている彼に二人は視線を向け、蜃は眉を顰め獏はくすくすと笑った。

「僕に烙印を捺した奴に殴り込みに行こうって誘われてる所だよ」

「海月のことはこの人間に任せておけばいい」

「火に油を注ぐことにならなければいいけど、下見だったらいいよ。下見ならね。僕は宵街の地理もわからないし」

「じゃあ下見でいい。椒図には早く自由になってほしいが……神隠しを持ち掛けたのは俺なのに……」

 置かれた茶を飲み、俯く蜃を励ますように獏はぱっと笑顔を作った。

「――ってことだから、由宇、クラゲさんのことは任せていいかな? 何処に行くかはまだ言わないでおいてね」

「それは俺も聞かされてないんですが……」

「僕達の今の会話は内緒ってことだよ」

 口元に人差し指を当て不敵に微笑む。人形のように整った綺麗な相貌はどきりと妖しく、抗うことはできなかった。

「御世話になってる分、何か願い事を聞いてあげるから。ね?」

「ぁ……はい……」

 本当は自分の顔を自覚しているのではないかと思うほど、綺麗な笑顔を向けてくる。

 気圧される由宇を蜃は哀れに思いながら小さく息を吐いた。人間を従わせるのは力を使うまでもないと言っているようだった。

「ああそうだ、蜃」

 もう興味を失ったかのようにくるりと蜃に向き直り、懐をごそごそと探る。

「首輪もあるし宵街で使えるかわからないけど、僕の杖は今これなんだけど、いい?」

 可愛らしいハートの形の杖を取り出し、蜃は冷汗が流れそうになった。

「忘れてた……」

 制限に制限を重ねられた今の獏を連れ出して良いのか途端に暗雲が漂った。

 頭を抱えた蜃の焦りは知らず、由宇は随分可愛い玩具みたいな魔法の杖だと微笑ましく思った。

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